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2021年5月

2021年5月18日 (火)

テレンバッハ『メランコリー』(20)

 久しぶりに、テレンバッハの主著『メランコリー』に紹介された症例の検討の続きをしましょう。

 今回は「症例20」を扱う番ですが、じつはこの症例は、翻訳上の問題がほとんどないことと、病前性格についてはほとんど説明がないことから、どう扱ってよいかとしばらく迷っていました。単に要約するだけの紹介というのでは面白くありません。ここらへんは、症例19から妊娠・出産がメランコリーのきっかけとなるような症例がいくつか並んでいる文脈なのですが、ちょうど、症例19の前頁になぜか症例番号なしの別枠で紹介されている例が興味深いのでそちらを取り上げてみましょう。

 ドイツ語では、「Hoffnung希望」という語を用いた「in Hoffnung sein希望の中にある」という言い方で、婉曲に「妊娠している」という意味になるという事実が、まずは前提にあるようです。

 次に紹介する女性患者は、「心から結婚を望んでいたが、結婚後、彼女の女友達の婚礼の後で、はじめて生理期間中に憂鬱になった。この場合、月経がきたということは、「まだ[子供が]期待できない」ということと同義であった」「女性は月経期間中は例外なく「期待」のない状態にある」といった前置きの後で紹介されています。

女性患者フランツィスカ・Wは、いつも陽気で、ことのほか働き者で、良心的で自制心の強い女性であり、結婚前に性的関係を持ったことはなかった。彼女は子供をたくさんほしかったが、夫は反対だった。患者には、夫のこの無欲さがよくわからなかった。彼女は、自分が孤独で無視されていると感じ、そのために悲しい憂鬱な気持ちになった。このような状況で(1922)、義兄との間にごくときたま内密な関係を持つようになった。そのことは誰にも知られず、彼女はそれを《懺悔して済ませて》しまっていた。1927年のある日、姦通は重く罰せられるということを本で読んで、このことが9か月間、彼女の頭を離れなかった。彼女は徐々にメランコリーに陥って、明けても暮れても、《私は罪を犯した、夫に対する不義をはたらいた》といって自分を責めた。当時夕方夫が帰宅すると、彼女の気分は軽くなった。この時期に生理がとまった。彼女は妊娠の期待を抱いた。そして、短期間でメランコリーは消褪した。

 ここで、最後から二つ目の文、「彼女は妊娠の期待を抱いた」は、原文で「Sie kam in Hoffnung.」とありますが、「in Hoffnnung kommen」は端的に「妊娠する」という意味のようですから、翻訳は「彼女は妊娠した」とすべきと思います。そうであればこそ、ドイツ語の慣用用法と月経中の気分との関連についての前置きが生きてくるでしょう。

 生物学的には、月経前に抑うつ・不機嫌になって月経が始まると改善するということが多いと思いますが、この例のように月経開始とともに気分が落ち込む場合には、妊娠の期待との関連を考えてみても良いのかもしれません。

 それにしても、この女性は、「良心的で自制心の強い女性」とされながら、義兄と姦通してしまうというのがどうもアンバランスであって、ここらへんは、例によって、本書全体で主張されている病前性格論と、実際に紹介される個々の症例の行動特徴とがしばしば一致しないという難点の好例だといっても良いと思います。本書では、不倫関係があったと言及されるのはここまでで3人目です。医師に不倫歴を告白したのが20人中3人ということは、実際にはもっと居たのでしょう。これは当時の一般の不倫率と比べて多いのかどうかはわかりませんが、メランコリー患者群の病前のあり方は、並外れて良心的だとまではいえない、とは言ってよいのではないでしょうか。

メランコリー [改訂増補版]
H. テレンバッハ(著), 木村 敏 (翻訳)
出版社: みすず書房; 改訂増補版 (1985/12/5)

2021年5月10日 (月)

ラカン『精神病』5章再々読(1節まで)

 第5章に移ります。この章も数年前に取り上げました(ラカン『精神病』5章再読: フロイトの不思議のメモ帳 (cocolog-nifty.com))が、今回全文を原語で見直してみるとかなり不十分だったと思います。

 まず、以前も取り上げた冒頭部分。前回は邦訳の「蓋をせず」という部分を原文どおり「白日の下に」としたほうがよいと提案しました。そこはいま読み返してもやはり「白日の下に」としたほうがよいと思いますが、今回もさらに気になるところが出てきました。

 先日症例検討会の際に、ある重篤な患者を取り上げましたね。
 それは決して故意に選んだ症例ではありません。この症例は無意識を蓋をせずに働かせていました。もっともそれを精神分析上のディスクールに移行させるのは困難でしたが。(邦訳97頁)

 上の二段目、C'etait un cas clinique que je n'avais certainement pas choisi, mais qui faisait en quelque sorte jouer a ciel ouvert l'inconscient, ...ですが、ここは、副詞certainementの位置がpasよりも前なので、「選んだ」が全否定されていなくてはなりません。しかもここははっきりと関係詞節内を否定して「あれは私が選ばなかった症例でした」と書かれています。ラカンはあくまで、自分が先日症例検討会で取り上げた症例について、かなりきっぱりと「あれは確かに私が選ばなかった症例でした」と言っているのです。これだけを読むといったいどういう事情なのかわかりにくく、だからこそ岩波版では、「(私が)決して故意に選んだ症例ではありません」と、関係詞節ではなく主文を否定しているように訳したうえ、部分否定に近いぼんやりとした言葉が補われています。

 ところで、フランスの精神病院では、教授と聴衆が講堂で待っているところへ、病棟医たちが患者を病棟から講堂へ連れてきて、教授と患者が聴衆の前に立って公開面接が行なわれ、診察が終わると患者は帰されて、講堂ではひきつづき教授の講義や聴衆との意見交換が行われる、というスタイルでの患者紹介が伝統的に続けられています。これを想定すると、上に引用した箇所に特に不可解なところはなくなります。つまり、先日の患者紹介では、ラカンが特に選んだわけではなく病棟医たちが患者を選んで連れてきた、あるいは、ラカンは別の患者を選んでおいたのに別の患者が講堂に連れられて来てしまったということでしょう。選んでおいた患者が公開診察を直前に拒んだり、所用で外出したりするとよくあることですし、手違いもありえます。こう考えると、上の箇所は1行目から単に直訳すれば意味が通ります。

 先日、症例紹介presentationの際に、我われはある重篤な患者を診察voirしました

 それは確かに私が選ばなかった臨床例でしたが、この症例は無意識をいわば白日の下に働かせていました。もっともそれを精神分析上のディスクールに移行させるのは困難でしたが。(代案、下線部は変更箇所、原語を適宜補って強調した)

 これに関連してもう一箇所、98頁10行目に「予備面接において明らかでしたが」とありますが、原文はdans l'interrogatoireとあるだけですので、「問診において」とか「一連の質問で」でよいでしょう。岩波版の訳者はおそらく、日本で普通に医局や講堂で行われるような、患者本人が参加しない場での症例検討会を想定したので、言葉を補って、症例検討会よりも前に面接があったとせざるを得なかったのだろうと思われます。

 さて、この患者においては、家庭内でのコルシカ方言の世界と、家庭外のフランス語での生活とが分かれていたという点が注目されています。私は今回遅ればせに気付いたのですが、コルシカ方言というのはフランス語の方言ではなくイタリア語の方言なんですね。これらふたつの言語にはかなりの相違を想定すべきでしょう。

 以下の引用箇所では、この方言の世界での出来事について患者が語れなかったように書かれているのに、もう少し後ろには、患者から得られた情報が書かれているので、けっきょく公開診察の際に患者は語ることができたのかできなかったのか、どうもはっきりしない気がします。

第一に、予備面接において明らかでしたが、コルシカ方言で登録されていることはどんな事も思い出すreevoquerことができないということdifficulte、つまり彼が母親と話した唯一の言葉である幼年時代の方言では、自分を表現することができないdifficulteということがあります。たとえば、彼に、方言で喋ってごらんとか、父親と交わした言葉を話してrepeterごらんと促すと、彼は「うまく言えないんです」と答えるのでした。(邦訳98頁、疑問点に原語を補った)

 邦訳だけでなく原書を読んでもわかりにくく、この連休中何度も考えてみましたが、結局、avoir de la difficulte a+inf.という表現を、邦訳は「~ことができないということ」としていますが、辞書では「~するのに苦労する/難儀する」とあるのでそのように(つまり、苦労の末なんとか〜することができた、と)考えてみるとわかるような気がします。それと、ネットで読める海賊版(ALI版とStaferla版)を参考に、ここでの患者の発言内容も変えてみます。さらに、reevoquerという語は辞書にはありません(「思い出す」という意味なら単にevoquerでよいのに、わざわざ「再びevoquerする」という不自然な語が用いられています)ので、この語についても、後ろを参考にして訳し換えてみたいと思います。

第一に、一連の質問において明らかでしたが、コルシカ方言で登録されていることはどんな事もその場に持ち出すreevoquerことに苦労したということ、つまり彼が母親と話した唯一の言葉である幼年時代の方言では、自分を表現することに苦労したということがあります。たとえば、彼に、方言で喋ってごらんとか、父親と交わした言葉を繰り返してrepeterごらんと促すと、彼は「あなたが私に[フランス語で]話していると、うまく出て来ないんです」と答えるのでした。(代案、下線部は変更箇所、角括弧内はStaferla版の補足に従った)

 たしかに我われも、生まれ育った土地の方言とぜんぜん違う言葉を話す人たちの中では、方言で話しにくいものです。私はかなり方言のきつい地域で育ったのでよくわかります。

 次です。poussee(最も平易な訳語は「圧力」)という語は、ラカンを読んでいると「(欲動の)衝迫」という意味で用いられたり、「poussee a la femme女性化への推力」という表現で使われたりと多義的に使用されるのですが、ドイツ語由来の医学用語で言う「シュープ」(ほぼ「急性増悪」という意味だが、完全には戻らないという含意がある)という意味もあるようです。ドイツ語だと衝迫はDrang、シュープはSchubと使い分けられるせいもあってこれまで私は気付きませんでした。ほか、できるだけ直訳にしてみましょう。

精神病の最初の圧力、つまり正当にも、前精神病期といわれている病相と、精神病の病相・・・(以下略)(邦訳101頁)

精神病的なものの最初のシュープ、つまりそれなりの根拠をもって前精神病期といわれている病相と、精神病の病相・・・(以下略)(代案、下線部は変更箇所)

 次です。il est...que...という表現を岩波版では強調構文と解釈しているようですが、ilはque以下を指すのではなく直前に出てきた語を指しているのではないでしょうか。

ここで私達は、ある現象を前にしています。つまりそれは前意識的現象です。昨今ではこういう現象についてこの前意識的という用語はもはや使われないので、事がごちゃごちゃになってしまうのです。フロイトが夢の力動の中に介入させ、『夢判断』の中で大きな意味を与えているのは、この前意識という次元です。(邦訳101頁)

ここで私達は、ある現象を前にしています。つまりそれは前意識的現象です。昨今ではこういう現象についてこの前意識的という用語はもはや使われないので、事がごちゃごちゃになってしまうのです。それ[その現象]は、フロイトが夢の力動の中に介入させ、『夢判断』の中で大きな意味を与えているこの前意識という次元にあるのです。(代案、下線部は変更箇所)

 次です。ラカンはフロイトの仏訳を読み上げていますが、ラカンが読み上げる仏文を読んでもフロイトの原文を参照しても、代名詞が指すものや係り結び?がすこし違うと思います。

「(・・・)懲罰夢を生み出すのは、抑圧されたものから不意に出て来る無意識的欲望ではなくて、無意識的欲望とは逆の方向を持ち、逆の形を取る欲望、つまり自我に属する無意識の、正確には前意識の、罰しようとする欲望なのである」。
 「Verneinung(否定)」とは異なったメカニズム、フロイトのディスクールの中にしばしば現われるこのメカニズムに注意を促すことによって、徐々にみなさんを導いて来ましたが、(・・・)(邦訳102頁)

「(・・・)懲罰夢を生み出すのは、抑圧されたものから不意に出て来る無意識的欲望ではなくて、抑圧されたものとは逆の方向を持ち、逆の形を取る欲望、つまり無意識ではあるが ―正確には前意識ではあるが― 自我に属する罰しようとする欲望なのである」。
 「Verneinung(否定)」とは異なったメカニズム、フロイトのディスクールの中にしばしば現われるあるメカニズムに注意を促すことによって、徐々にみなさんを導いて来ましたが、(・・・)(代案、下線部は変更箇所)

 フロイトからの引用箇所は抑圧について語っていますが、段落が変わってラカンは、「抑圧」でも「否定」でもないメカニズム(つまり「排除」)について語り始めていると思います。下線部が「この」になっていると、前段の「抑圧」を指していることになってしまいます。

 このように抑圧か否かという二者択一と考えてしまうという誤解から、次の引用箇所の2段落目の余計な補足も生じてしまったのかも知れません。

 今問題にしている精神病のメカニズムは、神経症の場合に私達がいつも係わり合うメカニズム、なかんずく抑圧というメカニズムと同質のものではないことを予め言っておきます。もちろん、そのことに気がつくためには、まず抑圧とは何を意味しているのかということ、つまり抑圧はひとつのランガージュの現象として構造化されているということを理解することから始めなければなりません。
 問題は、抑圧という時、私達は精神病に固有のメカニズムを前にしているのか否かということです。(邦訳103頁)

 今問題にしている精神病のメカニズムは、神経症の場合に私達がいつも係わり合うメカニズム、なかんずく抑圧というメカニズムと同質のものではないことを予め言っておきます。もちろん、そのことに気がつくためには、まず抑圧とは何を意味しているのかということ、つまり抑圧はひとつのランガージュの現象として構造化されているということを理解することから始めなければなりません。
 問題は私達は精神病に固有のメカニズムを前にしているのか否かということです。(代案、下線部は変更箇所)

 次が今回の最後です。ここで用いられる動詞introduire(導入する)の目的語は「みなさん」です。

そういうわけで私は先回、私達の探究はどこへ向けられるべきかを、つまりそれは患者のディスクールの構造なのだということをお話ししたのです。(邦訳104頁)

そういうわけで私は先回、私達の探究を方向付けてくれるはずのものへ、つまり患者のディスクールの構造へ、みなさんを導いたのです。(代案、下線部は変更箇所)

 ここは、結局はもとの岩波版と大差ない意味になっているとおっしゃる方もおられるかも知れませんが。

精神病〈上〉 
ジャック ラカン (著), ジャック・アラン ミレール (編集), 小出 浩之 (翻訳), 川津 芳照 (翻訳), 鈴木 国文 (翻訳), 笠原 嘉 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (1987/03)

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