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2017年12月11日 (月)

ラカン『精神病』8章再読

 今回は8章『象徴界のフレーズ』の翻訳の検討です。

 

 ひとつめは、原文を残した箇所の間違いが明らかな箇所です。ただ、直後に非常によく似た文がある(そちらの引用は正しい)ので、引きずられたのかもしれません。ほか、自分なりのこだわりで「celui」を「者」としました。

「私は遠く離れたものであるJe suis celui qui est loin.」というこの聖書のような響きをもった表現が、神がシュレーバーに打ち明けたことについての彼の記述の中に見られます。シュレーバーにとっての神は「存在するところのもの(celui qui est)」ではなくて、「遥か遠くに離れたところのもの(celui qui est bien loin)」なのです。(邦訳上巻179頁)

 

「私は遠く離れた者なりJe suis celui qui est eloingne.」というこの聖書のような響きをもった表現が、神がシュレーバーに打ち明けたことについての彼の記述の中に見られます。シュレーバーにとっての神は「存在するところの(celui qui est)」ではなくて、「遥か遠くに…存在するところの者(celui qui est... bien loin)」なのです。(代案)

 

 次です。邦訳は大意としては問題ないようではありますが、いちおう代案を示しておきます。

 

フロイトが『夢判断』において「sit venia verbo(この言葉を使うのを許して下さい)と言い足して、無意識の思考という用語を明確化した時、彼が言っていることは、無意識の思考は、ランガージュという形で分節化されているということに他なりません。(邦訳上巻186頁)

 

フロイトが『夢判断』において「sit venia verbo(この言葉を使うのを許して下さい)と言い足して、無意識の思考という用語を明確化した時、彼が言っていることは、思考とは、ランガージュという形で分節化されているものを指しているということに他なりません。(代案)

 次です。ラカンがこのセミネールの直後にまとめた論文『精神病のあらゆる可能な治療の前提的問いについて』を読むとはっきりわかるのですが、ラカンが「modulation変調」という言葉で指している事態は、患者が頭に浮かんだ言葉を、「これは自分の考えとして引き受けよう、、これは自分の考えとしては否定しておこう、これは他人の考えとして投影しておこう、これは幻聴化しておこう」といった振り分けをする(場合によっては、さらにさまざまな声質を負わせて幻聴化する)作用のように思います。

 

人間にとって問題は、無意識というこのランガージュに占領されないように、この連続した変調の働きをうまく切り抜けることです。だからこそ、人間の意識は無意識から逸れるようになっているのです。ただ、無意識の存在を認めるということは、たとえ意識が無意識から逸れるとしても、先に述べた無意識の変調の働きや、すべての複雑さを伴った無意識のフレーズは、それでもなお存続しているということです。(邦訳上巻186~7頁)

 上の引用箇所の直前の段落にも(「modulation」という言葉は出てきませんが)その説明があります。私はこれを「モジュール割り」と訳しておきます。
 上の引用箇所は、最初の文、「s'en tirer avec cette modulation」を、「se tirer de...」「s'en tirer」「se tirer de... avec...」「s'en tirer avec...」といった熟語のいずれとしてとして解釈するかなかなか難しいのですが、次のように取ってみます。

人間にとって問題は、この連続したモジュール割りとうまく付き合い、それにあまりにも忙殺されないようにすることです。だからこそ、人間の意識はそれから逸れるようになっているのです。ただ、無意識の実在を認めるということは、たとえ意識がそれから逸れるとしても、先に述べたモジュール割りや、すべての複雑さを伴った[内的]フレーズは、それでもなお連続しているということです。(代案)

 

 「それから免れる」という表現が2箇所あって、「それ」が何を指すかも難しいのですが、一つ目は直前、二つ目は直後の、「モジュール割り」と取りました。角括弧の[内的]は、禁じ手ですが海賊版から取りました。

 

 次はラングとランガージュを取り違えるという大きなケアレスミスらしき箇所が目立ちますが、ほかもちょっとだけ手を入れてみます。

同様に十七世紀の「才女」の運動は、ランガージュという見地からすれば、信じられない程重要です。もちろん、この「才女」の運動の中には、モリエールという天才的人物が語っているような点が大いにあることはありますが、どうも彼には彼が望んだよりも少しばかり多くを語らせてしまったようです。(邦訳上巻189頁)

同様に十七世紀の「才女」の運動は、ラングという見地からすれば、信じられない程重要です。もちろん、この「才女」の運動の中には、モリエールという天才的人物が語ったような点が大いにあることはありますが、どうも彼は彼が望んだよりも少しばかり多くを語ったことにされているようです。(代案)

 次は、人名のカタカナ表記の問題です。

レンネック(邦訳上巻190頁)

 綴りはLaennecで、仏和辞典のほか英和辞典にも載っていますが、「ラエネク」と表記されるのが普通のようです。

 今回は次が最後です。

それ故に、シュレーバー議長の物語におけるランガージュの現象の変遷について、より念入りな検討をして、さらにそれに続いて、このランガージュの現象をリビドーの置き換えと結びつけることができるようになる所まで進みましょう。(邦訳上巻192頁)

それ故に、シュレーバー議長の物語における言葉の現象の変遷について、より念入りな検討をして、さらにそれに続いて、この言葉の現象をリビドーの置き換えと結びつけることができるようになる所まで進みましょう。(代案)

 ここの原文表現は「verbal」です。「verbe」は邦訳183頁2行目で「言葉」とされていますから、そちらにあわせてみました。

精神病〈上〉
ジャック ラカン (著), ジャック・アラン ミレール (編集), 小出 浩之 (翻訳), 川津 芳照 (翻訳), 鈴木 国文 (翻訳), 笠原 嘉 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (1987/03)

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