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2017年12月

2017年12月29日 (金)

ラカン『精神病』9章再読

 今回はラカン『精神病』9章、『無意味、そして神の構造』の再読です。

 この章でラカンは、シュレーバーの著書の内容の大部分は神学的でありながら、そこに摂理という働きへの言及は全く認められない、と指摘しています。そのあとラカンは、無いということを示すことは有るということを示すより難しい、とか、別の資料が見つかればそこには見つかるかもしれず論駁される可能性が捨てきれない、といった留保を置きながらも、「不在に注意を向けることは、構造を位置づけるために非常に重要なことなのです」(邦訳上巻208頁)と述べています。私はいつも、ラカンが自説の説明の合間合間にさしはさむこういう指摘にこそ、ラカンのセミネールが(理論内容がきわめて難解であったにもかかわらず)聴衆を集め続けた才覚を感じますし、自分の臨床への指針をもらいつづけています。この章には特にそういう指摘が多く感じます。

 この章は、翻訳には問題が少ないと思いますが、少しだけ言及しておきます。

患者が妄想者だからといって、最初から患者の体系はでたらめだと決めてしまってはいけません。(邦訳上巻199頁)

 「でたらめ」と訳されている語はdiscordantです。フランス語でdiscordanceは、統合失調症の症候学で用いられる概念で、不統一とか不調和と訳されます。濱田の『精神症候学』(弘文堂)によればシャスランが唱えた概念のようです。ドイツ語圏での「分裂」に近い意味でしょうか。ここはその形容詞形ですので、精神医学用語で訳したいところですし、現代日本では「統合失調」と訳しても良いかもしれません。

患者が妄想者だからといって、最初から患者の体系は不調和[=統合失調]だと決めてしまってはいけません。(代案)

 次も些細なところです。

だから精神科医が患者に投げかける質問の最大の関心は、ペギーが最近の著書で言っているように、小さな穴にボルトを戻すことができるかどうかということでしょう。ペギーは、自分の体験を話すことによって、大変な破局が不意に起こったのに事態は以前と変わっていないのだと思おうとする精神科医達のことを言っているのです。そういう精神科医は患者に「順序立てて話してください」と言います。それでもう、その後の章立ては決まってしまうのです。(邦訳200頁)

 この「ペギー」が、詩人・思想家であるPeguy(1873-1914)だとすれば、セミネールが行われたのは没後50年以上経ってからですので、「最近の著書ses derniers ecrits」は間違いで、「最後の著作群」じゃないでしょうか。最後なのに複数なのは不思議ですが、このペギーは戦死したようなので遺稿としての書きつけ(ecrit)が残っているのかも知れません。ここではいちおう、我われの知らないペギーさんであっても良いように、細かいところまで直訳にしてみます。ただし、「小さな穴にボルトを戻す」の箇所は複数形が使われているので「それぞれに」と補いました。

だから精神科医が質問を投げかける際の最大の関心は、ペギーが最後の著作群で言っているように、小さな穴のそれぞれにボルトを戻すことでしょう自分が引き受けた体験を話しつつ、ペギーは、大変な破局が宣告されたのに諸物は以前と変わらぬ関係を保っているのだと思おうとする人々のことを言っているのです。彼らは病人に「順序立てて話してください」と言います。それでもう、章立ては決まってしまうのです。(代案)

 次も細かいところです。

この間読みあげた一節についてシュレーバーが強調しているように、そのディスクールが立てる音は、患者がひそひそ声と呼ぶほど小さなものです。(邦訳上巻201頁)

この間読みあげた一節シュレーバーが強調しているように、そのディスクールが立てる音は、患者がひそひそ声と呼ぶほど小さなものです。(代案)

 今回は以上です。

精神病〈上〉
ジャック ラカン (著), ジャック・アラン ミレール (編集), 小出 浩之 (翻訳), 川津 芳照 (翻訳), 鈴木 国文 (翻訳), 笠原 嘉 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (1987/03)

2017年12月20日 (水)

ラカン『精神分析の倫理』4章再読

 今回は4章『ものdas Ding』の翻訳の検討です。

 ドイツ語での『Dingもの』と『Sache事物』との違いを論じている箇所です。ラカンは両者の訳語としてフランス語の『chose』を用いています。ラカンが『Sache』を念頭に置いて『chose』と言っている箇所に、『もの』という訳語をあててしまうと、『Sache』と『Ding』の相違が分かりにくくなってしまいます。

 長い回り道をしましたが、それは本日は次のことを指摘するに止めようと思うからです。結局のところ、フロイトは「事物表象Sachvorstellung」という言い方はしますが、決して「もの表象Dingvorstellung」という言い方はしないということです。また、「事物表象Sachvorstellung」が「語表象Wortvorstellung」に結びつけられていることも、どうでもよいことではありません。このことによって、もの(chose)と語(mot)の間に一つの関係があることを我々に示しているのです。語というもみ殻がもみ殻と見えるのは、我々がこのもみ殻から、ものという穀粒を分離した限りにおいてのみであり、何よりももみ殻こそが穀粒をもたらしたのです。
 ここで一つの認識論を展開しようとは思いません。けれども、人間世界のものはパロールとして構造化された宇宙のものであり、ランガージュ・象徴的過程がすべてを支配していることは明らかです。(中略)
 「事物Sache」とはまさに、産業の産物、ランガージュによって支配された人間的行為の産物としてのもののことです。この意味でのものは、この人間的行為の成因という点では暗黙であるとはいえ、常に表面にあり、つねに明文化しうるものです。このものが人間的行為全体の下に暗々裏に存在する限りで、ものを結実として生み出す活動は前意識の次元に属します。すなわち我われが十分に注意し注目すれば、我われの関心によって意識に上らせることができます。語はそのとき相互的な位置にあります。つまり一方で、語はものによって分節され説明されますが、一方で、語は、それ自体ランガージュやさらには命令によって支配された行為であり、その行為がものというこの対象を引き出し、生れさせるのです。
 つまり「事物Sache」と「語Wort」は密接に結びついていてカップルを形成しているのです。これに対して「ものdas Ding」は、それとはまったく別のところに位置しています。
 …(一段落省略)
 この「ものdas Ding」は、語はものを拠り所にしている反面、ものは語によって創り出される、というような説明可能な関係、いわば相互的な関係の中にあるのではありません。「ものdas Ding」には、それとは別のものがあるのです。(邦訳上巻66~67頁)

 少し長くなりましたが、上の引用文の中で、『Sache』を想定して『chose』と言われていそうな箇所を、『物』と訳し直して『ものDing』と区別してみます。後者は複数形にならないというのも目印として役立ちます。そのさい、途中で『choses』という複数形ばかりが用いられているなかに出てくる代名詞『elle』(単数形)は、『chose』ではなく『activite活動』を指しているのではないかと思ったので、語順を変えてみます。

 長い回り道をしましたが、それは本日は次のことを指摘するに止めようと思うからです。結局のところ、フロイトは「事物表象Sachvorstellung」という言い方はしますが、決して「もの表象Dingvorstellung」という言い方はしないということです。また、「事物表象Sachvorstellungen」が「語表象Wortvorstellungen」に結びつけられていることも、どうでもよいことではありません。このことによって、(chose)と語(mot)の間に一つの関係があることを我々に示しているのです。語というもみ殻がもみ殻と見えるのは、我々がこのもみ殻から、諸物という穀粒を分離した限りにおいてのみであり、何よりももみ殻こそが穀粒をもたらしたのです。
 ここで一つの認識論を展開しようとは思いません。けれども、人間世界の諸物はパロールとして構造化された宇宙の諸物であり、ランガージュ・象徴的過程がすべてを支配していることは明らかです。(中略)
 「事物Sache」とはまさに、産業の産物、ランガージュによって支配された人間的行為の産物としてののことです。この意味での諸物は、この人間的行為の成因という点では暗黙であるとはいえ、常に表面にあり、つねに明文化しうるものです。この諸物を結実として生み出す活動は、それが人間的行為全体の下に暗々裏に存在する限りで、前意識の次元に属します。すなわち我われが十分に注意し注目すれば、我われの関心によって意識に上らせることができます。語はそのとき相互的な位置にあります。つまり一方で、語はによって分節され説明されますが、一方で、語は、それ自体ランガージュやさらには命令によって支配された行為であり、その行為がというこの対象を引き出し、生れさせるのです。
 つまり「事物Sache」と「語Wort」は密接に結びついていてカップルを形成しているのです。これに対して「ものdas Ding」は、それとはまったく別のところに位置しています。
 …(一段落省略)
 この「ものdas Ding」は、語は諸物を拠り所にしている反面、諸物は語によって創り出される、というような説明可能な関係、いわば相互的な関係の中にあるのではありません。「ものdas Ding」には、それとは別のものがあるのです。(代案)

 一つ目の箇所がかなり長くなりましたが、この章には他にはあまり大きな問題が見当たりません。次の箇所で終わりにしましょう。

感覚装置は、「質記号Qualitaetszeichen」がもたらしたもののガイドの役を果たしています。そのお陰で、回路のあれこれの点への注意が可能になります。さらにそれによって、思考過程への接近が、快楽原則によって自動的になされるよりもよりよく行われることになります。(邦訳上巻73頁)

感覚装置は、「質記号Qualitaetszeichen」がもたらした割り前[contributions]に対してガイドの役を果たしています。そのお陰で、回路のあれこれの点への注意として個別的な区別[departs]が可能になります。さらにそれによって、過程への近似が、快楽原則によって自動的になされるよりもよりよく行われることになります。(代案)

 上の最後の変更点の「過程processus」は、邦訳では補足されて「思考過程」とされていますが、邦訳72頁3行目などを見る限り、邦訳の補足は正しそうに思われます。

 今回の章では、最後に、邦訳上巻74頁11行目の『記載』という語は、前後にたくさん『記載』という語があるなかで、ここだけ原語が『エクリチュール』だという点を指摘しておきます。

精神分析の倫理 上
出版社: 岩波書店 (2002/6/26)
ジャック・ラカン   (著),‎ ジャック・アラン・ミレール (編集),‎ 小出 浩之 (翻訳)

2017年12月11日 (月)

ラカン『精神病』8章再読

 今回は8章『象徴界のフレーズ』の翻訳の検討です。

 

 ひとつめは、原文を残した箇所の間違いが明らかな箇所です。ただ、直後に非常によく似た文がある(そちらの引用は正しい)ので、引きずられたのかもしれません。ほか、自分なりのこだわりで「celui」を「者」としました。

「私は遠く離れたものであるJe suis celui qui est loin.」というこの聖書のような響きをもった表現が、神がシュレーバーに打ち明けたことについての彼の記述の中に見られます。シュレーバーにとっての神は「存在するところのもの(celui qui est)」ではなくて、「遥か遠くに離れたところのもの(celui qui est bien loin)」なのです。(邦訳上巻179頁)

 

「私は遠く離れた者なりJe suis celui qui est eloingne.」というこの聖書のような響きをもった表現が、神がシュレーバーに打ち明けたことについての彼の記述の中に見られます。シュレーバーにとっての神は「存在するところの(celui qui est)」ではなくて、「遥か遠くに…存在するところの者(celui qui est... bien loin)」なのです。(代案)

 

 次です。邦訳は大意としては問題ないようではありますが、いちおう代案を示しておきます。

 

フロイトが『夢判断』において「sit venia verbo(この言葉を使うのを許して下さい)と言い足して、無意識の思考という用語を明確化した時、彼が言っていることは、無意識の思考は、ランガージュという形で分節化されているということに他なりません。(邦訳上巻186頁)

 

フロイトが『夢判断』において「sit venia verbo(この言葉を使うのを許して下さい)と言い足して、無意識の思考という用語を明確化した時、彼が言っていることは、思考とは、ランガージュという形で分節化されているものを指しているということに他なりません。(代案)

 次です。ラカンがこのセミネールの直後にまとめた論文『精神病のあらゆる可能な治療の前提的問いについて』を読むとはっきりわかるのですが、ラカンが「modulation変調」という言葉で指している事態は、患者が頭に浮かんだ言葉を、「これは自分の考えとして引き受けよう、、これは自分の考えとしては否定しておこう、これは他人の考えとして投影しておこう、これは幻聴化しておこう」といった振り分けをする(場合によっては、さらにさまざまな声質を負わせて幻聴化する)作用のように思います。

 

人間にとって問題は、無意識というこのランガージュに占領されないように、この連続した変調の働きをうまく切り抜けることです。だからこそ、人間の意識は無意識から逸れるようになっているのです。ただ、無意識の存在を認めるということは、たとえ意識が無意識から逸れるとしても、先に述べた無意識の変調の働きや、すべての複雑さを伴った無意識のフレーズは、それでもなお存続しているということです。(邦訳上巻186~7頁)

 上の引用箇所の直前の段落にも(「modulation」という言葉は出てきませんが)その説明があります。私はこれを「モジュール割り」と訳しておきます。
 上の引用箇所は、最初の文、「s'en tirer avec cette modulation」を、「se tirer de...」「s'en tirer」「se tirer de... avec...」「s'en tirer avec...」といった熟語のいずれとしてとして解釈するかなかなか難しいのですが、次のように取ってみます。

人間にとって問題は、この連続したモジュール割りとうまく付き合い、それにあまりにも忙殺されないようにすることです。だからこそ、人間の意識はそれから逸れるようになっているのです。ただ、無意識の実在を認めるということは、たとえ意識がそれから逸れるとしても、先に述べたモジュール割りや、すべての複雑さを伴った[内的]フレーズは、それでもなお連続しているということです。(代案)

 

 「それから免れる」という表現が2箇所あって、「それ」が何を指すかも難しいのですが、一つ目は直前、二つ目は直後の、「モジュール割り」と取りました。角括弧の[内的]は、禁じ手ですが海賊版から取りました。

 

 次はラングとランガージュを取り違えるという大きなケアレスミスらしき箇所が目立ちますが、ほかもちょっとだけ手を入れてみます。

同様に十七世紀の「才女」の運動は、ランガージュという見地からすれば、信じられない程重要です。もちろん、この「才女」の運動の中には、モリエールという天才的人物が語っているような点が大いにあることはありますが、どうも彼には彼が望んだよりも少しばかり多くを語らせてしまったようです。(邦訳上巻189頁)

同様に十七世紀の「才女」の運動は、ラングという見地からすれば、信じられない程重要です。もちろん、この「才女」の運動の中には、モリエールという天才的人物が語ったような点が大いにあることはありますが、どうも彼は彼が望んだよりも少しばかり多くを語ったことにされているようです。(代案)

 次は、人名のカタカナ表記の問題です。

レンネック(邦訳上巻190頁)

 綴りはLaennecで、仏和辞典のほか英和辞典にも載っていますが、「ラエネク」と表記されるのが普通のようです。

 今回は次が最後です。

それ故に、シュレーバー議長の物語におけるランガージュの現象の変遷について、より念入りな検討をして、さらにそれに続いて、このランガージュの現象をリビドーの置き換えと結びつけることができるようになる所まで進みましょう。(邦訳上巻192頁)

それ故に、シュレーバー議長の物語における言葉の現象の変遷について、より念入りな検討をして、さらにそれに続いて、この言葉の現象をリビドーの置き換えと結びつけることができるようになる所まで進みましょう。(代案)

 ここの原文表現は「verbal」です。「verbe」は邦訳183頁2行目で「言葉」とされていますから、そちらにあわせてみました。

精神病〈上〉
ジャック ラカン (著), ジャック・アラン ミレール (編集), 小出 浩之 (翻訳), 川津 芳照 (翻訳), 鈴木 国文 (翻訳), 笠原 嘉 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (1987/03)

2017年12月 5日 (火)

ラカン『精神分析の倫理』3章再読

 今回は三章『草稿の再読』の翻訳についてです。この回では聴講者に発表させているので、ラカンの発言部分はかなり短めの章になっています。

 まずは綴り間違いです。次の箇所、下線で強調しておきますが、「c」が抜けてます。

「目的に合わせた理論構築の恣意性die Willkuerlichkeit der constructio ad hoc」(邦訳上巻58頁)

 次で最後です。

この点に関する本日の結論として、みなさんに一つのアナロジーを指摘しておきます。それは、あらゆる無意識的傾向を活気づけている蒼古的な、ほとんど退行的ともいうべき、表現しがたいような快楽の質の探求と、もう一つは、道徳的な意味で最も完全に実現され満足をもたらすものとのアナロジーです。(邦訳上巻60頁)

この点に関する本日の結論として、みなさんに一つのアナロジーを指摘しておきます。それは、あらゆる無意識的傾向を活気づけている、表現しがたいような快楽の、蒼古的な、ほとんど退行的ともいうべき質の探求と、もう一つは、道徳的な意味での、最も申し分のない意味での、満足をもたらすものとのアナロジーです。(代案)

 この章では、途中で発表を任されたポンタリスに向けてラカンが述べた、「先ほどあなたが少々強調しすぎたパラドックスに陥ってしまうでしょう。つまり、現実が自らを理解させ、結局は優位を占めるようになることを納得のいくよう説明することは不可能だというパラドックスです。経験が示すように、現実は人類にとってあまりに過剰なのに、人類は当面、絶滅の道をたどってはいないではないかというわけです」(上巻56頁)という部分(の下線の箇所)の意味がいまひとつわからないのですが、ポンタリスの発言の主要部分が省かれているせいもあって他にヒントも探せないのが残念です。ポンタリスは発言に先立って前置き部分で、「フロイトのこの独創的なテキストの中でとりわけ問題をはらみ、かつ極めて逆説的であるとラカン博士が記しておられる現実との関係」(上巻55頁)と述べていて、この「逆説=パラドックス」について語っていそうなのは確かなのですが。
 ちなみにネット上の海賊版でセミネール7巻を探せば、このときのポンタリスの発言を読むことはできますが当然のことながら全文仏語です。

精神分析の倫理 上
出版社: 岩波書店 (2002/6/26)
ジャック・ラカン   (著),‎ ジャック・アラン・ミレール (編集),‎ 小出 浩之 (翻訳)

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