« ラカン『精神分析の倫理』10章再読 | トップページ | ラカンのヤスパースいじり »

2019年10月25日 (金)

ラカンが引用したアラゴンの作品の登場人物、アン=ナディとは誰か?

 久しぶりの記事になります。

 ラカンの1964年のセミネール(11巻)『精神分析の四基本概念』の翻訳書(岩波書店)を読み直しています。詩人ルイ・アラゴンが前年(1963年)に出版した詩集『エルザの狂人』から、『対旋律』なる詩が、第2講の冒頭で引用されています。

 定刻ですから、今日の話を、ある詩を読むことから始めることにします。実際は、この詩は今日お話ししようと思っていることとは関係ありません。むしろ、昨年のセミネールで不思議な対象、もっとも隠された対象、すなわち視認欲動の対象についてお話ししたことと関係があります。
 それはアラゴンの『エルザの狂人』の七三頁にある「対旋律」と題された短い詩です。

お前の面影(イマージュ)は空しく私に会いにやって来て
私の中に入ろうとするが、私はただお前の面影(イマージュ)を映し出しているだけ
お前は私の方に向き直るが、そのときお前が私の眼差しの壁の上に見つけるのは
私が夢見ているお前の影、ただそれだけ
私はまるで鏡のような不幸者
映し返すことはできても、見ることはできない
私の目は鏡のように空き家で
お前の不在に取り愚かれ、何も見えない

 この詩を、あの中断されてしまったセミネールを思い出している人々の郷愁に捧げます。不安と小文字の対象「a」についてのセミネールです。
 それらの人々は、いやそれらの人々こそ ― 思わせぶりな言い方ですみません ― アラゴンが ― アラゴンのこの素晴らしい本が我われの世代の好みを響かせていることを誇りに思いますし、この詩を今も十分に味わおうとすると私は同世代の仲間たちのことを思い出さずにおれません ― この詩の後に次の一行を付け加えていることの味わいを感じ取ってくれることでしょう。「割礼へと導かれるとき、かつてアン・ナディはそう言った」。
 昨年のセミネールをお聞きの人たちは、ここで対象「a」のさまざまな形と「-φマイナス・フィー」の中心的・象徴的機能との対応がお解りでしょう。ここではその「-φ」は奇妙な言及、とはいえ決して偶然ではない言及によって語られています。つまり、アラゴンは作中人物である狂気の詩人の言葉を借りて、この「対旋律」の歴史的な含みに言及しているのです。(『精神分析の四基本概念』岩波書店21-22頁)

 

 ここに登場するアン=ナディなる人物について訳註が付され、「グラナダのイスラム最後の王」とされています。グラナダの歴史を調べると最後の王はボアブディルという実在の人物のようですが、アラゴンの作品に登場するアン=ナディ[an-Nadjî]という名との関連がわかりません。そもそもラカンは「狂気の詩人」と述べています。そこでネットで調べたところ、この問題を論じた仏語論文がありました。

 http://www.lacanquotidien.fr/blog/wp-content/uploads/2013/05/LQ-322.pdf

 私はこれまでこの著者も雑誌も知らなかったのですが、こんなところで、私が学生時代から聴きこんだエリック・クラプトンの『レイラ』の元になった物語と出会ったという奇遇もあって、楽しく読むことができました。

 これを読むとアン=ナディはボアブディルではないことがはっきりわかります。

 歴史的事実関係が複雑なのではじめ自分のために翻訳してみたのですが、せっかくなのでここに載せてみます。途中、「声願」という変な言葉を使った箇所の原語はinvocationです。辞書に従えば「祈願」という訳語になるのですが、ラカンのセミネールでは、祈願欲動とは「自分の声を聴かせる」ような欲動であると言われており、またフランス語invocationの「voca」の部分には「vocal」と同じ語根が入っていますから、どうしても「声」というニュアンスを入れたかったのです。それと、註19のアラゴンからの引用箇所の前後はかなりわかりにくく、うまく意味を汲み取れたか自信ありませんがご容赦ください。

 

 

キャラバンサライ*[1]

an-Nadjîとは誰か?

アラビアの砂原からのジャック・ラカンの参照

PHILIPPE BOURET

『前置き』

 1964年1月22日、『精神分析の四基本概念』というセミネールの第2講、「フロイトの無意識と我われの無意識」*[2]を始める際に、ラカン博士は、アラゴンの『エルザの狂人』*[3]なる詩集から博士が抜粋した参照によって『自らの話を始め』ている。話題となっているのは、謎に満ちたan-Nadjîなる者が、割礼するよう促された際に口にしたという詩、『対旋律』である。まさにこれほどのことがあったからこそ、私は仕事に取りかかった・・・。

 

『プロローグ』

 ヒジュラ暦1434年、ジュマーダー・アル=ウーラー[=イスラム暦5月]26日(西暦2013年4月7日):一日の旅程が、砂漠の旅人たちに、その日の分の熱気と疲労をもたらしていた。女たち、子供たち、男たち、そして短剣[katar]たちが、休息し、涼気と清澄を告げる夜の静寂のなか、うとうとと居眠りをしていた。絹の取引の最後の叫びもすでに静まっていた。出会いと交換と思惟のために特権的なこの場所で、遠い地域のノマドの宿泊地で、人々は湯気の立つ茶を囲み、トルコ語で、アラビア語で、ペルシア語で、長話を続けた。

 突然ひとりの女が、実人生という葦筆で彫刻を施された顔立ちで、ゆっくりと荘厳に立ち上がったのだった。彼女は厳かで、素朴で上品で、年月の奥底から来る尊厳を刻印されていた。ジャーヒリーヤ[=イスラム以前のアラブ]のベドウィンたちを誇り高く決然と身に宿したさまで、彼女は、眼差しを虚空へ向け、穏やかで深遠なる声で声願を発し、それが他の三人の女によって繰り返されたのだった:「an-Nadjî!an-Nadjî!」。短い歌が、フンドゥーク[=隊商宿]の列柱を響かせた;後には深い静寂が続き、ただ何人かのつぶやき声だけがそれを遮ったのだった。明らかに分かったのは、人々はこの名が発せられるのをかつて聞いたことがなかったということである。

 謎めいた声願が、その晩じゅう私の耳に響き、私は眠れなかった。朝になると、この名は、止むことのない囁き声で口から口へと伝え回された。よく聞き取れたか?夢ではなかったか?。四人の女は、夜明けには目立たぬようにその場を離れ、ハーン[=隊商宿]のただ中に謎の甘い香りを残していた。私の知識欲を掻き立てたこの断絶に私は捉われたのだった。鍾乳飾りで装飾された堂々たる門の方へ向かい、私は進み、地平線をうかがった。遠くの砂原の微かな風だけが、夜明けのまだ涼しい砂丘をくすぐっていた。振り返ると、私は、ナスヒ体の美しい書法の葦筆で手書きされた札を地面に見つけたのだった:「ジャック・ラカン博士のセミネール11巻を開かれよ。22頁を読まれよ、汝はan-Nadjîに出会うであろう」。

 

1384年(ヒジュラ)ラマダーン7日 - 1964122日水曜日

 ジャック・ラカン博士はもはやサンタンヌ病院ではなく高等師範学校に居る。高等学術研究院の庇護と「気高さ」のもとでラカンのセミネールが迎え入れらえている。「私のような立場、亡命者の立場にあった者を迎え入れなければならないとき、気高さというのはぴったりの言葉です」*[4]。これに先立つ会合、1964年1月15日の会合は、破門を扱ったのであった。これは中断されたセミネール「<父の名>たち」(1963年11月20日)の後である。6ヵ月後、ラカン博士はパリ・フロイト派を創設するだろう。

 1964年1月22日の講義は、奇妙で謎に満ちた仕方で導入されている:「時間どおり始めるにあたって、私は今日の私の話を、ひとつの詞を読み上げることで始めようと思います。この詞は、実は、私がこれから言うであろうことと何の関係もありません。むしろ、私が昨年のセミネールで、神秘的な対象、最も隠された対象、つまり視認欲動の対象について言ったことと関係があります」*[5]。ラカンはそうしてアラゴンの詞「対旋律」を聴衆に向けて読む。これはラカンが詩集『エルザの狂人』から抜粋した詞で、ラカンはそこに、アラゴンが「自らの詞を、この謎に満ちたくだりに続けた」という事実のもつ「味わい」とラカン自らが名付けるものを付け加えている。「かつてan-Nadjîは、割礼に導かれるときに、こう言った」*[6]。an-Nadjî、危険を逃れる者、被救済者は、謎の中に謎を導入する。

 何行か先で、ラカンは、「対象aのさまざまな形と、モワン・フィー(-φ)の中心的で象徴的な機能との一致」を、「彼の作中人物、狂った詩人によるこの“対旋律”の発声の[・・・]歴史的含意」*[7]と結びつける。アラゴンがその詩的語りを、グラナダ陥落(1492)の前夜に位置づけていることを思いだそう。ボアブディル(Abû ‘Abd ‘Allah ‘az-Zughbî Mohammed ben Abî al-Hassan ‘Alî) -アラブ=アンダルシア帝国のスペイン最後の拠点を生きて維持した人物- は、父の後を継いで10年後にグラナダの城壁外へと追い出され、アルプハラ山地のラウハル・デ・アンダラクスへと亡命することを強いられ、1534年にモロッコのフェズでその生涯を終えた。後にアラゴンはモーリス・バレスに向けて次のように述べて彼の再評価を主張するだろう*[8]:「私が思うに、歴史を書くのが征服者たちである場合、征服された王というものはつねに卑怯者、裏切り者でしかありえない」*[9]。ラカンもまた、“対旋律”を聞く当時、10年の教育活動の後に壁の外へと追い出されている。

 an-Nadjîはジャック・ラカンによる東洋への参照であり、これは希少で、にもかかわらず非常に謎に満ちている。私はアラゴンの引用箇所を探したのだった。それは“対旋律”の後に続き、注釈している:「an-Nadjîはかつて、割礼へと導かれたときこう言ったのだが、人々はこのパロール[=発話]を、祝祭には暗く不作法だと感じた」。彼らはザイド(主人の世話をし、その写字生である孤児)に尋ねた。「彼は何を言いたいんだ?彼はただ幸運について話すべきじゃないか」。その子は、おそらくその主人の教えを繰り返し、答えたのだった。幸運について話すには幸運を信じていなくてはならない。鏡たちが他人のものでしかなく、鏡たちも他人の中に自らを見ることができないかぎり、つまり君の中の他者は君を見ることなく自らを見るかぎり、愛することの不幸しかない、と*[10]

 

「具合が悪いことにしか原因はない」*[11]

 ラカン博士は、一部を切り取った引用を我われに委ね、アラゴンが句点を打っているだけの箇所に自らあえて読点を置いた。この区切りを決めることで、彼は特殊なシニフィアン「割礼」を強調し、強化し、取り出すこととなる。このシニフィアンは、対象aへ、つまり(-φ)へ回付され、もっと先で視認機能と眼差し対象に力点を置くことを予告している。

 ラカンがそのまま書き写しているアラゴンのテキストには奇妙なところがある。この名が著作全体を通して現れるとおりならばan-Nadjdîなのだが、[ラカンに引用された箇所ではその代わりに]an-Nadjîと読めるのだ。同じ著者におけるこの綴りの変更は多義性をもたらす。an-Nadjîが、危険を逃れる者を指し示すことができる一方で、an-Nadjdîは、召喚される主体の地理的な出自に言及するようになる。an-Nadjdîは実際、ナジド出身の者を指し示す。ナジドは現サウジアラビア領で、中央アラビアの中心にある。ナジド高原は、北に大ナフード砂漠、南にルブアルハーリー砂漠という大きな二つの砂砂漠を見下ろす。後者は、ウィルフレッド・セシジャーが『Désert des déserts[数ある砂漠の中でもとびきりの砂漠]』で貴重とした「空白の地域」である。それゆえan-Nadjî(アラゴンが一度だけこう書いた)あるいはan-Nadjdîは、アラビアのベドウィンたちの系譜に属する。こうして我われは、アラゴンと、砂漠の大いなる詩的伝統、ムアッラカートとの緊密な結びつきを想定することができる:ムアッラカートは、ナジドの途方もない砂原の中で愛のために死んだ“マジュヌーン・ライラー”(“ライラーの狂人”)という、繰り返し詩歌とされた伝説にずっと昔から結びつけられている。

 

アドニス、詩人の声voix(道voie

 『ライラーの狂人』から『エルザの狂人』に至るには、詩人、もちろんアラビア語詩人に問うことがうってつけのように思われた。躊躇なく、私は1930年生まれのシリアの詩人、Ali Ahmad Saïd Esber (別名アドニス)に電話したのだった。彼は2011年にゲーテ賞を授与された最初のアラビア語詩人であり、ノーベル賞にも何度も打診されている。彼の作品を読むことはいつも名状しがたい幸運であり、彼と話すことは好機であり名誉でもある。彼はとても美しい声を有している!ルイ・アラゴンとしばしば訪ね合った友人である彼のみが、いくつかの示唆を私にもたらすことができた。彼にとってan-Nadjîという名は、いかなる既知の人物も喚起しなかったのだが、彼は、私が別の二つの名へ向かうよう誘ったのだった。Keïs Ibn Al-Mûllawwah*[12]とイムルル・カイス*[13]である。前者は、ウマイヤ朝(661~750)のもとで生涯を送ったようであり、アラビア詩人のなかでも最大級の一人と目されている。後者は、「前イスラム文学の大物であり、ひょっとすると伝説上の人物像かもしれないとはいえ、ベドウィン詩学の最初の師とみなされている」*[14]。これもアンドレ・ミケルの仮説だが:「おそらくマジュヌーンは生きた人物ではなかった。それでも彼は実存している。彼のために伝説が歴史を従わせたのだ」*[15]。我われは直ちに、純粋な口承伝説であり、また競合する部族間の弁論競争の道具でもある恋愛詞の中に居る。争点は、ある氏族が、武器を用いずに別の氏族に優越することである。いずれにせよイムルル・カイスには、砂漠の前イスラム詩の大いなる伝統が、宮廷愛の極めて美しい頌歌が、結びつけられている。そうした頌歌全てを超えた一つが、幾世紀をも乗り越え、もっと後に写字された“マジュヌーン・ライラー”(“ライラーの狂人”)の頌歌である。“ライラーの狂人”の最も高名な詩集の一つ、最初期に書かれた異本の一つのなかで、まさにKeïs Ibn Al-Mullawwahは7世紀頃にこのイスラム以前の伝説を取り上げ、自らの素晴らしい作品を制作している*[16]

 イムルル・カイス(伝説)とKeïs Ibn Al-Mullawah(文字化)から出発して、ルイ・アラゴンは、大預言者[=マホメット]以前の時代の規格外の宮廷詩の諸規則を尊重しつつ、狂った愛の現代的西洋的な異本を制作する:「私がそこに散文と詩句を混ぜ合わせたとか、パロール「=発話]のこれらの分極のどちらでもないランガージュ[=言語活動]の混成形式について、私を非難する者たちに対して、私は教えてあげねばならないだろうか。アラビア詩はたいていの場合、散文での注釈とか詩学の概論の解説であって、それが実例とか詩によって中断されているのだ、と」*[17]

 

それがつまずくところ

 たしかに、“エルザの狂人”は、タイトルで働いているシニフィアンの音そのものにおいても、“ライラーの狂人”を喚起するが、それだけではない。Lahouari Ghazzaliはより厳密な態度で、“マジュヌーンとライラー”の伝説がアラゴンの著作と密接に結び付いていることを示している。彼にとって、神や知、認知との関係を身に宿す中でライラーとエルザの間にはほとんど神秘的な紐帯が実在する。「こうして我われは、フランスの詩人ルイ・アラゴンに導かれるが、彼は“マジュヌーン・ライラー”から着想を得て、自らの詩集『エルザの狂人』を制作しつつ、自らの最愛の女性を称賛した。[・・・]エルザもライラーも、内的な認知、知恵、知を象徴している」*[18]。アラゴンは、アラブ=アンダルシア帝国のナスル朝最後の拠点が陥落し、カトリックのアラゴン王フェルナンドとカスティリア女王イサベル1世が勝利する直前の、ボアブディルのアラブ=アンダルシア領グラナダに没頭する。

 1960年の音楽誌『ミンストレル』の古い号に見つけたVictor Le Comteのシャンソンの題名によって、アラゴンは衝撃を受ける。Pauline Duchambgeが曲を付けた“グラナダ占領前夜”は、詩人を幼年期へと立ち返らせる:「どこからか、初めて、ひょっとすると子供向け雑誌から、私の夢想の中で、そしてたぶんここはロマン派的装丁がカテドラル様式であるからグラナダ式であっただろう、振り子時計のガラスケースの釣り鐘型の下に、黄金色の二人組」*[19]。ガラスの釣り鐘型[cloche]から言語の不具合[clocherie]へは、芸術家のさらなる一歩なのであった。一つのつまずきがルイを不意に捉えた:「恋歌の最初の詩句だけでもう、緩んだ弦の音が、最初の瞬間の突飛さが、私を捉えたのだった。私はその突飛さがどこに存するのか全く分からない」*[20]

…la veille où Grenade fut prise [・・・グラナダが占領された前夜]

A sa belle un guerrier disait… [ある戦士が恋人に言った・・・]

 アラゴンは文字通り、この「語と語の離婚」に、この「ランガージュのひきつり」に、この「異様さの感情」に、心を奪われ、“・・・の[起こった]日の前夜la veille du jour où...”に代えて“・・・の[起こった]前夜la veille où...”という、「誤りそのものに存するような美のひとつ」*[21]に衝撃を受ける。ここに、1964年1月22日のあの名高い講義が響き合っているのを聞こう!an-Nadjîという謎に満ちた名を聞こう。つまり綴り字の洗練を固有名の尊厳にまで引き上げているアラゴン的な不具合である!ラカン博士が数頁先で言っていることを聞こう:「つまずき、不調、ひび。発声され書かれた文において、何かが引っ掛かる。フロイトはこうした現象に惹き付けられ、まさにそこに無意識を探しにいく。何か別のものが実現されようと要求するところで -それはたしかに意図的であるかのように、しかし異様な時間性において現れる[・・・」。産み出されるという言葉の十全な意味で、この裂け目に産み出されるものは、掘り出し物として現れる。かくして、まず第一に、フロイトの探索が、無意識で起こることに出会うのである」!*[22]

 an-Nadjî/an-Nadjdî、ひとつの文字が、生(危険を逃れた者)と死(ナジドの砂原の中で愛のために死ぬ者)を弄んでいる。この道のりは、我われの探求を続けるためにアラゴンのテキストそのものへと導くことしかできなかったが、グラナダ大学のJavier Suso Lopezの非常に見事な仕事への寄り道も開いたのだった。彼にとってアラゴンは、たしかにイスラム以前の伝説のマジュヌーンを身に宿した一人であるとともに、「自らの作中人物、Keïs an-Nadjdî、首長*[23]を身に宿してもいる[・・・]。語り手が、自らが書くテキストの作中人物になる」*[24]

 

数ある名の中でもとびきりの名

 Keïs an-Nadjdîはかくして、フィクションを創造してエルザに対する自らの愛を語るためにアラゴンによって創出された作中人物ということになろう。“ライラーの狂人”の姓と同じ姓を用いて、首長という形容語によって彼はそのベドウィンの出自を確固として示している。Keïs an-Nadjdîは、伝説を転記した最初の一人であるKeïs Ibn Al-Moulawahにならって、首長である。ラカンに引用されたアラゴンのan-Nadjdîが属しているのは、Banû ‘Amir ibn s'asa'aの部族であり、これは、12世紀頃にカリフのアブドゥル・ムーミンによってモロッコに定住させられたバヌー・ヒラル(アラビア半島の中心にあるへジャズ地方とナジド地方のベドウィンたちの同盟)に起源をもつアラブの大部族である。

 金細工師たるアラゴンは、不可能な愛についての大いなるベドウィン伝説であるマジュヌーンの光のもとに自身の作中人物の名を刻んでおり、イスラム前の数世紀のアラビアの砂漠の宮廷詩の諸規則を用いる。アラゴンは彼に同一化し、Keïs Ibn al-Moulawahの写字の読解を通じて、社会的慣習の及ばぬところで彼が体験しているエルザへの愛を西洋に提示する:

 

ここにひとりの読者が、ライラーの愛人へとたいそう同一化したので

あの愛人のように彼はみなの前で自分の名も父親の名も失ってしまい

あの愛人のように誰もが彼を狂人を意味するマジュヌーンとしか呼びはしない

ただ彼の恋人の名をライラーと置き換えて*[25]

 

 そして彼は我われにan-Nadjdîの完全な名を我われに明かす:「彼の数多くの歌の中で我われには何も伝わっていないが、マジュヌーン・エルザあるいはアルザと呼ばれるKeïs Ibn-Amir an-Nadjdîが生涯を通じて・・・」*[26]

 このようにアラゴンは我われにan-Nadjiを紹介し、彼自ら同一化するこの老人について説明する。ラカンもまた、セミネール11巻の冒頭で、愛や、視認機能における眼差し対象や、去勢について言及しているときに、参照項としてこの作中人物を選んだ箇所で、この人物の特異さをきちんと把握していた。私にとって残る課題は、アラゴンが、自らに着想を与えan-Nadjdîの創出へと衝き動かしたこのテキストをどこで見つけたかを知ることにあった。

 

読者アラゴン

「もしもし!アドニスさん?

-はい

-Es-Salâm ‘alaïkoum !  あなたはルイ・アラゴンをご存知でしたね、彼はアラビア語を話したのですか?

-いや、しかし彼はアラビアの詩人たちを、特に“マジュヌーンとライラー”の伝説をよく読んでいたよ。テキストに戻りたまえ!

-はい、ありがとう。ただちにそうします。ma'a es-salâma !」

 『ライラーの狂人』は私を、15世紀のペルシアへと投げこむ。その際、私は、Mitra Kadivar*[27]に向けて、同業者としての感嘆に満ちた感動的な思いを禁じ得ない。私は現アフガニスタン領との境界にあって、ペルシア最大の詩人の一人を産んだジャム(現イラン領)の町に居る。その名は、ジャーミー*[28](ジャムの者)、あるいはより正確には、Abd al-Rahman ibn Ahmad Nûr al-Dîn Djâmî。このスーフィー教のシャイフ[=長老]が我われに、砂原の大いなる伝説“マジュヌーンとライラー”の最も注目すべき詩的異本のひとつをもたらしている。それはアントワーヌ・レオナール・ド・シェジーによって1806年に見事に仏訳されたのだった。外国語習得の天賦の才が、この自然科学者をアラビア、ペルシア、トルコ、ヘブライへと導いたのだ。彼は、ジャーミーの“マジュヌーンとライラー”の美しい翻訳によって1807年に賞を受けたのだった。これがたしかに -少なくともこれが我われの仮説である- ルイ・アラゴンの手中にあり(たしかに唯一の仏訳である)、an-Nadjdîなる作中人物を創造するために貢献したのだ。

 「それは技巧だとか、老いた男のその狂気の声によって彼がここで詩の中に登場することはただの芝居じみたフィクションだと言うであろう者たちに」-とアラゴンは書いている-「そして、グラナダの陥落のおよそ8年前にヘラート[=現アフガニスタン北西部の都市]でジャーミーが70才の老年にあって書き終えた“マジュヌーンとライラー”の詩が、私と数ヶ月違いの同年齢[67歳]にあったグラナダの老人[an-Nadjdî-編集部註]へとこだましていることを、レトリックとしてしか見ないであろう者たちに、またこの物語をただのフィクションとして受け取るであろう者たちに、私は何を言えばよいというのか?」*[29]

 アラゴンは、このペルシアの異本についての称賛をやめないが、一方で、彼の着想の本当の源泉は、イスラム以前のベドウィン的アラビアの伝説であると強調している。語りの結末の反響は決定的で、「生きた詩情[・・・]着想された音楽[・・・]ジャーミーの激情の錯乱」への関心を、確固として示している。キャラバンサライの四人の女と同じやり方で、アラゴンは声願する:「ジャーミー!ジャーミー!私はあなたの歌の延長でしかなかった!」*[30]

 

『エピローグ』

 私の歩みが導いた先から、私はキャラバンサライの壁と高揚を思い出すのだった。風に消されたan-Nadjdîの名は、記憶の痕跡でしかなかった。Akalat ed'dahro alayi wa charibat、時がそれを食い尽くし飲み尽くした。一人の老人が美しい詩「対旋律contre-chant」を唱えていて、そのタイトルは私に、発音から、映画で言う切り返し[contre-champ]を喚起したのだった。眼差しと鏡の機能が関わる手法ともいえよう。しかもそこには私がみなさんにひょっとすると語り聞かせるかもしれない別の物語が絡んでいる。またいつか・・・。

 

*[1] 訳註:隊商のための宿泊施設。トルコではハーン、北アフリカではフンドゥークと呼ぶこともある。

*[2] Jacques Lacan, Le Séminaire, livre XI, Les quatre concepts fondamentaux de la psychanalyse, leçon du 22 janvier 1964, ≪ L'inconscient freudien et le nôtre ≫, Paris, Seuil, 1973, p. 21-22.

*[3] Louis Aragon, Le Fou d'Elsa, Paris, NRF, 1963. Pour des raisons d'intelligibilité et de lecture, j'ai pris le parti d'une translittération unique pour les mots arabes cités et j'ai opté pour celle de Louis Aragon.

*[4] Jacques Lacan, Le Séminaire, livre XI, Les quatre concepts fondamentaux de la psychanalyse, leçon du 15 janvier 1964, p. 8.

*[5] Ibid., p. 21.

*[6] Ibid., p. 22.

*[7] Ibid

*[8] 訳註:ボアブディルはスペイン側からは「El Chico=小さな王」とあだ名されたという。

*[9] Ibid., p. 1.

*[10] Ibid., p. 73.

*[11] Ibid., p. 21.

*[12] 訳註:生没年645-688。本論文では、登場するたびに綴りが微妙に変わるので、訳文でもその変化を残しておいた。なお、伝説『マジュヌーンとライラー』の男性主人公の名もカイス(Keïs/英Qays)である。

*[13] 訳註:イスラム教以前の古代アラビアの詩人(?-550頃)。詩人ではあるが、『マジュヌーンとライラー』の詩を書いたとされているのではないことに注意されたい。

*[14] Jamel Eddine Bencheikh (Professeur, Université Paris V), ≪ Imru'l-Qays ≫, Encyclopoedia Universalis en ligne, http://www.universalis.fr/encyclopedie/imru-l-qays/

*[15] André Miquel, L'amour poème, Ed. Sinbad, 1984, p. 11.

*[16] Anvar Leïli, Le Monde des religions, N°39, 1er janvier 2010.

*[17] Ibid., p. 16.

*[18] Lahouari Ghazzali (Centre d'études et de recherches sur le monde arabe et musulman, Université Bordeaux III), Synergies - Monde arabe N°6, ≪ Libérer les miroirs de leur captivité - Regard sur le recueil Les nouvelles de Medjnoûn et Leïlâ de Qâsim Haddâd ≫, p. 135.

*[19] Ibid., p. 11.

*[20] Ibid., p. 12.

*[21] Ibid.

*[22] Ibid., p. 27.

*[23] 訳註:Amiriteという仏語は辞書に探せなかったが、英語のEmirateに対応する語と解した。これはan-Nadjdîのフルネームや部族名に含まれる語、アーミル[Amir]とも関連しているだろう。

*[24] Javier Suso Lopez, Les voix/voies du narrateur dans Le Fou d'Elsa, Universitad de Granada

http://www.ugr.es/~jsuso/publications/aragon.pdf

*[25] Ibid., p. 51.

*[26] Ibid., p. 61.

*[27] 訳註:イランの女性精神分析家。ネット上の情報に拠れば、この論文が書かれた2013年頃、当局に身柄を拘束された。

*[28] 訳註:イランの神秘主義的詩人・学者(1414-1492)。奇しくも没年はグラナダ陥落と同じ年である。

*[29] Ibid., p. 16.

*[30] Ibid., p. 420.

« ラカン『精神分析の倫理』10章再読 | トップページ | ラカンのヤスパースいじり »

ラカン」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« ラカン『精神分析の倫理』10章再読 | トップページ | ラカンのヤスパースいじり »

2021年12月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ