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2021年6月

2021年6月 7日 (月)

ラカン『精神病』5章再々読(2節から)

 5章の翻訳再検討の続きです。

 まず、“tenir(持つ/支える)という動詞は、言葉とか発言といった意味の目的語を取るときは、「述べる」という意味になる”という点などが気になった次の箇所を。ちなみに、1節で出てきたコルシカ出身の患者の抑圧内容はコルシカ方言で「支えられていた」とラカンがいうとき(2箇所)に用いられていたのは、supporterという別語です。

パロールという現象の内部そのものにおいて、私達は、シニフィアンによって示される象徴界、シニフィカシオンによって示される想像界、さらに通時的次元において正に現実的に支えられるディスクールである現実界、この三つの水準の統合を見ることができる、ということを覚えておいでと思います。
 主体は、母国語にしろそうでないにしろ、自身のラングである、シニフィアンという用具のすべてを手の内に持っており、様々のシニフィカシオンを現実へと移すためにそれを使います。(岩波版104頁)

パロールという現象の内部そのものにおいて、私達は、シニフィアンによって示される象徴界、シニフィカシオンによって示される想像界、さらに通時的次元において正に現実的に述べられるディスクールである現実界、この三つの水準の統合を見ることができる、ということを覚えておいでと思います。
 主体は、母国語にしろそうでないにしろ、自身のラングである、シニフィアンという用具のすべてを手の内に持っており、様々のシニフィカシオンを現実界へと移すためにそれを使います。(代案、下線は変更箇所)

 なお、ここで「通時的次元」というときのdimensionは、(時間的)「拡がり」という意味だと思いますが、次元という意味ももちろん含まれていると思います。

 次の箇所は、大意は変わらないんですけれども、微妙に不正確なので変更しておきます。

皆さんが非常に驚くべき発見をしたとしても、それを皆さんが伝えた時他の人がそれを追体験することができなければ、その体験は何の役にもたちません。(岩波版105頁)

皆さんが非常に驚くべき経験をしたとしても、それを皆さんが伝えた他の人がそれを再現することができなければ、その体験は何の役にもたちません。(代案、下線は変更箇所)

 次です。次の引用箇所のはじめに触れられている「図」がどんなものなのか、海賊版にも書かれていないのが難しいのですが。

 皆さんに、三つの入り口を持った図を描いて見せた時、私は妄想者のディスクールを分析するためのいくつかの異なる関係を位置づけました。そのシェーマは世界のシェーマではありません。あらゆる関係の基礎をなす条件です。垂直方向には、主体、及び他者性そのもの、即ち他者(A)の次元があります。これがパロールの領域です。パロールという機能の核心をなすことは、他者(A)の主体性、つまり他者(A)は主体と同様、言いくるめたり、嘘をついたりすることができる者だ、という事実です。全く現実的な対象という場が、この他者(A)の中にあるはずだとお話しした時、この現実を導入するのは、もちろん常にパロールの機能なのです。どんなものであれ何かが、主体や他者(A)に関して、現実における何らかの基礎と関わることができるためには、どこかに騙さない何かがあるのでなければなりません。(岩波版105頁)

 皆さんに、三つの見出しを持った図を描いて見せた時、私は妄想者のディスクールを分析するためのいくつかの異なる関係を位置づけました。そのシェーマは世界のシェーマではありません。あらゆる関係の基礎をなす条件です。垂直方向には、主体、パロール、及び他性そのもの、即ち他者(A)の登録域があります。 パロールという機能の核心をなすことは、他者(A)の主体性、つまり他者(A)は本質的に主体と同様、言いくるめたり、嘘をついたりすることができる者だ、という事実です。全く現実的な諸対象の区域が、この他者(A)の中にあるはずだとお話しした時、この現実を導入するのは、もちろん常にパロールの機能なのです。どんなものであれ何かが、主体や他者(A)に関して、現実における何らかの基礎と関わることができるためには、どこかに騙さない何かがあるのでなければなりません。(代案、下線は変更箇所)

 冒頭にある「三つの見出し」が、「主体、パロール、他性」じゃないかと思うのです。ほか、細かく直訳に直してみました。

 次に、106頁7行目に「デカルトの思惟」とあるのは、meditationがデカルトの著書名を指していて、「デカルトの省察」だと思います。

 その次の段落、アインシュタイン云々の箇所については以前に取り上げました(ラカン『精神病』5章再読: フロイトの不思議のメモ帳 (cocolog-nifty.com))。

 その次は、まず簡単な訳し落としがあるのと、「acte de foi」という成句の語釈についてです。この成句は、「信徳」「信仰のわざ」「信仰の行い」「信徳唱」「信仰の表明」「信仰の祈り」といった訳が辞書に並んでいます。全体から想像するに、信仰の表れとしての祈りという行為のことでしょうか。

 つまり、科学によって獲得された諸結果が騙さない神、すなわち容認された唯一の原理を支えているということです。私もそれは認めます。実際、自然の根底に騙す悪魔がいるなどということを示すものは何一つ見出されていません。それでもやはり、科学や実験科学の形成の第一歩にとって欠くことができなかったものは、信仰という行為であることに変わりはありません。(岩波版邦訳106頁)

 つまり、科学によって獲得された諸結果が騙さない神への参照、すなわち容認された唯一の原理を支えているということです。私もそれは認めます。実際、自然の根底に騙す悪魔がいるなどということを示すものは何一つ見出されていません。それでもやはり、科学や実験科学の形成の第一歩にとって欠くことができなかったものは、信仰表明acte de foiであることに変わりはありません。(改案)

 このacte de foiはとりあえず「信仰表明」としておきますが、少し後ろの、次の箇所にも出て来ます。そのひとつ前の段落から引用します。

 科学の発展の特色は頑固さ、執拗さ、そして大胆さですが、そういうものでもって構成されてきた科学が、このユダヤ-キリスト教的伝統の中で出現したのは、この伝統が、単に世界のみならず掟に対しても共通する唯一の基本原理を提供したからなのです。「無から」創造されたのは世界だけではありません。掟もそうなのです。この点は、しかし古来今日までずっと神学者達を悩ませ続けている合理主義と恣意主義との論争点です。それはつまり善悪の判断は、神の気まぐれとでも呼ばれるべきものに由来しているのか否かということです。
 信仰表明というにふさわしい、この決定的な一歩が可能となる点にまでユダヤ-キリスト教的思惟が徹底されたことこそが、絶対に騙すことのない何かがあるということを確立したのです。この歩みは結局のところ信仰という行為に他ならないということこそが本質的な点です。仮に、陽子、中性子などがあるだけでなく、これまで誰も考慮に入れることのなかった要素、原子物理学における余分な要素があるのだということ、つまり嘘をつく人物がいるのだということになったら、一体どういうことが起こるでしょう。(岩波版邦訳107頁)

 科学の発展の特色は頑固さ、執拗さ、そして大胆さですが、そういうものでもって構成されてきた科学が、このユダヤ-キリスト教的伝統の中で出現したのは、この伝統が、単に宇宙(世界)のみならず法(掟)に対しても共通する唯一の基本原理を措定したからなのです。「無から」創造されたのは宇宙(世界)だけではありません。法(掟)もそうなのです。この点は、しかし古来今日までずっと神学者達を悩ませ続けている合理主義と主意主義との論争点です。それはつまり善悪のクライテリアは、神の気まぐれとでも呼ばれるべきものに属しているのか否かということです。
 絶対に騙すことのない何かがあると措定するという信仰表明acte de foiというにふさわしい、この決定的な一歩が可能となったのは、この点についてのユダヤ-キリスト教的思惟の徹底性のおかげです。この歩みは結局のところこの行為acte[=信仰表明]還元されるということこそが本質的な点です。この先、仮に、陽子、中性子などがあるだけでなく、これまで誰も考慮に入れることのなかった要素、原子物理学における余分なメンバーがいるのだということ、つまり嘘をつく人物がいるのだということに我われが気付いたとしたら、一体どういうことが起こるでしょう。(改案)

 恣意主義という語は、ネットでも出て来ないので、たぶん誤植でしょう。universを世界とするか宇宙とするか、loiを掟とするか法とするかは決めがたく並列しました。

 長くなってきたので今回は次の箇所で最後にしましょう。

ごく最近の時代まで、天空の出来事を基本的な参照点として様々なことを考えるということが、あらゆる文化の中で行われてきたことを我われは知っています。天文学が天体の観察や研究を、大変進歩した形で保証してくれる文化が出現するまで、それは続いてきました。つまり、ずっと後になってユダヤ-キリスト教的立場を字義通りに取ることに同意した時以来、我われの文化は例外的なものになったのです。(岩波版邦訳108頁)

 二つ目の文に出てくる「文化」は、岩波版では「我われの文化」を指しているようですけれども、原文を見ると、「我われの文化以前に、すでに学問がかなり進んでいた諸文化」を指しているように思います。

ごく最近の時代まで、天空の出来事基本的な参照点として心にあるpresence mentaleということが、あらゆる文化の中で行われてきたという証言を我われは得ています天文学をみればその観察や考察が大変進歩した段階にあることが我われにわかる諸文化においても、それは続いてきました。つまり、ずっと後になってユダヤ-キリスト教的立場を字義通りに取ることに同意した時以来、我われの文化は例外的なものになったのです。(改案)

 この次の段落に「メンタリティー」と出てくるので、ここでもmentalの語を残しておきました。

 3節以降は、また日を改めて扱おうと思います。

 

精神病〈上〉 
ジャック ラカン (著), ジャック・アラン ミレール (編集), 小出 浩之 (翻訳), 川津 芳照 (翻訳), 鈴木 国文 (翻訳), 笠原 嘉 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (1987/03)

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