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2021年10月

2021年10月15日 (金)

ラカン『フロイト的もの』(エクリ406~7頁)

 ラカンの論文『フロイト的もの』の読解を続けます。

 今回の最初の段落に出てくる「鳩の足」という表現は、ネットで見つかるStaferla というサイトによるとニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』の一節、「嵐をもたらすのは、もっとも静かな言葉。鳩の足で歩いてくる思想こそ、世界をみちびくもの。」(岩波文庫上巻256頁)を念頭に置いたものとのことです。この一節は、ニーチェ本人の後年の著作『この人を見よ』にも再掲されているところをみると、おそらく有名な箇所のようです。ラカンのこの論文では、前回も今回もニーチェの名が出てきますし、本論文全体が「反対者」などの小見出しで区切られているのも『ツァラトゥストラ・・・』を念頭に置いていそうな気はします。とはいえそれでもラカンの意図がスッキリわかるとはいかない気がしますが。

 4段落目には「決疑論casuistique」や「恋愛地図carte de Tendre」といった、ふだん見慣れない言葉が出て来ます。前者は、おもいきって「(宗教上の)実証実験」とでも訳してしまって良いかも知れません。 後者はラカンが好んでときどきセミネールでも持ち出す言葉ですが、この「恋愛地図」という訳語ではネットで調べても上位に出てきません。女流作家スキュデリーの作品『クレリー』に登場するらしく、スキュデリーの名で引くほうが探しやすいでしょう。Madeleine de Scudéry - Wikipedia(英語)でその地図もみることができます。

 Ici les gros sabots s’avancent pour chausser les pattes de colombe sur lesquelles, on le sait, la vérité se porte, et engloutir à l’occasion l’oiseau avec : notre critère, s’écrie-t-on, est simplement économique, idéologue que vous êtes. Tous les arrangements de la réalité ne sont pas également économiques. Mais au point où la vérité s’est déjà portée, l’oiseau s’échappe et sort indemne avec notre question : – Économiques pour qui ?
 よく知られているように真理がのしかかっているのは鳩の足であり、この足に履かせるための大きな木靴がここで登場し、その機があれば鳥を飲み込んでしまいます:彼らはこう叫びます、私どものクライテリアは単に経済論的なのです、あなたが観念論者であっても、と。現実のあらゆる配置がみな等しく経済論的なわけではありません。しかし、真理がすでにのしかっていた地点では、鳥は、「[現実の配置は]誰にとって経済的ということか?」という我われの問いと共に無傷のまま逃げ、脱出します。

 Cette fois l’affaire va trop loin. L’adversaire ricane : « On voit ce que c’est. Monsieur donne dans la philosophie. Dans un moment, entrée de Platon et de Hegel. Ces signatures nous suffisent. Ce qu’elles avalisent est à mettre au panier, et quand même, comme vous l’avez dit, cela concernerait-il tout le monde, cela n’intéresse pas les spécialistes que nous sommes. Ça ne trouve même pas à se classer dans notre documentation. »
 このたび事態は行き過ぎています。敵対者はせせら笑うのです:「どういうことか分かっております。旦那様は哲学にのめり込んでおられるのです。もうじき、プラトンとヘーゲルのお出ましです。彼らの署名で私どもには十分です。その署名が保証するものなど、くずかごに捨てるべきです。それでも、あなたがおっしゃったように、そういうことはみなすべてのひとに関わるのかもしれませんが、私ども専門家は関与しません。そんなことが私どもの参考資料集に分類されることはありません」。

 Vous pensez que je raille en ce discours. Nullement, j’y souscris.
 みなさんは、私がこの講義でからかっていると思っています。とんでもない、私はこれに同意の署名をします。

 Si Freud n’a pas apporté autre chose à la connaissance de l’homme que cette vérité qu’il y a du véritable, il n’y a pas de découverte freudienne. Freud prend place alors dans la lignée des moralistes en qui s’incarne une tradition d’analyse humaniste, voie lactée au ciel de la culture européenne où Balthazar Gracián et La Rochefoucauld font figure d’étoiles de première grandeur et Nietzsche d’une nova aussi fulgurante que vite rentrée dans les ténèbres. Dernier venu d’entre eux et comme eux stimulé sans doute par un souci proprement chrétien de l’authenticité du mouvement de l’âme, Freud a su précipiter toute une casuistique en une carte de Tendre où l’on n’a que faire d’une orientation pour les offices auxquels on la destine. Son objectivité est en effet strictement liée à la sitution analytique, laquelle entre les quatre murs qui limitent son champ, se passe fort bien qu’on sache où est le nord puisqu’on l’y confond avec l’axe long du divan, tenu pour dirigé vers la personne de l’analyste. La psychanalyse est la science des mirages qui s’établissent dans ce champ. Expérience unique, au demeurant assez abjecte, mais qui ne saurait être trop recommandée à ceux qui veulent s’introduire au principe des folies de l’homme, car, pour se montrer parente de toute une gamme d’aliénations, elle les éclaire.
 真なるものが有るという真理の他にフロイトが人間の認知に何ももたらさなかったとすれば、フロイトの発見などというものは有りません。ところでフロイトは、ユマニスト的分析の伝統を体現するモラリストたちの系譜に位地を占めています。これ[=この伝統]はヨーロッパ文化の空に横たわる銀河であり、そこでバルタザール・グラシアンとラ・ロシュフーコーは一等星とされ、ニーチェは閃光とともに素早く暗闇へ帰る新星とされています。彼ら[モラリストたち]のなかに最後に到来したフロイトは、心の動きの真正性に関する本来キリスト教的な関心によっておそらく刺激された彼らと同様に、決疑論の全体を一種の恋愛地図に落とし込む術を知っていました。そうした恋愛地図では、決疑論が向けられる勤めoffices にとっての方向性など気にも留められません。その客観性は、実際、分析状況と厳密に結びついています。分析状況は、その領野を区切る四方の壁のなかで実にうまく経過しますから、北がどちらにあるか分かるほどです。なにしろそこでは北が、分析家の身柄に向いているとみなされる寝椅子の長軸と混同されるからです。精神分析は、この領野で打ち立てられる幻影についての科学です。これはユニークでありながらかなりおぞましい経験であって、人間の狂気の原理に入門したいと望む人びとにはどれほど勧めても勧めすぎるということのないものです。というのも、この経験は、自らが幅広い狂気と類縁であることを示すことで、疎外[=精神病]を解明するからです。

 Ce langage est modéré, ce n’est pas moi qui l’invente. On a pu entendre un zélote d’une psychanalyse prétendue classique définir celle-ci comme une expérience dont le privilège est strictement lié aux formes qui règlent sa pratique et qu’on ne saurait changer d’une ligne, parce qu’obtenues par un miracle du hasard, elles détiennent l’accès à une réalité transcendante aux aspects de l’histoire, et où le goût de l’ordre et l’amour du beau par exemple ont leur fondement permanent : à savoir les objets de la relation préœdipienne, merde et cornes au cul.
 この言葉遣いは穏当なものであり、これを創出したのは私ではありません。古典的と称されるようなある種の精神分析の狂信者がかつて精神分析を、その実践を制御する諸形式しきたりに厳密に結びついているような特権をもった経験として定義するのがきかれました。これら諸形式しきたりは、ひとつの路線から変更しようがないようなのです。なぜならそれら諸形式しきたりは偶然の奇跡によって獲得されておりいながら、歴史の諸相を超越したひとつの現実への通路を保持しているからです。そこ[=上記の諸形式しきたり]にこそ、たとえば秩序嗜好と美への愛が、それらの永続的な基礎を有しています:すなわち、前エディプス的関係の諸対象、糞と尻っぺたのことです。

 最後の段落では、「et où」がどこを指すかが難しいと思ったので、備忘のため下線で強調しておきました。#公開後に変更した箇所は取り消し線で示しました。

 今回も1ページ強のここまでとします。たぶん次回この節の終わりまで進めると思います。

Ecrits
フランス語版
Jacques Lacan

 精神分析を受けるという経験は精神病の解明に役立つ、なんて主張は、現代の精神医学の主流からはぜったい受け容れられないだろうと思います。しかし精神病症状について客観的立場からの理解が可能だなんてほうがとんでもない考え方だと私は思いますけど。

2021年10月 4日 (月)

ラカン『フロイト的もの』(エクリ405~6頁)

 『フロイト的もの』の先に1頁強ほど進みます。今回は新たな節に入りますが、前節の最後にあった自問に対する自答から始まります。

 今回は(特に最後の段落が)これまで以上にややこしく、正直なところうまく意味を掴めていない気がします。フランス語を母語としないウィーンの聴衆の前でこんなことを話してどれだけ理解されたのかと疑問に思わずにはいられません。

L’ADVERSAIRE.
反対者

 Je suis sûr ici de ma réponse : – Absolument pas, si ce que je vais dire est bien comme il doit être. Le sens d’un retour à Freud, c’est un retour au sens de Freud. Et le sens de ce qu’a dit Freud, peut être communiqué à quiconque parce que, même adressé à tous, chacun y sera intéressé : un mot suffira pour le faire sentir, la découverte de Freud met en question la vérité, et il n’est personne qui ne soit personnellement concerné par la vérité.
 私はここで私の答えを確信しています:私が言おうとしていることが、然るべきものであれば、決してそんな[彼らを失望させる]ことはない、という答えです。フロイトへの回帰の意味とは、フロイトの意味への回帰です。そしてフロイトが語ったことの意味は、誰にでも伝達されうるのです。なぜなら[その意味は]、全員に差し宛てられてはいても、誰もが[個々に]それと関わるであろうからです:それに感づいてもらうためには一つの言葉で十分でしょう、フロイトの発見は真理を問いに付しており、しかも真理に個人的に関わらない者など誰も居ないのです。

 Avouez que voilà un propos bien étrange que de vous jeter à la tête ce mot qui passe presque pour mal famé, d’être proscrit des bonnes compagnies. Je demande pourtant s’il n’est pas inscrit au cœur même de la pratique analytique, puisque aussi bien celle-ci toujours refait la découverte du pouvoir de la vérité en nous et jusqu’en notre chair.
 みなさんに認めていただきたいのですが、ここにあるのは、好ましい仲間たちから追放され、むしろ評判の悪いものとして通用しているこの言葉[=真理]でみなさんの頬をひっぱたくような、きわめて異様な話題ですね。私はそれでも、この言葉は分析実践の核心そのものに記載されていないかと問います。なにしろ、いずれにせよ分析実践は、我われひいては我われの肉体のうちにある真理の力の発見をつねにやり直すものだからです。

 En quoi l’inconscient serait-il en effet plus digne d’être reconnu que les défenses qui s’y opposent dans le sujet avec un succès qui les fait apparaître non moins réelles ? Je ne relève pas ici le commerce de la pacotille nietzschéenne du mensonge de la vie, ni ne m’émerveille qu’on croie croire, ni n’accepte qu’il suffise qu’on le veuille bien pour vouloir. Mais je demande d’où provient cette paix qui s’établit à reconnaître la tendance inconsciente, si elle n’est pas plus vraie que ce qui la contraignait dans le conflit ? Aussi bien n’est-ce pas que cette paix depuis quelque temps ne s’avère vite être une paix manquée, puisque non contents d’avoir reconnu comme inconscientes les défenses à attribuer au moi, les psychanalystes en identifient de plus en plus les mécanismes – déplacement quant à l’objet, renversement contre le sujet, régression de la forme, – à la dynamique même que Freud avait analysée dans la tendance, laquelle ainsi semble s’y continuer à un changement de signe près. Le comble n’est-il pas atteint quand on admet que la pulsion elle-même puisse être amenée par la défense à la conscience pour éviter que le sujet s’y reconnaisse ?
 いかなる点で無意識は、実際、主体のなかでそれと対立しそれなりに成功している様々な防衛よりもいっそう認識に値するものなのでしょうか。そうした防衛もこの成功のおかげで劣らず現実的に見えるものですが。私は、人生の嘘についてのニーチェ的な安物商売をここで取り上げませんし、人びとは信じているつもりでいるということに驚きませんし、人びとは望む[意思する]ためにはまさにその嘘を望む[意思する]だけで十分であることを受け容れません。しかし私は、無意識的な傾向は葛藤においてそれを抑え付けていたものよりも真ではないとすれば、それを認識することで成り立つ安らぎがどこからやって来るのかと問います。いずれにせよ、しばらく前からこの安らぎは、取り逃がされた安らぎであることがすぐに判明するということではないでしょうか。なにしろ、自我に帰すべき防衛を無意識的だと認識したことに甘んずることなく、精神分析家たちは、少しずつその防衛機制を ―つまり対象に関する移動を、そして主体に対する逆転を―、フロイトが傾向の中に分析した力動そのものと、同一視するようになっていますから。この傾向は、記号の変更を除けばそこで続いているようにみえます。欲動そのものは、主体がそれによって認識されることを避けるために、防衛によって意識化されうる、などということが受け入れられていては、[フロイトの分析の]頂点には手が届きません。

 この次の段落はものすごく厄介なのでいったん切って、あらかじめいくつか断っておきます。
 次段落2文目の「il s’en faille de si peu que...」は、「il s’en faut de 数量表現 que (ne) 接続法 ~であるには・・・(数量表現)だけ足りない」という構文で、数量表現のところに「peu」が入ると「もう少しのところで~である」「~も同然である」ということです。これが「il s'en faille...」という接続法になっている理由がはじめなかなか分からなかったのですが、「ce n’est pas que...que je déplore, c'est que...私が残念に思うのは~ということではなく~ということだ」という強調構文だと考えれば、ここは「je déploreが主観的な感情・判断を示しておりそこに続く名詞節だから接続法だということで解決します。
 なお、ここに出てくる「peu」は、普通なら「些細な、ほとんど無いもの」といった意味ですから、「すんでのところで~だ」「~も同然」といった訳を当てられ、この「わずかな差」が訳文から消えてしまうこともありますが、ここでラカンは、段落の4文目で「ce peu」として取り上げ直していますので、訳文でも省くわけにはいきません。
 そのすぐあとに出てくる「ボンディの森」とは、辞書によれば「パリ北東にあった大きな森で、かつて盗賊の巣窟とされた」ということですが、地名「Bondy」は「bandits盗賊」とほぼ同音で、ラカンはこれを念頭に置いていたかも知れません。それと、「木を見て森を見ず」は、フランス語では「木が森を隠す」という言い方で表現されることも付け加えておきます。
 以上の前おきは、おおむね以下の原文引用の1~3行目ぐらいの内容に関わりますが、そこから先はますます難しくなっていきます。

 Encore me sers-je pour traduire l’exposé de ces mystères en un discours cohérent, de mots qui malgré moi y rétablissent la dualité qui les soutient. Mais ce n’est pas que les arbres du cheminement technique cachent la forêt de la théorie que je déplore, c’est qu’il s’en faille de si peu qu’on ne se croie dans la forêt de Bondy, exactement de ceci qui s’esquive derrière chaque arbre, qu’il doit y avoir des arbres plus vrais que les autres, ou, si vous voulez, que tous les arbres ne sont pas des bandits. Faute de quoi l’on demanderait où sont les bandits qui ne sont pas des arbres. Ce peu donc dont il va de tout en l’occasion, peut-être mérite-t-il qu’on s’en explique ? Cette vérité sans quoi il n’y a plus moyen de discerner le visage du masque, et hors laquelle il apparaît n’y avoir pas d’autre monstre que le labyrinthe lui-même, quelle est-elle ? Autrement dit, en quoi se distinguent-ils entre eux en vérité, s’ils sont tous d’une égale réalité ?
 それでも私は、これらの神秘[=防衛]の報告を、一貫したディスクールへと翻訳するために、それらを支える二元性を私の意に反してそこに回復する言葉を役立てます。しかし、私が残念に思うのは、技法的な歩みという木々が、技法という森を隠す、ということではなく、むしろ、人びとは自分がボンディの森[=盗賊の巣窟]のなかに居ると、つまりまさしく木々それぞれの陰に逃げてしまうものの森のなかに居ると、信じているもほぼ同然であって、そこまではあともうほんの少しだということです。ですから、他の木々よりもいっそう真なる木々が有るはずだとか、あるいは、みなさんにはこういったほうが良ければ、木々がすべて盗賊であるわけではないということになります。さもなくば[=ボンディの森に居ると信じたら]、人びとは木ではない盗賊はどこにいるかと疑問を持つことでしょう。ゆえに、場合によってはあらゆるものがそこから進んでくるこのほんの少しについて、ひょっとすると人びとが自らの考えを説明するに値するでしょうか。この真理なくしては、もはや顔を仮面から識別する手段は有りませんし、この真理の外では、迷宮そのもののほかには怪物はなさそうに見えますが、この真理とはどんなものでしょうか。言い換えると、それらがみな同じ現実性をもつものであるならば、どのような点でそれらのなかで実のところ[=真理において]際立って区別されるのでしょうか。

 「de ceci qui s’esquive derrière chaque arbre, que...」という箇所は、ここの構文だけをみれば、「ceci=以下に述べること」と言っておいて「que」以下でその内容を述べ、それが「木の後ろに逃げてしまう」のだと考えたくなるのですが、そうすると意味的に、「木々のすべてが盗賊ではないという事態」が「木の後ろに逃げてしまう」という、まったく理解困難な文になってしまいます。
 では「de ceci」を「de Bondy」と同格と扱って、「ceci」は直前の「Bondy(地名であり、盗賊banditsとほぼ同音)」を指すと解釈できないかということになるでしょう(「de si peu」と同格ということはないでしょう)、と思いました。「盗賊」が「それぞれの木の陰に逃げてしまう」というのですから、その点では意味も通ります(いったい何の寓意なのかは分かりにくいですが)。
 ですが「que」以下の節(直説法)がどこからつながっているのかはっきりしない。直説法なので、そこで言われていることは疑わしくはないということはいえるでしょう。結局、訳文では、「si peu非常にわずかなこと」の内容を指すような感じで置いてみました。このあともしばらく「ce peu」が話題になり続けていますから、おおむねこんな感じじゃないでしょうか。

Ecrits
フランス語版
Jacques Lacan

 それでもすっきりしない今回、banditにちなんで最後に、ホイットニー・ヒューストンのさわやかな名曲をclean banditがサンプリング使用した(というのかな)この最新シングルを紹介して気分を直しておきましょう。無駄なイントロも省かれ、デビューアルバムのホイットニーの声が新鮮に蘇ります。

‎ホイットニー・ヒューストン & Clean Banditの「How Will I Know - Single」をApple Musicで

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