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2022年4月22日 (金)

ラカン『フロイト的もの』(エクリ411~412頁)

 今回は新たな節に入ります。

 節のタイトル「PARADE」は多義的な語ですが、読み進めるとまた違った意味と分かるかも知れません。

 冒頭に「Le retour aux ténèbres暗闇への回帰」とあるのは、407頁の頭の方で、ニーチェは超新星であって直ちに暗闇に回帰したと書かれた箇所をほぼ繰り返しています。

 そのすぐ後のイタリック「murder party」があえて英語を用いることで何を念頭に置いているのかは分かりませんが、もう少し後ろのイタリック「Les Bijoux indiscrets」は、ディドロの小説のタイトルで、『不謹慎な宝石』または『お喋りな宝石』と邦訳されています。wikipediaによれば、『宝石』は俗語で女性器を意味しており、「女性の「宝石」に過去の性遍歴を話させることができる魔法の指輪を使って巻き起こす騒動を描く」ような内容の「艶笑小説・風刺小説」なんだそうです。ラカンはこれにセミネール17巻の6章ほかでも言及しています。

PARADE.
誇示/打開策

 Le retour aux ténèbres que nous tenons pour attendu à ce moment, donne le signal d’une murder party engagée par l’interdiction à quiconque de sortir, puisque chacun dès lors peut cacher la vérité sous sa robe, voire, comme en la fiction galante des « bijoux indiscrets », dans son ventre. La question générale est : qui parle ? et elle n’est pas sans pertinence. Malheureusement les réponses sont un peu précipitées. La libido est d’abord accusée, ce qui nous porte dans la direction des bijoux, mais il faut bien s’apercevoir que le moi lui-même, s’il apporte des entraves à la libido en mal de se satisfaire, est parfois l’objet de ses entreprises. On sent là-dessus qu’il va s’effondrer d’une minute à l’autre, quand un fracas de débris de verre apprend à tous que c’est à la grande glace du salon que l’accident vient d’arriver, le golem du narcissisme, évoqué en toute hâte pour lui porter assistance, ayant fait par là son entrée. Le moi dès lors est généralement tenu pour l’assassin, à moins que ce ne soit pour la victime, moyennant quoi les rayons divins du bon président Schreber commencent à déployer leur filet sur le monde, et le sabbat des instincts se complique sérieusement.
 この時点で我われは暗闇への回帰が待ち望まれているとみなしますが、この回帰は、皆びとへの外出禁止令によって始められた『murder party殺人パーティー』に合図を与えます。なにしろ、それ以後各人は、真理をその衣裳の下に隠すことが、さらには、『不謹慎な宝石』の官能フィクションにおけるように、その腹の中に隠すことができるからです。一般的な問いは、誰が話すのか?、ですし、この問いはそれなりに適切です。あいにく、いくつかの答えは少々性急です。リビドーがまず告発されます。これは、宝石の方向へと我われを運びますが、まさに気づかねばならないのは、自我がもし満足されること少なきリビドーに足かせをもたらすならば、自我自身が時にはその[リビドーの]誘惑の企ての対象なのだということです。そこで感づかれるように、ガラス片の大音響が皆に、広間の大ガラス窓にアクシデントが到来したのだ、彼[自我]に援助をもたらすために慌ただしく惹起されるナルシシズムのゴーレム[泥人形]がそこから入場してしまったのだ、と教えるとき、自我は今にも崩れ落ちるだろうということです。それ以来『自我』は、一般に、殺人者とみなされます。さもなくば犠牲者とみなされます。そのおかげで、高邁なシュレーバー院長の神の光線が世界にその網を広げ始めますし、諸本能のサバト[安息日/秘祭]が深刻に紛糾するのです。

 La comédie que je suspends ici au début de son second acte est plus bienveillante qu’on ne croit, puisque, faisant porter sur un drame de la connaissance la bouffonnerie qui n’appartient qu’à ceux qui le jouent sans le comprendre, elle restitue ces derniers l’authenticité d’où ils déchurent toujours plus.
 私はここ第二幕の冒頭で喜劇を中断しますが、この喜劇は、一般に考えられている以上に博愛的/親切です。なにしろ、認知のドラマに、それを理解せずに演じている者たちのものでしかない滑稽さをもたらすことで、この喜劇は、その者たちに真正性を再建するからです。彼らはそこからいつもどんどん落ち離れていくのです。

 Mais si une métaphore plus grave convient au protagoniste, c’est celle qui nous montrerait en Freud un Actéon perpétuellement lâché par des chiens dès l’abord dépistés, et qu’il s’acharne à relancer à sa poursuite, sans pouvoir ralentir la course où seule sa passion pour la déesse le mène. Le mène si loin qu’il ne peut s’arrêter qu’aux grottes où la Diane chtonienne dans l’ombre humide qui les confond avec le gîte emblématique de la vérité, offre à sa soif, avec la nappe égale de la mort, la limite quasi mystique du discours le plus rationnel qui ait été au monde, pour que nous y reconnaissions le lieu où le symbole se substitue à la mort pour s’emparer de la première boursouflure de la vie.
 しかし、もしいっそう深刻な隠喩がその主役にふさわしいとしたら、それは、はじめから彼を見失った犬どもによって永遠に攻撃を食らうアクタイオンなる者をフロイトにおいて我われに示すであろう隠喩です。そして彼は、女神への情熱が彼を導く歩みを抑えられず、自らの追跡へと犬たちをさらに駆り立てることに夢中なのです。[女神への情熱が]彼を遠くへと導き、彼は洞穴でしか立ち止まることができません。じめじめとした陰がその洞穴を、真理の寓意的な在処とひとつにしているのですが、そうした陰の中にいた冥界のディアナは、彼の渇きに対して、死という一様に拡がる層[に並ぶ獲物の肉片]と共に、世界に在った最も理性的なディスクールのほとんど神秘的な限界をもたらします。よって我われはそこに、象徴が死に代入されて生の最初の泡を奪取するような場を認識するのです。

 最後の段落はかなり手ごわく感じます。ギリシア神話の狩猟の女神アルテミス(ディアナ)は、洞穴の中にあり茂みに囲まれた泉で体を洗うことになっていたのを、鹿狩りに来ていた若者アクタイオンに見られたため、彼を鹿の姿に変えてしまい、彼と仲間たちが連れてきていた猟犬どもに彼を食い殺させた、というエピソードが下敷きにあります。途中「nappe」(いちばんふつうの意味はテーブルクロス)という語には、「層、拡がり」という意味の他に、「猟犬に獲物の一部を褒美として与える際の敷布や包布として用いる鹿皮」という意味があるらしいので、考えすぎかも知れないと思いながらカギ括弧で少し補足しておきました。

Ecrits
フランス語版
Jacques Lacan

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