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2019年12月

2019年12月31日 (火)

下田、中ら『初老期鬱憂病の研究』9

 年末の新聞の書評欄で今年の名著として紹介されていた小熊英二『日本社会のしくみ』(講談社現代新書)を読んでいます。まだ読みかけですが、我々が当たり前のように考える日本の雇用形態が、国際的にみれば独特であり、わが国でも1920年ごろから1960年ごろまでに出来上がったのではないかという箇所がありました。

 日本の精神病理学におけるうつ病患者の病前性格論(代表的には笠原嘉の論)は、特に男性患者については昭和のサラリーマンを典型例と想定して、彼らは病気になる前はもともと温和で周囲との調和を重んじ、几帳面・勤勉な模範的会社人間だとされていました。近年、内海は、当時のそうした働き方では会社や上司からの庇護・見返りが無意識的に期待されまた享受されていたとも論じています。この類型は、戦中生まれまでの世代のうつ病患者には典型的でしたが、戦後生まれ(団塊の世代)以降は、その割合が、一般人口からもうつ病患者群からも減っていったと考えられていますから、時代に応じて変化していくものなのでしょうけれど、今回、『日本社会のしくみ』を読んで、雇われ人のそうした性格類型というか職場への帰属関係はさほど古いものではないと気づかされました。

 ほぼ全社員が新卒一括採用され、会社人間として周囲の和を重んじて勤勉に働いていれば、右肩上がりに昇給し、配置転換を繰り返しながら定期的に昇進していく、という雇われ方が、戦後になってようやく完成した、わが国独特の制度だということなら、そもそも会社員の「昇進うつ病」なんてものは、他国には起こりにくいでしょうし、わが国でも、そうした働き方が根付く以前には少なかっただろうと予想されます。

 そこで、このブログで何年も前に紹介しはじめて中断していた、下田・中らによる『初老期鬱憂病の研究』という昭和9年(1934年)の論文にもういちど注目してみたくなりました。というのは、そこには当時のうつ病の具体例がたくさん紹介されているんですが、自営業とか農家が多く、しかも人柄もエネルギッシュでやり手な人物が多い印象があって、のちに笠原が論じた類型とは異なる気がしていたからです。たとえば第一例はこんなふうhttp://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-e52d.htmlでした。ほか、このブログ右側の「カテゴリー」一覧から「病前性格」を選ぶと、1~8例の記事を探しやすいと思います。

 第8症例まで紹介していましたから、今回は9例目にあたります。残念ながらこれは、鬱憂病との鑑別を示すために出されたヒステリー例であり、男性会社員でもありませんから、私のいまの興味にドンピシャではないけれど、まあ、順番に紹介していけば、おいおいそういう例も登場するでしょう。

 

初老期鬱憂症と誤診せられたるヒステリー性神経症 

症例9 中○ハ○ 42歳、女性、商家の妻。

主訴 睡眠障碍、種々の心気的訴。

家族歴(略)及性格 過敏、熱中性、嫉妬、偏頗(へんぱ)、内気、男勝り、冷淡、競争心

既往歴 小児期順調、手芸に秀で、小学卒業後家庭的に厳格に養育せらる、算術を好まず。20歳にして結婚五男二女を挙ぐ。昭和2年(36歳)家庭的の心痛の結果ヒステリー性鬱憂状態となり4月より5ヶ月間当科に入院治癒したれど、その後時々睡眠障碍を訴うるに至る、第1回発作前までは不眠など全く之を知らず、順次妊娠して分娩、その間月経無き程なりき、然るに退院後直ちに妊娠せるを以て之を人工的に中絶す、その後5回人工流産を行い、その度毎に身体の衰弱を来せる如く漸次月経困難症を現し月経時には不眠、刺戟性、頭痛等を訴うるに至る、一昨年(40歳)4月薬品流産をなしてより考慮困難、歩行障碍、家事不能に陥り、夜12時過ぐれば全く不眠、物品の処理を苦痛に感じ、面会を厭い、家事の面倒を見るを嫌い、気分は「ぽかぽか」して健忘的となり、焦燥す。昨年の1月、4ヶ月にして又々人工流産をなし、その後子宮の悪化を来し、月経時に分娩時の如き苦痛あり、引き続き睡眠障碍を来し子宮疾患を心気的に苦慮し、胸部の圧迫感、右側偏頭痛、左耳の充塞感、右膝蓋関節の不安全感等々。5月自宅にて睡眠療法を行いやや良好、海水浴に行き再び不眠となり、海水浴場にて頭を日に照らされたるにより悪化せるものと信じ苦悶す。不眠、頭を按摩せざるべからず、自殺念慮、歯痛、上衝、四肢冷感、精神病恐怖症、人の病気を思い出し自分の病気と似ているとて恐怖し「歯を抜いて死んだ人があるから自分も死ぬ」等言い、鼻の根元が「コツコツ」する或いは耳の後ろが「バッ」と塞がる、「後頭部より下に物が降りて来るような気がする」その他弱視感、胸部圧迫感など訴多し10月初め再び睡眠療法を始めたれど途中嘔吐、食欲不振起り益々身体の衰弱を来す。

 昭和8123日遂に当科に入院。精神的に甚だ多訴、浅眠(熟眠感なし、「うとうと」する)頭重特に前頭及び後頭部、右下肢の牽引感、右下腹部の不快感、歩行時子宮に不快感、食思不振、鬱憂性不機嫌(自殺念慮)、考慮渋滞その他の心気的念慮。(略)

経過 (略)有らゆる睡眠剤、鎮静剤無効、少しく平静となることあるも直ちに逆転す、遂に不穏病棟に監禁殆ど医薬を廃し、ギネロゲン0.5、アレブシン2粒のみを与う、不眠不食身体衰弱せるを以って10%葡萄糖300.0インシュリン0.5(トロント)約2週間、身体的に恢復したるもなお不眠を訴えしが漸次医薬に対する執着去りしものの如く訴え減少す、不干渉の儘放置、監禁30日間その後約1週間後退院可能に迄恢復、退院後間もなく常態に復せりという。 

 (略)患者の性格は寧ろ非社交的、過敏にして「シツオイード」に近く、熱中性男勝りなどの性格的因子は患者の性格の偏頗、内気、冷淡、競争心強し等の二次的現象として説明しうること(略)症候中沈鬱は過敏の二次的現象にして一次的沈鬱ならず、直ちに「サメザメ」と誇張的に涕泣するところ鬱憂症者の厳粛なる一次的沈鬱と区別し得(略)。

 

 考えさせられるところの多い症例です。これほどの人工中絶歴は今なら夫からの虐待レベルとされるでしょうか。しかも「不干渉の儘放置」して回復したというのも面白いところです。深く掘り下げるばかりが精神療法ではないからでしょう。むしろ夫への家族心理教育とか家族関係への介入の方が効果ありそうでもあります。

参考文献:日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学 (講談社現代新書) 小熊 英二

2019年12月19日 (木)

ラカンのヤスパースいじり

 ドイツの精神病理学者ヤスパースは、他者の精神現象の生起を学問的に扱うに当たって、相手の身になってわかることを「了解Verstehen」と呼び、一方で、客観的な因果関係などを扱うことを「説明」と呼んでいます。了解できないときは説明することしかできない、という考え方は、我が国でも精神病理学でよく知られた考え方です。なお、「了解」と訳されるこの「Verstehen」というドイツ語は、ごく日常的に「わかる」「理解する」という意味で用いられる単語でもあります。

 フランスの精神分析家ラカンは、1950年代の講義(セミネール)でこのヤスパースの理論に言及し、精神科医が患者の症状を了解できたと思っても実は間違った理解に陥ってしまうことがあると警鐘を鳴らしています。なお、ヤスパースの「了解」概念の訳語として、フランス語でも、「わかる」「理解する」という意味の日常語、「comprendre」が用いられています。

 ラカンにとってヤスパースはよほど気になる大家であったのか、1970年代に至っても、セミネール11巻の後書きでヤスパースの了解概念を踏まえて次のように書いています。

「ステクリチュール(筆者注:ラカンの造語で、この文脈では、漢字仮名交じりの日本語の書き言葉を指す)をみなさんは了解しない。それでいいのだ。そのことは、みなさんにとって、このものを説明する理由になるだろうから」。(岩波版邦訳、379頁を改訳。1973年1月1日の日付が記されている)

 この、「皆さんがわからないのであれば皆さん自身が説明すればよい」というヤスパースをもじった屁理屈をラカンはちょっと気に入ったらしく、同時期のセミネールで、これと自虐を絡めた次のような冗談を言って聴衆の笑いを誘っています。なお、この発言の前提として、ラカンが書いた本や論文はわからない、理解できない、という評判が立っているという事実があります。

「あなた方は私の書物(エクリ)を了解するには及びません。了解できないなら、それは結構なことです、それがあなた方にとっては、ちょうどそれらを説明するための機会をもたらすでしょう」(『アンコール』藤田・片山訳、講談社62頁を改訳。1973年1月9日)

 このセミネールは聴衆によってテープ録音されており、その音声ファイルはネット上に無料で転がっているので聞いてみると、ここで聴衆には笑いが起こっていることがわかります。聴衆にもここがヤスパースを念頭に置いていることはすぐにわかったがゆえの笑いだろうと思われます。ヤスパースは主に精神病患者の精神現象について了解不能と論じていますから、ここでラカンは、自らの論文の書き方を精神病的だと述べているということにもなるわけですが、一瞬で聴衆にそこまで伝わったのかどうかまではわかりません。

 これを踏まえると、11巻の後書きでは、ラカンが、日本語は精神病的だと述べているということにもなりますね。これもラカンならありえないことではないように思えます。

参考文献:アンコール (講談社選書メチエ) (日本語) 単行本(ソフトカバー) – 2019/4/12

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