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2021年4月22日 (木)

ラカン『精神病』4章再々読(3節)

 前回の続き4章3節です。翻訳をみていきます。

 まず最初は、岩波版邦訳88頁の「Mort aux vaches! 悪王(牡牛)に死を!」という慣用表現ですが、辞書にある訳は「くたばれポリ公!」です。これの意味は直後の「Vive le roi! 王様万歳!」から演繹される、という考えをラカンは批判しているのですが、この演繹は「mort死」と「vive生」の対比に基づいていると思いますから、「王様に長生きを!」と訳しておきましょう。

 次は、シニフィアンとシニフィカシオンを峻別しようとする文脈に置かれた箇所です。

次に、シニフィカシオンというものがあります。それは常にシニフィカシオンへと回付されるものです。もちろん、シニフィアンは、皆さんがそのシニフィアンに何らかのシニフィカシオンを与えたその時から、シニフィカシオンのこの働きの中に捉えられます。皆さんは、他のシニフィアンをシニフィアンとして、つまりシニフィカシオンのこの働きの中にある何物かとして創り出しているのですから。(邦訳88頁)

 引用箇所の最後ではシニフィアンがシニフィカシオンの働きに混じり合うことになってしまって、文脈から浮いているように思います。難しいので、「もちろん」以下の原文も示してみます。

Bien entendu, le signifiant peut etre pris la-dedans a partir du moment ou vous lui donnez une signification, que vous creez un autre signifiant en tant que signifiant, quelque chose dans cette fonction de signification.

 海賊版をヒントにして、un autre signifiant en tant que signifiant...という箇所のふたつめのsignifiantの後ろのコンマを省いて、このsignifiantが名詞ではなく動詞の現在分詞(・・・を意味する)であると解して目的語を取るように訳してみようと思います。そのあとのque...ではじまる節が難しいのですが、接続法になっていないので譲歩や願望ではなさそうで、辞書で探して考えても、このqueは、①邦訳どおりに理由を示す(puisqueに相当)、以外の可能性としては、②結果を示す(au point queに相当)、③先行するdu moment ou...の繰り返しを避けて代用されている、④時を示す(quandに相当)ぐらいしかありません。③④はほぼ同じ意味になりますので、3つ案を示してみましょう。

もちろん、シニフィアンは、皆さんがそのシニフィアンに何らかのシニフィカシオンを与えるその時から、そこに捉えられます。皆さんは、シニフィカシオンのこの働きの中にある何物かを意味するものとしてもうひとつ別のシニフィアンを創り出すのですから。

もちろん、シニフィアンは、皆さんがそのシニフィアンに何らかのシニフィカシオンを与えるその時から、そこに捉えられます。その結果、皆さんは、シニフィカシオンのこの働きの中にある何物かを意味するものとしてもうひとつ別のシニフィアンを創り出します

もちろん、シニフィアンは、皆さんがそのシニフィアンに何らかのシニフィカシオンを与えるその時から、つまり皆さんが、シニフィカシオンのこの働きの中にある何物かを意味するものとしてもうひとつ別のシニフィアンを創り出す時から、そこに捉えられます。

 この三つはどれも意味が通っていると思いますが、強いていえば私は二つ目が良いと思いました。

 次は語釈上の問題箇所です。desesperantという語が自動詞のように訳されていますが、これは形容詞化した現在分詞(辞書では他動詞的な意味「絶望させる/悲しむべき」が載っています)だと思いました。あとはgenericiteという語を(辞書にはありませんのでgeneriqueという語から類推して)訳し換えてみます。

しかし、シニフィアンの存在のお陰で、皆さんの個人的な小さなシニフィカシオンが ―それは、やはり絶対的に失望するという人間的な、あまりに人間的な出生の条件に由来するのですが― 皆さんをずっと遠くに導いてくれます。(邦訳88頁)

しかし、シニフィアンの存在のお陰で、皆さんの個人的な小さなシニフィカシオンが ―それは、やはり絶対的に絶望させる/悲しむべき人間的な、あまりに人間的な種としての属性に由来するのですが― 皆さんをずっと遠くに導いてくれます。(下線部は変更箇所)

 次ですが、89頁~91頁にはchargerという語が三度使われています。

その要素のうちのあるものが、孤立し、重みを持ち、ある価値と特別な慣性力を持ち、あるシニフィカシオン、つまりそれっきりのシニフィカシオンを引き受けるse charger、そういう変形のことです。

シニフィアンがこのようにある意味を帯びるcharge時(註:chargeは、最後のeにアクサン・テギュが付く過去分詞)

「雌豚」という語が曖昧なある意味を帯びてchargeいようと(註:chargeは、最後のeにアクサン・テギュが付く過去分詞)

 一つ目は代名動詞、二つ目三つ目は過去分詞で、いずれも受動的な意味です。なかでも二つ目は「ainsi charge」とだけ書かれていて、何を帯びるか示されていないので「ある意味を」と補われていますが、ここは必ずしも意味を帯びているわけではないと思います。しかし「帯びる」という語は「○○を」という直接目的語なしには使いづらく、受動態にもしづらいので別の語にしたいのですが、上の三つの下線部にぴったりな一語を探すのはなかなか難しいと思います。暫定的に「加重される」としておきましょうか。

 次です。次の箇所にかぎらず、シュレーバーが使う「Nervenanhang」という語の訳を、岩波版は一貫して「神経附属物」としていますが、ここ以外も全て「神経接続」と訳すべきだろうと思います。あと、inspirationを「(思考)吹入」という精神医学用語として訳したほか、私は直訳が好みなのでちょこちょこ手を入れてみます。

 たとえば、彼の言う「基本語」の一つである「神経附属物(Nervenanhang)」という語を取り上げてみましょう。シュレーバーは、啓示という仕方で彼へとやって来る語、つまりまさに「神経附属物」を通ってやって来る語をまったく特別なものとして区別しています。これらの語は特別なシニフィカシオンをもって繰り返されるのですが、そのシニフィカシオンは彼には完全には解らないものです。たとえば、「魂の殺害(Seelenmord)」という語もそういう語の一つです。それは彼にとっては謎に満ちてはいますが、それが特別な意味を持っていることを彼は知っています。これらの語以外は、彼は我々と同じディスクールで話しています。(邦訳90頁)

 たとえば、彼の言う「基本語」の一つである「神経接続(Nervenanhang)」、神経の付加という語を取り上げてみましょう。シュレーバーは、吹入という仕方で彼へとやって来る語、つまりまさに「神経接続」を通ってやって来る語を完璧に区別しています。これらの語は選択的なシニフィカシオンをもって繰り返されるのですが、そのシニフィカシオンは彼には常には良く解らないものです。たとえば、「魂の殺害(Seelenmord)」という語もそういう語の一つです。それは彼にとっては謎に満ちてはいますが、それが特別な意味を持っていることを彼は知っています。いずれにせよこれらの語について、彼は我々と同じディスクールで話しています。(下線部は変更箇所)

 次の箇所では、邦訳のダッシュの中のj'entendsは「私が言いたいのは・・・」という意味だと思います。ほか、やはり私は直訳が好みなのでちょこちょこ手を入れてみます。

 さて次に、現実界があります。つまり、全く現実的に言葉として口にされたもの、他者の手へと渡ったムスカードの玉です。現実界のパロールが ―それは発言された言葉として聞こえるのですが―、 領野の別の点に、それもどこでもいいというのではなくて正に他者に、すなわち外的世界の要素としてのマリオネットの中に現われるのです。
 言葉がその媒介者となっている大文字のS、それは普通に人が考えているようなものではないことを精神分析は警告しています。まず第一に現実としての人物、それは場所を占めているという限りで、皆さんの前にいる人です。人間が存在するところではこの現実としての人物もいるのです。それは場所を占めています。(邦訳91~92頁)

 さて次に、現実界があります。つまり、全く現実的な分節化[発音]、他者の手へと渡ったムスカードの玉です。現実的パロールが ―つまり分節化[発音] されたパロールのことが言いたいのですが―、 領野の別の点に、それもどこでもいいというのではなくて正に他者に、すなわち外的世界の要素としてのマリオネットの中に現われるのです。
 パロールがその媒介者となっている大文字のS、それは普通に人が考えているようなものではないことを精神分析は警告しています。まず第一に現実的人物が居て、それは場所を占めているという限りで、皆さんの前にいる人です。人間存在が現前するところではこの現実人物もいるのです。それは場所を占めています。(下線部は変更箇所)

 次も小さな訂正ばかりですが、辞書どおりの訳にしていきます。

そしてSと対置する大文字の他者の他者性があります。つまり、大文字の他者、我われが知ることのできない主体、象徴的なものという性質を持つ大文字の他者、見るものを越えた彼方に人が求める大文字の他者です。(邦訳92頁)

そしてSと対応する大文字の他者の他者性があります。つまり、大文字の他者、我われが知ることのできない主体、象徴的なものという性質を持つ大文字の他者、見るものを越えた彼方人が差し向かう大文字の他者です。(下線部は訂正箇所)

 だんだん小さな訂正ばかりになってきましたが、今回は次が最後で、ここはラカンの意図の読解にはあまり影響しないかもしれません。

私達は、妄想体系の全容を、その全開花の時点で伝えている一人の人物を得るという幸運に恵まれています。よくされるように、この症例が何故発病したかを問うとか、彼の「前精神病期」の記録を作るとかいった成因的な方向で事態を取り上げる方法、そういう結局は説明しがたい混乱の種でしかないことは避けて、私達はフロイトの症例検討において示されているままにしておきましょう。(邦訳93頁)

私達は、妄想体系の全容を、その全開花の時点で伝えている一人の人物を得るという幸運に恵まれています。よくされるように、この症例が何故その全開花に達したかを問うとか、彼の「前精神病期」の記録を作るとかいった成因的な方向で事態を取り上げる方法、そういう結局は説明しがたい混乱の種でしかないことは避けて、私達はフロイトの症例検討において示されているままにしておきましょう。(下線部は訂正箇所)

 と、いろいろと指摘しましたが今回この章はこのへんにしておきましょう。

精神病〈上〉 
ジャック ラカン (著), ジャック・アラン ミレール (編集), 小出 浩之 (翻訳), 川津 芳照 (翻訳), 鈴木 国文 (翻訳), 笠原 嘉 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (1987/03)

 クローデルの翻訳で知られる渡辺守章氏が亡くなったそうです。ラカンがセミネール8巻で論じているクローデル『人質』を私が翻訳で読めたのはもちろん渡辺氏のおかげです。ところで岩波文庫『繻子の靴』(私は未読です)の巻末の解説で渡辺氏がラカンに触れているのですが、そこで『セミネール卿』とあったのはおそらく『セミネールⅧ』のワープロ文字化けがそのまま活字化されたんだろうなあ、というしょーもないことが記憶に残っています。

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