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2021年4月17日 (土)

ラカン『精神病』4章再々読(1~2節)

 ラカンの読み直しですが今回は3巻4講、女性患者の「私、豚肉屋から来たの」という台詞が印象的な章をまた考えてみることにします。

 女性患者が報告した出来事は、隣家の女のところに通ってくる男とすれ違う際に、患者が「私、豚肉屋から来たの」と語ったら、相手から「truie雌豚」と罵られたということです。これらは実際に交わされた会話ではなく、患者が幻聴を中心に作り上げた体験記憶であろうと思われます。診察時のラカンとの会話によれば、患者の「私、豚肉屋から来たの」という言葉は、「cochon雄豚/豚肉」を念頭に置いた「暗示」なのだということです。なお、「雄豚」も「雌豚」も、仏和辞典によれば罵りの言葉として使用可能で、前者は不潔、好色、卑怯といった点を罵るときに使うようですし、後者は女性に対して「いやらしい女」という意のようです。ラカンの症例提示では「cochon雄豚/豚肉」と「雌豚」という語が使い分けられているので、ここは豚の性別を区別しているようにみえ、邦訳では前者を「雄豚」と訳しています。しかも女性患者は「雌豚」という侮辱の言葉を聞いたのですから、「雄豚」はすれ違った男性への侮辱の[実際には発せられなかった]言葉であるかのように(特に邦訳では)読めます。このように考えると、ラカンが患者の台詞「私、豚肉屋から来たの」(女性らしい言葉で訳されていますがフランス語では中性的な表現です)について、「cochon雄豚/豚肉」を「暗示して」いるというからには、この「私、豚肉屋から来たの」という台詞の「私」は相手の男を指すようにみえます(日本語でいうなら、女性が男性を揶揄してすれちがいざまに「俺、豚肉屋から来たぜ」と言ったような場面を想定するとよいでしょう)。そのためでしょうか、岩波版の訳も、初版は「私、豚肉屋から来たの」と女性らしい言葉遣いでしたが、のちの改訂版では「豚屋から来た」として、男性の台詞とも受け取ることができるように工夫されています。

 私も、前回の読み直し(ラカン『精神病』4章再読: フロイトの不思議のメモ帳 (cocolog-nifty.com) )では、岩波の改訂版に全面的に従って、「私、豚肉屋から来たの」は、すれ違う男のことを話題にしており、よって男への「暗示」と岩波が訳している語は、むしろ男への「あてこすり」に近い意味ではないかなどと考えました。

 今回、じっくり読んでみたのですが、「cochon」はむしろ単に「豚肉」という意味であって、豚の性別に言及しているわけではないのではないか、つまり「私、豚肉屋から来たの」は、あくまで女性自身が過去に、比喩的に「肉のように切り刻まれた」と言えるほどひどい目に遭ってきたことを指しているのであって、男が豚だとは言っておらず男に対する「あてこすり」でもないと思うようになりました。

 訳を見直していきましょう。章タイトルは、岩波では「私、豚肉屋から来たの」または「豚屋から来た」ですが、「私はシャルキュティエ(加工肉職人)のところから来ました」としておきます。「シャルキュティエ」としたのは、(以前も書きましたが)ここに「豚」とか「豚肉」という語を使ってしまうと、あとでラカンが豚を話題にする箇所を先取りしてネタバレしてしまうだけでなく、論の焦点もわかりにくくなってしまうと思うからです。

 1節にはまだこの症例は出て来ません。翻訳に気付いた点を挙げておきます。まず次の箇所は、精神病と神経症の現実喪失について、段階の違いを論じていることがやや伝わりにくいと思います。

精神病においては、外的現実との間にこそ、穴・断絶・裂け目があるのです。神経症の場合、主体において現実からの部分的な逃避、つまり密かに保持されている一部の現実と直面できないということが起こるのは二次的なことです。(岩波版73頁)

精神病においては、外的現実との間にこそ、ある時点で、穴・断絶・裂け目があったのです。神経症の場合、まさに第二段階でこそ、主体において現実からの部分的な逃避、つまり密かに保持されている一部の現実と直面できないということが起こるのです。(下線は改訳箇所)

 次ですが、pieceは、パソコン用語でも使われる「パッチ」、「継ぎ当て」の意だと思います。大意は変わりませんが。

私達は、外的世界の構造の中の穴・欠落・断絶の点が、精神病的幻想がもたらす断片によって埋められるという考えを、まず出発点としましょう。(岩波版73頁)

私達は、外的世界の構造の中の穴・欠落・断絶の点が、精神病的幻想がもたらす継ぎ当てによって埋められるという考えを、まず出発点としましょう。(下線は改訳箇所)

 1節ではもうひとつ些細なところですが、75頁3行目の「新たに投影される」は「de nouveau」なので「再び」「もう一度」です。

 75頁にもうひとつ比較的大きな訂正点がありますが、これは前回の読み直しで扱いました。

 2節から、例の女性患者が出て来ます。何度も出てくる「私、豚肉屋から来たの」は、「私はシャルキュティエのところから来ました」と読み替えていただき、「cochon雄豚」は「豚肉」と読み替えていただきましょう。最初にまとまって出てくるのは次の箇所です。

 「私、豚肉屋から来たの」、この言葉に何か了解すべきことがあるとしたら、それは、「cochon、雄豚(下品な奴)」といった意味と関係があることだと言えましょう。しかし私は、「cochon雄豚」とは言いませんでした。私は「porc豚」と言ったのです。
 すると彼女は同意しました。(岩波版78頁)

 できるだけ直訳してみます。

 「私はシャルキュティエのところから来ました」、この言葉に何か了解すべきことがあるとしたら、は、「cochon豚肉への言及があることだと言えましょう。 私は「cochon豚肉」とは言わず「porcポーク」言いました
  彼女は同意しました。(下線は改訳箇所)

 ここで「cochon豚肉」と「porcポーク」はほぼ同じ意味で、単に言い換えだと思います。次の箇所に移りましょう。

「私は、〈私、豚肉屋から来たの〉、と言いました」。そう言った後、彼女は相手の男が言ったことをうっかり私にもらしてしまいました。相手の男は私に彼女に何と言ったのでしょう。「雌豚(truie)」と言ったのです。これは、牧場の恋人同士のやり取りです。「糸」と「針」、「ねえあなた」、「ねえ君」、実際に起こっているのはそういうことです。
 このことに少々留意してみましょう。皆さんは、「それはその通りだ、ラカンが私達に教えているのはそのことだから。つまり、パロールにおいて主体は自分のメッセージをひっくり返った形で受け取る」とおっしゃるかもしれません。(岩波版79頁)

 ここで「牧場の恋人同士のやり取りla reponse du berger a la bergere」を辞書で引くと「(話にけりをつけるような)するどい応答」です。さらに、「それはその通りだLe voila bien content」は三人称だからラカンを指していそうなのと、「おっしゃるvous dites-vous」は「思う」か「互いに言い合う」となりますので、改訳してみます。

「私は、〈私はシャルキュティエのところから来ました〉、と言いました」。そう言った後、彼女は相手の男が言ったことをうっかり私たちにもらしてしまいました。相手の男は私に彼女に何と言ったのでしょう。「雌豚(truie)」と言ったのです。これは、見事な切り返しです。「糸」と「針」、「ねえあなた」、「ねえ君」、実際に起こっているのはそういうことです。
 このことに少々留意してみましょう。皆さんは、「ラカンもさぞ満足だろう、ラカンが私達に教えているのはそのことだから。つまり、パロールにおいて主体は自分のメッセージをひっくり返った形で受け取る」と互いに言い合うかもしれません。(下線は改訳箇所)

 このあと、80頁、82頁、85頁に出てくる「自分自身についてのメッセージ」という箇所は、前回の検討で、「自分自身が発したままのメッセージ」という意味じゃないかと提案してみましたが、これについては現時点でもそれがよいのではないかと考えています。

 次です。

嘘の言葉も、これとは反対であるにもかかわらず、同じようにまた、皆さんが知ることのできる全てのものの向こうに目指された絶対的な他者(A)を再認することを前提としています。他者(A)の行なう再認が価値を持つのは、この他者(A)が知ることのできるものの向こうにあるということによってのみです。(邦訳83頁)

 一文目で他者(A)は再認されるもの、二文目では再認を行なうものになってしまっていますが、後者が少し違うと思います。なお、ここは64~65頁あたりで主人と奴隷が承認し合うという事態を論じていた箇所と関連しているといえ、「再認」よりも「承認」という訳語が良いかも知れません。それと、1節で「抑圧について何も知ろうとしない」などと論じていた箇所の「知るsavoir」と、ここの「知るconnnaitre」を一応区別できるよう訳してみます。

嘘の言葉も、これとは反対であるにもかかわらず、同じようにまた、皆さんが認知することのできる全てのものの向こうに目指された絶対的な他者(A)を再認することを前提としています。他者(A)にとってこの再認が価値を持つのは、この他者(A)が、認知されたものの向こうにあるということによってのみです。(下線は改訳箇所)

 この段落の後半は、岩波の訳文が、初版と、後の版とで違っています。初版の間違いを前回の読み直しで取り上げましたが、改訂版は直っていて良いと思います。しかし残念ながら改訂版では、この段落の最後の一文が、初版にはあったのに抜けています。次のような些細な一文ですが。

そこに誕生する何かがあるのです。

 直後の段落に進みます。

 誰かに「君は私の妻だ」という時、あなたは暗に「私は君の夫だ」と相手に言っています。しかし、まずあなたが彼女に、「君は私の妻だ」と言います。それはつまり彼女を、あなたによって再認されている位置へと置くことです。(・・・)そしてそれがたとえ嘘の場合でも、こういう契約が働いていて、それが後に続くディスクール全体を条件づけています。こうして私は、行為や態度等をもその内に含むディスクールによって、象徴の劇を演じさせられているマリオネット達の身振りを理解するのです。そしてそのマリオネットこそがあなた自身なのです。(邦訳83頁)

 「契約engagement」は、この段落のもっと後ろで「巻き込むengager」と訳されていたり邦訳58頁で「任ずる」と訳されたりしているので、それらに合わせて訳語を選ぶべきと思います。このほか「entendre par...~で~を言おうとする」という成句表現、などちょこちょこ訳し直しておきます。

誰かに「君は私の妻だ」という時、あなたは暗に「私は君の夫だ」と相手に言っています。しかし、まずあなたが彼女に、「君は私の妻だ」と言います。それはつまり彼女を、あなたによって再認されるという立場に設立することです。(・・・)そしてそれがたとえ嘘の場合でも、こういう巻き込み/任命が働いていて、それが後に続くディスクール全体を条件づけています。こうして私は、行為や足取り等をもその内に含むディスクールということで劇に捕らわれているマリオネット達の身振りのことを言わんとしています。そしてその一人目のマリオネットこそがあなた自身なのです。(下線は改訳箇所)

 次です。

言い換えれば、マリオネットが話す時には、話しているのは、そのマリオネットではなく、その背後にいる誰かです。問題は、この場合、患者が出会う人物の機能は何かを知ることです。私達が確かに言い得ること、それは、患者にとっては、その場合に患者に話すのは明らかに現実の何かだということです。(邦訳84頁)

 最後の文が、強調構文として訳されているようなのですが、「c'est...qui...」ではなく「il est...qui...」なので、強調構文と解してよいのか疑問に思います。意味は大きく変わらないかもしれませんけれど。

言い換えれば、マリオネットが話す時には、話しているのは、そのマリオネットではなく、その背後にいる誰かです。問題は、この場合、患者が出会う人物の機能は何かを知ることです。私達が確かに言い得ること、それは、患者にとっては、彼は明らかに現実的な話す何かだということです。(下線は改訳箇所)

 次の引用箇所で、女性患者が自らを「切り刻まれたcochon」だとも「雌豚」だとも言っています。ここを読むと、やはり「cochon」を「雄豚」と訳すと意味が通らず、なので「豚肉」と訳す方が良いことがはっきりわかると思います。

彼女は「私、豚肉屋から来たの」と言っています。ところで、誰が豚屋から来たのでしょう。それは切り刻まれた雄豚(cochon)です。彼女は自分でそう言っているのを知りませんが、それでもやはり彼女はそう言っているのです。彼女が話す他者、その他者に、彼女は自分自身のことを言います。「雌豚の私、私は豚肉屋から来ました。私はすでに解体され、バラバラの身体、〈切り離された四肢〉、妄想者。そして私の世界も、私自身と同じようにバラバラになってしまいました」。(邦訳85~86頁)

彼女は「私はシャルキュティエのところから来ました」と言っています。ところで、誰がシャルキュティエのところから来たのでしょう。それは切り刻まれた豚肉(cochon)です。彼女は自分でそう言っているのを知りませんが、それでもやはり彼女はそう言っているのです。彼女が話す他者、その他者に、彼女は自分自身のことを言います。「雌豚の私、私はシャルキュティエのところから来ました。私はすでに解体され、寸断された身体、〈切り離された四肢〉、妄想者。そして私の世界も、私自身と同じようにバラバラになって消え去ってしまいました」。(下線は改訳箇所)

 次に移りましょう。

でも、もしこれまで私が申し上げてきた事が正しいのなら、つまりもし答えが語りかけ(ルビ:アロキュシオン)、つまり患者がまさに言っていることであるとしたなら「私、豚肉屋から来たの」は、「雌豚」という答えを前提としていることになります。
 真のパロールにおいては、これとは全く逆です。語りかけは答えなのです。パロールに答えるもの、それは、実際、「僕の妻」、「私の師」のように、他者(A)を分かち持つものです。だからその場合、この語りかけの方が答えよりも先にあります。(邦訳86頁)

 途中で段落が変わった後、「真のパロールにおいては、これとは全く逆です」と言ってすぐ「語りかけは答えなのです」と、前段と同じことを(順序だけひっくり返して)言っているという、繋がりがわかりにくいところです。海賊版も苦労したのか、前段の「l'allocution」を、後段では「la locution」という別単語としてアクロバチックに処理しているものもありますが、それでもすっきりしないと思います。私は「全く逆」というのは、前段では「語りかけ・・・は・・・答えを前提としている」のに対し、後段では「語りかけの方が答えよりも先にある」(訳語を揃えるなら「答えは語りかけを前提としている」)という対置を指しているのだと思います。訳には少し言葉を補って変更してみます。

でも、もしこれまで私が申し上げてきた事が正しいのなら、つまりもし[後に続いた「雌豚」という]答えが語りかけ(ルビ:アロキュシオン)、つまり患者がまさに言っていることであるとしたなら「私、豚肉屋から来たの」は、「雌豚」という答えを前提としていることになります。
 真のパロールにおいては、これとは全く逆です。語りかけは[それだけで]答えです。パロールに答えるもの、それは、実際、「僕の妻」「私の師」としての他者(A)の認定です。だからその場合、答えはこの語りかけを前提としているのです。(邦訳86頁)

 87頁には「foutuだめになった」という語が数カ所でてきます。ここの「foutu」は「作られた」という意味だとと思います。これはシュレーバーが周囲の人間達に付けた呼び名に対する仏訳の一部として提案されているのですが、平凡社ライブラリーで「かりそめに急ごしらえされた男たち」という秀逸な訳が当てられているように、そこには「こしらえられた」というニュアンスがあるからです。

 長くなってきたので、この記事は、2節の終わりまででいったん終わりにしましょう。

精神病〈上〉 
ジャック ラカン (著), ジャック・アラン ミレール (編集), 小出 浩之 (翻訳), 川津 芳照 (翻訳), 鈴木 国文 (翻訳), 笠原 嘉 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (1987/03)

 岩波書店版は、76頁真ん中あたりで、初版の「職場の上司」から「病棟医長」に改訳されている箇所もあったりと、異なる版の読み比べも楽しいかも知れません。

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