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2020年4月 8日 (水)

フランスの記事から、コロナウイルスの襲来と精神科の人権配慮など


 たまたま見つけたフランスのブログ記事を訳してみました。コロナウイルスによって普段の精神科臨床ができなくなることを、反精神医学の襲来になぞらえているのが面白いし考えさせられるところが多いと思います。看護師さん目線なのでしょうか、フランスの精神病院の普段の病棟運営の様子もうかがえますし新自由主義嫌いなところも共感できます。
https://blogs.mediapart.fr/mathieu-bellahsen/blog/290320/psychiatrie-confinee-et-nouvelle-anti-psychiatrie-covidienne
 この筆者が嘆いている、covidのせいで患者さんとの握手がなくなり、職員と患者の食事の場の共有もなくなったという現状も、筆者がおそれている、精神科患者が心肺蘇生してもらえないというディストピア的状況も、日本ではコロナウイルス前からすでに普段通りの状況なんですが、筆者がそれを知ったらどう思うでしょう。
Psychiatrie confinée et nouvelle anti-psychiatrie covidienne
“封鎖された精神医学”と、covid由来の新たな反精神医学
ATHIEU BELLAHSEN
2020年3月29日
 ほぼ15日前から、精神医学チーム、患者とその家族は、住民の封鎖によって課された新しい状況に適応しなければならなかった。ウイルスの伝染の可能性から、ケアの場に厳格なルールが課され、それは通常精神的なケアを可能にすることに逆行している。
 2週間来、新型の反精神医学が、“封鎖された精神医学”のルールを命じている。このcovid由来の反精神医学は、精神科的ケアや心理的ケアを提供することさえ困難にしている。しかし、何が起こっているのか現場で読み取り、何らかの自主的活動を共有することこそ、この封鎖が新たな分断を招かないために必要である。
反精神医学の進展
 我々が他の場所で詳述したように、反精神医学の概念は社会の基調にあわせて変動する。
 60年代において、最初の反精神医学は、19世紀に構築されて20世紀初頭に発展した規律訓練的な病院精神医学への、ラディカルな批判をもたらした。この政治的批判は、社会の全面的解放の実践と関連したものである。これは、まだ精神医学から神経学を区別していなかった最初の神経精神医学の医療モデルに、疑問を投げかけた。
 1980年代には、この反精神医学の言説は、患者の均質的なグループを管理する新たな実践や、負担コストの合理化(したがって削減)に結びついた。この管理的な反精神医学は、以前の一連の議論から重要な言説を取り上げてはいるが、それはもはや最も重要なケア実践などではなく、むしろ上手な管理の実践であり、したがって、疎外の克服という口実でコストを削減することであった。
 2000年代以降、メンタルヘルスは、精神医学の分野を再編成する概念として幅をきかせている。アンチスティグマのさまざまな実践は、精神医学を解放することを、古典的な医学モデルと類似のものとみることになってしまった。精神疾患は「他の病気と同じような病気」になるべきである。その後、包含inclusionの概念が到来し、肯定的な用語として紹介されることで、排除exclusionのスティグマをひっくり返し、アンチスティグマ[という概念]に取って代わるだろう。包含というのは罠概念であり、新自由主義社会において「内からの排除」に力を貸すものである。
 2014年に、自閉症の分野を出発点として、ロリアン・ベラセンが、医療モデルに基づいた、より正確には脳に基づいた、新たな反精神医学を暴き出した。当時社会分野で流行中の「神経」科学を介して、「psy」は「neuro」に道を譲り、消去される。「神経発達」による障害という仮定が、政治的覇権に基づいたある種の実践を正当化する。この覇権を我々は、ピエール・ダルドー、クリスチャン・ラヴァル、フェラ・タイラン、ジャン・フランソワ・ビソネットと共に、神経政治neuropolitiqueと呼ぶことにしようと考えている。
 この仕事を続けるなかで、ピエール・ダルドーは現代の反精神医学を、「総合的かつ排他的な医学、排除主義的な医学」と特徴づけている。「しかもこれは、単なる振り子の揺り戻しだとか、精神科医たちの「反精神医学」の後に利用者たちの「反-反精神医学」が続いているといったことではない。この新たな反精神医学で我々は、科学的客観性への真の狂信に由来する、文字通り真の「精神科嫌悪psychophobie」に関わっている」。
 2020年3月上旬に出版された「精神医学の反乱」で我々は、ラシェル・クネーベルとロリアン・ベラセンと共にこの仕事をもう一度取り上げ、新たな反精神医学2.0は次に挙げるものの寄せ集めだという仮説を立てている。
- 以前からある、新自由主義社会に対応する管理的な反精神医学、
- 診断と選別の医療モデルを出発点に(つまり[かつての反精神医学のように]それらに対抗せず)、精神医学から解放される、精神科嫌悪的な反精神医学、
- 脳科学、大量データ(big data)、デジタル技術に由来する新たな神経精神医学。
 しかし、新たな反精神医学のこれらの諸層の内部にも、さまざまな程度にラディカルな実践と闘争が出現する可能性がある。神経多様性のなかにある多くの流れをみてもわかるだろう:神経多様性は、時には社会の制度全体に疑問を投げかけるために役立つこともあるが(CLE autisme)、時には「補償」を甘受して、大勢を占める社会規範に迎合してしまう。

“封鎖された精神医学”
 同じ時にも緊縮財政と保健システム破壊の政策は続いている。闘争は、ケアのすべての部門で広がっている:精神医学、EHPAD[=宿泊型老人福祉施設]、救急部、そして公立病院全体。
 3月の第2週、公権力はCOVID 19パンデミックに直面していくつかの措置をとり始めている。すでに公共政策によって仕組まれてきた不足状態が、緊縮運営によって強化されており、それを背景に、政治指導者たちの好戦的ないくつもの演説が、その場しのぎの約束と一体となっている。誤った犯罪的な政策によって何年ものあいだ破壊されてきたケアシステムにウイルスが拡散するという致命的なリスクに備えて、数日後、精神医学は封鎖される。
 “封鎖された精神医学”の日々の実践では、COVID手順のせいで、精神医学と反精神医学の埋もれた諸層が再活性化されてくる。なにしろ通常行われていることの反対を行うことになるからだ。コロナウイルス由来の一連の逆転は、緊急の状況のなかで行われている。それらの逆転は必要なことではあるが、現在とその後に向けて問いを提起している。
 かくして私は、私が実施している一般精神医学の部門で日常的に何が起こっているかを、当然ながら主観的なやり方で、報告したいと思う。

1 軽視から最初の措置へ
 封鎖の前の数週間、チームの大半も我々も、我々の病院から数キロ離れた、オアーズ近郊の部門で起こっている事態をまだ軽視している。15日前からひとりの妄想患者が、我々から感染させられたくないという理由でマスクを着用している。我々はそれを彼の妄想的な不安と関連づける・・・我々が間違っている。彼はただ我々に先んじているだけだ。
 その後、一部の同僚は、学校の休暇が終わっても戻ってこない。オアーズへ通学している彼らの子供たちは、この最初の封鎖から学校に戻らない。イタリアとオアーズからの劇的な証言が徐々に拡散し、[それまでの我々の]否認が明らかにされていく。共和国大統領が3月12日(木)に演説し、彼の同僚がそれに続く。
 3月16日(月)午前9時から、我々は初めての屋外チームミーティングを、防護的な[=接触を避けた?]仕草でもって行なっている。我々は部門全体、つまり外来ユニット(デイホスピタル、短時間治療受付センター、医療心理センター)と入院ユニットを再編成する。
 アニエールでは、必要な身体的チェック、予約なしの電話面接、定期的な家庭訪問と自主的活動を重視することに決め、不安や発作や入院リスクを未然に防ごうとする。生命線は、どんな形であってもつながりの連続性を維持することにある。毎朝、1時間、我々は前日に行われた全てのことを見直し、全ユニットの患者のために行うべき全てのことを確認する。オンライングループを含むケア集団(患者とケア提供者)の提案により、自主的活動が現れてきた。夕方と週末の定時電話連絡、EHPAD[=宿泊型介護老人施設]の同僚たちへの支援、避難所に封鎖された路上生活者への支援。入院ユニットと外来ユニットのケア提供者の間の1日数回の電話連絡ははるかに激しく、かつ気さくに行われている。身体的、精神的な生死に関わる課題がある以上、誰もその仕事を厭わない。
 入院ユニット側では、[普段なら]「ケア提供者-利用者」ミーティングの実践が集団生活のまとめ役となり、環境について話題にし対処するものだが、我々は、私たちの習慣とは根本的に異なる措置を講じることを患者に知らせる。1週間で、過去数年間のすべての成果が再検討され、covid由来の反精神医学のルールを尊重するために中止される:サービス部門の入り口のドアを閉鎖し(ユニットの入り口のドアは7年以上開放されていた)、集団の時間を中止し、施設内の治療活動を中止、施設の専門家と患者、看護学生の共通のカフェテリアを中止にする。つながりを作りケアの場の疎外感に対処することに貢献しているものの全てが中断される。我々は、ユニットの全面的な封鎖によって不可能になる前に、最小限の往来を保つために公園への同伴外出を編成する。
 多くの人と同様に、我々はウイルスの飛沫をすり抜けるだろうと思っている。そして最初のケースが我々のユニットに到着する。そして、その後まもなくさらに3症例が。入り口のドアを閉鎖するだけでなく、一人一人が自室に封鎖されていなくてはならない。病的なひきこもりの人々は、問題なくそれに順応できる(我々はいずれその精神的帰結に苦しむだろうと断言しておこう)。他の人々は、不安に圧倒されて、通常それには目をつむり、ケア提供者に気を配って、我々の調子はどうかと尋ねてくる。
 外出許可は中止され、近親者の訪問は延期される。精神科病院はひきこもる。幸いなことに、1901年の協会法はまだ私たちの施設に存在している。もはや誰も金銭を引き出し食料を購入するために施設を離れることができなくなると、治療クラブが毎日の購入の役を引き継ぐ。封鎖された連帯が組織される。Wi-Fiは無料アクセスになり、エヴァン法違反が公式化される:患者はケア提供者と同伴で室内で喫煙できる。ある患者はこうも言った、「この封鎖はいいね、ホテルのようだよ。私たちの部屋に朝食を運んでくるし、昼夕もそうさ。看護者はとてもいいし、部屋で喫煙もできる・・・同伴するだね!」。
 そしてある種の態度を取ることが、こうした選択に際して、我々の支えとなるだろう。自由剥奪のさまざまな場[=矯正施設など?]の総監察官の態度と同じことだ。この一連の出来事で、我々が持っているのは非常に少ない資材と多くの未知のことがら、少しの知識と多くの不安なのだ。

2 COVID到着:着替えたまえ!
 病院では、衣類の形や色に応じて、その人の身分上の地位の見当を付けることができる。精神医学では、規律訓練的な精神科権力への異議申し立てが、服装革命によっても行われてきた。ケア提供者の仕事着であろうと患者のパジャマであろうと、「上着が落ちる」のに何年もかかったことだろう。挫かれぼろぼろになった生身の人間たちとの遭遇に備えることを目的に、自己と他者との間に精神的によりうまく障壁を置くために、物理的に身につけることができる物質的障壁。これを脱ぎ捨てるために何年も。精神的感染への意識的または無意識的な恐怖。
 古き精神医学権力のこれらの形態(COVIDを待たずして、すでに少しずつ多くの場所に再来していた)が、我々がつい先ほど非難したもの全てを引き連れて再浮上する:人間的接触の拒否。これは握手、笑顔、感情表現の動作、食事どきの日常生活の共有、活動、非公式の時間、などの拒否として、いくつもの実践のなかに反映される。
 コロナウイルスは、白衣を、そして予防帽、マスク、予防衣を、復活させる。そして我々はそれらの数が不十分だと不平を言い始める。数日前には想像もつかない。
 社会的距離を取るという措置は、通常、患者との対峙を妨げるためにケア提供者が取る防衛的措置であるが、今や絶対に必要なこととなった。我々は、手持ちのわずかな資材でそれを綿密に尊重している。ほんの数ヶ月前、精神医学の春の総会で、フランス南部のチームは、彼らの同僚の数名が、衛生上の理由という彼らの軽蔑を隠すマスクでもって、患者との握手を拒否した経緯を報告した。そしていま、我々はアルコールジェルを求めている。数週間前には想像もつかない。
 我々は治療食の際に患者と同じ食器類で食べ、病院食があまり美味そうではなくても同じ大皿で同じ食事を共有している。今やコロナウイルス由来の逆転が、健康を維持するために真逆の措置を命じている。数ヶ月前には想像もつかない。
 しかもコロナウイルスの場合は、感染への恐怖もまた事態を一変させる。通常、ケア提供者たちは、精神疾患、狂気、重度の心的代償不全が[自らに]精神的に感染することを恐れることがある。彼らがこうしたことに接して働くことを選択したならば、それには一般にそれなりの理由があり、その一部の人々は障壁のこちら側にいることで自身を安心させる必要があるのかもしれない。ケア提供者たちは、彼らの生活歴と彼ら自身の防衛機制に応じて、こうした激しい不安にとらわれた人と対峙することを恐れるのかもしれない。そうした不安はケア提供者の心的装置に反映するので、チームと制度の心的装置に跳ね返ってくる。そしてこれが動揺をもたらし、さらにはそうした動揺からこそ、[ケアの]本当の仕事が生まれていくだろう。
 しかしこうしたことがあるのも、まだ心的装置があり、機械が精神科ケアを掌握しておらず、精神科嫌悪が科学技術礼賛と結びついてしまっていないからである。それはまた、機械装置だけでなく心的なものがあるからである。すなわち、考えるべき意味があり、了解すべき意味、すべての人にとって刻まれるべき意味があるからである。機械が感染を恐れることなどあるだろうか?

3 感染への恐怖が事態を一変するとき
 コロナウイルス由来のこの新規の逆転では、いまやケア提供者たちが、患者に感染させることを恐れている。患者の一部は体力低下し虚弱なのだ。感染はこの場合、身体的な、ウイルスの感染である。しかし、この感染は精神医学制度における精神的な仕事の基盤の一つを、身体面から、明るみに出す。すなわちケア提供者たちと施設が、彼らのグループ病理を患者に感染させることがありうるということだ。これはジャン・ウリが病理形成術pathoplastieと呼んだものである:ケア施設が、それ自身の病理を分泌する。
 精神医学において、「患者をケアするためにはケア提供者をケアしなければならない[=患者を看護するためには看護者を看護しなければならない]」という格言は、制度的精神療法の戒めの一つである。多くのケア提供者が、防護と検査の不足のせいでウイルスを広めてしまったこの時代には、耳の痛いフレーズである。
 そして、精神科ケアのサービス部門が本当に治療的であるためには、そして真に病人をケアするためには、精神医学で以下に挙げるいくつもの特殊なマスクを着けている院内病理に対処しなくてはならない:権力、疎外的階級制、主体性剥奪のプロセス、隔離、そして病人と同じ人間性を共有していることの否認といったマスクである。
 感染不安のこの逆転が、現時点で常にケア提供者を悩ませている。精神医学で、EHPAD[=宿泊型老人福祉施設]で、病院で。我々が知る限り、最も脆弱な人びと、併発症を持つ人々が、COVIDの重症型によってより強い影響を受けるのだ。
 精神科患者に対する我々の感染不安は二重である:個人的不安と社会的不安。個人的にというのは、多くの人が身体的に不健康だからである。精神的なカタストロフは身体との関係でも体験されるため、それを精神医学的ケアの日常において配慮することが重要なのである。
 次に[=社会的には]、アビー・ワールブルクが「生き残った形態」と呼ぶものが再浮上する怖れがある。我々の集団的歴史に刻まれ、しばしば我々の公的な歴史から削除されるこれらの形態:我々の社会の、多かれ少なかれ意識的な優生思想的衝動による、精神科の病人の新たな大殺戮への恐怖。
 精神病の人や妄想的な人、自殺志向をもつ人の生が、もっと価値が高いとみなされる生と競合関係に置かれる恐怖。何十年も前にヨーロッパですでに起こったことへの恐怖。同じく「成功した人生」なるものや「メンタル不調のコスト」についての現代の言説が産み出すかもしれないものへの恐怖。このコストとは、競争の激しい労働界への社会復帰という、功利主義的なリハビリテーションの究極目標を、達成できない者たちのコストのことである。アンチスティグマという罠が、スティグマを剥がされた者たちを荒々しく挟み付けるのではないかという不安:“精神疾患は、メンタルヘルスを至上とする精神医学教科書のなかでは他の病気と同じような慢性疾患なのではないか?ところで慢性疾患というなら併発症の同義語となってしまう・・・そして併発症は心肺蘇生[人工呼吸]から除外される一因となり得る”。これが根拠のない怖れの段階にとどまりつづけることを願おう。

4 来たるべきカタストロフに備える
 来たるべき波に立ち向かうために、病院では、我々の部門のユニットを、病理の程度、つまり身体的な病理(COVID疑い、COVID確定・・・)の程度によるユニットでもって再編成する。選別が再来する。そこから想像されるものも?
 具体的には、医療設備もなく隔絶された我々の田舎精神病院に、最初のCOVIDユニットが緊急に設置された。そして、そこへ収容されてきた人々の死を看取るという脳裏に浮かぶイメージが、我々の互いの目から目へと、資材の不足のため、十分に高度な非精神科医療スキルの欠如のため、跋扈し始めている。早くも、我々の患者四名がこのユニットに居て、そのうちの一人の体調はすぐれない。彼の検査値のいくつかが不良だが、救急隊は彼を総合病院に移すことを拒否する。もはや近隣の総合病院のCOVIDユニットに[空き]ベッドはほとんどなく、心肺蘇生[人工呼吸]の余地はもはやない。結局、彼は好転する。しかし我々の患者の一人に心肺蘇生[人工呼吸]が必要になったとしたら?
 現下の、そして来たるべきこのカタストロフの状況に直面して、我々と「共通の経営母体」にある総合病院の施設長とケア提供者たちが、精神科患者のためのこのCOVIDユニットを、そこから40キロ離れた他県にある彼らの総合病院内に移送することに直ちに同意する。この具体的な連帯は、優生思想が復活するという恐怖を緩和してくれる。そして、この時点でこれは重大なことである。絶対に必須のことでもある。
 しかし、全てのサービス部門で来たるべき飽和状態が論じられており、生きるであろう者たちと死ぬであろう者たちの選別が、少しずつ差し迫っている。
 このような不可能な選択は、ケア提供者としての我々の選択ではないことに念を押しておこう。たとえ終局においてはケア提供者こそがその選択を負うのだとしても。社会の究極のオーガナイザーは競争と金銭、金融であるという理念がますます受け入れられつつあるこのとき、我々は市民として、この選択枠に対する集団的な責任を負わねばならない。
 [COVID以前から]この種の最終選択(誰が生き、誰を死に委ねるか)を支配してきたのは、あらゆる改革とともに何年も前から熟してきた新自由主義的な枠組みである。平等、普遍性、健康を促進するこれらの改革のポジティブな言葉遣い、コミュニケーション、物言いの諸要素がもつ本当の現実がまさにこれ[=生死の選択]なのだ。これらの言葉[=平等、普遍性、健康]の本当の現実は、管理的な新言語で着飾ったこれらの選択の帰結としての死者たちである。社会の新自由主義的進展と、贅沢と軽蔑の服を身に着けた者たち以外に、こうした不可能な、有害な、残酷な選択に対して誰が責任を負うべきというのだろうか?

5 いくつかの教訓
 この危機から我々が引き出す一般的な教訓(空間と時間、労働、金銭などとの関係や社会制度を統合的に再考する必要性)とは別に、すでにいくつかの実践への道筋が開かれている。そうした道筋の出現を集団として支援していくことが我々に任されている。
 ケアの均質化が、集団的公衆衛生と個人の健康を保護するために復権するとしても、さまざまな実践の不均質性の維持と、そうした実践を基礎づけるさまざまな環境の不均質性の維持が、いつも[課題として]ありつづける。

1)仮想は現実的な支えなしには実在しない
 「コロナウイルス由来の」逆転のなかで、我々がまさしくもはや何も生きて体験しない(あるいはすぐ目の前の肉体と魂からほとんど何も生きて体験しない)とき、我々は自己と他者たちとの別の様態でのつながりを、駄目にならないために、見出さなくてはならない。
 精神医学では、デジタル通信技術と電子医学の時代にこの[COVIDの]試練を生きることが教訓を与えてくれる:科学技術は、身体的な本当の人間的つながりが前もって実在しない場合にはたいして役に立たない。我々はこれを、我々が創り出してきた無線での仮想的な社会的つながりの新たないくつもの空間全てに見ることができる。
 デジタル通信技術による「脱物質化」が想定されているが、それはデータセンターの巨大な倉庫に隠された過剰な物質化なしには実在しない。データと全く同様に、人間的つながりという目に見えないものも、どこかに物質化する。
2)物理的な封鎖の義務と想像力の移動の自由
 2週間来、我々の集団会合の時間はほとんど同じだが、もはや同じ物理的な空間を共有して行われてはいない。我々の精神医学部門では、radio sans nomがつながり、我々の頭の中で分断されていた場を開け放つ。封鎖の時代に、この開け放ちは、織り上げられてきた以前の社会的つながりの全て、友愛、共有と交換のつながりの全てを背景として行われている。これはつながりの脱物質化ではなくて、むしろつながりの新規の物質性、変更された物質性である。

暫定的な結論:covid由来の反精神医学は、襲来した反精神医学である
 他のタイプの反精神医学とは異なり、この反精神医学は選択されたものではない。これは老若男女に襲来した。社会的距離と封鎖のルールが我々に課される。covid由来の反精神医学は、我々が精神医学において治療的でありうるとみなすもの全てを、後戻りして見直すことを強いている。
 この反精神医学は、我々全員がカタストロフを共有するこの時点でさまざまな逆転を生んでいる。そしておそらくこの共有と、出現してくる新しい連帯から、我々は今後、大混乱のただなかに、新しいつながりを創出することができるだろう。精神医学はさまざまなカタストロフに対して敏感である。そこでは最悪と最良が隣り合っている。[マクロン政権の?]2期目に向けて軸足を変えることが、集団として我々に任されている。

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