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2021年4月

2021年4月29日 (木)

下田、中ら『初老期鬱憂病の研究』11

 久しぶりに思い出したので、戦前の我が国の下田・中らによるメランコリー論の症例紹介を続けましょう。

初老期鬱憂症 軽鬱状態型 動脈硬化その他の器質的疾患を伴うもの 

症例11 閉経期内分泌異常を伴うもの 富○敏○ 満54歳、女性、酒造業者の妻。

主訴 不眠、心気、憂鬱性思考

家族歴 父大酒家勝気の人、交際家ならず憤怒性あり、母早逝す、同胞8名中2名死亡、患者に性格的に甚だ類似の妹ありという外何等の負因なし。

既往歴 生来健、学業成績優良、245歳の時バセドー氏病に罹り甲状腺の腫脹を来す、1年計りの静養及子宮の掻爬により軽快せりという、近時全く月経を見ざりしが入院前月23日間継続する月経ありしという。性格。勝気、徹底的、責任感強し、信仰家、負け嫌い、我を通す、交際広し。

現病歴 推定原因、養子に対する不満。入院前年冬無暗に寒いといい湯保[たんぽ]を2-3個入れ眠り居たるため上衝[じょうしょう]を来し苦みしことあり、同10月頃某宗教会合に出席気分悪しとて直ちに医師を訪う、血圧190ありと言われ心痛し、その後上衝の為め眼瞼の腫脹及腫瘍を生じ、咽喉痛めることあり、甚だ心気的となり、小事に拘泥す、本年4月より不眠現わる、眠れる翌朝は落着き話も可能なるが不眠の場合は終日不平を漏し家人を当惑せしむ、有ゆる素人療法を試み、その度毎に最初は良く終り悪く遂に失望落胆す、幾度か逡巡せる後遂に8月東京に行きあらゆる大家を訪問くすりを飲むなと言わる、ここに於ても初め1ヶ月計りは元気なりしがその頃より手の脱力感、しびれ感、怔忡[せいちゅう]、咽喉の充塞感等を繰り返し訴うるに至り、子宮筋腫、血圧亢進、胃腸病等順次心痛の対象変遷す、常に朝悪く午後よし、10月下旬東京より帰り悪化、失望落胆し「余病が出たら寝て居られない(不安の為)から死んで仕舞う」等いう、睡眠時間は12時間のことあり6時間位のことあり、食思は良好なりしも最近1ヶ月不進、秘結に傾く。

現在症候 昭和7115日第1回入院

身体的徴候 体構闘士型、体格大、骨格強、筋肉弱、栄養不良、顔面蒼白、四肢に少しくチアノーゼあり、軽度の甲状腺腫を認む。瞳孔やや大その他に眼症候なし、舌やや白苔、凡ての反射機能正常、心音やや濁、血圧145-125、橈骨動脈硬化並蛇行。

精神的徴候 幻覚なく智的に大なる欠陥なし、意識は全く清明、考慮範囲は狭小、悲観的にして「余病が出れば死す」という、時に強度の苦悶性興奮状態を示し、極度の苦痛的表情の間に無表情の挿入あり、感情の表出突風的なれど演劇的誇張的ならず、強度の怔忡を訴え、自制力全くなく、多動不安多弁となることあり。

経過 直ちに持続睡眠療法を行う、スルフォナール全量25gに達せる頃より毎日20時間以上4日間眠る。その後漸次鎮静を来したれど1218日排尿障碍を来し発熱、再び睡眠障碍せらる、尿混濁して蛋白弱陽性なり、トリパフラピンにより下熱、恢復期少しく延びたれど漸次軽快を来し、翌120日入院後2ヶ月半にして全治退院。

再入院 同年818日。

退院後経過良好なりしが3月頃より膀胱炎に罹り、心痛し、腰痛ありしを以って子宮後屈なりとて灸、催眠術などを試み、再びあらゆる素人療法に親しみ前轍を踏む、すなわち3月頃より上衝、眩暈、耳鳴、嘔気、四肢の脱力感、主観的呼吸困難、腰痛、全身の冷感等あり、前同様の興奮を来したれど身体精神徴候共に前回よりは軽度なり。再び睡眠療法を行う、療法の経過中気分の転換性激しく一時ヒステリー性願望譫妄の如き状態に陥り夢の如き事実を真実と考えしことありしが一時的に経過、126日全治して退院せり。

 

本例の如きは初老期鬱憂症、閉経期神経症、ヒステリー症何れにも属するが如き病像を呈しその区別甚だ困難なり。その性格及び内因性らしき沈鬱は初老期鬱憂症に一致し上衝、眩暈、嘔気、耳鳴などの神経性徴候表在性にして、閉経、甲状腺の肥大等を伴う点は閉経期神経症に近似し、家庭的複合体の存在、被暗示性の亢進、徴候中に時に現わるる転換性、誇張的表情及びヒステリー性願望譫妄の状態を呈せる点等はヒステリー症に相当するが如し。

余等は本症例が甲状腺腫を有せる点、体構並びに性格はヒステリー性ならず、家系にもかかる患者なき点よりして閉経期内分泌障碍の為め甲状腺その他の異常を来しために過敏となりヒステリー性反応を呈するに至りたるものにして純粋のヒステリー症或はヒステリー性性格変化を来したるものにあらずと認めんとす。又本症者の性格が全く偏執性性格に一致し、種々の心気性は内因性沈鬱の二次的現象とも考えられ、常に睡眠療法の奏功する等の点よりして本症はその本体を初老期を鬱憂症に存し、症候の変形又は再発の容易なること等は合併症たる閉経期内分泌異常により説明し得べきものなりと思惟す、すなわち本症はヒステリー性徴候を伴う鬱憂症というよりは寧ろ閉経期内分泌障碍を伴う鬱憂症という方妥当なり。

 最後に「偏執性性格」とありますが、これは下田が後年「執着性格」と言い換えたもので、うつ病の病前性格とされます。これとテレンバッハの「メランコリー型」、笠原・木村が両者を参考にまとめて我が国の精神科医の間で最も有名になった「メランコリー親和型」(几帳面と他者配慮を強調し、かつ穏やかな弱力性の人柄を典型とした)との異同が時に議論になります。本症例は「徹底的、責任感強し、勝気、負け嫌い、我を通す、交際広し」など、テレンバッハや笠原の類型に比べて性格にかなりの強力性がうかがわれます。笠原らも「徹底的、責任感強し」に言及しましたが、それは持ち場を守り対人秩序を維持するための努力というニュアンスでした。

 この症例はたしかに「終日不平を漏し家人を当惑せしむ」「繰り返し訴うる」「『死んで仕舞う』等いう」などと、医師看護師からヒステリーを疑われやすそうなところがあります。著者が、体構と性格、家族負因からヒステリーを否定しているというのは、さすがに根拠が弱いと思います(体構、性格と疾患の組み合わせを仮に認めるとしても、例外なしとはいえませんし、家族内に一人だけ患者がでることもあるでしょう)が、ヒステリーは『満ち足りた無関心』という用語で呼ばれるように、身体症状の程度に比べて「治してくれ」という訴えは控えめで、歩けないと言いながら淡々と座っている、といった態度が典型です。この症例は性格傾向からしてもむしろ、躁病的な成分が症状に加わって症状を修飾して「多動不安多弁」などが現れてその一環として治療者通いも繰り返したんじゃないか、というのが、現代から後知恵でみた私の感想です。

2021年4月22日 (木)

ラカン『精神病』4章再々読(3節)

 前回の続き4章3節です。翻訳をみていきます。

 まず最初は、岩波版邦訳88頁の「Mort aux vaches! 悪王(牡牛)に死を!」という慣用表現ですが、辞書にある訳は「くたばれポリ公!」です。これの意味は直後の「Vive le roi! 王様万歳!」から演繹される、という考えをラカンは批判しているのですが、この演繹は「mort死」と「vive生」の対比に基づいていると思いますから、「王様に長生きを!」と訳しておきましょう。

 次は、シニフィアンとシニフィカシオンを峻別しようとする文脈に置かれた箇所です。

次に、シニフィカシオンというものがあります。それは常にシニフィカシオンへと回付されるものです。もちろん、シニフィアンは、皆さんがそのシニフィアンに何らかのシニフィカシオンを与えたその時から、シニフィカシオンのこの働きの中に捉えられます。皆さんは、他のシニフィアンをシニフィアンとして、つまりシニフィカシオンのこの働きの中にある何物かとして創り出しているのですから。(邦訳88頁)

 引用箇所の最後ではシニフィアンがシニフィカシオンの働きに混じり合うことになってしまって、文脈から浮いているように思います。難しいので、「もちろん」以下の原文も示してみます。

Bien entendu, le signifiant peut etre pris la-dedans a partir du moment ou vous lui donnez une signification, que vous creez un autre signifiant en tant que signifiant, quelque chose dans cette fonction de signification.

 海賊版をヒントにして、un autre signifiant en tant que signifiant...という箇所のふたつめのsignifiantの後ろのコンマを省いて、このsignifiantが名詞ではなく動詞の現在分詞(・・・を意味する)であると解して目的語を取るように訳してみようと思います。そのあとのque...ではじまる節が難しいのですが、接続法になっていないので譲歩や願望ではなさそうで、辞書で探して考えても、このqueは、①邦訳どおりに理由を示す(puisqueに相当)、以外の可能性としては、②結果を示す(au point queに相当)、③先行するdu moment ou...の繰り返しを避けて代用されている、④時を示す(quandに相当)ぐらいしかありません。③④はほぼ同じ意味になりますので、3つ案を示してみましょう。

もちろん、シニフィアンは、皆さんがそのシニフィアンに何らかのシニフィカシオンを与えるその時から、そこに捉えられます。皆さんは、シニフィカシオンのこの働きの中にある何物かを意味するものとしてもうひとつ別のシニフィアンを創り出すのですから。

もちろん、シニフィアンは、皆さんがそのシニフィアンに何らかのシニフィカシオンを与えるその時から、そこに捉えられます。その結果、皆さんは、シニフィカシオンのこの働きの中にある何物かを意味するものとしてもうひとつ別のシニフィアンを創り出します

もちろん、シニフィアンは、皆さんがそのシニフィアンに何らかのシニフィカシオンを与えるその時から、つまり皆さんが、シニフィカシオンのこの働きの中にある何物かを意味するものとしてもうひとつ別のシニフィアンを創り出す時から、そこに捉えられます。

 この三つはどれも意味が通っていると思いますが、強いていえば私は二つ目が良いと思いました。

 次は語釈上の問題箇所です。desesperantという語が自動詞のように訳されていますが、これは形容詞化した現在分詞(辞書では他動詞的な意味「絶望させる/悲しむべき」が載っています)だと思いました。あとはgenericiteという語を(辞書にはありませんのでgeneriqueという語から類推して)訳し換えてみます。

しかし、シニフィアンの存在のお陰で、皆さんの個人的な小さなシニフィカシオンが ―それは、やはり絶対的に失望するという人間的な、あまりに人間的な出生の条件に由来するのですが― 皆さんをずっと遠くに導いてくれます。(邦訳88頁)

しかし、シニフィアンの存在のお陰で、皆さんの個人的な小さなシニフィカシオンが ―それは、やはり絶対的に絶望させる/悲しむべき人間的な、あまりに人間的な種としての属性に由来するのですが― 皆さんをずっと遠くに導いてくれます。(下線部は変更箇所)

 次ですが、89頁~91頁にはchargerという語が三度使われています。

その要素のうちのあるものが、孤立し、重みを持ち、ある価値と特別な慣性力を持ち、あるシニフィカシオン、つまりそれっきりのシニフィカシオンを引き受けるse charger、そういう変形のことです。

シニフィアンがこのようにある意味を帯びるcharge時(註:chargeは、最後のeにアクサン・テギュが付く過去分詞)

「雌豚」という語が曖昧なある意味を帯びてchargeいようと(註:chargeは、最後のeにアクサン・テギュが付く過去分詞)

 一つ目は代名動詞、二つ目三つ目は過去分詞で、いずれも受動的な意味です。なかでも二つ目は「ainsi charge」とだけ書かれていて、何を帯びるか示されていないので「ある意味を」と補われていますが、ここは必ずしも意味を帯びているわけではないと思います。しかし「帯びる」という語は「○○を」という直接目的語なしには使いづらく、受動態にもしづらいので別の語にしたいのですが、上の三つの下線部にぴったりな一語を探すのはなかなか難しいと思います。暫定的に「加重される」としておきましょうか。

 次です。次の箇所にかぎらず、シュレーバーが使う「Nervenanhang」という語の訳を、岩波版は一貫して「神経附属物」としていますが、ここ以外も全て「神経接続」と訳すべきだろうと思います。あと、inspirationを「(思考)吹入」という精神医学用語として訳したほか、私は直訳が好みなのでちょこちょこ手を入れてみます。

 たとえば、彼の言う「基本語」の一つである「神経附属物(Nervenanhang)」という語を取り上げてみましょう。シュレーバーは、啓示という仕方で彼へとやって来る語、つまりまさに「神経附属物」を通ってやって来る語をまったく特別なものとして区別しています。これらの語は特別なシニフィカシオンをもって繰り返されるのですが、そのシニフィカシオンは彼には完全には解らないものです。たとえば、「魂の殺害(Seelenmord)」という語もそういう語の一つです。それは彼にとっては謎に満ちてはいますが、それが特別な意味を持っていることを彼は知っています。これらの語以外は、彼は我々と同じディスクールで話しています。(邦訳90頁)

 たとえば、彼の言う「基本語」の一つである「神経接続(Nervenanhang)」、神経の付加という語を取り上げてみましょう。シュレーバーは、吹入という仕方で彼へとやって来る語、つまりまさに「神経接続」を通ってやって来る語を完璧に区別しています。これらの語は選択的なシニフィカシオンをもって繰り返されるのですが、そのシニフィカシオンは彼には常には良く解らないものです。たとえば、「魂の殺害(Seelenmord)」という語もそういう語の一つです。それは彼にとっては謎に満ちてはいますが、それが特別な意味を持っていることを彼は知っています。いずれにせよこれらの語について、彼は我々と同じディスクールで話しています。(下線部は変更箇所)

 次の箇所では、邦訳のダッシュの中のj'entendsは「私が言いたいのは・・・」という意味だと思います。ほか、やはり私は直訳が好みなのでちょこちょこ手を入れてみます。

 さて次に、現実界があります。つまり、全く現実的に言葉として口にされたもの、他者の手へと渡ったムスカードの玉です。現実界のパロールが ―それは発言された言葉として聞こえるのですが―、 領野の別の点に、それもどこでもいいというのではなくて正に他者に、すなわち外的世界の要素としてのマリオネットの中に現われるのです。
 言葉がその媒介者となっている大文字のS、それは普通に人が考えているようなものではないことを精神分析は警告しています。まず第一に現実としての人物、それは場所を占めているという限りで、皆さんの前にいる人です。人間が存在するところではこの現実としての人物もいるのです。それは場所を占めています。(邦訳91~92頁)

 さて次に、現実界があります。つまり、全く現実的な分節化[発音]、他者の手へと渡ったムスカードの玉です。現実的パロールが ―つまり分節化[発音] されたパロールのことが言いたいのですが―、 領野の別の点に、それもどこでもいいというのではなくて正に他者に、すなわち外的世界の要素としてのマリオネットの中に現われるのです。
 パロールがその媒介者となっている大文字のS、それは普通に人が考えているようなものではないことを精神分析は警告しています。まず第一に現実的人物が居て、それは場所を占めているという限りで、皆さんの前にいる人です。人間存在が現前するところではこの現実人物もいるのです。それは場所を占めています。(下線部は変更箇所)

 次も小さな訂正ばかりですが、辞書どおりの訳にしていきます。

そしてSと対置する大文字の他者の他者性があります。つまり、大文字の他者、我われが知ることのできない主体、象徴的なものという性質を持つ大文字の他者、見るものを越えた彼方に人が求める大文字の他者です。(邦訳92頁)

そしてSと対応する大文字の他者の他者性があります。つまり、大文字の他者、我われが知ることのできない主体、象徴的なものという性質を持つ大文字の他者、見るものを越えた彼方人が差し向かう大文字の他者です。(下線部は訂正箇所)

 だんだん小さな訂正ばかりになってきましたが、今回は次が最後で、ここはラカンの意図の読解にはあまり影響しないかもしれません。

私達は、妄想体系の全容を、その全開花の時点で伝えている一人の人物を得るという幸運に恵まれています。よくされるように、この症例が何故発病したかを問うとか、彼の「前精神病期」の記録を作るとかいった成因的な方向で事態を取り上げる方法、そういう結局は説明しがたい混乱の種でしかないことは避けて、私達はフロイトの症例検討において示されているままにしておきましょう。(邦訳93頁)

私達は、妄想体系の全容を、その全開花の時点で伝えている一人の人物を得るという幸運に恵まれています。よくされるように、この症例が何故その全開花に達したかを問うとか、彼の「前精神病期」の記録を作るとかいった成因的な方向で事態を取り上げる方法、そういう結局は説明しがたい混乱の種でしかないことは避けて、私達はフロイトの症例検討において示されているままにしておきましょう。(下線部は訂正箇所)

 と、いろいろと指摘しましたが今回この章はこのへんにしておきましょう。

精神病〈上〉 
ジャック ラカン (著), ジャック・アラン ミレール (編集), 小出 浩之 (翻訳), 川津 芳照 (翻訳), 鈴木 国文 (翻訳), 笠原 嘉 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (1987/03)

 クローデルの翻訳で知られる渡辺守章氏が亡くなったそうです。ラカンがセミネール8巻で論じているクローデル『人質』を私が翻訳で読めたのはもちろん渡辺氏のおかげです。ところで岩波文庫『繻子の靴』(私は未読です)の巻末の解説で渡辺氏がラカンに触れているのですが、そこで『セミネール卿』とあったのはおそらく『セミネールⅧ』のワープロ文字化けがそのまま活字化されたんだろうなあ、というしょーもないことが記憶に残っています。

2021年4月17日 (土)

ラカン『精神病』4章再々読(1~2節)

 ラカンの読み直しですが今回は3巻4講、女性患者の「私、豚肉屋から来たの」という台詞が印象的な章をまた考えてみることにします。

 女性患者が報告した出来事は、隣家の女のところに通ってくる男とすれ違う際に、患者が「私、豚肉屋から来たの」と語ったら、相手から「truie雌豚」と罵られたということです。これらは実際に交わされた会話ではなく、患者が幻聴を中心に作り上げた体験記憶であろうと思われます。診察時のラカンとの会話によれば、患者の「私、豚肉屋から来たの」という言葉は、「cochon雄豚/豚肉」を念頭に置いた「暗示」なのだということです。なお、「雄豚」も「雌豚」も、仏和辞典によれば罵りの言葉として使用可能で、前者は不潔、好色、卑怯といった点を罵るときに使うようですし、後者は女性に対して「いやらしい女」という意のようです。ラカンの症例提示では「cochon雄豚/豚肉」と「雌豚」という語が使い分けられているので、ここは豚の性別を区別しているようにみえ、邦訳では前者を「雄豚」と訳しています。しかも女性患者は「雌豚」という侮辱の言葉を聞いたのですから、「雄豚」はすれ違った男性への侮辱の[実際には発せられなかった]言葉であるかのように(特に邦訳では)読めます。このように考えると、ラカンが患者の台詞「私、豚肉屋から来たの」(女性らしい言葉で訳されていますがフランス語では中性的な表現です)について、「cochon雄豚/豚肉」を「暗示して」いるというからには、この「私、豚肉屋から来たの」という台詞の「私」は相手の男を指すようにみえます(日本語でいうなら、女性が男性を揶揄してすれちがいざまに「俺、豚肉屋から来たぜ」と言ったような場面を想定するとよいでしょう)。そのためでしょうか、岩波版の訳も、初版は「私、豚肉屋から来たの」と女性らしい言葉遣いでしたが、のちの改訂版では「豚屋から来た」として、男性の台詞とも受け取ることができるように工夫されています。

 私も、前回の読み直し(ラカン『精神病』4章再読: フロイトの不思議のメモ帳 (cocolog-nifty.com) )では、岩波の改訂版に全面的に従って、「私、豚肉屋から来たの」は、すれ違う男のことを話題にしており、よって男への「暗示」と岩波が訳している語は、むしろ男への「あてこすり」に近い意味ではないかなどと考えました。

 今回、じっくり読んでみたのですが、「cochon」はむしろ単に「豚肉」という意味であって、豚の性別に言及しているわけではないのではないか、つまり「私、豚肉屋から来たの」は、あくまで女性自身が過去に、比喩的に「肉のように切り刻まれた」と言えるほどひどい目に遭ってきたことを指しているのであって、男が豚だとは言っておらず男に対する「あてこすり」でもないと思うようになりました。

 訳を見直していきましょう。章タイトルは、岩波では「私、豚肉屋から来たの」または「豚屋から来た」ですが、「私はシャルキュティエ(加工肉職人)のところから来ました」としておきます。「シャルキュティエ」としたのは、(以前も書きましたが)ここに「豚」とか「豚肉」という語を使ってしまうと、あとでラカンが豚を話題にする箇所を先取りしてネタバレしてしまうだけでなく、論の焦点もわかりにくくなってしまうと思うからです。

 1節にはまだこの症例は出て来ません。翻訳に気付いた点を挙げておきます。まず次の箇所は、精神病と神経症の現実喪失について、段階の違いを論じていることがやや伝わりにくいと思います。

精神病においては、外的現実との間にこそ、穴・断絶・裂け目があるのです。神経症の場合、主体において現実からの部分的な逃避、つまり密かに保持されている一部の現実と直面できないということが起こるのは二次的なことです。(岩波版73頁)

精神病においては、外的現実との間にこそ、ある時点で、穴・断絶・裂け目があったのです。神経症の場合、まさに第二段階でこそ、主体において現実からの部分的な逃避、つまり密かに保持されている一部の現実と直面できないということが起こるのです。(下線は改訳箇所)

 次ですが、pieceは、パソコン用語でも使われる「パッチ」、「継ぎ当て」の意だと思います。大意は変わりませんが。

私達は、外的世界の構造の中の穴・欠落・断絶の点が、精神病的幻想がもたらす断片によって埋められるという考えを、まず出発点としましょう。(岩波版73頁)

私達は、外的世界の構造の中の穴・欠落・断絶の点が、精神病的幻想がもたらす継ぎ当てによって埋められるという考えを、まず出発点としましょう。(下線は改訳箇所)

 1節ではもうひとつ些細なところですが、75頁3行目の「新たに投影される」は「de nouveau」なので「再び」「もう一度」です。

 75頁にもうひとつ比較的大きな訂正点がありますが、これは前回の読み直しで扱いました。

 2節から、例の女性患者が出て来ます。何度も出てくる「私、豚肉屋から来たの」は、「私はシャルキュティエのところから来ました」と読み替えていただき、「cochon雄豚」は「豚肉」と読み替えていただきましょう。最初にまとまって出てくるのは次の箇所です。

 「私、豚肉屋から来たの」、この言葉に何か了解すべきことがあるとしたら、それは、「cochon、雄豚(下品な奴)」といった意味と関係があることだと言えましょう。しかし私は、「cochon雄豚」とは言いませんでした。私は「porc豚」と言ったのです。
 すると彼女は同意しました。(岩波版78頁)

 できるだけ直訳してみます。

 「私はシャルキュティエのところから来ました」、この言葉に何か了解すべきことがあるとしたら、は、「cochon豚肉への言及があることだと言えましょう。 私は「cochon豚肉」とは言わず「porcポーク」言いました
  彼女は同意しました。(下線は改訳箇所)

 ここで「cochon豚肉」と「porcポーク」はほぼ同じ意味で、単に言い換えだと思います。次の箇所に移りましょう。

「私は、〈私、豚肉屋から来たの〉、と言いました」。そう言った後、彼女は相手の男が言ったことをうっかり私にもらしてしまいました。相手の男は私に彼女に何と言ったのでしょう。「雌豚(truie)」と言ったのです。これは、牧場の恋人同士のやり取りです。「糸」と「針」、「ねえあなた」、「ねえ君」、実際に起こっているのはそういうことです。
 このことに少々留意してみましょう。皆さんは、「それはその通りだ、ラカンが私達に教えているのはそのことだから。つまり、パロールにおいて主体は自分のメッセージをひっくり返った形で受け取る」とおっしゃるかもしれません。(岩波版79頁)

 ここで「牧場の恋人同士のやり取りla reponse du berger a la bergere」を辞書で引くと「(話にけりをつけるような)するどい応答」です。さらに、「それはその通りだLe voila bien content」は三人称だからラカンを指していそうなのと、「おっしゃるvous dites-vous」は「思う」か「互いに言い合う」となりますので、改訳してみます。

「私は、〈私はシャルキュティエのところから来ました〉、と言いました」。そう言った後、彼女は相手の男が言ったことをうっかり私たちにもらしてしまいました。相手の男は私に彼女に何と言ったのでしょう。「雌豚(truie)」と言ったのです。これは、見事な切り返しです。「糸」と「針」、「ねえあなた」、「ねえ君」、実際に起こっているのはそういうことです。
 このことに少々留意してみましょう。皆さんは、「ラカンもさぞ満足だろう、ラカンが私達に教えているのはそのことだから。つまり、パロールにおいて主体は自分のメッセージをひっくり返った形で受け取る」と互いに言い合うかもしれません。(下線は改訳箇所)

 このあと、80頁、82頁、85頁に出てくる「自分自身についてのメッセージ」という箇所は、前回の検討で、「自分自身が発したままのメッセージ」という意味じゃないかと提案してみましたが、これについては現時点でもそれがよいのではないかと考えています。

 次です。

嘘の言葉も、これとは反対であるにもかかわらず、同じようにまた、皆さんが知ることのできる全てのものの向こうに目指された絶対的な他者(A)を再認することを前提としています。他者(A)の行なう再認が価値を持つのは、この他者(A)が知ることのできるものの向こうにあるということによってのみです。(邦訳83頁)

 一文目で他者(A)は再認されるもの、二文目では再認を行なうものになってしまっていますが、後者が少し違うと思います。なお、ここは64~65頁あたりで主人と奴隷が承認し合うという事態を論じていた箇所と関連しているといえ、「再認」よりも「承認」という訳語が良いかも知れません。それと、1節で「抑圧について何も知ろうとしない」などと論じていた箇所の「知るsavoir」と、ここの「知るconnnaitre」を一応区別できるよう訳してみます。

嘘の言葉も、これとは反対であるにもかかわらず、同じようにまた、皆さんが認知することのできる全てのものの向こうに目指された絶対的な他者(A)を再認することを前提としています。他者(A)にとってこの再認が価値を持つのは、この他者(A)が、認知されたものの向こうにあるということによってのみです。(下線は改訳箇所)

 この段落の後半は、岩波の訳文が、初版と、後の版とで違っています。初版の間違いを前回の読み直しで取り上げましたが、改訂版は直っていて良いと思います。しかし残念ながら改訂版では、この段落の最後の一文が、初版にはあったのに抜けています。次のような些細な一文ですが。

そこに誕生する何かがあるのです。

 直後の段落に進みます。

 誰かに「君は私の妻だ」という時、あなたは暗に「私は君の夫だ」と相手に言っています。しかし、まずあなたが彼女に、「君は私の妻だ」と言います。それはつまり彼女を、あなたによって再認されている位置へと置くことです。(・・・)そしてそれがたとえ嘘の場合でも、こういう契約が働いていて、それが後に続くディスクール全体を条件づけています。こうして私は、行為や態度等をもその内に含むディスクールによって、象徴の劇を演じさせられているマリオネット達の身振りを理解するのです。そしてそのマリオネットこそがあなた自身なのです。(邦訳83頁)

 「契約engagement」は、この段落のもっと後ろで「巻き込むengager」と訳されていたり邦訳58頁で「任ずる」と訳されたりしているので、それらに合わせて訳語を選ぶべきと思います。このほか「entendre par...~で~を言おうとする」という成句表現、などちょこちょこ訳し直しておきます。

誰かに「君は私の妻だ」という時、あなたは暗に「私は君の夫だ」と相手に言っています。しかし、まずあなたが彼女に、「君は私の妻だ」と言います。それはつまり彼女を、あなたによって再認されるという立場に設立することです。(・・・)そしてそれがたとえ嘘の場合でも、こういう巻き込み/任命が働いていて、それが後に続くディスクール全体を条件づけています。こうして私は、行為や足取り等をもその内に含むディスクールということで劇に捕らわれているマリオネット達の身振りのことを言わんとしています。そしてその一人目のマリオネットこそがあなた自身なのです。(下線は改訳箇所)

 次です。

言い換えれば、マリオネットが話す時には、話しているのは、そのマリオネットではなく、その背後にいる誰かです。問題は、この場合、患者が出会う人物の機能は何かを知ることです。私達が確かに言い得ること、それは、患者にとっては、その場合に患者に話すのは明らかに現実の何かだということです。(邦訳84頁)

 最後の文が、強調構文として訳されているようなのですが、「c'est...qui...」ではなく「il est...qui...」なので、強調構文と解してよいのか疑問に思います。意味は大きく変わらないかもしれませんけれど。

言い換えれば、マリオネットが話す時には、話しているのは、そのマリオネットではなく、その背後にいる誰かです。問題は、この場合、患者が出会う人物の機能は何かを知ることです。私達が確かに言い得ること、それは、患者にとっては、彼は明らかに現実的な話す何かだということです。(下線は改訳箇所)

 次の引用箇所で、女性患者が自らを「切り刻まれたcochon」だとも「雌豚」だとも言っています。ここを読むと、やはり「cochon」を「雄豚」と訳すと意味が通らず、なので「豚肉」と訳す方が良いことがはっきりわかると思います。

彼女は「私、豚肉屋から来たの」と言っています。ところで、誰が豚屋から来たのでしょう。それは切り刻まれた雄豚(cochon)です。彼女は自分でそう言っているのを知りませんが、それでもやはり彼女はそう言っているのです。彼女が話す他者、その他者に、彼女は自分自身のことを言います。「雌豚の私、私は豚肉屋から来ました。私はすでに解体され、バラバラの身体、〈切り離された四肢〉、妄想者。そして私の世界も、私自身と同じようにバラバラになってしまいました」。(邦訳85~86頁)

彼女は「私はシャルキュティエのところから来ました」と言っています。ところで、誰がシャルキュティエのところから来たのでしょう。それは切り刻まれた豚肉(cochon)です。彼女は自分でそう言っているのを知りませんが、それでもやはり彼女はそう言っているのです。彼女が話す他者、その他者に、彼女は自分自身のことを言います。「雌豚の私、私はシャルキュティエのところから来ました。私はすでに解体され、寸断された身体、〈切り離された四肢〉、妄想者。そして私の世界も、私自身と同じようにバラバラになって消え去ってしまいました」。(下線は改訳箇所)

 次に移りましょう。

でも、もしこれまで私が申し上げてきた事が正しいのなら、つまりもし答えが語りかけ(ルビ:アロキュシオン)、つまり患者がまさに言っていることであるとしたなら「私、豚肉屋から来たの」は、「雌豚」という答えを前提としていることになります。
 真のパロールにおいては、これとは全く逆です。語りかけは答えなのです。パロールに答えるもの、それは、実際、「僕の妻」、「私の師」のように、他者(A)を分かち持つものです。だからその場合、この語りかけの方が答えよりも先にあります。(邦訳86頁)

 途中で段落が変わった後、「真のパロールにおいては、これとは全く逆です」と言ってすぐ「語りかけは答えなのです」と、前段と同じことを(順序だけひっくり返して)言っているという、繋がりがわかりにくいところです。海賊版も苦労したのか、前段の「l'allocution」を、後段では「la locution」という別単語としてアクロバチックに処理しているものもありますが、それでもすっきりしないと思います。私は「全く逆」というのは、前段では「語りかけ・・・は・・・答えを前提としている」のに対し、後段では「語りかけの方が答えよりも先にある」(訳語を揃えるなら「答えは語りかけを前提としている」)という対置を指しているのだと思います。訳には少し言葉を補って変更してみます。

でも、もしこれまで私が申し上げてきた事が正しいのなら、つまりもし[後に続いた「雌豚」という]答えが語りかけ(ルビ:アロキュシオン)、つまり患者がまさに言っていることであるとしたなら「私、豚肉屋から来たの」は、「雌豚」という答えを前提としていることになります。
 真のパロールにおいては、これとは全く逆です。語りかけは[それだけで]答えです。パロールに答えるもの、それは、実際、「僕の妻」「私の師」としての他者(A)の認定です。だからその場合、答えはこの語りかけを前提としているのです。(邦訳86頁)

 87頁には「foutuだめになった」という語が数カ所でてきます。ここの「foutu」は「作られた」という意味だとと思います。これはシュレーバーが周囲の人間達に付けた呼び名に対する仏訳の一部として提案されているのですが、平凡社ライブラリーで「かりそめに急ごしらえされた男たち」という秀逸な訳が当てられているように、そこには「こしらえられた」というニュアンスがあるからです。

 長くなってきたので、この記事は、2節の終わりまででいったん終わりにしましょう。

精神病〈上〉 
ジャック ラカン (著), ジャック・アラン ミレール (編集), 小出 浩之 (翻訳), 川津 芳照 (翻訳), 鈴木 国文 (翻訳), 笠原 嘉 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (1987/03)

 岩波書店版は、76頁真ん中あたりで、初版の「職場の上司」から「病棟医長」に改訳されている箇所もあったりと、異なる版の読み比べも楽しいかも知れません。

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