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2021年1月22日 (金)

ラカン『精神病』1章再々読

 この第1章についてはすでに一度取り上げました(ラカン『精神病』1章再読: フロイトの不思議のメモ帳 (cocolog-nifty.com))が、必要に迫られてラカン『精神病』をはじめから読み返すと、またまた翻訳が気になる箇所がでてきます。私の場合、この本に出会ってはじめのうちはラカン独特の概念が登場するとその付近を原書にあたりながら読むというふうでしたが、何度も読み返すなか、自分の精神医学全般の知識も広がっていくにつれ、それ以外の部分にも興味が広がっていき原書にあたってみる範囲も広がってきました。特にこのセミネールでは、フランス流の症候学やパラノイア疾患概念についての興味も増すにつれて、どこもかしこも重要箇所に思えるようになってきました。

 今回まず取り上げるのは以下の下線を付けた箇所です。

 フランスでは、パラノイアという語は、ずいぶん遅れて -かれこれ五十年にもなるでしょうか- 疾病論に取り入れられたのですが、その当時は根本的に異なるものを指していました。ジャック・ラカンとかいう人が学位論文によって小さなサークルに、しかも意見を同じくする小さなサークルの内部に、考え方の大きな混乱を引き起こそうとし、その結果今日ではパラノイアについて以前のような言い方はされなくなりました。しかし少なくともそれまではパラノイアの人達といえば、意地悪な人、不寛容な人、不機嫌屋、高慢ちき、不信、過敏な人、自己尊大な人のことでした。これらの特徴が、パラノイアの土台となっていました。つまり、パラノイア的な人が極端にパラノイア的になったとき、彼は妄想するに至るというわけです。それは、概念というよりもむしろ臨床的印象、それも大変微妙な臨床的印象が問題だったのです。
 私は何も誇張しているわけではありません。『パラノイア体質(Constitution paranoïaque)』というジェニル・ペランの著書がすでに流布していたというのがフランスの大体の状況でした。(岩波上巻6頁)

 上の引用に下線を付した箇所は、些細なようでもパラノイア概念を考えると重大な変更が必要と思います。ほか、大意に影響しない部分もいくつか手を入れて、以下のように提案します。

 フランスでは、パラノイアという語は、ずいぶん遅れて -およそ五十年かけて- 疾病分類学に取り入れられたのですが、その当時は根本的に異なるものを指していました。ジャック・ラカンとかいう人が学位論文によって考え方の大きな混乱を引き起こそうとし、それは小さなサークルに、しかも意見を同じくする小さなサークルの内部にとどまりましたが、その結果今日ではパラノイア者たちについて以前のような言い方はされなくなりました。しかし少なくともそれまではパラノイアの人達といえば、意地悪な人、不寛容な人、不機嫌屋、高慢ちき、不信、過敏な人、自己尊大な人のことでした。これらの特徴が、パラノイアの土台となっていました。つまり、パラノイア的な人が極端にパラノイア的になったとき、彼は妄想するに至るというわけです。それは、概念というよりもむしろ臨床的印象、それも大変微妙な臨床的印象が問題だったのです。
 私は何も誇張しているわけではありません。『パラノイア体質(Constitution paranoïaque)』というジェニル・ペランの著書がすでに流布していたころのフランスの大体の状況はこうでした。(私案)

 次も本当に細かいところですが、私には大きな違いと思います。

心因論とは精神科の対象の中に、この有名な了解関連を導入することだと考えられています。(岩波上巻9頁)

心因論とは精神科の対象の中に、この有名な了解関連を導入することだと考えられています。(私案)

 次は、自然学という語はphysiqueの訳語のように思われるので変えてみるのと、あとは大意は変わらないのですが構文的な訂正です。

 人間心理について語るならば、ヴォルテールが自然学(博物学)について語ったことに言及しなくてはなりません。ヴォルテールは、自然学はそれほど自然ではない、と言っていますが、人間心理はむしろ反自然なものであると言わねばなりません。(岩波上巻10頁)

 人間心理について語るならば、ヴォルテールが自然誌(博物学)について語ったことに言及しなくてはなりません。すなわち、それはそれほど自然ではない、それはむしろ反自然なものであると言わねばなりません。(私案)

 次の箇所は、今回扱う中で一番重要と思います。

 たとえば彼が通りで赤い車に出会ったとすると、 ―車というものは自然な対象ではありません― こんな時に赤い車が通るなんて何かあるな、と彼は言うのです。

 この妄想着想について見てみましょう。この車には何か意味があるのです。しかし患者は大抵の場合、それが何であるかを正確に述べることはできません。それは、いいことなのだろうか、恐ろしいことなのだろうか、ともかくその車がそこにあることは、きっと何かあるのだ、と言うのです。こういった現象について、それがいかに未分化なものでも、私達は全く異なる三つの見解を持つことができます。

 まず認知障害という角度から考察することができます。(岩波上巻13頁)

 患者が赤い車を見て「何かある」と思うという症状は、ふつうの(ドイツ精神医学の流れを汲んだ)用語法では、意味妄想とか妄想知覚といわれるでしょうが、妄想着想とは呼ばれません。妄想着想とは、知覚というきっかけを伴わずに生じる思いつきのことです。原語はintuition deliranteですから妄想直感と訳すべきで、これはフランス独特の用語のようです。この語を含め、フランス語には、妄想着想とか妄想知覚にぴったり対応する精神医学用語が無いようです。それと、「何かある」という箇所は原文ではpourが使われているのでそのニュアンスを補ってみます。

たとえば彼が通りで赤い車に出会ったとすると、 ―車というものは自然な対象ではありません― こんな時に赤い車が通るなんて何かわけがあるな、と彼は言うのです。

 この妄想直感について見てみましょう。この車には何か意味があるのです。しかし患者は大抵の場合、それが何であるかを正確に述べることはできません。それは、いいことなのだろうか、恐ろしいことなのだろうか、ともかくその車がそこにあることは、きっと何かわけがあるのだ、と言うのです。こういった現象について、それがいかに未分化なものでも、私達は全く異なる三つの見解を持つことができます。

 まず知覚障害という角度から考察することができます。(私案)

 なお、二段落目の「意味」は原文では「significationシニフィカシオン」です。私はこれはつねに「意味効果」という訳語で押し通すのが良いと思っています。

 最後は、2章で論じられる内容(要改訳、次回紹介します)と密接な関係がある訂正箇所です。

言語幻覚が現実界の中に現われる時、それは「基礎的現象」の根本的な特徴である現実という感情を伴って現われるのですが、この時主体は文字通り、その自我によって話すのです。それはあたかも第三者とか黒幕とかが語り、行動を注釈するかのようになります。(岩波上巻21頁)

 ここで「黒幕」と訳されているのは原書ではdoublureなので、替え玉とか代役のことです。ここでは、自分自身の声が聞こえることをいっているのではないかと思います。次章に関連箇所が出てきます。

言語幻覚が現実界の中に現われる時、それは「基礎的現象」の根本的な特徴である現実という感情を伴って現われるのですが、この時主体は文字通り、その自我によって話すのです。それはあたかも第三者とか代役とかが語り、行動を注釈するかのようになります。(私案)

 今回はここまでにします。

精神病〈上〉
ジャック ラカン (著), ジャック・アラン ミレール (編集), 小出 浩之 (翻訳), 川津 芳照 (翻訳), 鈴木 国文 (翻訳), 笠原 嘉 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (1987/03)

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