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2018年1月

2018年1月27日 (土)

ラカン『精神分析の倫理』6章再読

 今回はセミネール7巻6章、『道徳的法則について』の翻訳の検討です。

 この章も、翻訳の大きな問題点は少ないと思います。まず、悪い対象と良い対象というクラインの概念を扱っている箇所です、

主体は悪い対象への通路をいささかも持っていません。善に対してさえ主体はすでに距離を取っているではありませんか。(邦訳上巻110頁)

主体は悪い対象への通路をいささかも持っていません。良いもの[=良い対象]に対してさえ主体はすでに距離を取っているではありませんか。(代案)

 ここは、哲学的文脈で繰り返し用いられてきた「bien善」ではなく、「bon良い」が用いられています。

 次です。微妙ですが、二つ目の下線部のニュアンスは自分には大きなものに思えます。

 こうして現代科学の頂点では、カントの命令法は一新されて姿を現します、それは、エレクトロニクスやオートメーションの言葉を使えば、「汝の行為がプログラミングされているようにのみ行動すべし」と表現できましょう。(邦訳上巻116頁) 

 こうして現代科学の頂点では、カントの至上命令は一新されて姿を現します、それは、エレクトロニクスやオートメーションの言葉を使えば、「汝の行為がプログラミングされてありうるようにのみ行動すべし」と表現できましょう。(代案) 

 さいきんの若い医師・看護師たちには、「自らの行為がマニュアル化されてありうるように行動すべし」と考えていそうな人もいるのを見るにつけ、私にはラカンのこの指摘は臨床現場でアクチュアルなものと感じられます。医療観察法などを担当している職員はいっそうそうなっていきます。といいながら、自分も年々そういう傾向に染まっている気もします。

 次は、2つの箇所の関連を指摘したいところです。

「汝は隣人の家を欲してはならない。汝の隣人の妻、男女の奴隷や、牛、ロバ、さらには汝の隣人のものを一切欲してはならない」(邦訳上巻124頁)

たとえば、<法>が「むさぼるな」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、<もの>は機会あるごとに命令によってあらゆる種類のむさぼりを私の内にひきおこします。(邦訳上巻125頁)

 下線を付した箇所はすべて、動詞convoiterかその名詞形convoitiseなので、統一するなら「渇望(する)」でしょうか。

 上の2箇所を含む長い引用になりますが、細々とした訂正点が多い次の箇所を取り上げて代案をお示ししておきます。

…「汝は隣人の家を欲してはならない。汝の隣人の妻、男女の奴隷や、牛、ロバ、さらには汝の隣人のものを一切欲してはならない」。
 家とロバとの間に妻が置かれているので、多くの人が、ここではベドゥインやアラビアや北アフリカの原始社会の法が述べられていると考えました。私はそうは思いません。
 この法は、これを毎日破る男の心のなかに、少なくとも隣人の妻に関する部分を毎日破る男の心の中に、今でも生きています。この法は、ここでの我々の対象つまり「das Ding」との間に、何らかの関係があるに違いありません。
 というのは、この命令で言われていることは、善[財産]なら何でもというわけではないからです。交換の法をつくろうというのでもありませんし、人間の本能の運動や「激しさimpetus」を合法性や -こう言ってよければおかしな合法性や- 社会的「保証Sicherung」で覆い隠そうとするわけでもないのです。ここで言われているのは、「der Trug嘘」とか「das Ding」のような、人間存在がその中で休息することのできるものときわめて密接な関係を持つ限りでのみ価値があるもののことです。「das Ding」は、人間の善の相関物ではなくて、人間がそこで休息するものです。さらに言うなら、「das Ding」とはパロールの法の、最も原初的な相関物であり、それはつまり「最初に「das Ding」があった」という意味であり、「das Ding」とは主体が名づけ分節化し始めたものから分離されえた最初のものなのです。そして「欲してはならない」と言われているのは、私が欲望するものすべてにではなく、私の隣人の<もの>である限りでの事物へと向けてなのです。
 パロールそのものによって打ち立てられるものとしての<もの>とのこの距離を維持する限りにおいて、この命令はその意義を持つのです。
 しかしここで、我々はどこに辿りつくのでしょう。
 <法>は<もの>でしょうか。決してそうではありません。しかし<法>によらなければ、私は<もの>を知らなかったでしょう。たとえば、<法>が「むさぼるな」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、<もの>は機会あるごとに命令によってあらゆる種類のむさぼりを私の内にひきおこします。<法>がなければ<もの>は死んでいるのです。私はかつて<法>と関わりなく生きていました。しかし命令が登場したとき、<もの>は燃え上がり、生き返って、私は死にました。(邦訳124~125頁) 

…「汝は隣人の家を渇望してはならない。汝の隣人の妻、男女の召使いや、牛、ロバ、さらには汝の隣人に属するものを一切渇望してはならない」。
 家とロバとの間に妻が置かれているので、多くの人が、ここではベドゥインやアラビアや北アフリカの原始社会の要請が述べられていると考えました。私はそうは思いません。
 この法は、これを毎日破る男の心のなかに、少なくとも隣人の妻に関する部分を毎日破る男の心の中に、今でも生きています。この法は、ここでの我々の対象つまり「das Ding」との間に、何らかの関係があるに違いありません。
 というのは、[この法で]言われていることは、善[財産]なら何でもというわけではないからです。[言われているのは]交換の法をなすものでもありませんし、人間の本能の運動や「激しさimpetus」を -こう言ってよければ心地よい- 合法性や社会的「保証Sicherung」でカバーするものでもないのです。ここで言われているのは、これら諸対象のいずれもが、「der Trug欺瞞」とか「das Ding」のような、人間存在がその中で休息することのできるものときわめて密接な関係を持たずにいないという限りでのみ価値がある何かです。「das Ding」は、人間のの相関物ではなくて、人間がそこで休息するような善です。さらに言うなら、「das Ding」とはパロールの法の、最も原始的な起源における相関物であり、それはつまり「最初に「das Ding」があった」という意味であり、「das Ding」とは主体が名づけ分節化し始めたものから分離されえた最初のものなのです。そして[この命令で]言われているのは、私が欲望するものすべてにではなく、私の隣人の<もの>である限りでのものへと向けての渇望なのです。
 パロールそのものによって打ち立てられるものとしての<もの>とのこの距離を維持する限りにおいて、この命令はその価値を持つのです。
 しかしここで、我々はどこに辿りつくのでしょう。
 <法>は<もの>でしょうか。決してそうではありません。しかし<法>によらなければ、私は<もの>を知らなかったでしょう。たとえば、<法>が「渇望するな」と言わなかったら、私は渇望の概念を持たなかったでしょう。ところが、<もの>は機会あるごとに命令によってあらゆる種類の渇望を私の内にひきおこします。なぜなら<法>がなければ<もの>は死んでいるのです。私はかつて<法>と関わりなく生きていました。しかし命令が登場したとき、<もの>は燃え上がり、生き返って、私は死を見出しました。(代案)

 細かいところばかりになりました。もとの和訳と大きな違いはないかもしれません。

  今回は次が最後です。聖パウロの『ローマ人への手紙』に言及された直後の箇所です。

ある筋の人々がどう考えていようと、偉大な神学者たちは良い読み手ではないと考えるのは間違いです。私自身彼らの著書に没頭してみて損をしたことはありません。わけてもこの著者[ルター]を、みなさんのヴァカンスの宿題として示しておきたいのですが、彼はヴァカンスの友として悪くないでしょう。(邦訳上巻125頁)

ある筋の人々がどう考えていようと、聖なる[=聖書を構成する]著作群は良い読み物ではないと考えるのは間違いです。私自身それらに没頭してみて損をしたことはありません。わけてもこれを、みなさんのヴァカンスの宿題として示しておきたいのですが、これはヴァカンスの友として悪くないでしょう。(代案)

 最初の部分、「les auteurs sacres」の「auteur」は、「著者」ではなく、「著者の作品」という意味に取るべきと思います。そうすると、ここで言及されているのは、邦訳で角括弧内に補足されているルター(次章で大きく取り上げられます)ではなく、直前に言及されている聖パウロとその著作を指すでしょう。

 なお、この「auteur」という語について、邦訳上巻145頁では「les auteurs religieux」が「宗教上の著作」と訳されたあと、訳文内で「書き手」とも言い換えられてうまく処理されています。

 今回はここまでにします。

精神分析の倫理 上
出版社: 岩波書店 (2002/6/26)
ジャック・ラカン   (著),‎ ジャック・アラン・ミレール (編集),‎ 小出 浩之 (翻訳) 

2018年1月13日 (土)

ラカン『精神病』10章再読

 今回は10章『現実界におけるシニフィアンと叫びの奇跡』の再読です。この章は、翻訳が細かいところで不正確な箇所が多いのですが、たいていの場合、大意としては問題ないので、いわゆる意訳といってよい範囲に収まっていると思います。

 文意が変わってしまいそうな箇所だけ、いくつか指摘しておきます。

 まず、精神病患者として名高いシュレーバー議長の回想録からの引用です。

私が何を経験しても、それが私に向けられていること、あるいは私に由来していることを、すぐに私に気づかせる悪い癖を持っているのは、この神なのだ。私は -シュレーバーは音楽家でもあったのですが- たとえば『魔笛』の一節を吹くにしても、この話しかけてくる神がそれに相応しい感情をすぐに教えてくれなければ、それを吹くこともできない。しかし教えてもらったからといって、それらの感情を私が持つわけではないが。(邦訳上巻224頁)

 シュレーバーは、神が感情を「教えてくれ」ると感じてはおらず、迷惑を感じています。原語はattribuerです。ほか、原文で「air」とある箇所は「アリア」と直訳しておきます。

私が何を経験しても、それが私に向けられていること、あるいは私に由来していることを、すぐに私に気づかせる悪い癖を持っているのは、この神なのだ。私は -シュレーバーは音楽家でもあったのですが- たとえば『魔笛』のアリアを演奏するにしても、この話しかけてくる神がそれに相応しい感情をすぐに私にお仕着せてしまうことが避けられない。しかしそれらの感情を私が持っているわけではないのだが。(代案)

 次も、精神病患者が体験を「被る」「押し付けられる」感覚にまつわる一節です。

一般に受け入れられている考え方、つまり幻覚とは間違った知覚である、という考え方に従えば、問題は、外界に出現し、知覚として、あるいは現実界のテキストにおける障害・破れとして現れてくる何かです。(邦訳上巻224~225頁)

一般に受け入れられている考え方、つまり幻覚とは間違った知覚である、という考え方に従えば、問題は、外界に出現し、知覚として押し付けられる何かであり、現実界のテキストにおける障害・破れです。(代案)

 ここで「押し付けられる」とした箇所は原文では「s'imposer」です。ここらへんを読むと、幻覚は知覚なのではなくて現実なのだということになるんでしょうね。

 次です。

 ランガージュによるこの存在、つまり「夕べの安らぎ」というこの存在は何かを意味しているのでしょうか、いないのでしょうか。私達がこのランガージュを待ち受けることなく、願わず、また長い間それについて考えることがなければないほど、ランガージュによるこの存在は本質的にシニフィアンとして現れて来ます。(邦訳上巻230頁)

 「このランガージュを待ち受ける」の箇所は、原文では代名詞で語られているのですが、使われているのは女性代名詞です。直前の名詞をみると、「ランガージュ」も「この存在」も男性名詞、「夕べの安らぎ」が女性名詞なので、ここは「夕べの安らぎ」を指すのだと思います。

 ランガージュによるこの存在、つまり「夕べの安らぎ」というこの存在は何かを意味しているのでしょうか、いないのでしょうか。私達がこの「夕べの安らぎ」を待ち受けることなく、願わず、また長い間それについて考えることがなければないほど、ランガージュによるこの存在は本質的にシニフィアンとして現れて来ます。(代案)

 ただここはアソシアシオン・ラカニエンヌによる海賊版では男性名詞です。どちらが正しいかは分かりませんが、男性名詞だとしたら下線部は「存在」とすべきと思います。岩波版の「ランガージュを待ち受ける」はちょっと意味が取りづらく思います。

 次も、「夕べの安らぎ」というシニフィアンをめぐる箇所です。下線部は岩波版のまま引用しました。たんなる誤植でしょう。

 この現実界におけるシニフィアンが不意に襲えば襲うほど -と言いますのは原理上私達の理解を超えているからです- このシニフィアンは、ディスクールの現象という多少とも適切な縁どりを伴って現われてきます。さて、私達の作業仮説を立てましょう。つまりシュレーバー議長の経験の中心にあるものは何かいうことです。そしてまた、経験の周辺部つまり縁どりにおいて、彼がそれとして知覚はしていないものの、結局はこれらすべての縁どり現象を組織化するシニフィアンが引き起こす泡の中に彼がいる時彼がそれと知らずに感じているもの、それは何かということです。(邦訳上巻231頁)

 ここで言われている「作業仮説」の内容が掴めません。「…は何かということ」というのは問いであって、これを作業仮説というのは変な気がします。正常の現象とシュレーバー議長の経験との両者を論じているという点でも非常に難しいところです。

 おわかりのように、この現実界におけるシニフィアンが私達を不意に襲えば襲うほど -と言いますのは原理上私達の理解を超えているからです- それだけでこのシニフィアンは、ディスクールの現象という多少とも適切な縁どりを伴って現われてきます。さて、私達の作業仮説を立てましょう。シュレーバー議長の経験の中心にあるもの、つまり彼がそれとして知覚していないものは、経験の周辺部つまり縁どりにこそ探すべきだということです。彼がそれとして知覚はしていないものの、結局はこれらすべての縁どり現象を組織化するシニフィアンが引き起こす泡の中に、彼は運び去られているのです。(代案)

 この代案では、経験の中心にあるものを、経験の周辺部に探すべしということになって、一見すると矛盾した内容になってしまいました。「縁どり」については、本書を通じてほんの数カ所しか出てこないので、裏づけを探すのも難しいところです。

 次です。一箇所、「en raison avec...」という部分です。

シュレーバーは、彼が身の周りで始終耳にするのは、現実的な雑音であることをよく知っています。それでもやはり彼は、これらの音はそのとき偶然に起きたものではなく、妄想世界への吸収の仲介的要素と仲たがいして、外的世界の中で神に捨てられた孤独な状態へと戻ってしまう途上で、彼に向けて作り出されたものだという確信を持っています。(邦訳上巻233頁)

シュレーバーは、彼が身の周りで始終耳にするのは、現実的な雑音であることをよく知っています。それでもやはり彼は、これらの音はそのとき偶然に起きたものではなく、妄想世界への吸収の仲介的要素と共に、外的世界の中で神に捨てられた孤独な状態へと戻ってしまう途上で、彼に向けて作り出されたものだという確信を持っています。(代案)

 最後は偶然にもまた縁どりに関する箇所からです。dissocierという語は精神医学用語として訳すべきでしょう。「dissociation」は英語では「解離」という神経症症状を指しますが、フランスでは「association連合」が乱れた「連合弛緩」という統合失調症症状を指します。もうひとつは、けっこう重大な単純ミス(誤植?)です。

そして、この謎めいた場から彼が離れる度毎に、つまりそういう状態になれば休息できると彼が願ったであろう状態が成立する度毎に、外界の縁どりにおいて一種の輝きが起こります。それは、相互に連関のないランガージュの構成要素として彼の中を巡ります。一方には、最も要素的な形の叫びという音声活動があります。それは、 患者にとっては何らかの恥へと結び付く狼狽感を伴っています。他方には救いを求める呼びかけのシニフィアンとして自らを共示するシニフィカシオンがあります。(邦訳上巻234頁)

そして、この謎めいた場から彼が離れる度毎に、つまりそういう状態になれば休息できると彼が願ったであろう状態が成立する度毎に、外界の縁どりにおいて一種の輝きが起こります。それは、連合弛緩した、ランガージュのあらゆる構成要素として彼の中を巡ります。一方には、最も要素的な形の叫びという音声活動があります。それは、 患者にとっては何らかの恥へと結び付く狼狽感を伴っています。他方には救いを求める呼びかけのシニフィカシオンとして自らを共示するシニフィカシオンがあります。(代案)

 今回は以上です。

精神病〈上〉
ジャック ラカン (著), ジャック・アラン ミレール (編集), 小出 浩之 (翻訳), 川津 芳照 (翻訳), 鈴木 国文 (翻訳), 笠原 嘉 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (1987/03)

2018年1月 8日 (月)

ラカン『精神分析の倫理』5章再読

 今回は5章『ものDas Ding』(Ⅱ)の検討です。

 ざっと見た感じ、この章の翻訳には問題は少ないんじゃないでしょうか。なんとか頑張って2箇所探してみました。

組織体にとってホメオスターシス的に耐えられるレベルの緊張度に制御するという機能は、最終的には運動に委ねられているのです。しかし、神経装置のホメオスターシスという自律制御の場は、不調和を含みうるという点で、たとえば体液のバランスを司っている一般的なホメオスターシスとは違います。体液のバランスが登場するのは、内部に由来する刺激の次元としてです。だからフロイトは次のように言うのです。神経組織体の内部からも刺激が到来し、それは外部からの刺激と同等に扱われる、と。(邦訳上巻88頁)

 ここは邦訳上巻58頁、「この装置は生体の切り離すisolerことができる一部分として示されていることに注意しなくてはなりません」のあたりと同じ文脈で読むべきと思います。生体全体の中に、はっきり区別された部分として神経装置があるわけです。上記引用箇所ではdistinctという語が使われていますが、同じことを言っていると思います。ほんの少し手を入れてみます。

組織体にとってホメオスターシス的に耐えられるレベルの緊張度に制御するという機能は、最終的には運動に委ねられているのです。しかし、自律制御の場である神経装置のホメオスターシスは、不調和を含みうるという点で、たとえば体液のバランスを司っている一般的なホメオスターシスとは区別されます。体液のバランスが登場するのは、内部に由来する刺激の次元としてです。だからフロイトは次のように言うのです。神経組織体の内部からも刺激が到来し、それは外部からの刺激と同等に扱われる、と。(代案)

 それでも、引用箇所最後の三つの文の意味が分かりづらく感じられたので、非正規版であるアソシアシオン・ラカニエンヌ版を参照してみると、いくつかの相違があります。途中、isolerという語も登場して、上に書いた私の考えを裏打ちしてくれています。ちなみにアソシアシオン・ラカニエンヌ版では「神経装置のホメオスターシス」という表現はありません。この版を参照して代案を考えてみます。

組織体にとってホメオスターシス的に耐えられるレベルの緊張度に制御するという機能は、最終的には運動に委ねられているのです。しかし、自律制御の場である神経装置は生命との不調和を含みうるという点で、たとえば体液のバランス全体を司っている一般的なホメオスターシスとは区別されるもの、切り離されたものとみなすべきです。体液のバランスが登場するのは、内部に由来する刺激の次元としてです。だからフロイトは次のように言うのです。神経組織体に対して、内部からも刺激が到来し、それは外部からの刺激と同等に扱われる、と。(代案2)

 次です。原文の「dans telle ou telle circonstance」という句が抜けているというのが大きな訂正点ですが、それだけではなく少し手を入れてみます。

我々が自らの思考過程を知るのは、我々が自らの中で生じていることを話すからでしかありません。つまり、一方ではそれが不適切で、空しく、馬鹿らしいと知っているにもかかわらず、どうしようもなくお決まりの用語で話すしかないからなのです。我々が明晰な知性や自分の意思や悟性について話し始めるとき、そのときから我々は前意識を持つようになり、ディスクールのなかに何か無駄話を分節化できるようになります。そのような無駄話が我々にとって、自らの欲望の足どりを明瞭化し、正当化し、合理化するのに役立つのです。(邦訳上巻92頁)

我々が自らの思考過程を知るのは、我々が自らの中で生じていることを話すからでしかありません。つまり、一方ではそれが不適切で、空しく、馬鹿らしいと知っているにもかかわらず、どうしようもなくお決まりの用語で話すしかないからなのです。我々が自分の意思や悟性について別個の能力として話し始めるとき、そのときから我々は前意識を持つようになり、ディスクールのなかに何か無駄話を分節化できるようになります。そのような無駄話我々にとって、我々が繋がり合い、自己正当化し、自らの欲望の足どりをしかじかの状況で合理化するのに役立つのです。(代案)

 ここも非正規版を参照してみると、ひとつめの下線部は、「自分の意思について、悟性とは別個の能力として」となります。そちらの方が良さそうでもあります。

 このように、上の二箇所については非正規版に軍配があがるように思いますけれども、必ずしもあらゆる箇所で非正規版が優れているわけではないことを一応ここでお断りしておきます。

精神分析の倫理 上
出版社: 岩波書店 (2002/6/26)
ジャック・ラカン   (著),‎ ジャック・アラン・ミレール (編集),‎ 小出 浩之 (翻訳)

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