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2021年11月 5日 (金)

ラカン『フロイト的もの』(エクリ407~408頁)

 ラカンの講義録『精神病』を読み進むなか、その途中で読み上げられたというこの論文を読んでいます。今回で最初の節が終わりますが、やはりラカンが書いたものは手ごわいという印象で、全体としての論旨はなかなか見えづらいのですが、訳し進めてみます。

 3点ほど前置きしておきます。まず、以下の最初の文に「règles」とありますが、これは前の段落で動詞「régler」が出てくるので、これを踏まえたものと思います。原語を残したほか、前段の文脈をふまえた内容を少し括弧で補っておきました。もうひとつは、最初の段落に、「où se réduit...」や「où confine ce new-look 」という表現がありますが、ラカンは「auquel」や「à laquelle」の代わりに「où」を使うことが多いのでここもそのように取ってみたという点です。最後に、否定辞neが単独使用されている(pasなどの語を伴わない)箇所が2箇所有り、下線を付けておきました。辞書にはneが単独使用される場合が列挙されているのですが、「主節が否定形または疑問形の場合、接続法に置かれた関係節あるいは従属節内で(単独使用される)」という説明が、下線二つ目のneには当てはまりそうです。下線一つ目のneは直説法とともに用いられているのでいっそう困るのですが、文頭が「d'ou」であることに着目して、「疑問詞を用いた反語的疑問文で(単独使用される)」という説明に該当すると考えるしかなさそうに思います。

 Cette position ne saurait être réfutée puisque les règles s’y justifient par leurs issues, lesquelles sont tenues pour probantes du bien-fondé des règles. Pourtant nos questions se reprennent à pulluler. Comment ce prodigieux hasard s’est-il produit ? D’où vient cette contradiction entre le mic-mac préœdipien où se réduit la relation analytique pour nos modernes, et le fait que Freud ne s’en trouvait satisfait qu’il ne l’eût ramenée à la position de l’Œdipe ? Comment la sorte d’osculation en serre chaude où confine ce new-look de l’expérience, peut-elle être le dernier terme d’un progrès qui paraissait au départ ouvrir des voies multipliées entre tous les champs de la création, – ou la même question posée à l’envers ? Si les objets décelés en cette fermentation élective ont été ainsi découverts par une autre voie que la psychologie expérimentale, celle-ci est-elle habilitée à les retrouver par ses procédés ?

 [精神分析の狂信者による]この立場/措定が反駁されることなどありえないでしょう。なにしろそこで[実践を制御する]諸規則règlesは、諸規則そのものの妥当性からして納得のいくものとみなされるその出口/結末によって正当化されているからです。しかしながら我われの問いは再び急増し始めます。[精神分析のしきたりが獲得されたという]この驚異的な偶然はいかにして産み出されたのか。我ら現代人たちにとっての分析関係は前エディプス的企みに還元されますが、こうした企みと、フロイトが分析関係をエディプスの立場に導かなかったことに満足を見いだせずにいたという事実との矛盾はいったいどこから来るのか[そんな矛盾はどこからも出て来ないだろう]。経験/実験のこのニュールック[=新流行]とすれすれにあるような種類の温室内接触は、いかにして、創造のあらゆる領野の間の多数の道を初めは開くようにみえた進歩の最終項になりうるのか ・・・あるいは裏返しで提起される同じ問いになります。この選択的醸成において気付かれる諸対象[前述の糞と尻っぺた]がこのように実験心理学とは別の道で発見されたとしたら、実験心理学には、それ自身の手続きによってそれらを再発見する資格があるだろうか。

 Les réponses que nous obtiendrons des intéressés ne laissent pas de doute. Le moteur de l’expérience, même motivé en leurs termes, ne saurait être seulement cette vérité de mirage qui se réduit au mirage de la vérité. Tout est parti d’une vérité particulière, d’un dévoilement qui a fait que la réalité n’est plus pour nous telle qu’elle était avant, et c’est là ce qui continue à accrocher au vif des choses humaines la cacophonie insensée de la théorie, comme à empêcher la pratique de se dégrader au niveau des malheureux qui n’arrivent pas à s’en sortir (entendez que j’emploie ce terme pour en exclure les cyniques).

 利害関係者たちから我われが得る答えは、疑いの余地を残しません。経験/実験の動力は、彼らの言い方で動機づけられていても、単に、幻影というこの真理が真理の幻影へと還元されたものだけではありえないでしょう。全ては、ひとつの特殊な真理から出発します。つまり、我われにとって現実とは以前そうであったようなものではないという事態を招いたひとつの暴露から出発するのです。そしてそこにこそ、理論のばかげた耳障りな繰り言を人間的諸物の核心に引っ掛け続けるもの、窮地を脱するに至らない不幸者たち(私がこの用語を採用するのは、ひねくれ[=シニックな]者たちをそこから除外するためであることを理解されたい)の水準へと実践が堕落することを妨げ続けるものがあるのです。

Une vérité, s’il faut le dire, n’est pas facile à reconnaître, après qu’elle a été une fois reçue. Non qu’il n’y ait des vérités établies, mais elles se confondent alors si facilement avec la réalité qui les entoure, que pour les en distinguer on n’a longtemps trouvé d’autre artifice que de les marquer du signe de l’esprit, et pour leur rendre hommage, de les tenir pour venues d’un autre monde. Ce n’est pas tout de mettre au compte d’une sorte d’aveuglement de l’homme, le fait que la vérité ne soit jamais pour lui si belle fille qu’au moment où la lumière élevée par son bras dans l’emblème proverbial, la surprend nue. Et il faut faire un peu la bête pour feindre de ne rien savoir de ce qu’il en advient après. Mais la stupidité demeure d’une franchise taurine à se demander où l’on pouvait bien la chercher avant, l’emblème n’y aidant guère à indiquer le puits, lieu malséant voire malodorant, plutôt que l’écrin où toute forme précieuse doit se conserver intacte.

 必要とあれば言いますが、真理は、ひとたび認識された後には、容易には認識されません。既成の真理など有りはしないということではありませんが、[既成の]真理は、それを取り囲む現実ときわめて容易に混同されてしまい、それらを区別するために真理をエスプリの記号で印づける以外の仕掛けは長きにわたって見出されませんでしたし、真理を称えるために、それは別世界からやって来たとみなす以外の仕掛けも見出されませんでした。人間にとって真理は、格言的な紋章のなかでその腕で持ち上げた光が彼女を裸のまま捉える時点ほどにも美しい娘ではけっしてないという事実を、人間のある種の盲目性の責に帰すだけでは十分ではありません。そして、その後に到来することについて何も知らないふりをするためには少々[動物のように]馬鹿なふりをしなくてはなりません。しかし、かつて真理をどこに探すことができただろうか、と自問するという、雄牛のような率直さによる愚かしさが続いています。紋章も、貴重な形の全体が無傷のまま保存される宝石箱よりもむしろ不適切でさらには悪臭を放つ場である井戸をそこに示唆することをほとんど助けてくれないからです。

 今回の最後の段落で真理や紋章、裸婦や井戸について語られていますが、紋章に用いられる図像において、「真理」は、鏡を持って井戸から出てくる裸身の女性像で表されるということのようです。

 最後の段落に、「動物bête」や「雄牛のようtaurin」といった言葉がありますが、次の節にもこれらを踏まえた表現が出て来ます。

Ecrits
フランス語版
Jacques Lacan

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