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2018年1月13日 (土)

ラカン『精神病』10章再読

 今回は10章『現実界におけるシニフィアンと叫びの奇跡』の再読です。この章は、翻訳が細かいところで不正確な箇所が多いのですが、たいていの場合、大意としては問題ないので、いわゆる意訳といってよい範囲に収まっていると思います。

 文意が変わってしまいそうな箇所だけ、いくつか指摘しておきます。

 まず、精神病患者として名高いシュレーバー議長の回想録からの引用です。

私が何を経験しても、それが私に向けられていること、あるいは私に由来していることを、すぐに私に気づかせる悪い癖を持っているのは、この神なのだ。私は -シュレーバーは音楽家でもあったのですが- たとえば『魔笛』の一節を吹くにしても、この話しかけてくる神がそれに相応しい感情をすぐに教えてくれなければ、それを吹くこともできない。しかし教えてもらったからといって、それらの感情を私が持つわけではないが。(邦訳上巻224頁)

 シュレーバーは、神が感情を「教えてくれ」ると感じてはおらず、迷惑を感じています。原語はattribuerです。ほか、原文で「air」とある箇所は「アリア」と直訳しておきます。

私が何を経験しても、それが私に向けられていること、あるいは私に由来していることを、すぐに私に気づかせる悪い癖を持っているのは、この神なのだ。私は -シュレーバーは音楽家でもあったのですが- たとえば『魔笛』のアリアを演奏するにしても、この話しかけてくる神がそれに相応しい感情をすぐに私にお仕着せてしまうことが避けられない。しかしそれらの感情を私が持っているわけではないのだが。(代案)

 次も、精神病患者が体験を「被る」「押し付けられる」感覚にまつわる一節です。

一般に受け入れられている考え方、つまり幻覚とは間違った知覚である、という考え方に従えば、問題は、外界に出現し、知覚として、あるいは現実界のテキストにおける障害・破れとして現れてくる何かです。(邦訳上巻224~225頁)

一般に受け入れられている考え方、つまり幻覚とは間違った知覚である、という考え方に従えば、問題は、外界に出現し、知覚として押し付けられる何かであり、現実界のテキストにおける障害・破れです。(代案)

 ここで「押し付けられる」とした箇所は原文では「s'imposer」です。ここらへんを読むと、幻覚は知覚なのではなくて現実なのだということになるんでしょうね。

 次です。

 ランガージュによるこの存在、つまり「夕べの安らぎ」というこの存在は何かを意味しているのでしょうか、いないのでしょうか。私達がこのランガージュを待ち受けることなく、願わず、また長い間それについて考えることがなければないほど、ランガージュによるこの存在は本質的にシニフィアンとして現れて来ます。(邦訳上巻230頁)

 「このランガージュを待ち受ける」の箇所は、原文では代名詞で語られているのですが、使われているのは女性代名詞です。直前の名詞をみると、「ランガージュ」も「この存在」も男性名詞、「夕べの安らぎ」が女性名詞なので、ここは「夕べの安らぎ」を指すのだと思います。

 ランガージュによるこの存在、つまり「夕べの安らぎ」というこの存在は何かを意味しているのでしょうか、いないのでしょうか。私達がこの「夕べの安らぎ」を待ち受けることなく、願わず、また長い間それについて考えることがなければないほど、ランガージュによるこの存在は本質的にシニフィアンとして現れて来ます。(代案)

 ただここはアソシアシオン・ラカニエンヌによる海賊版では男性名詞です。どちらが正しいかは分かりませんが、男性名詞だとしたら下線部は「存在」とすべきと思います。岩波版の「ランガージュを待ち受ける」はちょっと意味が取りづらく思います。

 次も、「夕べの安らぎ」というシニフィアンをめぐる箇所です。下線部は岩波版のまま引用しました。たんなる誤植でしょう。

 この現実界におけるシニフィアンが不意に襲えば襲うほど -と言いますのは原理上私達の理解を超えているからです- このシニフィアンは、ディスクールの現象という多少とも適切な縁どりを伴って現われてきます。さて、私達の作業仮説を立てましょう。つまりシュレーバー議長の経験の中心にあるものは何かいうことです。そしてまた、経験の周辺部つまり縁どりにおいて、彼がそれとして知覚はしていないものの、結局はこれらすべての縁どり現象を組織化するシニフィアンが引き起こす泡の中に彼がいる時彼がそれと知らずに感じているもの、それは何かということです。(邦訳上巻231頁)

 ここで言われている「作業仮説」の内容が掴めません。「…は何かということ」というのは問いであって、これを作業仮説というのは変な気がします。正常の現象とシュレーバー議長の経験との両者を論じているという点でも非常に難しいところです。

 おわかりのように、この現実界におけるシニフィアンが私達を不意に襲えば襲うほど -と言いますのは原理上私達の理解を超えているからです- それだけでこのシニフィアンは、ディスクールの現象という多少とも適切な縁どりを伴って現われてきます。さて、私達の作業仮説を立てましょう。シュレーバー議長の経験の中心にあるもの、つまり彼がそれとして知覚していないものは、経験の周辺部つまり縁どりにこそ探すべきだということです。彼がそれとして知覚はしていないものの、結局はこれらすべての縁どり現象を組織化するシニフィアンが引き起こす泡の中に、彼は運び去られているのです。(代案)

 この代案では、経験の中心にあるものを、経験の周辺部に探すべしということになって、一見すると矛盾した内容になってしまいました。「縁どり」については、本書を通じてほんの数カ所しか出てこないので、裏づけを探すのも難しいところです。

 次です。一箇所、「en raison avec...」という部分です。

シュレーバーは、彼が身の周りで始終耳にするのは、現実的な雑音であることをよく知っています。それでもやはり彼は、これらの音はそのとき偶然に起きたものではなく、妄想世界への吸収の仲介的要素と仲たがいして、外的世界の中で神に捨てられた孤独な状態へと戻ってしまう途上で、彼に向けて作り出されたものだという確信を持っています。(邦訳上巻233頁)

シュレーバーは、彼が身の周りで始終耳にするのは、現実的な雑音であることをよく知っています。それでもやはり彼は、これらの音はそのとき偶然に起きたものではなく、妄想世界への吸収の仲介的要素と共に、外的世界の中で神に捨てられた孤独な状態へと戻ってしまう途上で、彼に向けて作り出されたものだという確信を持っています。(代案)

 最後は偶然にもまた縁どりに関する箇所からです。dissocierという語は精神医学用語として訳すべきでしょう。「dissociation」は英語では「解離」という神経症症状を指しますが、フランスでは「association連合」が乱れた「連合弛緩」という統合失調症症状を指します。もうひとつは、けっこう重大な単純ミス(誤植?)です。

そして、この謎めいた場から彼が離れる度毎に、つまりそういう状態になれば休息できると彼が願ったであろう状態が成立する度毎に、外界の縁どりにおいて一種の輝きが起こります。それは、相互に連関のないランガージュの構成要素として彼の中を巡ります。一方には、最も要素的な形の叫びという音声活動があります。それは、 患者にとっては何らかの恥へと結び付く狼狽感を伴っています。他方には救いを求める呼びかけのシニフィアンとして自らを共示するシニフィカシオンがあります。(邦訳上巻234頁)

そして、この謎めいた場から彼が離れる度毎に、つまりそういう状態になれば休息できると彼が願ったであろう状態が成立する度毎に、外界の縁どりにおいて一種の輝きが起こります。それは、連合弛緩した、ランガージュのあらゆる構成要素として彼の中を巡ります。一方には、最も要素的な形の叫びという音声活動があります。それは、 患者にとっては何らかの恥へと結び付く狼狽感を伴っています。他方には救いを求める呼びかけのシニフィカシオンとして自らを共示するシニフィカシオンがあります。(代案)

 今回は以上です。

精神病〈上〉
ジャック ラカン (著), ジャック・アラン ミレール (編集), 小出 浩之 (翻訳), 川津 芳照 (翻訳), 鈴木 国文 (翻訳), 笠原 嘉 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (1987/03)

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