ラカン

2018年4月30日 (月)

ラカン『精神分析の倫理』10章再読

 9章はほとんど翻訳に手を入れるべき箇所はありませんでしたが、10章もざっとみたところ、手を入れたくなる箇所は少ない印象です。

 まず取り上げるのは次の箇所です。下線部冒頭を、私は分詞構文と取りました。 

科学のディスクールはこの「排除」によって定義されます。おそらくだからこそ、科学のディスクールが行き着くパースペクティヴでは、現実界へと再出現してくる象徴界から排除されたもの -私の定式では- は、物理学の用語で描かれる<もの>と同じくらい謎めいているのです。(邦訳上巻198頁)

科学のディスクールはこの「排除」によって定義されます。おそらくだからこそ、科学のディスクールが行き着くパースペクティヴでは、-象徴界から排除されたものは、私の定式では現実界へと再出現してきますから- 物理学の用語で浮かび上がるものは、<もの>と同じくらい謎めいているのです。(代案)

 次はreliefという一単語の語釈の問題です。

遠近法の消失線のために絵画自身がその輪郭を失うある角度から見ると、髑髏が現れるのが見えます。(邦訳上巻204頁)

遠近法の消失線のために絵画自身がその奥行きを失うある角度から見ると、髑髏が現れるのが見えます。(代案)

 最後は、ドイツ語の転記の際に複数形を単数形にしてしまった箇所です。本書でラカンは、快楽原則を、思考・表象のスムーズな連鎖の原則として捉える狭い解釈を試みており、そのために「表象Vorstellung」という語の単複を厳密に使い分けて対比させているようにみえますし、それを邦訳も忠実に転記しています。以下の箇所も、(単数の箇所との対比はありませんが)複数であるべきと思います。

つまり快楽原則は基本的に「備給Besetzung」の次元で、「通道Bahnung」の次元で遂行されます。(邦訳上巻207~8頁)

つまり快楽原則は基本的に「備給Besetzung」の次元で、「通道Bahnungen」の次元で遂行されます。(代案)

 この章は内容的に難解ではありますが、翻訳についてはこれぐらいしか気づけませんでした。何年か経ってもう一度読み返す機会があればまた違う感想を持つかもしれませんが。

精神分析の倫理 上
出版社: 岩波書店 (2002/6/26)
ジャック・ラカン   (著),‎ ジャック・アラン・ミレール (編集),‎ 小出 浩之 (翻訳)

2018年4月10日 (火)

ラカン『精神分析の倫理』9章再読

 今回はラカンのセミネール7巻『精神分析の倫理』の第9章、『「無からex nihilo」の創造について』の再読です。

 ざっと読んだところ、この章の翻訳には大きな問題が見つかりません。

 なんとか探して次の箇所だけを挙げておきますが、まあ文脈からして、もとのままでも理解に差し支えはないかもしれません。

ですから、対象は再発見されますが、対象がすでに失われていたということを我々はこの発見によってしか知りえないのです。(邦訳上巻178頁)

ですから、対象は再発見されますが、対象がすでに失われていたということを我々はこの再発見によってしか知りえないのです。(代案)

 この7巻あたりから、翻訳上のミスはかなり減ったと思います。 ※個人の見解です。

精神分析の倫理 上
出版社: 岩波書店 (2002/6/26)
ジャック・ラカン   (著),‎ ジャック・アラン・ミレール (編集),‎ 小出 浩之 (翻訳)

2018年3月23日 (金)

ラカン『精神分析の倫理』8章再読

 今回は8章『対象と<もの>』の翻訳の検討です。

 まずはフロイトの『草稿』の読解部分から、以下の箇所を。

心的組織化が、すなわち「Φ」という生命体の最初の下書きが出現するのは、この「快楽自我」においてです。後の進展を見ると、この「Φ」はすでに「表象代理Vorstellungsrepraesentanzen」の機能によって支配されていることが分かります。(邦訳上巻152頁)

心的組織化の、すなわち組織体「Ψ」の、最初の下書き出現するのは、この「快楽自我」においてです。後の進展を見ると、この「Ψ」はすでに「表象代理Vorstellungsrepraesentanzen」の機能によって支配されていることが分かります。(代案)

 邦訳は、「organisation組織化」と「organisme組織体」を訳し分けようとして後者を「生命体」とした結果、原文の「Ψ」を誤植と思ってしまったのでしょうか。
 なお、『草稿』を読むと、「Φ」とはいまだ精神の外部にある感覚神経のようなものと考えられます。心的組織化の下書きは「Ψ」からはじまるという、ラカンの解釈通りで間違いないと思います。

 次も『草稿』に関連した箇所です。

快楽や、組織化され統一化された性愛的傾向だけでは、生きた有機体や生の逼迫・欲求、すなわち心的発展の中心を作り出すことはできません。(邦訳上巻156頁)

快楽や、生の組織化し統一化するエロス的傾向だけでは、生きた組織体を、また生の様々な逼迫と欲求を、心的発展の中心とすることはできません。(代案)

 最初の下線部は、直訳に戻すとよく分かりますが、生の欲動のことでしょう。二つ目の下線部は、「faire ... de...」(…を…にする)という熟語と取ってみました。

 次はラカンが最終戦争の兵器について何段落かにわたって述べた直後の箇所です。

「操作的」という語からの連想でちょっと脱線しました。(邦訳157頁)

 「操作的」の原語「operationnel」には、「軍事行動に関する」という意味があることを指しているのでしょう。

 次は、シュテルバとクラインの昇華論を紹介し、いずれも不十分とした直後の箇所です。

これら二つの定式を見ると、口先だけの解決 -それは、意味が空っぽということですが- に満足しない人なら誰でも、何が倒錯において問題なのかもう少し詳しく問う気になるでしょう。(邦訳上巻166頁)

これら二つの定式を見ると、口先だけの解決 -それは、意味が空っぽということですが- に満足しない人なら誰でも、何が昇華において問題なのかもう少し詳しく問う気になるでしょう。(代案)

 最後は代名詞の指す内容に関してです。文法的には、岩波版邦訳のままで正しい可能性もなくはないのですが。

教養人のサロンで礼節の規則が練り上げられ、そのお陰で対象が特別な位置へと引き上げられたのです。この礼節の不条理な性質を詳細にお話ししたいのです。(邦訳上巻167頁)

教養人のサロンで礼節の規則が練り上げられ、そのお陰で対象が特別な位置へと引き上げられたのです。この引き上げの不条理な性質を詳細にお話ししたいのです。(代案)

 この章については以上です。

 倫理と宮廷愛が並行して論じられるところがなんともスリリングに感じられるのですが、みなさんにはいかがでしょうか。

精神分析の倫理 上
出版社: 岩波書店 (2002/6/26)
ジャック・ラカン   (著),‎ ジャック・アラン・ミレール (編集),‎ 小出 浩之 (翻訳)

2018年2月 2日 (金)

ラカン『精神分析の倫理』7章再読

 今回は7章、『諸欲動とルアー』の翻訳の検討です。細かいところばかりになります。細かい、というのは、ラカン理解がひっくり返るような箇所ではないということです。

 ひとつめ。ラカンの翻訳ではpulsionを欲動、instinctを本能と訳すのが普通で、この巻の邦訳でもほとんどがそのように訳されていますが、次の箇所の最初の下線部ではその原則が破られています。

要するに、「昇華Sublimierung」の問題を始めるにあたっては、まずは諸欲動の可塑性ということがとりあげられねばならず、さらに、このとき以来いまだに解明されていないいくつかの理由によって、個人においてはすべてを昇華することは不可能である、と言わなくてはならないということです。(邦訳上巻138頁)

要するに、「昇華Sublimierung」の問題を始めるにあたっては、まずは諸本能の可塑性ということがとりあげられねばならず、さらに、このとき以来いまだに解明されていないいくつかの理由によって、個人においては昇華はすべて不可能である、と言わなくてはならないということです。(代案)

 なお、この章には「欲動傾向」という表現が何度も出てきますが、原語は「tendance」なので、翻訳は単に「傾向」とすべきと思います(あるいは「性向」とか「傾性」でしょうか)。

 次も細かいところです。

フロイトの思索によって詳しく説明されるまでは人間という種に特有のものと考えることもできたこれらの性感帯は、選ばれたいくつかの点、開口点、身体の表層にあるいくつかの孔に限られるものであり、エロスの源が発する点なのです。(邦訳上巻140頁)

フロイトの思索によって詳しく説明されるまでは人間という種に特有のものと考えることもできたこれらの性感帯は、選ばれたいくつかの点、開口点、身体の表面にあるいくつかの孔に限られるものであり、それらは<エロス>が源泉を引き出さなくてはならないであろう点なのです。(代案)

 この本の邦訳では大文字で始まる語を山括弧で囲うことになっている(例えば大文字の他者を<他者>と表記する)ので、エロスを<>の括弧で囲いました。実際、邦訳上巻148頁には、原文の大文字に対応した<エロス>という表記が登場します。
 しかしセミネールは口述された講義の記録ですから、おそらく大文字にしたのは編者の判断でしょう。この語が大文字で表される場合は、おそらくギリシア語「エロース」を念頭に置いているのでしょうし、セミネール8巻『転移』ではそれが明らかですけれども、ただこの7巻では大文字で表記する必要はないようにも思いますが。

 次は、本論からやや外れた、しかもかなりややこしい箇所の、細かい訂正です。

例えばウォルト・ホイットマンに倣って、男性が自己身体から何を欲望しうるか創造してみて下さい。身体と世界 -それ自身開かれざわめく世界- との完璧な全的接触を夢見ることもできるでしょう。あるいはまた、接触を夢み、この詩人が方向と道を示しているようなライフ・スタイル[同性愛]を夢み、何らかの根源的な呪いを押し殺す感情や絶えず人の気を引く存在[女性]を消し去って、調和という啓示を望むこともできるでしょう。(邦訳上巻140頁)

例えばウォルト・ホイットマンに倣って、男性が自己身体から何を欲望しうるか創造してみて下さい。身体と世界 -それ自身開かれざわめく世界- との完璧で全的な表皮接触を夢見ることもできるでしょう。つまり、接触を夢み、その遥か先に、この詩人が方向と道を示しているようなライフ・スタイル[同性愛]を夢み、何らかの根源的な呪いの圧迫的な感情の絶えず人の気を引く存在感[をもつ現行の調和]を消し去ることによる、調和の露呈を望むこともできるでしょう。(代案)

 邦訳に、[女性]という補足がありますが、私は海賊版も見比べてみて、上のようにちょっと違う解釈に至りました。

 次は単なる誤植です。

子供の最も蒼古的な渇望はそもそもの出発点であると同時に、性器期性の何からの優位とか両性具有の人間 -いかに完全なものを想像しても- などという単純な「表象Vorstellung」によっては決して完璧には解決されない核でもあります。(邦訳上巻140頁)

子供の最も蒼古的な渇望はそもそもの出発点であると同時に、性器期性の何らかの優位とか両性具有の人間 -いかに完全なものを想像しても- などという単純な「表象Vorstellung」によっては決して完璧には解決されない核でもあります。(代案)

 なお、冒頭の「渇望」の原語はaspirationで、前章で「むさぼるな」という命令の箇所で用いられていたconvoiterとは別の語です。

 次です。

…その時点では、昇華は対象あるいはリビドーにおける一つの変化として特徴づけられ、その変化は、症状のように抑圧されたものの回帰によって間接的に起こるのではなく、直接的に、つまり直接に満足させるという仕方で起こるものとされていました。性的リビドーは様々な対象の中に満足を見いだすことになります。フロイトは昇華の対象と性的リビドーの対象をどのように区別したのでしょう。(邦訳上巻141頁)

…その時点では、昇華は対象あるいはリビドーにおける一つの変化として特徴づけられ、その変化は、症状のように抑圧されたものの回帰によって間接的に起こるのではなく、直接的に、つまり直接に満足させるという仕方で起こるものとされていました。性的リビドーは様々な対象の中に満足を見いだすことになります。フロイトはそれらの対象をどのように区別したのでしょう。(代案)

 最後の「区別distinguer」は、分類したという意味ではなく、他と区別して取り出したという意味だと思います。

 次です。ほとんどニュアンスの問題ですけれど。原書には、「changer de batteries作戦を変える」とか「changer son fusil d'epaule鉄砲を担ぐ肩を変える/意見を変える/手段を新しくする」といった成句が含まれます。

集団が満足を見出すには個人の意志が抑えられなくてはならないが、昇華はまったくの個人的満足である、という問題をフロイトは十分に考えていないように見えます。(邦訳上巻142頁)

個人が作戦を変え手段を新しくしなくてはならないときに、集団は満足を見出しうるが、それでもこの場合、それ自体で成りたつ個人的満足がなくてはならない、という問題をフロイトは十分に考えていないように見えます。(代案)

 次は、あえて指摘しなくてもいいぐらいのことかもしれませんが、reserverは、「敬意を払う」ではなく「留保を置く」とか「慎重になる」です。

ルターは、このときまではエラスムスに対してなにか皮肉な感情を抱いていたとはいえ、その人物については敬意を払っていましたが、ここにいたって『奴隷的意志』を公刊し、人間が人間と結ぶ関係に根源的に見られる悪い性質を強調したのです。その悪い性質、つまり「Ding」、この「原因causa」は人間の運命の核心に属するものです。(邦訳上巻145頁)

ルターは、このときまではエラスムスに対して心密かになにか皮肉な感情を抱いていたとはいえ、その人物についてはきわめて慎重に判断を留保していましたが、ここにいたって『奴隷的意志』を公刊し、人間が人間と結ぶ関係に根源的に見られる悪い性質を強調したのです。その悪い性質、つまり「Ding」、この「原因causa」は人間の運命の核心に属するものです。(代役)

 最後です。ここも小さいところです。不要な箇所を棒線で消しておきます。

この水準において対象は、主体が自身のイマージュに抱く愛と絶えず交換される限りにおいて、導入されます。「自我リビドー」と「対象リビドー」が、それぞれ「理想自我Ideal-Ich」と「自我理想Ich-Ideal」との差異、つまり自我の幻影と理想形成との差異との関係において導入されているのです。(邦訳上巻146頁)

 邦訳だと、自我リビドーと対象リビドー、「理想自我Ideal-Ich」と「自我理想Ich-Ideal」、自我の幻影と理想形成、という三つの対の前者と後者が「それぞれ」対応しているかのようですが、少なくとも最初の対、自我リビドーと対象リビドーは、後ろの対と対応していないようです。ややこしいことに、「理想自我Ideal-Ich」と「自我理想Ich-Ideal」の順番が原書ではひっくり返っているんですけれど、意味からして「自我の幻影」は「理想自我」と対応するでしょうから、対応関係としては邦訳の方が正しそうなんです。邦訳はあえて訂正したということでしょう。これはラカンが講義で列挙するときに、必ずしも順番通りに繰り返さなかったということかもしれませんが。

 今回は以上です。

精神分析の倫理 上
出版社: 岩波書店 (2002/6/26)
ジャック・ラカン   (著),‎ ジャック・アラン・ミレール (編集),‎ 小出 浩之 (翻訳) 

2018年1月27日 (土)

ラカン『精神分析の倫理』6章再読

 今回はセミネール7巻6章、『道徳的法則について』の翻訳の検討です。

 この章も、翻訳の大きな問題点は少ないと思います。まず、悪い対象と良い対象というクラインの概念を扱っている箇所です、

主体は悪い対象への通路をいささかも持っていません。善に対してさえ主体はすでに距離を取っているではありませんか。(邦訳上巻110頁)

主体は悪い対象への通路をいささかも持っていません。良いもの[=良い対象]に対してさえ主体はすでに距離を取っているではありませんか。(代案)

 ここは、哲学的文脈で繰り返し用いられてきた「bien善」ではなく、「bon良い」が用いられています。

 次です。微妙ですが、二つ目の下線部のニュアンスは自分には大きなものに思えます。

 こうして現代科学の頂点では、カントの命令法は一新されて姿を現します、それは、エレクトロニクスやオートメーションの言葉を使えば、「汝の行為がプログラミングされているようにのみ行動すべし」と表現できましょう。(邦訳上巻116頁) 

 こうして現代科学の頂点では、カントの至上命令は一新されて姿を現します、それは、エレクトロニクスやオートメーションの言葉を使えば、「汝の行為がプログラミングされてありうるようにのみ行動すべし」と表現できましょう。(代案) 

 さいきんの若い医師・看護師たちには、「自らの行為がマニュアル化されてありうるように行動すべし」と考えていそうな人もいるのを見るにつけ、私にはラカンのこの指摘は臨床現場でアクチュアルなものと感じられます。医療観察法などを担当している職員はいっそうそうなっていきます。といいながら、自分も年々そういう傾向に染まっている気もします。

 次は、2つの箇所の関連を指摘したいところです。

「汝は隣人の家を欲してはならない。汝の隣人の妻、男女の奴隷や、牛、ロバ、さらには汝の隣人のものを一切欲してはならない」(邦訳上巻124頁)

たとえば、<法>が「むさぼるな」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、<もの>は機会あるごとに命令によってあらゆる種類のむさぼりを私の内にひきおこします。(邦訳上巻125頁)

 下線を付した箇所はすべて、動詞convoiterかその名詞形convoitiseなので、統一するなら「渇望(する)」でしょうか。

 上の2箇所を含む長い引用になりますが、細々とした訂正点が多い次の箇所を取り上げて代案をお示ししておきます。

…「汝は隣人の家を欲してはならない。汝の隣人の妻、男女の奴隷や、牛、ロバ、さらには汝の隣人のものを一切欲してはならない」。
 家とロバとの間に妻が置かれているので、多くの人が、ここではベドゥインやアラビアや北アフリカの原始社会の法が述べられていると考えました。私はそうは思いません。
 この法は、これを毎日破る男の心のなかに、少なくとも隣人の妻に関する部分を毎日破る男の心の中に、今でも生きています。この法は、ここでの我々の対象つまり「das Ding」との間に、何らかの関係があるに違いありません。
 というのは、この命令で言われていることは、善[財産]なら何でもというわけではないからです。交換の法をつくろうというのでもありませんし、人間の本能の運動や「激しさimpetus」を合法性や -こう言ってよければおかしな合法性や- 社会的「保証Sicherung」で覆い隠そうとするわけでもないのです。ここで言われているのは、「der Trug嘘」とか「das Ding」のような、人間存在がその中で休息することのできるものときわめて密接な関係を持つ限りでのみ価値があるもののことです。「das Ding」は、人間の善の相関物ではなくて、人間がそこで休息するものです。さらに言うなら、「das Ding」とはパロールの法の、最も原初的な相関物であり、それはつまり「最初に「das Ding」があった」という意味であり、「das Ding」とは主体が名づけ分節化し始めたものから分離されえた最初のものなのです。そして「欲してはならない」と言われているのは、私が欲望するものすべてにではなく、私の隣人の<もの>である限りでの事物へと向けてなのです。
 パロールそのものによって打ち立てられるものとしての<もの>とのこの距離を維持する限りにおいて、この命令はその意義を持つのです。
 しかしここで、我々はどこに辿りつくのでしょう。
 <法>は<もの>でしょうか。決してそうではありません。しかし<法>によらなければ、私は<もの>を知らなかったでしょう。たとえば、<法>が「むさぼるな」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、<もの>は機会あるごとに命令によってあらゆる種類のむさぼりを私の内にひきおこします。<法>がなければ<もの>は死んでいるのです。私はかつて<法>と関わりなく生きていました。しかし命令が登場したとき、<もの>は燃え上がり、生き返って、私は死にました。(邦訳124~125頁) 

…「汝は隣人の家を渇望してはならない。汝の隣人の妻、男女の召使いや、牛、ロバ、さらには汝の隣人に属するものを一切渇望してはならない」。
 家とロバとの間に妻が置かれているので、多くの人が、ここではベドゥインやアラビアや北アフリカの原始社会の要請が述べられていると考えました。私はそうは思いません。
 この法は、これを毎日破る男の心のなかに、少なくとも隣人の妻に関する部分を毎日破る男の心の中に、今でも生きています。この法は、ここでの我々の対象つまり「das Ding」との間に、何らかの関係があるに違いありません。
 というのは、[この法で]言われていることは、善[財産]なら何でもというわけではないからです。[言われているのは]交換の法をなすものでもありませんし、人間の本能の運動や「激しさimpetus」を -こう言ってよければ心地よい- 合法性や社会的「保証Sicherung」でカバーするものでもないのです。ここで言われているのは、これら諸対象のいずれもが、「der Trug欺瞞」とか「das Ding」のような、人間存在がその中で休息することのできるものときわめて密接な関係を持たずにいないという限りでのみ価値がある何かです。「das Ding」は、人間のの相関物ではなくて、人間がそこで休息するような善です。さらに言うなら、「das Ding」とはパロールの法の、最も原始的な起源における相関物であり、それはつまり「最初に「das Ding」があった」という意味であり、「das Ding」とは主体が名づけ分節化し始めたものから分離されえた最初のものなのです。そして[この命令で]言われているのは、私が欲望するものすべてにではなく、私の隣人の<もの>である限りでのものへと向けての渇望なのです。
 パロールそのものによって打ち立てられるものとしての<もの>とのこの距離を維持する限りにおいて、この命令はその価値を持つのです。
 しかしここで、我々はどこに辿りつくのでしょう。
 <法>は<もの>でしょうか。決してそうではありません。しかし<法>によらなければ、私は<もの>を知らなかったでしょう。たとえば、<法>が「渇望するな」と言わなかったら、私は渇望の概念を持たなかったでしょう。ところが、<もの>は機会あるごとに命令によってあらゆる種類の渇望を私の内にひきおこします。なぜなら<法>がなければ<もの>は死んでいるのです。私はかつて<法>と関わりなく生きていました。しかし命令が登場したとき、<もの>は燃え上がり、生き返って、私は死を見出しました。(代案)

 細かいところばかりになりました。もとの和訳と大きな違いはないかもしれません。

  今回は次が最後です。聖パウロの『ローマ人への手紙』に言及された直後の箇所です。

ある筋の人々がどう考えていようと、偉大な神学者たちは良い読み手ではないと考えるのは間違いです。私自身彼らの著書に没頭してみて損をしたことはありません。わけてもこの著者[ルター]を、みなさんのヴァカンスの宿題として示しておきたいのですが、彼はヴァカンスの友として悪くないでしょう。(邦訳上巻125頁)

ある筋の人々がどう考えていようと、聖なる[=聖書を構成する]著作群は良い読み物ではないと考えるのは間違いです。私自身それらに没頭してみて損をしたことはありません。わけてもこれを、みなさんのヴァカンスの宿題として示しておきたいのですが、これはヴァカンスの友として悪くないでしょう。(代案)

 最初の部分、「les auteurs sacres」の「auteur」は、「著者」ではなく、「著者の作品」という意味に取るべきと思います。そうすると、ここで言及されているのは、邦訳で角括弧内に補足されているルター(次章で大きく取り上げられます)ではなく、直前に言及されている聖パウロとその著作を指すでしょう。

 なお、この「auteur」という語について、邦訳上巻145頁では「les auteurs religieux」が「宗教上の著作」と訳されたあと、訳文内で「書き手」とも言い換えられてうまく処理されています。

 今回はここまでにします。

精神分析の倫理 上
出版社: 岩波書店 (2002/6/26)
ジャック・ラカン   (著),‎ ジャック・アラン・ミレール (編集),‎ 小出 浩之 (翻訳) 

2018年1月13日 (土)

ラカン『精神病』10章再読

 今回は10章『現実界におけるシニフィアンと叫びの奇跡』の再読です。この章は、翻訳が細かいところで不正確な箇所が多いのですが、たいていの場合、大意としては問題ないので、いわゆる意訳といってよい範囲に収まっていると思います。

 文意が変わってしまいそうな箇所だけ、いくつか指摘しておきます。

 まず、精神病患者として名高いシュレーバー議長の回想録からの引用です。

私が何を経験しても、それが私に向けられていること、あるいは私に由来していることを、すぐに私に気づかせる悪い癖を持っているのは、この神なのだ。私は -シュレーバーは音楽家でもあったのですが- たとえば『魔笛』の一節を吹くにしても、この話しかけてくる神がそれに相応しい感情をすぐに教えてくれなければ、それを吹くこともできない。しかし教えてもらったからといって、それらの感情を私が持つわけではないが。(邦訳上巻224頁)

 シュレーバーは、神が感情を「教えてくれ」ると感じてはおらず、迷惑を感じています。原語はattribuerです。ほか、原文で「air」とある箇所は「アリア」と直訳しておきます。

私が何を経験しても、それが私に向けられていること、あるいは私に由来していることを、すぐに私に気づかせる悪い癖を持っているのは、この神なのだ。私は -シュレーバーは音楽家でもあったのですが- たとえば『魔笛』のアリアを演奏するにしても、この話しかけてくる神がそれに相応しい感情をすぐに私にお仕着せてしまうことが避けられない。しかしそれらの感情を私が持っているわけではないのだが。(代案)

 次も、精神病患者が体験を「被る」「押し付けられる」感覚にまつわる一節です。

一般に受け入れられている考え方、つまり幻覚とは間違った知覚である、という考え方に従えば、問題は、外界に出現し、知覚として、あるいは現実界のテキストにおける障害・破れとして現れてくる何かです。(邦訳上巻224~225頁)

一般に受け入れられている考え方、つまり幻覚とは間違った知覚である、という考え方に従えば、問題は、外界に出現し、知覚として押し付けられる何かであり、現実界のテキストにおける障害・破れです。(代案)

 ここで「押し付けられる」とした箇所は原文では「s'imposer」です。ここらへんを読むと、幻覚は知覚なのではなくて現実なのだということになるんでしょうね。

 次です。

 ランガージュによるこの存在、つまり「夕べの安らぎ」というこの存在は何かを意味しているのでしょうか、いないのでしょうか。私達がこのランガージュを待ち受けることなく、願わず、また長い間それについて考えることがなければないほど、ランガージュによるこの存在は本質的にシニフィアンとして現れて来ます。(邦訳上巻230頁)

 「このランガージュを待ち受ける」の箇所は、原文では代名詞で語られているのですが、使われているのは女性代名詞です。直前の名詞をみると、「ランガージュ」も「この存在」も男性名詞、「夕べの安らぎ」が女性名詞なので、ここは「夕べの安らぎ」を指すのだと思います。

 ランガージュによるこの存在、つまり「夕べの安らぎ」というこの存在は何かを意味しているのでしょうか、いないのでしょうか。私達がこの「夕べの安らぎ」を待ち受けることなく、願わず、また長い間それについて考えることがなければないほど、ランガージュによるこの存在は本質的にシニフィアンとして現れて来ます。(代案)

 ただここはアソシアシオン・ラカニエンヌによる海賊版では男性名詞です。どちらが正しいかは分かりませんが、男性名詞だとしたら下線部は「存在」とすべきと思います。岩波版の「ランガージュを待ち受ける」はちょっと意味が取りづらく思います。

 次も、「夕べの安らぎ」というシニフィアンをめぐる箇所です。下線部は岩波版のまま引用しました。たんなる誤植でしょう。

 この現実界におけるシニフィアンが不意に襲えば襲うほど -と言いますのは原理上私達の理解を超えているからです- このシニフィアンは、ディスクールの現象という多少とも適切な縁どりを伴って現われてきます。さて、私達の作業仮説を立てましょう。つまりシュレーバー議長の経験の中心にあるものは何かいうことです。そしてまた、経験の周辺部つまり縁どりにおいて、彼がそれとして知覚はしていないものの、結局はこれらすべての縁どり現象を組織化するシニフィアンが引き起こす泡の中に彼がいる時彼がそれと知らずに感じているもの、それは何かということです。(邦訳上巻231頁)

 ここで言われている「作業仮説」の内容が掴めません。「…は何かということ」というのは問いであって、これを作業仮説というのは変な気がします。正常の現象とシュレーバー議長の経験との両者を論じているという点でも非常に難しいところです。

 おわかりのように、この現実界におけるシニフィアンが私達を不意に襲えば襲うほど -と言いますのは原理上私達の理解を超えているからです- それだけでこのシニフィアンは、ディスクールの現象という多少とも適切な縁どりを伴って現われてきます。さて、私達の作業仮説を立てましょう。シュレーバー議長の経験の中心にあるもの、つまり彼がそれとして知覚していないものは、経験の周辺部つまり縁どりにこそ探すべきだということです。彼がそれとして知覚はしていないものの、結局はこれらすべての縁どり現象を組織化するシニフィアンが引き起こす泡の中に、彼は運び去られているのです。(代案)

 この代案では、経験の中心にあるものを、経験の周辺部に探すべしということになって、一見すると矛盾した内容になってしまいました。「縁どり」については、本書を通じてほんの数カ所しか出てこないので、裏づけを探すのも難しいところです。

 次です。一箇所、「en raison avec...」という部分です。

シュレーバーは、彼が身の周りで始終耳にするのは、現実的な雑音であることをよく知っています。それでもやはり彼は、これらの音はそのとき偶然に起きたものではなく、妄想世界への吸収の仲介的要素と仲たがいして、外的世界の中で神に捨てられた孤独な状態へと戻ってしまう途上で、彼に向けて作り出されたものだという確信を持っています。(邦訳上巻233頁)

シュレーバーは、彼が身の周りで始終耳にするのは、現実的な雑音であることをよく知っています。それでもやはり彼は、これらの音はそのとき偶然に起きたものではなく、妄想世界への吸収の仲介的要素と共に、外的世界の中で神に捨てられた孤独な状態へと戻ってしまう途上で、彼に向けて作り出されたものだという確信を持っています。(代案)

 最後は偶然にも縁どりに関する箇所からです。dissocierという語は精神医学用語として訳すべきでしょう。「dissociation」は英語では「解離」という神経症症状を指しますが、フランスでは「association連合」が乱れた「連合弛緩」という統合失調症症状を指します。もうひとつは、けっこう重大な単純ミス(誤植?)です。

そして、この謎めいた場から彼が離れる度毎に、つまりそういう状態になれば休息できると彼が願ったであろう状態が成立する度毎に、外界の縁どりにおいて一種の輝きが起こります。それは、相互に連関のないランガージュの構成要素として彼の中を巡ります。一方には、最も要素的な形の叫びという音声活動があります。それは、 患者にとっては何らかの恥へと結び付く狼狽感を伴っています。他方には救いを求める呼びかけのシニフィアンとして自らを共示するシニフィカシオンがあります。(邦訳上巻234頁)

そして、この謎めいた場から彼が離れる度毎に、つまりそういう状態になれば休息できると彼が願ったであろう状態が成立する度毎に、外界の縁どりにおいて一種の輝きが起こります。それは、連合弛緩した、ランガージュのあらゆる構成要素として彼の中を巡ります。一方には、最も要素的な形の叫びという音声活動があります。それは、 患者にとっては何らかの恥へと結び付く狼狽感を伴っています。他方には救いを求める呼びかけのシニフィカシオンとして自らを共示するシニフィカシオンがあります。(代案)

 今回は以上です。

精神病〈上〉
ジャック ラカン (著), ジャック・アラン ミレール (編集), 小出 浩之 (翻訳), 川津 芳照 (翻訳), 鈴木 国文 (翻訳), 笠原 嘉 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (1987/03)

2018年1月 8日 (月)

ラカン『精神分析の倫理』5章再読

 今回は5章『ものDas Ding』(Ⅱ)の検討です。

 ざっと見た感じ、この章の翻訳には問題は少ないんじゃないでしょうか。なんとか頑張って2箇所探してみました。

組織体にとってホメオスターシス的に耐えられるレベルの緊張度に制御するという機能は、最終的には運動に委ねられているのです。しかし、神経装置のホメオスターシスという自律制御の場は、不調和を含みうるという点で、たとえば体液のバランスを司っている一般的なホメオスターシスとは違います。体液のバランスが登場するのは、内部に由来する刺激の次元としてです。だからフロイトは次のように言うのです。神経組織体の内部からも刺激が到来し、それは外部からの刺激と同等に扱われる、と。(邦訳上巻88頁)

 ここは邦訳上巻58頁、「この装置は生体の切り離すisolerことができる一部分として示されていることに注意しなくてはなりません」のあたりと同じ文脈で読むべきと思います。生体全体の中に、はっきり区別された部分として神経装置があるわけです。上記引用箇所ではdistinctという語が使われていますが、同じことを言っていると思います。ほんの少し手を入れてみます。

組織体にとってホメオスターシス的に耐えられるレベルの緊張度に制御するという機能は、最終的には運動に委ねられているのです。しかし、自律制御の場である神経装置のホメオスターシスは、不調和を含みうるという点で、たとえば体液のバランスを司っている一般的なホメオスターシスとは区別されます。体液のバランスが登場するのは、内部に由来する刺激の次元としてです。だからフロイトは次のように言うのです。神経組織体の内部からも刺激が到来し、それは外部からの刺激と同等に扱われる、と。(代案)

 それでも、引用箇所最後の三つの文の意味が分かりづらく感じられたので、非正規版であるアソシアシオン・ラカニエンヌ版を参照してみると、いくつかの相違があります。途中、isolerという語も登場して、上に書いた私の考えを裏打ちしてくれています。ちなみにアソシアシオン・ラカニエンヌ版では「神経装置のホメオスターシス」という表現はありません。この版を参照して代案を考えてみます。

組織体にとってホメオスターシス的に耐えられるレベルの緊張度に制御するという機能は、最終的には運動に委ねられているのです。しかし、自律制御の場である神経装置は生命との不調和を含みうるという点で、たとえば体液のバランス全体を司っている一般的なホメオスターシスとは区別されるもの、切り離されたものとみなすべきです。体液のバランスが登場するのは、内部に由来する刺激の次元としてです。だからフロイトは次のように言うのです。神経組織体に対して、内部からも刺激が到来し、それは外部からの刺激と同等に扱われる、と。(代案2)

 次です。原文の「dans telle ou telle circonstance」という句が抜けているというのが大きな訂正点ですが、それだけではなく少し手を入れてみます。

我々が自らの思考過程を知るのは、我々が自らの中で生じていることを話すからでしかありません。つまり、一方ではそれが不適切で、空しく、馬鹿らしいと知っているにもかかわらず、どうしようもなくお決まりの用語で話すしかないからなのです。我々が明晰な知性や自分の意思や悟性について話し始めるとき、そのときから我々は前意識を持つようになり、ディスクールのなかに何か無駄話を分節化できるようになります。そのような無駄話が我々にとって、自らの欲望の足どりを明瞭化し、正当化し、合理化するのに役立つのです。(邦訳上巻92頁)

我々が自らの思考過程を知るのは、我々が自らの中で生じていることを話すからでしかありません。つまり、一方ではそれが不適切で、空しく、馬鹿らしいと知っているにもかかわらず、どうしようもなくお決まりの用語で話すしかないからなのです。我々が自分の意思や悟性について別個の能力として話し始めるとき、そのときから我々は前意識を持つようになり、ディスクールのなかに何か無駄話を分節化できるようになります。そのような無駄話我々にとって、我々が繋がり合い、自己正当化し、自らの欲望の足どりをしかじかの状況で合理化するのに役立つのです。(代案)

 ここも非正規版を参照してみると、ひとつめの下線部は、「自分の意思について、悟性とは別個の能力として」となります。そちらの方が良さそうでもあります。

 このように、上の二箇所については非正規版に軍配があがるように思いますけれども、必ずしもあらゆる箇所で非正規版が優れているわけではないことを一応ここでお断りしておきます。

精神分析の倫理 上
出版社: 岩波書店 (2002/6/26)
ジャック・ラカン   (著),‎ ジャック・アラン・ミレール (編集),‎ 小出 浩之 (翻訳)

2017年12月29日 (金)

ラカン『精神病』9章再読

 今回はラカン『精神病』9章、『無意味、そして神の構造』の再読です。

 この章でラカンは、シュレーバーの著書の内容の大部分は神学的でありながら、そこに摂理という働きへの言及は全く認められない、と指摘しています。そのあとラカンは、無いということを示すことは有るということを示すより難しい、とか、別の資料が見つかればそこには見つかるかもしれず論駁される可能性が捨てきれない、といった留保を置きながらも、「不在に注意を向けることは、構造を位置づけるために非常に重要なことなのです」(邦訳上巻208頁)と述べています。私はいつも、ラカンが自説の説明の合間合間にさしはさむこういう指摘にこそ、ラカンのセミネールが(理論内容がきわめて難解であったにもかかわらず)聴衆を集め続けた才覚を感じますし、自分の臨床への指針をもらいつづけています。この章には特にそういう指摘が多く感じます。

 この章は、翻訳には問題が少ないと思いますが、少しだけ言及しておきます。

患者が妄想者だからといって、最初から患者の体系はでたらめだと決めてしまってはいけません。(邦訳上巻199頁)

 「でたらめ」と訳されている語はdiscordantです。フランス語でdiscordanceは、統合失調症の症候学で用いられる概念で、不統一とか不調和と訳されます。濱田の『精神症候学』(弘文堂)によればシャスランが唱えた概念のようです。ドイツ語圏での「分裂」に近い意味でしょうか。ここはその形容詞形ですので、精神医学用語で訳したいところですし、現代日本では「統合失調」と訳しても良いかもしれません。

患者が妄想者だからといって、最初から患者の体系は不調和[=統合失調]だと決めてしまってはいけません。(代案)

 次も些細なところです。

だから精神科医が患者に投げかける質問の最大の関心は、ペギーが最近の著書で言っているように、小さな穴にボルトを戻すことができるかどうかということでしょう。ペギーは、自分の体験を話すことによって、大変な破局が不意に起こったのに事態は以前と変わっていないのだと思おうとする精神科医達のことを言っているのです。そういう精神科医は患者に「順序立てて話してください」と言います。それでもう、その後の章立ては決まってしまうのです。(邦訳200頁)

 この「ペギー」が、詩人・思想家であるPeguy(1873-1914)だとすれば、セミネールが行われたのは没後50年以上経ってからですので、「最近の著書ses derniers ecrits」は間違いで、「最後の著作群」じゃないでしょうか。最後なのに複数なのは不思議ですが、このペギーは戦死したようなので遺稿としての書きつけ(ecrit)が残っているのかも知れません。ここではいちおう、我われの知らないペギーさんであっても良いように、細かいところまで直訳にしてみます。ただし、「小さな穴にボルトを戻す」の箇所は複数形が使われているので「それぞれに」と補いました。

だから精神科医が質問を投げかける際の最大の関心は、ペギーが最後の著作群で言っているように、小さな穴のそれぞれにボルトを戻すことでしょう自分が引き受けた体験を話しつつ、ペギーは、大変な破局が宣告されたのに諸物は以前と変わらぬ関係を保っているのだと思おうとする人々のことを言っているのです。彼らは病人に「順序立てて話してください」と言います。それでもう、章立ては決まってしまうのです。(代案)

 次も細かいところです。

この間読みあげた一節についてシュレーバーが強調しているように、そのディスクールが立てる音は、患者がひそひそ声と呼ぶほど小さなものです。(邦訳上巻201頁)

この間読みあげた一節シュレーバーが強調しているように、そのディスクールが立てる音は、患者がひそひそ声と呼ぶほど小さなものです。(代案)

 今回は以上です。

精神病〈上〉
ジャック ラカン (著), ジャック・アラン ミレール (編集), 小出 浩之 (翻訳), 川津 芳照 (翻訳), 鈴木 国文 (翻訳), 笠原 嘉 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (1987/03)

2017年12月20日 (水)

ラカン『精神分析の倫理』4章再読

 今回は4章『ものdas Ding』の翻訳の検討です。

 ドイツ語での『Dingもの』と『Sache事物』との違いを論じている箇所です。ラカンは両者の訳語としてフランス語の『chose』を用いています。ラカンが『Sache』を念頭に置いて『chose』と言っている箇所に、『もの』という訳語をあててしまうと、『Sache』と『Ding』の相違が分かりにくくなってしまいます。

 長い回り道をしましたが、それは本日は次のことを指摘するに止めようと思うからです。結局のところ、フロイトは「事物表象Sachvorstellung」という言い方はしますが、決して「もの表象Dingvorstellung」という言い方はしないということです。また、「事物表象Sachvorstellung」が「語表象Wortvorstellung」に結びつけられていることも、どうでもよいことではありません。このことによって、もの(chose)と語(mot)の間に一つの関係があることを我々に示しているのです。語というもみ殻がもみ殻と見えるのは、我々がこのもみ殻から、ものという穀粒を分離した限りにおいてのみであり、何よりももみ殻こそが穀粒をもたらしたのです。
 ここで一つの認識論を展開しようとは思いません。けれども、人間世界のものはパロールとして構造化された宇宙のものであり、ランガージュ・象徴的過程がすべてを支配していることは明らかです。(中略)
 「事物Sache」とはまさに、産業の産物、ランガージュによって支配された人間的行為の産物としてのもののことです。この意味でのものは、この人間的行為の成因という点では暗黙であるとはいえ、常に表面にあり、つねに明文化しうるものです。このものが人間的行為全体の下に暗々裏に存在する限りで、ものを結実として生み出す活動は前意識の次元に属します。すなわち我われが十分に注意し注目すれば、我われの関心によって意識に上らせることができます。語はそのとき相互的な位置にあります。つまり一方で、語はものによって分節され説明されますが、一方で、語は、それ自体ランガージュやさらには命令によって支配された行為であり、その行為がものというこの対象を引き出し、生れさせるのです。
 つまり「事物Sache」と「語Wort」は密接に結びついていてカップルを形成しているのです。これに対して「ものdas Ding」は、それとはまったく別のところに位置しています。
 …(一段落省略)
 この「ものdas Ding」は、語はものを拠り所にしている反面、ものは語によって創り出される、というような説明可能な関係、いわば相互的な関係の中にあるのではありません。「ものdas Ding」には、それとは別のものがあるのです。(邦訳上巻66~67頁)

 少し長くなりましたが、上の引用文の中で、『Sache』を想定して『chose』と言われていそうな箇所を、『物』と訳し直して『ものDing』と区別してみます。後者は複数形にならないというのも目印として役立ちます。そのさい、途中で『choses』という複数形ばかりが用いられているなかに出てくる代名詞『elle』(単数形)は、『chose』ではなく『activite活動』を指しているのではないかと思ったので、語順を変えてみます。

 長い回り道をしましたが、それは本日は次のことを指摘するに止めようと思うからです。結局のところ、フロイトは「事物表象Sachvorstellung」という言い方はしますが、決して「もの表象Dingvorstellung」という言い方はしないということです。また、「事物表象Sachvorstellungen」が「語表象Wortvorstellungen」に結びつけられていることも、どうでもよいことではありません。このことによって、(chose)と語(mot)の間に一つの関係があることを我々に示しているのです。語というもみ殻がもみ殻と見えるのは、我々がこのもみ殻から、諸物という穀粒を分離した限りにおいてのみであり、何よりももみ殻こそが穀粒をもたらしたのです。
 ここで一つの認識論を展開しようとは思いません。けれども、人間世界の諸物はパロールとして構造化された宇宙の諸物であり、ランガージュ・象徴的過程がすべてを支配していることは明らかです。(中略)
 「事物Sache」とはまさに、産業の産物、ランガージュによって支配された人間的行為の産物としてののことです。この意味での諸物は、この人間的行為の成因という点では暗黙であるとはいえ、常に表面にあり、つねに明文化しうるものです。この諸物を結実として生み出す活動は、それが人間的行為全体の下に暗々裏に存在する限りで、前意識の次元に属します。すなわち我われが十分に注意し注目すれば、我われの関心によって意識に上らせることができます。語はそのとき相互的な位置にあります。つまり一方で、語はによって分節され説明されますが、一方で、語は、それ自体ランガージュやさらには命令によって支配された行為であり、その行為がというこの対象を引き出し、生れさせるのです。
 つまり「事物Sache」と「語Wort」は密接に結びついていてカップルを形成しているのです。これに対して「ものdas Ding」は、それとはまったく別のところに位置しています。
 …(一段落省略)
 この「ものdas Ding」は、語は諸物を拠り所にしている反面、諸物は語によって創り出される、というような説明可能な関係、いわば相互的な関係の中にあるのではありません。「ものdas Ding」には、それとは別のものがあるのです。(代案)

 一つ目の箇所がかなり長くなりましたが、この章には他にはあまり大きな問題が見当たりません。次の箇所で終わりにしましょう。

感覚装置は、「質記号Qualitaetszeichen」がもたらしたもののガイドの役を果たしています。そのお陰で、回路のあれこれの点への注意が可能になります。さらにそれによって、思考過程への接近が、快楽原則によって自動的になされるよりもよりよく行われることになります。(邦訳上巻73頁)

感覚装置は、「質記号Qualitaetszeichen」がもたらした割り前[contributions]に対してガイドの役を果たしています。そのお陰で、回路のあれこれの点への注意として個別的な区別[departs]が可能になります。さらにそれによって、過程への近似が、快楽原則によって自動的になされるよりもよりよく行われることになります。(代案)

 上の最後の変更点の「過程processus」は、邦訳では補足されて「思考過程」とされていますが、邦訳72頁3行目などを見る限り、邦訳の補足は正しそうに思われます。

 今回の章では、最後に、邦訳上巻74頁11行目の『記載』という語は、前後にたくさん『記載』という語があるなかで、ここだけ原語が『エクリチュール』だという点を指摘しておきます。

精神分析の倫理 上
出版社: 岩波書店 (2002/6/26)
ジャック・ラカン   (著),‎ ジャック・アラン・ミレール (編集),‎ 小出 浩之 (翻訳)

2017年12月11日 (月)

ラカン『精神病』8章再読

 今回は8章『象徴界のフレーズ』の翻訳の検討です。

 ひとつめは、原文を残した箇所の間違いが明らかな箇所です。ただ、直後に非常によく似た文がある(そちらの引用は正しい)ので、引きずられたのかもしれません。ほか、自分なりのこだわりで「celui」を「者」としました。

「私は遠く離れたものであるJe suis celui qui est loin.」というこの聖書のような響きをもった表現が、神がシュレーバーに打ち明けたことについての彼の記述の中に見られます。シュレーバーにとっての神は「存在するところのもの(celui qui est)」ではなくて、「遥か遠くに離れたところのもの(celui qui est bien loin)」なのです。(邦訳上巻179頁)

「私は遠く離れた者なりJe suis celui qui est eloingne.」というこの聖書のような響きをもった表現が、神がシュレーバーに打ち明けたことについての彼の記述の中に見られます。シュレーバーにとっての神は「存在するところの(celui qui est)」ではなくて、「遥か遠くに…存在するところの者(celui qui est... bien loin)」なのです。(代案)

 次です。邦訳は大意としては問題ないようではありますが、いちおう代案を示しておきます。

フロイトが『夢判断』において「sit venia verbo(この言葉を使うのを許して下さい)と言い足して、無意識の思考という用語を明確化した時、彼が言っていることは、無意識の思考は、ランガージュという形で分節化されているということに他なりません。(邦訳上巻186頁)

フロイトが『夢判断』において「sit venia verbo(この言葉を使うのを許して下さい)と言い足して、無意識の思考という用語を明確化した時、彼が言っていることは、思考とは、ランガージュという形で分節化されているものを指しているということに他なりません。(代案)

 次です。ラカンがこのセミネールの直後にまとめた論文『精神病のあらゆる可能な治療の前提的問いについて』を読むとはっきりわかるのですが、ラカンが「modulation変調」という言葉で指している事態は、患者が頭に浮かんだ言葉を、「これは自分の考えとして引き受けよう、、これは自分の考えとしては否定しておこう、これは他人の考えとして投影しておこう、これは幻聴化しておこう」といった振り分けをする(場合によっては、さらにさまざまな声質を負わせて幻聴化する)作用のように思います。

人間にとって問題は、無意識というこのランガージュに占領されないように、この連続した変調の働きをうまく切り抜けることです。だからこそ、人間の意識は無意識から逸れるようになっているのです。ただ、無意識の存在を認めるということは、たとえ意識が無意識から逸れるとしても、先に述べた無意識の変調の働きや、すべての複雑さを伴った無意識のフレーズは、それでもなお存続しているということです。(邦訳上巻186~7頁)

 上の引用箇所の直前の段落にも(「modulation」という言葉は出てきませんが)その説明があります。私はこれを「モジュール割り」と訳しておきます。
 上の引用箇所は、最初の文、「s'en tirer avec cette modulation」を、「se tirer de...」「s'en tirer」「se tirer de... avec...」「s'en tirer avec...」といった熟語のいずれとしてとして解釈するかなかなか難しいのですが、次のように取ってみます。

人間にとって問題は、この連続したモジュール割りとうまく付き合い、それにあまりにも忙殺されないようにすることです。だからこそ、人間の意識はそれから逸れるようになっているのです。ただ、無意識の実在を認めるということは、たとえ意識がそれから逸れるとしても、先に述べたモジュール割りや、すべての複雑さを伴った[内的]フレーズは、それでもなお連続しているということです。(代案)

 「それから免れる」という表現が2箇所あって、「それ」が何を指すかも難しいのですが、一つ目は直前、二つ目は直後の、「モジュール割り」と取りました。角括弧の[内的]は、禁じ手ですが海賊版から取りました。

 次はラングとランガージュを取り違えるという大きなケアレスミスらしき箇所が目立ちますが、ほかもちょっとだけ手を入れてみます。

同様に十七世紀の「才女」の運動は、ランガージュという見地からすれば、信じられない程重要です。もちろん、この「才女」の運動の中には、モリエールという天才的人物が語っているような点が大いにあることはありますが、どうも彼には彼が望んだよりも少しばかり多くを語らせてしまったようです。(邦訳上巻189頁)

同様に十七世紀の「才女」の運動は、ラングという見地からすれば、信じられない程重要です。もちろん、この「才女」の運動の中には、モリエールという天才的人物が語ったような点が大いにあることはありますが、どうも彼は彼が望んだよりも少しばかり多くを語ったことにされているようです。(代案)

 次は、人名のカタカナ表記の問題です。

レンネック(邦訳上巻190頁)

 綴りはLaennecで、仏和辞典のほか英和辞典にも載っていますが、「ラエネク」と表記されるのが普通のようです。

 今回は次が最後です。

それ故に、シュレーバー議長の物語におけるランガージュの現象の変遷について、より念入りな検討をして、さらにそれに続いて、このランガージュの現象をリビドーの置き換えと結びつけることができるようになる所まで進みましょう。(邦訳上巻192頁)

それ故に、シュレーバー議長の物語における言葉の現象の変遷について、より念入りな検討をして、さらにそれに続いて、この言葉の現象をリビドーの置き換えと結びつけることができるようになる所まで進みましょう。(代案)

 ここの原文表現は「verbal」です。「verbe」は邦訳183頁2行目で「言葉」とされていますから、そちらにあわせてみました。

精神病〈上〉
ジャック ラカン (著), ジャック・アラン ミレール (編集), 小出 浩之 (翻訳), 川津 芳照 (翻訳), 鈴木 国文 (翻訳), 笠原 嘉 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (1987/03)

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