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2021年2月

2021年2月 8日 (月)

ラカン『精神病』3章再々読

 この章もかつて一度取り上げました(ラカン『精神病』3章再読: フロイトの不思議のメモ帳 (cocolog-nifty.com))が、今回は一字一句原文と付き合わせてみました。

 まずは冒頭に掲げられたキーワードからです。これは編者ミレールが本文から選んで掲げたものなので、本文と対応していなくてはなりません。

語と反復(邦訳45頁)

 これは本文の次の箇所と対応しています。

それは、状況の核心である新造語に対して、リフレインと呼ぶことができましょう。(邦訳52頁)

 ですので上の二箇所を次のように逐語的に改訳したいと思います。

語とリトルネロ(代案)

それは、 語に対して、リトルネロと呼ぶことができましょう。(代案)

 次は本文に入ります。

このようなことを申し上げたのは、前回取り上げた曖昧さと同じ曖昧さ、つまり妄想の意味(シニフィカシオン)自体の曖昧さがここでも働いていることを、お示しするために過ぎません。ところでこの妄想の意味(シニフィカシオン)は、普通は内容と呼ばれているものに係わると考えられていますが、むしろ私は精神病的陳述と呼びたいと思います。(邦訳上巻48頁)

 ここで「前回取り上げた曖昧さ」というのは、邦訳31~32頁で挙げられた、患者が石を収集していた件についての医学的解釈の「曖昧さ」あたりを指すように思います。下線部は関係代名詞で、翻訳の際に補われた先行詞なのですが、私はこの「曖昧さ」を指すと思いました。ほか、ついでに少し手を入れてみます。

このようなことを申し上げたのは、前回取り上げた曖昧さと同じ曖昧さ、つまり妄想の意味(シニフィカシオン)自体の曖昧さがここでも働いていることを、お示しするために過ぎません。ところでこの曖昧さは、普通は内容と呼ばれているものに係わると考えられていますが、むしろ私は精神病的語りと呼びたいと思います。(代案)

 次は、ラカンが他の分析家たちの言い回しを、きつい嫌みで揶揄している箇所ですが、邦訳はちょっとぼんやりしています。

ランガージュについてお話ししてきました。この点に関して、「患者には患者の言葉で話さなければならない」と言う分析家の決まり文句の中に、うっかり洩らされている不十分や悪しき傾向に、お気付きになられたはずです。おそらくこういうことを言う人達も、自分の言っていることの意味もわからず喋っている人達すべてと同じように、許されなくてはならないのでしょう。しかし問題となっていることをこれほど簡単に片付けることは、せっかく進んだいばらの道をあわてて後悔し元に戻ってしまったことの印です。義務は果たされていますし、規定どおりにことは行われているわけです。ただ彼等はこうして彼等の寛容さを示しているにすぎないのですが、それにしても彼等は患者から実に距離を取っています。患者もやはりそこにいるのだから、患者の言葉を話しましょう、単純な言葉、愚か者の言葉を、というわけです。(邦訳上巻53頁)

 「規定どおりにことは行われている」と直訳されている「se mettre en regle」には熟語的な意味があるようです。それと、「寛容さ」とされている「condescendance」は、むしろ「尊大さ」「恩着せがましさ」で、ラカンの批判がにじみ出ています。ほか何カ所か手を入れてみます。

ランガージュについてお話ししてきました。この点に関して、「患者には患者の言葉で話さなければならない」と言う分析家の決まり文句の中に、うっかり洩らされている不十分や悪しき傾向に、途中でお気付きになられたはずです。おそらくこういうことを言う人達も、自分の言っていることの意味もわからず喋っている人達すべてと同じように、許されなくてはならないのでしょう。しかし問題となっていることをこれほど簡単に片付けることは、せっかく進んだいばらの道をあわてて後悔し元に戻ってしまったことの印です。負けを取り返していますし、すばやく負い目も晴らしているわけです。ただ彼等はこうして彼等の尊大さ・恩着せがましさを示しているにすぎないのですが、それにしても彼等は患者という対象から実に距離を取っていることも示しています。患者もやはりそこにいるのだから、患者の言葉を話しましょう、単純素朴人たちの言葉、愚か者たちidiotsの言葉を、というわけです。(代案)

 idiotという語は後にも出てくるので補っておきました。ラカン自身が悪い意味を負わせて使っているので「白痴」とでも訳すほうが文意が伝わると思いますが、今どき使いにくい言葉ではあります。

 次です。以下の引用の最初の節は大幅に意訳されているのですが、問題にしたいのはもう少し後からです。

精神分析が物ごとの本性を明らかにし、照らし出し、有意義で、実り多く、豊かな、力動的なものを明るみに出すとしたら、それは、今述べたような、全くの機能的概念を借りて何十年来追求されてきた精神医学のみすぼらしい構築物をひっくり返すことによってなのです。従来の精神医学では、この全くの機能的概念の偽装である自我が、その重要な要をなしていました。(邦訳上巻56~57頁)

 この「全くの機能的概念」という箇所が、従来の精神医学の概念を指すのではなく、精神分析の概念を指すのではないかと思いました。「機能的概念」って、(実体的な概念と対比して考えれば)悪い意味ではないように思うのです。

精神分析が物ごとの本性を明らかにし、照らし出し、有意義で、実り多く、豊かな、力動的なものを明るみに出したとしたら、それは、いくつかの全くの機能的概念を用いて、何十年来追求されてきた精神医学のみすぼらしい構築物をひっくり返すことによってなのです。それらの概念については、その偽装である自我が、重要な要を必然的になしていました。(代案)

  次の箇所では、訳し落としがあります。ほか一箇所手を入れてみます。

目の前にいる相手が主体であると言えるのは、その主体が言ったり為したりすることが -言うでも為すでも同じことですが- あなたを騙すために言ったり為したりされたと思わせることができるからこそです。もちろんそれは、その相手があなたに逆のことを信じさせようとして事実を言う場合も含めてですがね。(邦訳上巻58~59頁)

目の前にいる相手が主体であると言えるのは、その主体が言ったり為したりすることが -言うでも為すでも同じことですが- あなたを騙すために言ったり為したりされたと想定することができるからこそです。そこには弁証法が含まれます。もちろんそれは、その相手があなたに逆のことを信じさせようとして事実を言う場合も含めてですがね。(代案)

 次の箇所は、qui d'ailleurs ne se livre pas absolumentなので、部分否定だと思います。

しかしそこには他の場合には決して露わにならない別の構造があります。(邦訳上巻61頁)

しかしそこには他の場合には決して露わにならないというわけではない別の構造があります。(代案)

 次が、今回でいちばん大きな変更箇所と思います。

主人は奴隷から歓びを奪ってしまいます。彼は奴隷の欲望の対象という限りでの欲望の対象を占領したのです。しかし、この時主人は同時にその人間性を失ってしまいます。歓びの対象ということが問題なのではなく、このような競合的関係こそが問題なのです。主人の人間性、彼はそれを何に負っているのでしょうか。もっぱら、奴隷をそれとして再認することによってです。しかしこの再認は、奴隷の方が主人をそれとして再認してくれなければ、文字通り、いかなる価値も持ちえません。身近な事によくあるように、歓びを勝ち取ったり奪い取ったりする者は全くの馬鹿になってしまい、享楽する以外何もできないのに、一方、奪われた当の者は人間性を保っているといった具合です。奴隷は主人を再認しています。それ故奴隷は主人から再認される可能性を持っています。奴隷は、実質的な存在になるために長い間闘争を続けるでしょう。(邦訳上巻64~65頁)

主人は奴隷から享楽を奪ってしまいました。彼は奴隷の欲望の対象という限りでの欲望の対象を占領したのです。しかし、この時主人は同時にその人間性を失ってしまいます。享楽の対象ということが問題だったのではなく、このような競合的関係こそが問題だったのです。主人の人間性、彼はそれを何に負っているのでしょうか。もっぱら、奴隷の(による)再認 です。しかしこの再認は、主人の方が奴隷 再認していないので、文字通り、いかなる価値も持ちえません。身近な事によくあるように、享楽を勝ち取ったり奪い取ったりした者は全くの馬鹿idiotになってしまい、享楽する以外何もできなくなるのに、一方、奪われた当の者は人間性を保っているといった具合です。奴隷は主人を再認しています。それ故奴隷は主人から再認される可能性を持っています。奴隷は、有効に再認されるために長い間闘争を続けるでしょう。(代案)

 なお、ここに出てくる「再認」という語は、ここでは「承認」と訳すほうがわかりやすいと思いますが、他の訂正箇所が多いのでここはそのままにしておきました。

 次です。「私の」という簡単な語が落ちているだけですが、邦訳だけを読んでいた頃はよく意味が掴めませんでした。

「私は彼を愛している」、これを否定する第一の方法、それは、次の通りです。「彼を愛しているのは私ではない、それは彼女だ」、つまり配偶者、分身です。第二の方法は次の通りです(・・・)。(邦訳上巻67頁)

「私は彼を愛している」、これを否定する第一の言い方、それは、次の通りです。「彼を愛しているのは私ではない、それは彼女だ」、[それは]私の配偶者だ、私の分身だ、です。第二の言い方は次の通りです(・・・)。(代案)

 次が最後です。

さて次は、「私が愛しているのは彼ではなくて、彼女だ」です。これは疎外のもうひとつのタイプですが、逆転されているのではなく、逸脱された(ディヴェルティ)疎外です。つまり、恋愛妄想者が係わる相手の他者というのは極めて特殊なものです。というのは、患者とその他者との間には具体的ないかなる関係もないからです。そのために患者は、それを神秘的なつながりとか、プラトニックな愛などということができます。それは、大抵とても遠く離れた対象で、患者は、この対象に届いたかどうかも分からない通信によって満足しています。少なくとも一般的に言えることは、メッセージの逸脱された疎外があるということです。この疎外の相手の他者は脱人称化されています。そのことは、恋愛妄想の患者が自分からよく口にするように、愛されていないというどんな証拠を示されようとも、頑として英雄的に自説を守ることにはっきりと現われています。(邦訳上巻69頁)

 下線部は、epreuveという語について説明的な言葉を補って訳出されていますが、(preuveじゃないので)「試練」だと思うんです。ほか、ちょこちょこ手を入れてみます。

さて次は、「私が愛しているのは彼ではなくて、彼女だ」です。これは疎外のもうひとつのタイプですが、逆転されているのではなく、遠くに散らされた(ディヴェルティ)疎外です。つまり、恋愛妄想者が係わる相手の他者というのは極めて特殊なものです。というのは、患者とその他者との間には具体的ないかなる関係もないからです。そのためにそれは、神秘的なつながりとか、プラトニックな愛などといわれたほどです。それは、大抵とても遠く離れた対象で、患者は、自分に届いたかどうかも分からない通信による交流によって満足しています。少なくとも一般的に言えることは、メッセージの、遠くに散らされた(ディヴェルティ)疎外があるということです。この疎外の相手の他者は脱人称化されています。そのことは、恋愛妄想の患者が自分からよく口にするように、どんな試練にも英雄的に耐えることにはっきりと現われています。(代案)

精神病〈上〉 
ジャック ラカン (著), ジャック・アラン ミレール (編集), 小出 浩之 (翻訳), 川津 芳照 (翻訳), 鈴木 国文 (翻訳), 笠原 嘉 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (1987/03)

 今回出てきた、「身近な事によくあるように、享楽を勝ち取ったり奪い取ったりした者は全くの馬鹿idiotになってしまい、享楽する以外何もできなくなるのに、一方、奪われた当の者は人間性を保っている」というところでは、時節柄、オリンピック利権を分け合っているであろう与党政治家やいわゆる上級国民を連想しましたが、ラカンは身近なことだけを念頭に置いているのではなく大文字の他者との関係を語っているようでもあります。

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