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2022年5月13日 (金)

ラカン『フロイト的もの』(エクリ413~414頁)

 今回でこの難解な節は終わりますが、次の節にはラカニアンにとってなじみの話題が扱われていて読みやすそうなのを励みに、何とか今回の分を進んでいきましょう。

 最初の段落で「chacun devait rencontrer sa promise各男性がその許嫁と出会うはず」とあるところは、ネット上でみつかる初出版では「chacun venait au devant de sa chacune」となってます。ひとつの文にchacunとchacuneが対比されていると、カップルたちのうち「各男性」と「その彼女」という意味になりますから結局同じようなことになって、「各男性がその彼女の前にやって来る」という意味になります。少し前にpromisという語が出ているので前者の表現にしたのでしょうか。

 それと、同じくネット上の情報では、最初の段落の最後の台詞は、ユーモア作家アルフォンス・アレーの作品からの引用なのだそうです。

 この段落では、ギリシア神話のアテナがゼウスの頭から武装した姿で生まれたとされることを踏まえて、アテナはフロイトの頭から生まれた云々とされているようですから、アテナは精神分析を指しているのでしょう。そうするとアテネ人とは分析家たちをそれぞれ言い換えているのでしょう。さらにはフランス語でアテネ人とは明晰な人や怜悧な人を指す言い方でもあることも踏まえているかもしれません。

 On se prenait seulement à répéter après Freud le mot de sa découverte : ça parle, et là sans doute où l'on s'y attendait le moins, là où ça souffre. S'il fut un temps où il suffisait pour y répondre d'écouter ce que ça disait, (car à l'entendre la réponse y est déjà), tenons donc que les grands des origines, les géants du fauteuil furent frappés de la malédiction promise aux audaces titanesques, ou que leurs sièges cessèrent d'être conducteurs de la bonne parole dont ils se trouvaient investis à s'y asseoir ci-devant. Quoi qu'il en soit, depuis, entre le psychanalyste et la psychanalyse, on multiplie les rencontres dans l'espoir que l'Athénien s'atteigne avec l'Athéna, sortie couverte de ses armes du cerveau de Freud. Dirai-je le sort jaloux, toujours pareil, qui contraria ces rendez-vous : sous le masque où chacun venait au devant de sa chacunedevait rencontrer sa promise, hélas ! trois fois hélas ! et cri d'horreur à y penser, une autre ayant pris la place d'elle, celui qui était là, non plus n'était pas lui.

 ひとびとはただフロイトの発見した「エスが話す」という言葉を彼の後で繰り返し始めただけでした。しかも、おそらくもっともそれ[エス]が予期されていないところで、それ[エス]が損なわれているところで。それ[エス]に答えるには、それ[エス]が語っていたことを聴くだけで十分であった -なぜならそれを聞けば答えはそこに既にあるから- ような時があったのだとしたら、我われはそれゆえ断言しましょう、その始まりの巨人たち、肘かけ椅子の偉人たちは、途方もない厚かましさを約束する呪いに見舞われたのだった、と、あるいは、彼らの座席は、これ以前にそこに座ることで彼らに与えられていた良きパロールを導くものではなくなってしまう、と。いずれにせよ、それ以来、ひとびとは、フロイトの脳天から武器をまとって出てきたアテナでもってアテネ人[怜悧さで知られる]が自ら動揺[アテーニュ]することを期待しつつ、精神分析家と精神分析の間で出会いを何度も繰り返しています。私としては、この顔合わせを妨げる天運はいつも同じく嫉妬深いと言いましょう:男どもがそれぞれの約束の女に出会うはずのマスクの下で、「ああ、返す返すも残念!」、そしてそれを考えての恐怖の叫び、「もう一人別の女が彼女の座にすでに就いてしまい、それまでそこにいた男もまたその彼ではなかった」。

 Revenons donc posément à épeler avec la vérité ce qu’elle a dit d’elle-même. La vérité a dit : « je parle ». Pour que nous reconnaissions ce « je » à ce qu’il parle, peut-être n’était-ce pas sur le « je » qu’il fallait nous jeter, mais aux arêtes du parler que nous devions nous arrêter. « Il n’est parole que de langage » nous rappelle que le langage est un ordre que des lois constituent, desquelles nous pourrions apprendre au moins ce qu’elles excluent. Par exemple que le langage, c’est différent de l’expression naturelle et que ce n’est pas non plus un code ; que ça ne se confond pas avec l’information, collez-vous-y pour le savoir à la cybernétique ; et que c’est si peu réductible à une superstructure qu’on vit le matérialisme lui-même s’alarmer de cette hérésie, bulle de Staline à voir ici.

 それゆえ穏やかにもう一度戻って、真理と共に、真理が自身について語ったことを一語ずつ辿りましょう。真理は「私は話す」と言いました。この「私je」を、彼が話すことのなかに我われが見つけ認識するために、ひょっとすると我われが飛びつく[ジュテ]べきだったのは「私je」だったのではなくて、むしろ、我われが着目[アレテ]すべきであったのは話すという小骨/尾根[アレト]においてではなかったでしょうか。「ランガージュのパロールしか無い」ということが我われに思い出させるのは、ランガージュとは諸法則が構成する一つの秩序であるということです。我われはそうした諸法則について、少なくともそれらが何を除外するのかを、教えることができるでしょう。たとえば、ランガージュとは、自然な表現とは異なるということ、さらには一つのコードでもないということ。それは情報とも混同されないということで、これを知るにはみなさんサイバネティックスに取り組んでください。そして、それは一つの上位構造へと還元することはほとんどできないので、唯物論そのものがこの異説について警戒する様子がみられたということ。スターリンの勅令もここに見るべきです。

 Si vous voulez en savoir plus, lisez Saussure, et comme un clocher peut cacher même le soleil, je précise qu'il ne s'agit pas de la signature qu'on rencontre en psychanalyse, mais de Ferdinand, qu'on peut dire le fondateur de la linguistique moderne.

 みなさんがそれについてもっと知りたいと望むなら、ソシュールをお読みください。そして、鐘楼が太陽すら隠すこともありうるのですからはっきり言っておきます、それは精神分析において出会う[レイモン・ド・ソシュールという]署名のことではなくて、フェルディナンのことです。彼は現代言語学の創始者ともいえるでしょう。

 今回は2段落目にも、私[ジュ]に飛びつく[ジュテ]のではなく小骨/尾根[アレト]に着目[アレテ]すべきだとかいう言葉遊びがあって、とくに「小骨/尾根」は比喩になってるのでいっそうわかりにくい箇所です。いくつもの語が続く文を、魚の小骨が続く様子とか山の尾根が続く様子にたとえていると思えば、分からないでも有りませんが。

Ecrits
フランス語版
Jacques Lacan

 スターリンと言語学の関係について自分の手元にある書籍では岩波新書『言語学とは何か』で少し触れられているだけですが、それによれば、スターリンのもとでフォルマリスムや構造主義を否定しいびつな発展を遂げていたソヴィエト言語学を、スターリン自身が、晩年も近づいた1950年に文書を出して否定し、いわば正常化したのだそうです。

言語学とは何か (岩波新書)
田中 克彦

2022年5月14日追記

 今回の箇所に元ネタがあるというネット情報に従って、アルフォンス・アレーの『Un drame bien parisien』(『À se tordre』所収)をネットで探して読んでみました。たしかにマスクに隠れた男女が別人だったという物語ではあるものの、同じ言葉が使われている箇所があるわけでもないので、ラカンがこれを念頭に置いていたかは疑問に思いました。

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