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2021年7月

2021年7月 5日 (月)

ラカン『精神病』5章再々読(3節から)

 ラカンのセミネールの再読をつづけます。

 5章3節は、『シュレーバー回想録』という、妄想や独自表現に満ちた精神病者の手記を、ラカンが仏訳をもとに解説しているので、それをさらに邦訳した文はどうしても微妙に難しいところが多くなっています。

 シュレーバーが、世界の裏打ちのしての神と、生きた神という、二つの考え方にどう折り合いを付けたかという点について述べられた、111頁最初の段落については、前回取り上げましたラカン『精神病』5章再読: フロイトの不思議のメモ帳 (cocolog-nifty.com)。その話題が続いている以下の箇所を取り上げましょう。

この隔たりは、彼にとっては次のような言い方に帰着しています。「完全な真理はおそらく四次元の様式に即して、ふたつの考え方の、人間にとっては把握されない、対角線上に存するのであろう」。
 彼はこれによって、この難問を何とか切り抜けています。それはちょうど我々が、たとえば自由と超越的必然性という二つの項を、どのように融合させて良いのか全く分からない時に、その対象とまるでそぐわないコミュニケーション、つまり形而上学をランガージュの中で使うのと同じことです。こういう時にはどこかに四次元や対角線があると言って事たれりとするか、さもなければ、この二つの項の一方を取るしかありません。(岩波上巻112~3頁)

 最初の「次のような言い方に帰着しています」の箇所は原文で「se resoudre en ces termes」となっていて、たしかに辞書では「se resoudre en...」は「~に帰着する」だとされるのですが、私はここはenの前で切って読むべきと思いました。

 「対角線diagonale」という語は、私には、多角形のイメージが強く、「平行線のあいだを交通する線」という意味には受け取れないので、「筋交い」という言葉を使ってみます。鉄道の複線区間で隣の線に乗り入れる箇所は「渡り線」と呼ばれますが、そんな感じの事態を表しているかもしれません。

この隔たりは、彼にとっては次のような言い方で解消されています。「完全な真理はおそらく四次元の様式に即して、ふたつの考え方の路線の、人間にとっては把握されない、筋交いという形で存するのであろう」。
 彼はこれによって、この難問を何とか切り抜けています。それはちょうど我々が、形而上学という、その対象とまるでそぐわないコミュニケーションのランガージュの中で、たとえば自由と超越的必然性という二つの項を、どのように融合させて良いのか全く分からない時に、そういう言い方を使うのと同じことです。こういう時にはどこかに四次元や筋交いの線があると言って事たれりとするか、さもなければ、鎖の両端の一方ずつを引っ張るしかありません。(代案)

 なお、引用箇所の後半は海賊版では約1行多くて、さらにややこしい論理になっていますけれど、スイユ版の直訳としては上のような感じになると思います。

 次は、直訳に変更したい箇所が細々と続く箇所を選んでみました。大意が変わるわけではないかも知れません。

しかし、最終段階に達した精神病的関係は、真正の次元に対していわば横に交わる次元の中へ、欺瞞という基本的弁証法を導入することはお解りいただけましたね。主体は、他者との間で信頼もしくは偽りが問題となる限りで、他者に話すことができます。しかし、被ったという想像界の基本的特徴を示す想像的な次元においてこそ、神秘的であろうとなかろうと、何であれ思考自体に存在する全ての秩序を覆すに至る絶え間ない騙し合いが、受動的な現象として、主体の実際の体験として、生み出されるのです。患者のディスクールからお解りのように、その結果、世界は、患者にとっては彼の体験したもののうち最も確かなものでありながら我々にとっては過剰幻想と見えるものへと変容してしまいます。この患者は正にこの騙し合いを自分に類似の他者との間にではなくて、現実界の保証人である第一の存在との間に保っているのです。
 シュレーバーは、彼自身が強調しているように、神との生きた体験以前に永遠の神というカテゴリーを持っていたわけでは決してありません。(岩波邦訳113~4頁)

しかし、発展の最終段階に達した精神病的関係は、真正の関係の次元に対していわば横に交わる次元の中へ、欺瞞という基本的弁証法を導入することはすでにお解りいただけましたね。主体は、他者との間で信頼もしくは偽りが問題となる限りで、〈他者〉に話すことができます。しかし、被った想像物という、想像界の基本的特徴を示す次元においてこそ、神話的であろうとなかろうと、何であれ思考自体における全ての秩序を覆すに至る絶え間ない騙し合いの実施が、受動的な現象として、主体に生きられる経験として、生み出されるのです。患者のディスクールから今後お解りいただけるように、その結果、世界は、患者にとっては彼の体験したもののうち最も確かなものでありながら我々にとっては過剰幻想と見えるものへと変容してしまいます。この患者は正にこの騙し合いのゲームを自分に類似のひとりの他者との間にではなくて、現実界の保証人である第一の存在との間に保っているのです。
 シュレーバーは、彼自身が強調しているように、無限の神との生きた体験について、それに先立つカテゴリーで待ち受けていたわけでは決してありません。(代案)

 なお、ここで「ゲーム」とした語は、次の段落では2箇所で「策略」と訳されています。

 ここでは、シュレーバーの体験の受動性は想像的な現象だとはっきり指摘されているところが印象に残りました。ドイツの精神病理学者Zuttの統合失調症論は、「立場を喪失した受動的な状態」を根源に置き、そこから、統合失調症においては、「幻聴=話しかけられるという受動的体験」に対応する視覚現象は「幻視=見るという能動的体験」ではなく「見られるという注察体験・注察妄想」だ、と述べて、統合失調症に幻視が少ない理由を説明したことがかなり有名なのですが、ラカンならば受動状態に置かれることは病の根源的な問題ではないということになるでしょう。

 次の段落のはじめ、岩波版における「誇大妄想の対極をなす」という箇所は、むしろ単に「誇大妄想の極をなす」とすべきで、ほぼ岩波版とは逆の意味になるだろう、という点については、やはりこのブログですでに取り上げましたラカン『精神病』5章再読: フロイトの不思議のメモ帳 (cocolog-nifty.com)

 次は、シュレーバーが回想録で使っているのと同じ表現をラカンがあえて採用していると思われる部分です。

シュレーバーの幻想・幻覚、つまり見事な彼の構築物の大部分は様々な要素からできていますが(岩波邦訳114頁)

シュレーバーの幻想・幻覚、つまり奇跡的あるいは不思議な彼の構築物の大部分は様々な要素からできていますが(代案)

 そして次は、上で「対角線→筋交い」とした箇所と同じ語が副詞形(diagonalement)で登場する箇所です。

何故ならば、主体と主体との関係、つまり有効なパロールの軸に対して、この次元は横に対置しているからです。(岩波邦訳114頁)

何故ならば、主体と主体との関係、つまり有効なパロールの軸に対して、この次元は筋交いに対置されているからです。(代案)

 次は、冗長なので邦訳では単に省略されていたのかもしれない二箇所と、私が複数性にこだわりたい一箇所です。

シュレーバーのテキストを隅から隅まで読むことによって、私が望んでいる構造や仕組みの基礎的要素を取り出すことができるものと、思っていました。(岩波邦訳115頁)

シュレーバーのテキストを隅から隅まで読むことによって、その途中で、私がみなさんに進んでいただこうと望んでいる構造や仕組みの要素を取り出すことができるものと、思っていました。(代案)

 次は、原文の「etudes secondaires」が「中等教育」という意味だとわかると意味が通ります。

(・・・)それにこのセミナーのレベルに相当する第二段階では、―みなさんの程度とさして変わらないといってよいでしょう― バカンスの前には短いものを何か読む伝統がありましたから、今日は私は最近書いた未刊の論文を読み上げることにします。(岩波邦訳115頁)

(・・・)それに中等教育課程の教育機関では、―みなさんの程度とさして変わらないといってよいでしょう― バカンスの前には短いものを何か読む伝統がありましたから、今日は私は最近書いた未刊の論文を読み上げることにします。(代案)

 次は、原文「sinon」のニュアンスが抜けています。

それは私達の教育のパリでの動きとか、私達のスタイル、一般的方向性を知ってもらうためのものです。(岩波邦訳116頁)

それは私達の教育の一般的方向性ではないにしても、パリでの動きとか、私達のスタイルを知ってもらうためのです。(代案)

 次は、原文は(「trop」ではなく)「assez」なので、「~過ぎる」ではなく「十分に」でしょうし、「pour que...」以下を結果として訳してみます。

その講演の時は、聴衆に合うようにと考えたので、主題が一般的に過ぎたと思います。(岩波邦訳116頁)

その講演の時は、主題が十分に一般的に思えるものでしたので、私も聴衆にうまく合わせることができたと思います。(代案)

 次は、ラカンが、今回の講義で読み上げる自著論文を、前回読み上げたシュレーバー回想録と対比している箇所です。フランス語の「lecture」には、講義という意味は無いようです。それと、「soutenir son attention」は辞書に「注意力を持続させる」とあったので、ここでの人称に修正したうえでそのまま使ってみます。

先回の講義よりも、みなさんの注意を引きつけることになると良いのですが。(岩波邦訳116頁)

先回の読み上げよりも、我々の注意力を持続させることができると良いのですが。(代案)

 だんだん語釈レベルの細かい話になってきましたが、最後も「ne serait-ce que...」という成句の訳です。

みなさんの好奇心を刺激するためにすぎませんが(岩波邦訳116頁)

みなさんの好奇心を刺激するためにすぎないかもしれませんが(代案)

 といったところで、この章の今回の検討を終わりましょう。

精神病〈上〉 
ジャック ラカン (著), ジャック・アラン ミレール (編集), 小出 浩之 (翻訳), 川津 芳照 (翻訳), 鈴木 国文 (翻訳), 笠原 嘉 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (1987/03)

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