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2021年1月 5日 (火)

シュナイダー『臨床精神病理学序説』2

 ふたつ前の記事で書いたように、この訳書の「妄想」の項がいかに原書から大きくかけ離れているか、ちょっと紹介してみましょう。原文にない箇所はとりあえず青文字にしておきますが、ほとんどが同じシュナイダーの主著(『新版 臨床精神病理学』針間博彦訳、文光堂)から勝手に借用、挿入された箇所です。

 妄想の発生はすべて感情や欲動や、ある種の人格を有する者の内外の体験から、了解し得るものであるとする学者が多い。しかしわれわれはヤスパースやグルーレに従い、真正妄想はかかる了解の出来る妄想様思想から区別さるべきであると信ずる。真正妄想は一次的なものであって、他の体験から導くことのできないものである。

 妄想には妄想知覚と妄想着想の二つの形がある。

 妄想知覚。これは元来正常な知覚に特別の意味が加わり、特に当人に深い関係が付けられる形の妄想である。たとえば道に足袋が落ちているのを見ると、これは自分がつけ狙われるのであると意味付け、街で二人の人が話をしていると、直ちに自分のことを話しているのだと考え、巡査がいると自分が捜索されているという意味にとる。このように、いわれもないのに関係を付けることが本質的なものである。これに反しいわれのある関係付け、たとえば不安とか邪推とかの一定の気分を基にするものは、一次的妄想とは異なるものである、逮捕されるという不安のある者は、階段を昇って来る人を皆警官ではないかと思う。かかる妄想様反応は畢竟我々に了解出来るものであって、妄想知覚とは異なるものである。ここに精神分裂病と異常反応との絶対的の区別がある。ゆえに妄想知覚は精神分裂病の診断に甚だ大切である。しかし実際には必ずしも上の例のごとく直ぐそうと判別がつくとは限らない(以上、主著の邦訳93頁を借用か)。

 人物誤認は妄想知覚のことがある。人物誤認という言葉は種々のものを含み、領識や記憶の障碍のこともあり、錯覚のこともある。失見当識もこれと同様の関係にあり、妄想によることもある。たとえば患者は他の人々がここをどこであるというかを知ってはいるが、更にそれ以上知るところがあるのである。すなわち人々はここを病院だというが、自分は牢屋だと知っているというごときである(以上、主著の邦訳93~94頁を借用か)。

 妄想着想。これは、自分には特別の使命があるとか、追跡迫害されているなどの考えが突然思い付かれたり、あるいは回想されたりすることである。妄想知覚はその構造からはっきりと妄想であることがわかるが、妄想着想は普通の着想や、妄想様思考との区別がない(以上、邦訳94頁と99~100頁を抜粋・借用か)。着想の内容の誤りを訂正しようとしないことや着想の内容の真実性のないことあるいは実際にはあり得ないことなどによって、妄想着想だと定めることはできない。普通の着想は可能性があるから妄想と区別できると思われるかもしれないが、妄想着想も可能性のあることがある。たとえば隣の娘が自分を恋しているという妄想着想は、それだけでは妄想かどうかわからず、また本当に伯爵の落としだねである者が、自分は伯爵の落としだねであるといったために、妄想患者と誤られることもある。われわれに訝しく、奇異と思われる着想を皆妄想であるとしてはならない。できるだけ事実を確かめなければならない。そうして全臨床状態を参酌して初めて妄想と断定できるのである。著しい場合にはもちろん直ちに妄想であることはわかるが、とにかく妄想知覚程決定的なものではない。(以上、主著の邦訳94頁を借用か)

 妄想知覚は精神分裂病にのみ現れる。精神分裂病であって、妄想が著しく、しかも人格の変化があまりなく、支離滅裂思考や感情障碍のないものはパラフレニーとも呼ばれる。妄想知覚の傾向は、癲癇性朦朧状態や急性外因性精神病等にも見られることがある。

 感情状態から了解されるものは妄想様思想と呼ばれる。たとえば鬱病の際の罪過思想や貧困思想がこれで、抑鬱気分が元に復すれば、これらの思想も消える。躁病や誇大型の進行麻痺における、自分は大金持である、何でも出来るなどの誇大妄想も、同様に理解できる。ただし進行麻痺では判断力の減退も、かかる思想の成立に関係がある。

 感情に基づく誤解や曲解は、精神病質者にも正常者にも見られる。身体的及び社会的低格感を有する者は、どこへ行っても自分は変な目で見られるとか、待遇が悪いとか考える。良心に咎のある者は、他人の態度から、人は自分の罪過を知っているので自分をじろじろ見たり、軽蔑したりするのだと思う。かような「妄想」は随分発展することがあるが、完全に了解できるものであって、われわれのいう意味での真正の妄想ではない。かくのごとき状態は妄想性反応と呼ばれる。

 妄想様思想は必ずしも感情の強い体験に関係があると限らず、他の一次性の体験に関係があることもある。酒精幻覚症、熱譫妄、癲癇性朦朧状態から覚めた者が、幻覚的に体験ことを、その後暫くの間本当であると思うことがある。(邦訳108~111頁)

 こうしてみると、じつはもとの文に「妄想着想」という言葉が一度も出てきません。「妄想着想」という言葉を使わずに説明しているという点にこそ、のちの主著とは異なる、本書独自の面白いところがあるのではないでしょうか。

 では、「妄想着想」という言葉を用いない本書原文での論じ方はどのようなものなのか、下に示してみましょう。上では青字にした挿入部分は省き、修正箇所は赤字を使ってみます。訳語の古さは訂正しません。順番の入れ替えや訳し落としも多いことに驚かされます。

 妄想の発生すべて感情や欲動や、人格と内外の体験から、了解し導こうとする学者が多い。しかしわれわれはヤスパースやグルーレに従い、真正妄想はかかる了解の出来る妄想様の体制 -われわれは今後もこれらを扱っていくが- から区別さるべきであると信ずる。真正妄想は一次的なものであって、他の体験から導くことのできないものである。これはとりわけ妄想知覚であきらかであり、ほとんどの妄想はもともと妄想知覚の形を取る。これは元来正常な知覚に特別の意味が加わり、特に当人に意味深い関係が付けられる形の妄想である。そのような患者は、たとえば庭に鳥の死骸が横たわっていると自分もまもなく殺されるはずだと意味付け、街で二人の人が話をしていると、直ちに自分のことを話しているのだと考え、本日はたくさん巡査がいると気づくと自分が捜索されているという意味にとる。このように、いわれもないのに関係を付けること、意味に満ちていることが本質的なものである(グルーレ)妄想知覚と並んで、患者にとって特に重大とされる、着想や想起という形の真正妄想がある。妄想にはしばしば二次的に判断の上塗りが生じ、さらには、秩序だったパラフレニー者とか精神病性「パラノイア者」のように、さらなる体系化に至り得る。

 感情状態から了解され導けるものは妄想様思考と呼ばれ悲哀や高揚といった多くの気分変調で起こる。たとえば循環鬱病の際の罪過思想や貧困思想がこれで、気分が元に復すれば、これらの思考も消える。ここで迫害妄想や、身体的枯渇の妄想や宗教的懲罰妄想を、ある程度までは抑鬱気分から了解できる。躁病や誇大型の進行麻痺における、自分は大金持である、何でも出来るなどの誇大妄想も、高まった気分から同様に了解できる。ただし進行麻痺では判断力の減退も関係がある。

 感情に基づく誤解や曲解による判断は、精神病質者にも正常者にも見られる。身体的及び社会的低格感を有する者は、どこへ行っても自分は変な目で見られるとか、待遇が悪いとか考える。良心に咎のある者は、他人の態度から、人は自分の罪過を知っているので自分をじろじろ見たり、軽蔑したりするのだと思わざるをえない根拠があるにせよ無いにせよ不全感を持つ人間は、広範な「妄想」を発展させることがあるが、完全に了解できるものであって、われわれのいう意味での妄想ではない。かくのごとき状態は反応性または精神病質性のパラノイアと呼んでもよいが、パラノイアという表現は歴史的な手あかのせいで避けることが好まれ、ここではむしろパラノイド反応と言うほうが良い。こうしたあらゆる場合において、事態は多少とも精神病質的な人格からの了解可能な妄想様思想なのか、あるいは詳しく物語られた真正妄想なのか ―とりわけ妄想知覚の形を取るものなのか― というのは、根本的な臨床問題となる。真正妄想は実際上精神分裂病プロセスにのみ現れる。言い換えればわれわれはそれがあるとき精神分裂病という妄想型の精神分裂病であって、人格が長期にわたり保たれ、支離滅裂思考や感情障碍のないものはパラノイド型分裂病またはパラフレニーとも呼ばれる。妄想知覚の兆候は、特に癲癇性朦朧状態やおそらく多くの急性外因性精神病さらに大酒家の精神病等にも見られることがある。

 妄想様の思路は必ずしも感情の強い体験に引き続くと限らず、他の一次性の体験に引き続くこともある。酒精幻覚症、熱譫妄、癲癇性朦朧状態から覚めた者が、幻覚的に体験したことを、その後暫くの間本当であると思うことがある。その現れはきわめて鮮明であって、実際に誰かが、ひょっとすると死者が、自分の枕元に立っていた、と言ってきかないほどである。(試訳)

という具合に、やはり原書に「妄想着想」という言葉は使われていないようです。

 シュナイダーには『妄想問題のむずかしさ』という1938年の論文の邦訳があり(なぜかマトウセック著『妄想知覚論とその周辺』金剛出版1983年や、我が国の学者たちの共著『妄想の臨床』新興医学出版社2013年にひっそりと所収)、そこでは、ヤスパースのいう妄想表象と妄想意識性とを「われわれは妄想着想の概念でまとめることにする」と明言するとともに、妄想知覚は知覚と意味づけという「二節性」が特徴の現象であり、いっぽうで知覚と関係なく一気に思いつく妄想着想は「一節性」の現象であるという名高い区別を導入しています。

 シュナイダーが1931年に書いた『病態心理学序説』という論の時点では、妄想表象と妄想意識性という言葉をヤスパースに従ってそのまま用いているので、おそらくシュナイダーは1930年代中期以降に、これらの概念よりも「妄想着想」と呼んで「一節性」「二節性」の区別と対応させるという自説を固めていったのだと思われ、今回扱った『序説』(1936年)はその過渡期にあって、妄想着想という言葉も一節性二節性という区別も未導入であった、ということだと思います。

 この『臨床精神病理学序説』の邦訳についていえば、後記に拠ればこの本は原著2版(1936年)をもとに1943年に南山堂から出版されたが、戦火で版が消失してしまい、1977年に改めてみすず書房から出版したとのことで、訳者は「回生版」と呼んでいます。シュナイダーの主著『臨床精神病理学』は原著初版が1950年、最初の邦訳は1955年ですから、普通に考えれば、『臨床精神病理学序説』邦訳初版(1943年)にはそこからの引用・挿入があったはずはなく、回生版の際に挿入されたのでしょう。

 この回生版の妄想論は結局、①訳者による挿入箇所には、妄想着想という語が混じり込んでいるが、一節性二節性の区別だけは混じり込まないように注意深く選ばれている、②訳者により省略された部分は診断に関わる箇所が多く、結果的にパラノイアという語が訳書にいちども登場しなくなった、③挿入と省略があるせいで、最終的なボリュームがほぼ元どおりになった、といった点をみると、かなり意図的な操作が行なわれているようにもみえます。邦訳の巻末索引にも「妄想着想Wahneinfall」と原語つきで挙げているのも、確信犯といったところでしょうか。

臨床精神病理学序説 新装版
クルト・シュナイダー (著), 西丸 四方 (翻訳)
出版社 : みすず書房; 新装版 (2014/7/5)

新版 臨床精神病理学 
クルト・シュナイダー、ゲルト・フーバー、ギセラ・グロス、 針間 博彦 (単行本 - 2007/9)
出版社: 文光堂 (2007/09)

#追記(2021年3月31日)

 本書の成立の手がかりとしては、現在も新刊で手に入るシュナイダーの『新版 臨床精神病理学』(針間訳 文光堂)の巻末(226頁)にヒントがありました。『臨床精神病理学』は「第3版(1950年)の西丸四方訳がみすず書房より出版されるはずであったが、その後原著が改訂されたことからこれは発表されず、1957年、第4版(1957年)の平井静也・鹿子木敏範訳が文光堂から出版された」とのことです。おそらく西丸四方は、ボツになった訳文の一部を、本書『臨床精神病理学序説』に混ぜ込んで使ったのでしょう。

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