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2017年12月20日 (水)

ラカン『精神分析の倫理』4章再読

 今回は4章『ものdas Ding』の翻訳の検討です。

 ドイツ語での『Dingもの』と『Sache事物』との違いを論じている箇所です。ラカンは両者の訳語としてフランス語の『chose』を用いています。ラカンが『Sache』を念頭に置いて『chose』と言っている箇所に、『もの』という訳語をあててしまうと、『Sache』と『Ding』の相違が分かりにくくなってしまいます。

 長い回り道をしましたが、それは本日は次のことを指摘するに止めようと思うからです。結局のところ、フロイトは「事物表象Sachvorstellung」という言い方はしますが、決して「もの表象Dingvorstellung」という言い方はしないということです。また、「事物表象Sachvorstellung」が「語表象Wortvorstellung」に結びつけられていることも、どうでもよいことではありません。このことによって、もの(chose)と語(mot)の間に一つの関係があることを我々に示しているのです。語というもみ殻がもみ殻と見えるのは、我々がこのもみ殻から、ものという穀粒を分離した限りにおいてのみであり、何よりももみ殻こそが穀粒をもたらしたのです。
 ここで一つの認識論を展開しようとは思いません。けれども、人間世界のものはパロールとして構造化された宇宙のものであり、ランガージュ・象徴的過程がすべてを支配していることは明らかです。(中略)
 「事物Sache」とはまさに、産業の産物、ランガージュによって支配された人間的行為の産物としてのもののことです。この意味でのものは、この人間的行為の成因という点では暗黙であるとはいえ、常に表面にあり、つねに明文化しうるものです。このものが人間的行為全体の下に暗々裏に存在する限りで、ものを結実として生み出す活動は前意識の次元に属します。すなわち我われが十分に注意し注目すれば、我われの関心によって意識に上らせることができます。語はそのとき相互的な位置にあります。つまり一方で、語はものによって分節され説明されますが、一方で、語は、それ自体ランガージュやさらには命令によって支配された行為であり、その行為がものというこの対象を引き出し、生れさせるのです。
 つまり「事物Sache」と「語Wort」は密接に結びついていてカップルを形成しているのです。これに対して「ものdas Ding」は、それとはまったく別のところに位置しています。
 …(一段落省略)
 この「ものdas Ding」は、語はものを拠り所にしている反面、ものは語によって創り出される、というような説明可能な関係、いわば相互的な関係の中にあるのではありません。「ものdas Ding」には、それとは別のものがあるのです。(邦訳上巻66~67頁)

 少し長くなりましたが、上の引用文の中で、『Sache』を想定して『chose』と言われていそうな箇所を、『物』と訳し直して『ものDing』と区別してみます。後者は複数形にならないというのも目印として役立ちます。そのさい、途中で『choses』という複数形ばかりが用いられているなかに出てくる代名詞『elle』(単数形)は、『chose』ではなく『activite活動』を指しているのではないかと思ったので、語順を変えてみます。

 長い回り道をしましたが、それは本日は次のことを指摘するに止めようと思うからです。結局のところ、フロイトは「事物表象Sachvorstellung」という言い方はしますが、決して「もの表象Dingvorstellung」という言い方はしないということです。また、「事物表象Sachvorstellungen」が「語表象Wortvorstellungen」に結びつけられていることも、どうでもよいことではありません。このことによって、(chose)と語(mot)の間に一つの関係があることを我々に示しているのです。語というもみ殻がもみ殻と見えるのは、我々がこのもみ殻から、諸物という穀粒を分離した限りにおいてのみであり、何よりももみ殻こそが穀粒をもたらしたのです。
 ここで一つの認識論を展開しようとは思いません。けれども、人間世界の諸物はパロールとして構造化された宇宙の諸物であり、ランガージュ・象徴的過程がすべてを支配していることは明らかです。(中略)
 「事物Sache」とはまさに、産業の産物、ランガージュによって支配された人間的行為の産物としてののことです。この意味での諸物は、この人間的行為の成因という点では暗黙であるとはいえ、常に表面にあり、つねに明文化しうるものです。この諸物を結実として生み出す活動は、それが人間的行為全体の下に暗々裏に存在する限りで、前意識の次元に属します。すなわち我われが十分に注意し注目すれば、我われの関心によって意識に上らせることができます。語はそのとき相互的な位置にあります。つまり一方で、語はによって分節され説明されますが、一方で、語は、それ自体ランガージュやさらには命令によって支配された行為であり、その行為がというこの対象を引き出し、生れさせるのです。
 つまり「事物Sache」と「語Wort」は密接に結びついていてカップルを形成しているのです。これに対して「ものdas Ding」は、それとはまったく別のところに位置しています。
 …(一段落省略)
 この「ものdas Ding」は、語は諸物を拠り所にしている反面、諸物は語によって創り出される、というような説明可能な関係、いわば相互的な関係の中にあるのではありません。「ものdas Ding」には、それとは別のものがあるのです。(代案)

 一つ目の箇所がかなり長くなりましたが、この章には他にはあまり大きな問題が見当たりません。次の箇所で終わりにしましょう。

感覚装置は、「質記号Qualitaetszeichen」がもたらしたもののガイドの役を果たしています。そのお陰で、回路のあれこれの点への注意が可能になります。さらにそれによって、思考過程への接近が、快楽原則によって自動的になされるよりもよりよく行われることになります。(邦訳上巻73頁)

感覚装置は、「質記号Qualitaetszeichen」がもたらした割り前[contributions]に対してガイドの役を果たしています。そのお陰で、回路のあれこれの点への注意として個別的な区別[departs]が可能になります。さらにそれによって、過程への近似が、快楽原則によって自動的になされるよりもよりよく行われることになります。(代案)

 上の最後の変更点の「過程processus」は、邦訳では補足されて「思考過程」とされていますが、邦訳72頁3行目などを見る限り、邦訳の補足は正しそうに思われます。

 今回の章では、最後に、邦訳上巻74頁11行目の『記載』という語は、前後にたくさん『記載』という語があるなかで、ここだけ原語が『エクリチュール』だという点を指摘しておきます。

精神分析の倫理 上
出版社: 岩波書店 (2002/6/26)
ジャック・ラカン   (著),‎ ジャック・アラン・ミレール (編集),‎ 小出 浩之 (翻訳)

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