ラカン

2021年11月 5日 (金)

ラカン『フロイト的もの』(エクリ407~408頁)

 ラカンの講義録『精神病』を読み進むなか、その途中で読み上げられたというこの論文を読んでいます。今回で最初の節が終わりますが、やはりラカンが書いたものは手ごわいという印象で、全体としての論旨はなかなか見えづらいのですが、訳し進めてみます。

 3点ほど前置きしておきます。まず、以下の最初の文に「règles」とありますが、これは前の段落で動詞「régler」が出てくるので、これを踏まえたものと思います。原語を残したほか、前段の文脈をふまえた内容を少し括弧で補っておきました。もうひとつは、最初の段落に、「où se réduit...」や「où confine ce new-look 」という表現がありますが、ラカンは「auquel」や「à laquelle」の代わりに「où」を使うことが多いのでここもそのように取ってみたという点です。最後に、否定辞neが単独使用されている(pasなどの語を伴わない)箇所が2箇所有り、下線を付けておきました。辞書にはneが単独使用される場合が列挙されているのですが、「主節が否定形または疑問形の場合、接続法に置かれた関係節あるいは従属節内で(単独使用される)」という説明が、下線二つ目のneには当てはまりそうです。下線一つ目のneは直説法とともに用いられているのでいっそう困るのですが、文頭が「d'ou」であることに着目して、「疑問詞を用いた反語的疑問文で(単独使用される)」という説明に該当すると考えるしかなさそうに思います。ただし、反語的疑問文だとすると訳が難しい気もしまし、この前後に列挙された疑問文もみな反語的に受け取らねばならなくなるようだといっそう難しいと思います。

 Cette position ne saurait être réfutée puisque les règles s’y justifient par leurs issues, lesquelles sont tenues pour probantes du bien-fondé des règles. Pourtant nos questions se reprennent à pulluler. Comment ce prodigieux hasard s’est-il produit ? D’où vient cette contradiction entre le mic-mac préœdipien où se réduit la relation analytique pour nos modernes, et le fait que Freud ne s’en trouvait satisfait qu’il ne l’eût ramenée à la position de l’Œdipe ? Comment la sorte d’osculation en serre chaude où confine ce new-look de l’expérience, peut-elle être le dernier terme d’un progrès qui paraissait au départ ouvrir des voies multipliées entre tous les champs de la création, – ou la même question posée à l’envers ? Si les objets décelés en cette fermentation élective ont été ainsi découverts par une autre voie que la psychologie expérimentale, celle-ci est-elle habilitée à les retrouver par ses procédés ?

 [精神分析の狂信者による]この立場/措定が反駁されることなどありえないでしょう。なにしろそこで[実践を制御する]諸規則règlesは、諸規則そのものの妥当性からして納得のいくものとみなされるその出口/結末によって正当化されているからです。しかしながら我われの問いは再び急増し始めます。[精神分析のしきたりが獲得されたという]この驚異的な偶然はいかにして産み出されたのか。我ら現代人たちにとっての分析関係は前エディプス的企みに還元されますが、こうした企みと、フロイトが分析関係をエディプスの立場に導かなかったことに満足を見いだせずにいたという事実との矛盾はいったいどこから来るのか[そんな矛盾はどこからも出て来ないだろう]。経験/実験のこのニュールック[=新流行]とすれすれにあるような種類の温室内接触は、いかにして、創造のあらゆる領野の間の多数の道を初めは開くようにみえた進歩の最終項になりうるのか ・・・あるいは裏返しで提起される同じ問いになります。この選択的醸成において気付かれる諸対象[前述の糞と尻っぺた]がこのように実験心理学とは別の道で発見されたとしたら、実験心理学には、それ自身の手続きによってそれらを再発見する資格があるだろうか。

 Les réponses que nous obtiendrons des intéressés ne laissent pas de doute. Le moteur de l’expérience, même motivé en leurs termes, ne saurait être seulement cette vérité de mirage qui se réduit au mirage de la vérité. Tout est parti d’une vérité particulière, d’un dévoilement qui a fait que la réalité n’est plus pour nous telle qu’elle était avant, et c’est là ce qui continue à accrocher au vif des choses humaines la cacophonie insensée de la théorie, comme à empêcher la pratique de se dégrader au niveau des malheureux qui n’arrivent pas à s’en sortir (entendez que j’emploie ce terme pour en exclure les cyniques).

 利害関係者たちから我われが得る答えは、疑いの余地を残しません。経験/実験の動力は、彼らの言い方で動機づけられていても、単に、幻影というこの真理が真理の幻影へと還元されたものだけではありえないでしょう。全ては、ひとつの特殊な真理から出発します。つまり、我われにとって現実とは以前そうであったようなものではないという事態を招いたひとつの暴露から出発するのです。そしてそこにこそ、理論のばかげた耳障りな繰り言を人間的諸物の核心に引っ掛け続けるもの、窮地を脱するに至らない不幸者たち(私がこの用語を採用するのは、ひねくれ[=シニックな]者たちをそこから除外するためであることを理解されたい)の水準へと実践が堕落することを妨げ続けるものがあるのです。

Une vérité, s’il faut le dire, n’est pas facile à reconnaître, après qu’elle a été une fois reçue. Non qu’il n’y ait des vérités établies, mais elles se confondent alors si facilement avec la réalité qui les entoure, que pour les en distinguer on n’a longtemps trouvé d’autre artifice que de les marquer du signe de l’esprit, et pour leur rendre hommage, de les tenir pour venues d’un autre monde. Ce n’est pas tout de mettre au compte d’une sorte d’aveuglement de l’homme, le fait que la vérité ne soit jamais pour lui si belle fille qu’au moment où la lumière élevée par son bras dans l’emblème proverbial, la surprend nue. Et il faut faire un peu la bête pour feindre de ne rien savoir de ce qu’il en advient après. Mais la stupidité demeure d’une franchise taurine à se demander où l’on pouvait bien la chercher avant, l’emblème n’y aidant guère à indiquer le puits, lieu malséant voire malodorant, plutôt que l’écrin où toute forme précieuse doit se conserver intacte.

 必要とあれば言いますが、真理は、ひとたび認識された後には、容易には認識されません。既成の真理など有りはしないということではありませんが、[既成の]真理は、それを取り囲む現実ときわめて容易に混同されてしまい、それらを区別するために真理をエスプリの記号で印づける意外の技巧は長きにわたって見出されませんでしたし、真理を称えるために、それは別世界からやって来たとみなす以外の技巧も見出されませんでした。人間にとって真理は、格言的な紋章のなかでその腕で持ち上げた光が彼女を裸のまま捉える時点ほどにも美しい娘ではけっしてないという事実を、人間のある種の盲目性の責に帰すだけでは十分ではありません。そして、その後に到来することについて何も知らないふりをするためには少々[動物のように]馬鹿なふりをしなくてはなりません。しかし、かつて真理をどこに探すことができただろうか、と自問するという、雄牛のような率直さによる愚かしさが続いています。紋章も、貴重な形の全体が無傷のまま保存される宝石箱よりもむしろ不適切でさらには悪臭を放つ場である井戸をそこに示唆することをほとんど助けてくれないからです。

 今回の最後の段落で真理や紋章、裸婦や井戸について語られていますが、紋章に用いられる図像において、「真理」は、鏡を持って井戸から出てくる裸身の女性像で表されるということのようです。

 最後の段落に、「動物bête」や「雄牛のようtaurin」といった言葉がありますが、次の節にもこれらを踏まえた表現が出て来ます。

Ecrits
フランス語版
Jacques Lacan

2021年10月15日 (金)

ラカン『フロイト的もの』(エクリ406~7頁)

 ラカンの論文『フロイト的もの』の読解を続けます。

 今回の最初の段落に出てくる「鳩の足」という表現は、ネットで見つかるStaferla というサイトによるとニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』の一節、「嵐をもたらすのは、もっとも静かな言葉。鳩の足で歩いてくる思想こそ、世界をみちびくもの。」(岩波文庫上巻256頁)を念頭に置いたものとのことです。この一節は、ニーチェ本人の後年の著作『この人を見よ』にも再掲されているところをみると、おそらく有名な箇所のようです。ラカンのこの論文では、前回も今回もニーチェの名が出てきますし、本論文全体が「反対者」などの小見出しで区切られているのも『ツァラトゥストラ・・・』を念頭に置いていそうな気はします。とはいえそれでもラカンの意図がスッキリわかるとはいかない気がしますが。

 4段落目には「決疑論casuistique」や「恋愛地図carte de Tendre」といった、ふだん見慣れない言葉が出て来ます。前者は、おもいきって「(宗教上の)実証実験」とでも訳してしまって良いかも知れません。 後者はラカンが好んでときどきセミネールでも持ち出す言葉ですが、この「恋愛地図」という訳語ではネットで調べても上位に出てきません。女流作家スキュデリーの作品『クレリー』に登場するらしく、スキュデリーの名で引くほうが探しやすいでしょう。Madeleine de Scudéry - Wikipedia(英語)でその地図もみることができます。

 Ici les gros sabots s’avancent pour chausser les pattes de colombe sur lesquelles, on le sait, la vérité se porte, et engloutir à l’occasion l’oiseau avec : notre critère, s’écrie-t-on, est simplement économique, idéologue que vous êtes. Tous les arrangements de la réalité ne sont pas également économiques. Mais au point où la vérité s’est déjà portée, l’oiseau s’échappe et sort indemne avec notre question : – Économiques pour qui ?
 よく知られているように真理がのしかかっているのは鳩の足であり、この足に履かせるための大きな木靴がここで登場し、その機があれば鳥を飲み込んでしまいます:彼らはこう叫びます、私どものクライテリアは単に経済論的なのです、あなたが観念論者であっても、と。現実のあらゆる配置がみな等しく経済論的なわけではありません。しかし、真理がすでにのしかっていた地点では、鳥は、「[現実の配置は]誰にとって経済的ということか?」という我われの問いと共に無傷のまま逃げ、脱出します。

 Cette fois l’affaire va trop loin. L’adversaire ricane : « On voit ce que c’est. Monsieur donne dans la philosophie. Dans un moment, entrée de Platon et de Hegel. Ces signatures nous suffisent. Ce qu’elles avalisent est à mettre au panier, et quand même, comme vous l’avez dit, cela concernerait-il tout le monde, cela n’intéresse pas les spécialistes que nous sommes. Ça ne trouve même pas à se classer dans notre documentation. »
 このたび事態は行き過ぎています。敵対者はせせら笑うのです:「どういうことか分かっております。旦那様は哲学にのめり込んでおられるのです。もうじき、プラトンとヘーゲルのお出ましです。彼らの署名で私どもには十分です。その署名が保証するものなど、くずかごに捨てるべきです。それでも、あなたがおっしゃったように、そういうことはみなすべてのひとに関わるのかもしれませんが、私ども専門家は関与しません。そんなことが私どもの参考資料集に分類されることはありません」。

 Vous pensez que je raille en ce discours. Nullement, j’y souscris.
 みなさんは、私がこの講義でからかっていると思っています。とんでもない、私はこれに同意の署名をします。

 Si Freud n’a pas apporté autre chose à la connaissance de l’homme que cette vérité qu’il y a du véritable, il n’y a pas de découverte freudienne. Freud prend place alors dans la lignée des moralistes en qui s’incarne une tradition d’analyse humaniste, voie lactée au ciel de la culture européenne où Balthazar Gracián et La Rochefoucauld font figure d’étoiles de première grandeur et Nietzsche d’une nova aussi fulgurante que vite rentrée dans les ténèbres. Dernier venu d’entre eux et comme eux stimulé sans doute par un souci proprement chrétien de l’authenticité du mouvement de l’âme, Freud a su précipiter toute une casuistique en une carte de Tendre où l’on n’a que faire d’une orientation pour les offices auxquels on la destine. Son objectivité est en effet strictement liée à la sitution analytique, laquelle entre les quatre murs qui limitent son champ, se passe fort bien qu’on sache où est le nord puisqu’on l’y confond avec l’axe long du divan, tenu pour dirigé vers la personne de l’analyste. La psychanalyse est la science des mirages qui s’établissent dans ce champ. Expérience unique, au demeurant assez abjecte, mais qui ne saurait être trop recommandée à ceux qui veulent s’introduire au principe des folies de l’homme, car, pour se montrer parente de toute une gamme d’aliénations, elle les éclaire.
 真なるものが有るという真理の他にフロイトが人間の認知に何ももたらさなかったとすれば、フロイトの発見などというものは有りません。ところでフロイトは、ユマニスト的分析の伝統を体現するモラリストたちの系譜に位地を占めています。これ[=この伝統]はヨーロッパ文化の空に横たわる銀河であり、そこでバルタザール・グラシアンとラ・ロシュフーコーは一等星とされ、ニーチェは閃光とともに素早く暗闇へ帰る新星とされています。彼ら[モラリストたち]のなかに最後に到来したフロイトは、心の動きの真正性に関する本来キリスト教的な関心によっておそらく刺激された彼らと同様に、決疑論の全体を一種の恋愛地図に落とし込む術を知っていました。そうした恋愛地図では、決疑論が向けられる勤めoffices にとっての方向性など気にも留められません。その客観性は、実際、分析状況と厳密に結びついています。分析状況は、その領野を区切る四方の壁のなかで実にうまく経過しますから、北がどちらにあるか分かるほどです。なにしろそこでは北が、分析家の身柄に向いているとみなされる寝椅子の長軸と混同されるからです。精神分析は、この領野で打ち立てられる幻影についての科学です。これはユニークでありながらかなりおぞましい経験であって、人間の狂気の原理に入門したいと望む人びとにはどれほど勧めても勧めすぎるということのないものです。というのも、この経験は、自らが幅広い狂気と類縁であることを示すことで、疎外[=精神病]を解明するからです。

 Ce langage est modéré, ce n’est pas moi qui l’invente. On a pu entendre un zélote d’une psychanalyse prétendue classique définir celle-ci comme une expérience dont le privilège est strictement lié aux formes qui règlent sa pratique et qu’on ne saurait changer d’une ligne, parce qu’obtenues par un miracle du hasard, elles détiennent l’accès à une réalité transcendante aux aspects de l’histoire, et où le goût de l’ordre et l’amour du beau par exemple ont leur fondement permanent : à savoir les objets de la relation préœdipienne, merde et cornes au cul.
 この言葉遣いは穏当なものであり、これを創出したのは私ではありません。古典的と称されるようなある種の精神分析の狂信者がかつて精神分析を、その実践を制御する諸形式しきたりに厳密に結びついているような特権をもった経験として定義するのがきかれました。これら諸形式しきたりは、ひとつの路線から変更しようがないようなのです。なぜならそれら諸形式しきたりは偶然の奇跡によって獲得されておりいながら、歴史の諸相を超越したひとつの現実への通路を保持しているからです。そこ[=上記の諸形式しきたり]にこそ、たとえば秩序嗜好と美への愛が、それらの永続的な基礎を有しています:すなわち、前エディプス的関係の諸対象、糞と尻っぺたのことです。

 最後の段落では、「et où」がどこを指すかが難しいと思ったので、備忘のため下線で強調しておきました。#公開後に変更した箇所は取り消し線で示しました。

 今回も1ページ強のここまでとします。たぶん次回この節の終わりまで進めると思います。

Ecrits
フランス語版
Jacques Lacan

 精神分析を受けるという経験は精神病の解明に役立つ、なんて主張は、現代の精神医学の主流からはぜったい受け容れられないだろうと思います。しかし精神病症状について客観的立場からの理解が可能だなんてほうがとんでもない考え方だと私は思いますけど。

2021年10月 4日 (月)

ラカン『フロイト的もの』(エクリ405~6頁)

 『フロイト的もの』の先に1頁強ほど進みます。今回は新たな節に入りますが、前節の最後にあった自問に対する自答から始まります。

 今回は(特に最後の段落が)これまで以上にややこしく、正直なところうまく意味を掴めていない気がします。フランス語を母語としないウィーンの聴衆の前でこんなことを話してどれだけ理解されたのかと疑問に思わずにはいられません。

L’ADVERSAIRE.
反対者

 Je suis sûr ici de ma réponse : – Absolument pas, si ce que je vais dire est bien comme il doit être. Le sens d’un retour à Freud, c’est un retour au sens de Freud. Et le sens de ce qu’a dit Freud, peut être communiqué à quiconque parce que, même adressé à tous, chacun y sera intéressé : un mot suffira pour le faire sentir, la découverte de Freud met en question la vérité, et il n’est personne qui ne soit personnellement concerné par la vérité.
 私はここで私の答えを確信しています:私が言おうとしていることが、然るべきものであれば、決してそんな[彼らを失望させる]ことはない、という答えです。フロイトへの回帰の意味とは、フロイトの意味への回帰です。そしてフロイトが語ったことの意味は、誰にでも伝達されうるのです。なぜなら[その意味は]、全員に差し宛てられてはいても、誰もが[個々に]それと関わるであろうからです:それに感づいてもらうためには一つの言葉で十分でしょう、フロイトの発見は真理を問いに付しており、しかも真理に個人的に関わらない者など誰も居ないのです。

 Avouez que voilà un propos bien étrange que de vous jeter à la tête ce mot qui passe presque pour mal famé, d’être proscrit des bonnes compagnies. Je demande pourtant s’il n’est pas inscrit au cœur même de la pratique analytique, puisque aussi bien celle-ci toujours refait la découverte du pouvoir de la vérité en nous et jusqu’en notre chair.
 みなさんに認めていただきたいのですが、ここにあるのは、好ましい仲間たちから追放され、むしろ評判の悪いものとして通用しているこの言葉[=真理]でみなさんの頬をひっぱたくような、きわめて異様な話題ですね。私はそれでも、この言葉は分析実践の核心そのものに記載されていないかと問います。なにしろ、いずれにせよ分析実践は、我われひいては我われの肉体のうちにある真理の力の発見をつねにやり直すものだからです。

 En quoi l’inconscient serait-il en effet plus digne d’être reconnu que les défenses qui s’y opposent dans le sujet avec un succès qui les fait apparaître non moins réelles ? Je ne relève pas ici le commerce de la pacotille nietzschéenne du mensonge de la vie, ni ne m’émerveille qu’on croie croire, ni n’accepte qu’il suffise qu’on le veuille bien pour vouloir. Mais je demande d’où provient cette paix qui s’établit à reconnaître la tendance inconsciente, si elle n’est pas plus vraie que ce qui la contraignait dans le conflit ? Aussi bien n’est-ce pas que cette paix depuis quelque temps ne s’avère vite être une paix manquée, puisque non contents d’avoir reconnu comme inconscientes les défenses à attribuer au moi, les psychanalystes en identifient de plus en plus les mécanismes – déplacement quant à l’objet, renversement contre le sujet, régression de la forme, – à la dynamique même que Freud avait analysée dans la tendance, laquelle ainsi semble s’y continuer à un changement de signe près. Le comble n’est-il pas atteint quand on admet que la pulsion elle-même puisse être amenée par la défense à la conscience pour éviter que le sujet s’y reconnaisse ?
 いかなる点で無意識は、実際、主体のなかでそれと対立しそれなりに成功している様々な防衛よりもいっそう認識に値するものなのでしょうか。そうした防衛もこの成功のおかげで劣らず現実的に見えるものですが。私は、人生の嘘についてのニーチェ的な安物商売をここで取り上げませんし、人びとは信じているつもりでいるということに驚きませんし、人びとは望む[意思する]ためにはまさにその嘘を望む[意思する]だけで十分であることを受け容れません。しかし私は、無意識的な傾向は葛藤においてそれを抑え付けていたものよりも真ではないとすれば、それを認識することで成り立つ安らぎがどこからやって来るのかと問います。いずれにせよ、しばらく前からこの安らぎは、取り逃がされた安らぎであることがすぐに判明するということではないでしょうか。なにしろ、自我に帰すべき防衛を無意識的だと認識したことに甘んずることなく、精神分析家たちは、少しずつその防衛機制を ―つまり対象に関する移動を、そして主体に対する逆転を―、フロイトが傾向の中に分析した力動そのものと、同一視するようになっていますから。この傾向は、記号の変更を除けばそこで続いているようにみえます。欲動そのものは、主体がそれによって認識されることを避けるために、防衛によって意識化されうる、などということが受け入れられていては、[フロイトの分析の]頂点には手が届きません。

 この次の段落はものすごく厄介なのでいったん切って、あらかじめいくつか断っておきます。
 次段落2文目の「il s’en faille de si peu que...」は、「il s’en faut de 数量表現 que (ne) 接続法 ~であるには・・・(数量表現)だけ足りない」という構文で、数量表現のところに「peu」が入ると「もう少しのところで~である」「~も同然である」ということです。これが「il s'en faille...」という接続法になっている理由がはじめなかなか分からなかったのですが、「ce n’est pas que...que je déplore, c'est que...私が残念に思うのは~ということではなく~ということだ」という強調構文だと考えれば、ここは「je déploreが主観的な感情・判断を示しておりそこに続く名詞節だから接続法だということで解決します。
 なお、ここに出てくる「peu」は、普通なら「些細な、ほとんど無いもの」といった意味ですから、「すんでのところで~だ」「~も同然」といった訳を当てられ、この「わずかな差」が訳文から消えてしまうこともありますが、ここでラカンは、段落の4文目で「ce peu」として取り上げ直していますので、訳文でも省くわけにはいきません。
 そのすぐあとに出てくる「ボンディの森」とは、辞書によれば「パリ北東にあった大きな森で、かつて盗賊の巣窟とされた」ということですが、地名「Bondy」は「bandits盗賊」とほぼ同音で、ラカンはこれを念頭に置いていたかも知れません。それと、「木を見て森を見ず」は、フランス語では「木が森を隠す」という言い方で表現されることも付け加えておきます。
 以上の前おきは、おおむね以下の原文引用の1~3行目ぐらいの内容に関わりますが、そこから先はますます難しくなっていきます。

 Encore me sers-je pour traduire l’exposé de ces mystères en un discours cohérent, de mots qui malgré moi y rétablissent la dualité qui les soutient. Mais ce n’est pas que les arbres du cheminement technique cachent la forêt de la théorie que je déplore, c’est qu’il s’en faille de si peu qu’on ne se croie dans la forêt de Bondy, exactement de ceci qui s’esquive derrière chaque arbre, qu’il doit y avoir des arbres plus vrais que les autres, ou, si vous voulez, que tous les arbres ne sont pas des bandits. Faute de quoi l’on demanderait où sont les bandits qui ne sont pas des arbres. Ce peu donc dont il va de tout en l’occasion, peut-être mérite-t-il qu’on s’en explique ? Cette vérité sans quoi il n’y a plus moyen de discerner le visage du masque, et hors laquelle il apparaît n’y avoir pas d’autre monstre que le labyrinthe lui-même, quelle est-elle ? Autrement dit, en quoi se distinguent-ils entre eux en vérité, s’ils sont tous d’une égale réalité ?
 それでも私は、これらの神秘[=防衛]の報告を、一貫したディスクールへと翻訳するために、それらを支える二元性を私の意に反してそこに回復する言葉を役立てます。しかし、私が残念に思うのは、技法的な歩みという木々が、技法という森を隠す、ということではなく、むしろ、人びとは自分がボンディの森[=盗賊の巣窟]のなかに居ると、つまりまさしく木々それぞれの陰に逃げてしまうものの森のなかに居ると、信じているもほぼ同然であって、そこまではあともうほんの少しだということです。ですから、他の木々よりもいっそう真なる木々が有るはずだとか、あるいは、みなさんにはこういったほうが良ければ、木々がすべて盗賊であるわけではないということになります。さもなくば[=ボンディの森に居ると信じたら]、人びとは木ではない盗賊はどこにいるかと疑問を持つことでしょう。ゆえに、場合によってはあらゆるものがそこから進んでくるこのほんの少しについて、ひょっとすると人びとが自らの考えを説明するに値するでしょうか。この真理なくしては、もはや顔を仮面から識別する手段は有りませんし、この真理の外では、迷宮そのもののほかには怪物はなさそうに見えますが、この真理とはどんなものでしょうか。言い換えると、それらがみな同じ現実性をもつものであるならば、どのような点でそれらのなかで実のところ[=真理において]際立って区別されるのでしょうか。

 「de ceci qui s’esquive derrière chaque arbre, que...」という箇所は、ここの構文だけをみれば、「ceci=以下に述べること」と言っておいて「que」以下でその内容を述べ、それが「木の後ろに逃げてしまう」のだと考えたくなるのですが、そうすると意味的に、「木々のすべてが盗賊ではないという事態」が「木の後ろに逃げてしまう」という、まったく理解困難な文になってしまいます。
 では「de ceci」を「de Bondy」と同格と扱って、「ceci」は直前の「Bondy(地名であり、盗賊banditsとほぼ同音)」を指すと解釈できないかということになるでしょう(「de si peu」と同格ということはないでしょう)、と思いました。「盗賊」が「それぞれの木の陰に逃げてしまう」というのですから、その点では意味も通ります(いったい何の寓意なのかは分かりにくいですが)。
 ですが「que」以下の節(直説法)がどこからつながっているのかはっきりしない。直説法なので、そこで言われていることは疑わしくはないということはいえるでしょう。結局、訳文では、「si peu非常にわずかなこと」の内容を指すような感じで置いてみました。このあともしばらく「ce peu」が話題になり続けていますから、おおむねこんな感じじゃないでしょうか。

Ecrits
フランス語版
Jacques Lacan

 それでもすっきりしない今回、banditにちなんで最後に、ホイットニー・ヒューストンのさわやかな名曲をclean banditがサンプリング使用した(というのかな)この最新シングルを紹介して気分を直しておきましょう。無駄なイントロも省かれ、デビューアルバムのホイットニーの声が新鮮に蘇ります。

‎ホイットニー・ヒューストン & Clean Banditの「How Will I Know - Single」をApple Musicで

2021年9月23日 (木)

ラカン『フロイト的もの』(エクリ404~5頁)

 ラカンの『精神病』のセミネールからの行きがかりで読み始めたウィーンでの講演録『フロイト的もの』ですが、まだ前置きのあいさつ的な箇所が続きます。今回はなんとか1頁ちょっと進んで、前置き部分を終わらせようと思います。

 ところがdiscipline(仏語では英語よりも意味が狭いようです)やexerciceといった語にどういう訳語がふさわしいかさえまだ自信がなく、訳文の中に残しておきました。もっと後ろを読んでから立ち戻って訳語を変えるかもしれません。

 以下の2段落目に出てくる3人の人名(+敬称)のうち、一人目のHoff教授とは、ネットで検索するとすぐに出てくるHans Hoffのことでしょうか。2人目の「Dr Dozent Arnold」は、「Dozent」にはドイツ語で講師や教官という意味があるので、ファーストネームではないだろうとみなしました。ネットで探した範囲で該当しそうなのは、Hans Hoff教授の部下であったとも書かれているOttokar Arnoldでしょうか。最後に挙げられた人名Igor Carusoはフルネームなのでネットで検索すると一発で出てきますが、けっこう有名な心理学者のようです。

 その段落は畑や開墾をほのめかしていそうな言葉が並ぶ部分があったりしたあと、最後の文がさらにとてもわかりにくいのですが、「devoir à qc de inf. ~に~の恩恵を受けている、~は~のおかげである/~を~から得ている、~は~から由来する」という言い回しが、3回繰り返されているものと取り(原文に下線を引いておきました)、その1回めのなかの「de vous faire」の目的語が「la causerie 」だと考えました。

 というわけで、次のように訳を考えてみました。

 Textes qui se montrent comparables à ceux-là même que la vénération humaine a revêtu en d’autres temps des plus hauts attributs, en ce qu’ils supportent l’épreuve de cette discipline du commentaire, dont on retrouve la vertu à s’en servir selon la tradition non pas seulement pour replacer une parole dans le contexte de son temps, mais pour mesurer si la réponse qu’elle apporte aux questions qu’elle pose, est ou non dépassée par la réponse qu’on y trouve aux questions de l’actuel.

 これらのテキストは、注釈による検討に耐えるという点で、かつて人間の崇拝がきわめて高い属性で包んできた諸テキストに比肩するものです。この注釈という学業訓練disciplineの利点が再発見されるのは、伝統に従って、ただパロール[=神の啓示の言葉の意あり]をその時代の文脈のなかに置き直すためだけに役立つことによることではありません。むしろ、そのパロールが提起するいくつもの問いにそのパロール自らがもたらす答えが、当面の問いに人びとがそこで見出している答えによって凌駕されているか否かを測るために、役立つことによるのです。

 Vous apprendrai-je quelque chose, à vous dire que ces textes auxquels je consacre depuis quatre ans un séminaire de deux heures tous les mercredis de novembre à juillet, sans en avoir encore mis en œuvre plus du quart, si tant est que mon commentaire suppose leur ensemble, – nous ont donné à moi comme à ceux qui m’y suivent, la surprise de véritables découvertes ? Elles vont de concepts restés inexploités à des détails cliniques laissés à la trouvaille de notre exploration et qui témoignent de combien le champ dont Freud a fait l’expérience, dépassait les avenues qu’il s’est chargé de nous y ménager, et à quel point son observation qui donne parfois l’impression d’être exhaustive, était peu asservie à ce qu’il avait à démontrer. Qui n’a pas été ému parmi les techniciens de disciplines étrangères à l’analyse que j’ai conduit à lire ces textes, de cette recherche en action : que ce soit celle qu’il nous fait suivre dans la Traumdeutung, dans l’observation de l’Homme aux loups ou dans l’Au-delà du principe du plaisir ? Quel exercice à former des esprits, et quel message à y prêter sa voix ! Quel contrôle aussi de la valeur méthodique de cette formation et de l’effet de vérité de ce message, quand les élèves à qui vous les transmettez, vous apportent le témoignage d’une transformation survenue parfois du jour au lendemain de leur pratique, devenue plus simple et plus efficace avant même qu’elle leur devienne plus transparente. Je ne saurais vous rendre un compte extensif de ce travail dans la causerie que je dois à l’amabilité de M. le Professeur Hoff de vous faire en ce lieu de haute mémoire, à l’accord de mes vues avec celle du Dr Dozent Arnold d’avoir eu l’idée de la produire maintenant devant vous, à mes relations excellentes et déjà datées avec M. Igor Caruso de savoir quel accueil elle rencontrerait à Vienne.

 私が4年前から11月から6月までの毎水曜日、2時間のセミネールを費やしてきたこれらのテキストのうち、私の注釈がその全体を前提にしているとすればまだその四分の一しか利用されていないにもかかわらず ・・・我われに、つまり私と私についてくる者たちとに、これらのテキストが本当の発見の驚きをもたらした、と私がみなさんに言うとしたら、それで私はみなさんに何かを教えることになるでしょうか[そんなことはみなさんにも当たり前のことでしょう]。そうした発見は、我われの探索による掘り出しに委ねられたさまざまな臨床的細部のなかに、利用[=開墾]されないまま残っている諸概念に由来します。フロイトが経験した領野[=畑]は、フロイトが我われのためにそこに用意することを引き受けた通り道よりもいかにはるか上を行っていたか、また、時には網羅的であるとの印象も与える彼の観察記録は、彼が論証すべきであったものに、いかなる点でほとんど縛られていなかったか、それらの概念が証言しています。分析とは無縁の学業訓練disciplineを受けた技法家たちの中で、私がこれらのテキストを読むように導いた者のうち、いったい誰が、まさに活動中のこの研究に心を動かされなかったというのでしょうか。『夢解釈』においても『狼男』の観察記録においても、はたまた『快原理の彼岸』においても、フロイトが我われを付き従わせる研究のことです。なんという務めexerciceが人びとを養成することでしょうか、なんというメッセージが彼の代わりに声を挙げていることでしょうか。なんという制御が、この養成の方法的な価値と、このメッセージの真理としての効果に及んでいることでしょうか。みなさんによってそれら[=この養成の方法的価値とこのメッセージの真理効果]を伝達される弟子たちは、時として一夜にして現われた変容についてみなさんに証言をもたらします。彼らの実践はいっそう透明明白になるのですがその前にすでにいっそう単純かつ有効になるのです。私はこの仕事について、この懇談においてはみなさんに幅広い報告ができそうもありません。なおこの古き思い出を残した場でみなさんにこの懇話を行うことについてはホッフ教授氏の好意のおかげですし、いまみなさんの前でこの懇話を産み出そうと思いついたのはアルノルト講師のもくろみと私のもくろみとの一致のおかげであり、さらにこの懇話がウィーンでどんな歓迎に出会うかを知り得たのはイーゴル・カルーソー氏と私とのすでに古くからの卓越した関係のおかげでもあります。

 Mais je ne puis oublier aussi les auditeurs que je dois à la complaisance de M. Susini, directeur de notre Institut français à Vienne. Et c’est pourquoi au moment d’en venir au sens de ce retour à Freud dont je fais profession ici, il me faut me demander si, pour moins préparés qu’ils soient que les spécialistes à m’entendre, je ne risque pas de les décevoir.

 しかも私は、フランスの我われの研究所のウィーン局長であるスシーニ氏のはからいのおかげで集まりいただいている聴衆のみなさんを忘れるわけにはいきません。そしてだからこそ私は、ここで私が標榜しているこのフロイトへの回帰の意味に着手するとき、私から聞くことに対して聴衆のみなさんが専門家たちよりもいかに準備不足であろうとも、私が彼らを失望させるおそれがあるのではないかと自問しないわけにはいかないのです。

 最後の自問には、次の節の冒頭で、決して失望させるおそれはないでしょう、と強く否定されます。

 訳文だけ読むとどうしてもちんぷんかんぷんですが、原文と併記することで、なんとか話の筋を追える形になっていると良いのですが。

Ecrits
フランス語版
Jacques Lacan

2021年9月15日 (水)

ラカン『フロイト的もの』(エクリ403頁)

 ラカンの『精神病』のセミネールからの行きがかりで読み始めた『フロイト的もの』の続きです。

 『エクリ』403頁は次のような感じかなと思います。

 C’est ainsi que le mot de Freud à Jung de la bouche de qui je le tiens, quand invités tous deux de la Clark University, ils arrivèrent en vue du port de New York et de la célèbre statue éclairant l’univers : « Ils ne savent pas que nous leur apportons la peste », lui est renvoyé pour sanction d’une hybris dont l’antiphrase et sa noirceur n’éteignent pas le trouble éclat. La Némésis n’a eu, pour prendre au piège son auteur, qu’à le prendre au mot de son mot. Nous pourrions craindre qu’elle n’y ait joint un billet de retour de première classe.

 クラーク大学からフロイトとユングが招かれ、ニューヨークの港と、世界を照らす有名な像とが見えるところへ到着したときに、フロイトからユングに向けられた言葉:「彼らは、我われがペストを運んできたことを知らない」、私がユングから聞いたこの言葉は、かくして、ヒュブリス[=傲慢さ]の報いとしてフロイトに送り返されます。反語法とその腹黒さも、このヒュブリスの怪しげな輝きを消してはいません。その作者を罠に捉えるために、ネメシスは、この言葉を言葉通りに捉えるだけでよかったのです。我われは、ネメシスがそこに復路の一等切符を貼り付けたのではないかと懸念してもよいでしょう。

#「ネメシスはギリシア神話に登場する女神である。人間が神に働く無礼[ヒュブリス]に対する、神の憤りと罰の擬人化である。(以下略)」ウィキペディアより

 À la vérité, s’il s’est passé quelque chose de tel, nous n’avons à nous en prendre qu’à nous. Car l’Europe paraît plutôt s’être effacée du souci comme du style, sinon de la mémoire de ceux qui en sont sortis, avec le refoulement de leurs mauvais souvenirs.

 実のところ、そのようなことが起こったとしても、我われは我われ自身だけを責めたらよいのです。というのも、ヨーロッパはむしろ、そこから脱出した者たち、彼らの悪しき思い出の抑圧と共に脱出した者たちの記憶から消し去られたわけではないにせよ、彼らの気遣いや彼らのスタイルから消し去られたように思われるから[彼らを責めても無駄]です。

 Nous ne nous plaindrons pas de cet oubli, s’il nous laisse plus libre de vous présenter le dessein d’un retour à Freud, tel que certains se le proposent dans l’enseignement de la Société française de psychanalyse. Ce n’est pas d’un retour du refoulé qu’il s’agit pour nous, mais de prendre appui dans l’antithèse que constitue la phase parcourue depuis la mort de Freud dans le mouvement psychanalytique, pour démontrer ce que la psychanalyse n’est pas, et de chercher avec vous le moyen de remettre en vigueur ce qui n’a cessé de la soutenir dans sa déviation même, à savoir le sens premier que Freud y préservait par sa seule présence et qu’il s’agit ici d’expliciter.

 この忘却が、精神分析フランス協会[註:1953-64、国際学会からの破門までラカンも所属]の教育で幾人かが目論んでいるようなフロイトへの回帰の計画をみなさんにいっそう自由に提示させてくれるのなら、我われはこの忘却を嘆くことはないでしょう。我われにとっては、抑圧されたものの回帰が問題ではなく、むしろ、フロイトの死以来精神分析運動において、精神分析ならざるものを論証するために辿られた局面が構成するアンチテーゼにおいて足場を得なければならないのですし、逸脱しつつあるなかでさえ精神分析を支え続けるものすなわち[フロイトの]最初の意味を、再び有効にする手段をみなさんと共に探し求めねばならないのです。この最初の意味をフロイトはそこでその唯一の威光でもって保存していたのであり、これをいまここで明らかにしなければなりません。

 Comment ce sens pourrait-il nous manquer quand il nous est attesté dans l’œuvre la plus claire et la plus organique qui soit ? Et comment pourrait-il nous laisser hésitants quand l’étude de cette œuvre nous montre que ses étapes et ses virages sont commandés par le souci, inflexiblement efficace chez Freud, de le maintenir dans sa rigueur première ?

 この[フロイトの最初の]意味が、ありうる最も明晰で最も有機的な著作において我われに証言されているにもかかわらず、我われのもとに欠けているということがどうしてありうるでしょうか。また、その意味を最初の厳密さの中に維持しようという、フロイトにおいて断固として有効であった気遣いによって、そのいくつかの段階と方向転換とが命じられていることを、この著作の研究が我われに示しているにもかかわらず、この[フロイトの最初の]意味がどうして我われを躊躇わせたままにしていられるでしょうか。

 訳が不正確なところもあるかも知れませんが、こういうややこしいものは、やる気になった時にどんどん進んでおかないといつまでも読み進められないだろうと思います。

Ecrits
フランス語版
Jacques Lacan

2021年9月12日 (日)

ラカン『フロイト的もの』(エクリ402頁)

 ラカンの『精神病』のセミネールから行きがかり上、『フロイト的もの』を読んでいます。

 『エクリ』402頁は次のような感じかなと思います。ここは、フロイトを称える記念碑がウィーンに作られたのが、精神分析家の団体によってではなかったことを嘆く文脈を受けた箇所です。

 Défaillance symptomatique, car elle trahit un reniement qui ne vient pas de cette terre où Freud de par sa tradition ne fut qu’un hôte de passage, mais du champ même dont il nous a légué le soin et de ceux à qui il en a confié la garde, je dis du mouvement de la psychanalyse où les choses en sont venues au point que le mot d’ordre d’un retour à Freud signifie un renversement.

 症候的な怠慢です。というのも、この怠慢は裏切りを漏らし伝えているからです。この裏切りは、伝説によればフロイトが行きずりの客でしかなかったこの土地から来るものではなく、むしろ、フロイトが我われに手入れを委ねて遺贈した領野と、彼がその管理を委ねた者たちとから来るもの、つまりは精神分析運動から来るものです。精神分析運動においては、フロイトへの回帰というスローガンがちゃぶ台返しを意味するほどにまで、事態が行き着いてしまったのです。

 Bien des contingences sont nouées dans cette histoire, depuis que le premier son du message freudien a retenti avec ses résonances dans la cloche viennoise pour étendre au loin ses ondes. Celles-ci parurent s’étouffer dans les sourds effondrements du premier conflit mondial. Leur propagation reprit avec l’immense déchirement humain où se fomenta le second, et qui fut leur plus puissant véhicule. Tocsin de la haine et tumulte de la discorde, souffle panique de la guerre, c’est sur leurs battements que nous parvint la voix de Freud, pendant que nous voyions passer la diaspora de ceux qui en étaient les porteurs et que la persécution ne visait pas par hasard. Ce train ne devait plus s’arrêter qu’aux confins de notre monde, pour s’y répercuter là où il n’est pas juste de dire que l’histoire perd son sens puisqu’elle y trouve sa limite, où l’on se tromperait même à croire l’histoire absente, puisque, déjà nouée sur plusieurs siècles, elle n’y est que plus pesante du gouffre que dessine son horizon trop court, mais où elle est niée en une volonté catégorique qui donne leur style aux entreprises : anhistorisme de culture, propre aux États-Unis de l’Amérique du Nord.

 この歴史には多くの偶発事が結びついています。フロイトのメッセージの最初の音がその反響とともにウィーンの鐘へと響き、その波を遠くに広げました。この波は、第一次世界紛争による、聞く耳のない没落・内にこもった意気消沈のなかにかき消されるようにみえた。それらの伝播は、人間の甚大な分断と共に再開したが、そこで第二次[世界紛争]が醸成され、しかもそれは波の最も強力な運搬者でもあった。フロイトの声の配達人であった者たち、迫害に狙われたのも偶然ではなかった者たちの、民族四散が起こるさまを我われが見ているあいだに、憎悪の警鐘、対立の喧噪、戦争の突然の息吹、これらの衝撃音のうえで、フロイトの声が我われまで届いた。この進行/隊列はもはや、我われの世界の果てまで、そこで跳ね返るまで、停止するはずはありませんでした。そこでは、歴史がその限界を見出している以上その意味を失っている、などと言うのは正しくありません ・・・そこでは、歴史など在りはしないと信じることで人びとは思い違いをしていました、なにしろ歴史は、すでに数世紀にわたって入念に仕組まれていて、そのあまりに狭い地平/展望が構想する深淵をいっそう重く背負うしかないからです。・・・しかしそこでは、文化の刹那性[=非歴史性]という、北アメリカ合衆国に固有の企てにそのスタイルをもたらす断固とした意志でもって、歴史は否定されています。

 C’est cet anhistorisme qui définit l’assimilation requise pour être reconnu dans la société constituée par cette culture. C’est à sa sommation qu’avait à répondre un groupe d’émigrants qui, pour se faire reconnaître, ne pouvaient faire valoir que leur différence, mais dont la fonction supposait l’histoire à son principe, leur discipline étant celle qui avait rétabli le pont unissant l’homme moderne aux mythes antiques. La conjoncture était trop forte, l’occasion trop séduisante pour qu’on n’y cédât pas à la tentation offerte : d’abandonner le principe pour faire reposer la fonction sur la différence. Entendons bien la nature de cette tentation. Elle n’est pas celle de la facilité ni du profit. II est certes plus facile d’effacer les principes d’une doctrine que les stigmates d’une provenance, plus profitable d’asservir sa fonction à la demande, mais ici réduire sa fonction à sa différence, c’est céder à un mirage interne à la fonction même, celui qui la fonde sur cette différence. C’est y faire retour au principe réactionnaire qui recouvre la dualité de celui qui souffre et de celui qui guérit, de l’opposition de celui qui sait à celui qui ignore. Comment ne pas s’excuser de tenir cette opposition pour vraie quand elle est réelle, comment ne pas de là glisser à devenir les managers des âmes dans un contexte social qui en requiert l’office. Le plus corrupteur des conforts est le confort intellectuel, comme la pire corruption est celle du meilleur.

 この刹那性こそが、この文化によって構成される社会に認められるために要請される同化を規定しています。その勧告にこそ、亡命者たちのグループは応えなければならなかったのです。亡命者たちは、認めてもらうために、彼らの差異[=持ち味]を際立たせるしかありませんでしたが、彼らの教義は現代人と古代神話とを結ぶ橋を架け直したものですから、彼らの職務はその原理上、歴史を想定しています。局面はあまりにきつく、その機会はあまりに魅力的であったので、提示される誘惑に譲らずにはいられず、差異[=持ち味]で職務を基礎づけるために原理を放棄することになりました。この誘惑の本性をよく理解しましょう。容易さとか利益といった本性ではありません。教義の諸原理を消去することは、出自のスティグマを消去するよりも確かに容易ですし、自らの職務を要求に従わせるほうが得になります。しかしここで自らの職務を自らの差異[=持ち味]に還元することは、職務そのものに内在する幻影に、つまりこの差異[=持ち味]で職務を基礎づける幻影に、譲ることです。それは、苦しむ者と治す者の二元性を、知る者と無知な者との対置で覆い尽くすという反動的原理で、そこへ返還されることです。この対置は現実的なのにそれを真であると捉えることをどうして弁解せずにいられるでしょうか、そうしてそこから横滑りして魂のマネージャーにならずにいられるでしょうか、そういう役目を要請するような社会的文脈の中で。快適さの最大の劣化因は、知的快適さです。最悪の劣化は、最良のものの劣化だからです。

 二段落目の「ウィーンの鐘」の箇所ですが、「鐘cloche」には「間抜け/浮浪者」といった意味もあります。フロイト思想が、まずはウィーンの間抜けどもの間に拡がり、彼らが亡命者として渡米して精神分析を広めた、というふうに取れないこともないですけれど、「cloche」が単数形なのでここは無難に「鐘」としておきます。それと、この段落には複合過去の中に単純過去形が混じっているので、後者にはですます調を使わないことで区別してみました。

 最後の段落では、「現実的である」と「真である」とは別の事態であるというふうに解釈しました。

 ここはブログなので後日に変更もできますから、まあこんなところで公開してみましょう

Ecrits
フランス語版
Jacques Lacan

2021年9月 4日 (土)

ラカン『精神病』5章から『フロイト的もの』論文へ

 ラカンのセミネール『精神病』5章を読んできましたが、この章は1955年12月14日の講義録に加え、「補遺」として、12月21日の講義の導入部分が収録されています。このあとラカンは、自らウィーンで行った講義をもとにして著した論文『フロイト的事象』を読み上げた、と記載されているのですが、論文の内容は紹介されておらず、論文集『エクリ』に収録されているというふうに指示されています。

 『エクリ』でこの論文を開くと、いきなり冒頭で、ウィーンはオペラの歌声によって再び声を聞かせようとしている、といった話がはじまります。ラカンのこのウィーンでの講演は1955年11月7日に行われましたが、調べてみると、ウィーン国立歌劇場は長年戦災で焼失したままになっていたのが、再建されて1955年11月5日にカール・ベーム指揮『フィデリオ』公演で再開されたということです。

 ラカンがこの日にオペラに言及した事情が分かってみると、この論文の最初の段落についてはだいぶすっきりわかってくるので、続きも読んでみたくなるのですが、やはりラカンが書く文体は手強いので、訳しながら読まないと頭に残りませんが、週に1頁ずつ進むのも大変そうですし、そのペースでは一論文に1年近くかかるという沼が待ち構えています。

 タイトル『LA CHOSE FREUDIENNE 』は、邦訳エクリでは『フロイト的事象』とされていますが、フロイトの『もの』概念を指しているんじゃないかと予想して、『フロイト的もの』としてみます。『フロイト的なもの』とすると、原語『LE FREUDIEN』に対応するかのように見えてしまい、『CHOSE』が消えてしまいそうです。

 とりあえず1頁目はこんなふうになるでしょうか。仏文はネット上で拾いました。

 

LA CHOSE FREUDIENNE
ou
SENS DU RETOUR A FREUD EN PSYCHANALYSE

フロイト的もの
あるいは
精神分析におけるフロイトへの回帰の意味

 

Amplification d’une conférence prononcée
à la clinique neuro-psychiatrique de VIENNE
le 7 novembre 1955

1955117
ウィーン神経精神医学病院で
口述された講演の加筆増訂

A Sylvia
シルヴィアに

SITUATION DE TEMPS ET DE LIEU DE CET EXERCICE.
この務めの時と場の状況 

En ces jours où Vienne, pour se faire entendre à nouveau par la voix de l’Opéra, reprend en une variante pathétique ce qui fut sa mission de toujours en un point de convergence culturelle dont elle sut faire le concert, – je ne crois pas venir hors de saison y évoquer l’élection par quoi elle restera, cette fois à jamais, liée à une révolution de la connaissance à la mesure du nom de Copernic : entendez, le lieu éternel de la découverte de Freud, si l’on peut dire que par elle le centre véritable de l’être humain n’est désormais plus au même endroit que lui assignait toute une tradition humaniste.
 今日、ウィーンは、再度オペラの歌声によって自ら[の声]を聞かせるために、かつて歌声が見事に響かせた文化的収斂の地点におけるその常に変わらぬ使命なるものを、感動的な異版で再開しています ・・・この歌声が今後ずっと、コペルニクスの名に相応しい認知革命 ―もしも、この革命のせいで、その後人間存在の真の中心は、ユマニスト的伝統の全体が人間存在に割り当てたのと同じ場所にもはや在りはしない、と言えるならば[この革命はコペルニクスの名に相応しいでしょう]― に結びつき続けていくのは、[神の]選択によることであり、これに言及するために私が[ウィーンに]来たのは時季外れではないと思います。よろしいですか、フロイトの発見の永遠の地[となった、という選択]のことです。

Sans doute même pour les prophètes à qui leur pays ne fut pas tout à fait sourd, le moment doit-il venir où s’y observe leur éclipse, ceci fût-il après leur mort. La réserve convient à l’étranger quant aux forces qui mettent en jeu un tel effet de phase.
 預言者たちに対して彼ら自身の故国が全く聞く耳を持たないわけではなかったとしても、彼らにとっておそらく、自らの陰りを観察し合う時点がやって来るはずです。それは彼らの死後になるかもしれませんが。そのような位相[交代/浮き沈み]効果を働かせる諸力に関しては、[私のような]よそ者は口を慎むのがよいでしょう。

#訳註「Nul n’est prophete dans son pays.預言者故郷に入れられず=人の真価は郷里ではなかなか認めてもらえない」という成句があり、これはもともと聖書の一節であって、フランスのみならずドイツ語にも同様の成句がある。ジョーンズが書いた伝記によると、フロイトは税務署から「オーストリア国内からはるかに国境を越えて名声が轟いているわりには収入が増えていない」と疑義を指摘された際に、「そのように評価されて光栄だが、私の名声は国境のところからはじめて認められるのです」と返答したとされるが、それもこの成句を意識した言い回しかも知れない(ジョーンズ著『フロイトの生涯』邦訳360~361頁)。

Aussi bien le retour à Freud dont je me fais ici l’annonciateur se situe-t-il ailleurs : là où l’appelle suffisamment le scandale symbolique que le Dr Alfred Winterstein ici présent, a su, comme président de la Société psychanalytique de Vienne, relever quand il se consommait, soit à l’inauguration de la plaque mémoriale qui désigne la maison où Freud élabora son œuvre héroïque, et qui n’est pas que ce monument n’ait pas été dédié à Freud par ses concitoyens, mais qu’il ne soit pas dû à l’association internationale de ceux qui vivent de son parrainage.

 いずれにせよ、私がここで予告者を買って出ているフロイトへの回帰は、他所に位置づけられます。ここにご出席のアルフレート・ヴィンターシュタイン博士が、ウィーン精神分析協会の長として指摘し得た象徴的スキャンダルが十分に、フロイトへの回帰をこの他所へと導いてくれます。博士は、そのスキャンダルが完遂された時、すなわち、フロイトがその[草創期の]英雄的著作を作り上げた建物を示した記念プレートの除幕式において、それを指摘したのでした。スキャンダルとは、この記念碑が、フロイトと同じ街の人びとによって捧げられたのではない、ということではなく、むしろ、これが、フロイトの後援のおかげで生きている者たちの国際協会の尽力に因るものではないということのほうです。

 やはりかなり厄介な感じで、この先、続けられるか、正直なところ自信ありません。

Ecrits
フランス語版
Jacques Lacan

 ところで、ウィーン国立歌劇場のオーケストラを母体とするウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が、1955年11月6日にウィーン学友協会ホールでブルーノ・ワルター指揮マーラー4番ほかのプログラムの演奏会を行っていて、この演奏の録音は古くから名盤として知られており、私も時々聞き返します。同日には歌劇場ではベーム指揮で『ドン・ジョヴァンニ』が演じられています。これらのうちどれかの演奏会をラカンも聴いていたなんてこともあるかもしれません。

 ワルターの1955年11月6日のマーラー4番は、私はウィーンフィル150周年ボックスCDで聴きます
Sym.38 / Sym.4: Walter - Mozart / Mahler (amazon.co.jp)
が、これは廃盤のようで、代わりに海賊盤?がアップルミュージックでサブスクでも聴けるようです(下記リンク)。
‎「Mahler: Das Lied von der Erde & Symphony No. 4 - Mozart: Symphony No. 38 (Recorded 1952-1955) [Live]」

 前日のこけら落としの『フィデリオ』や同日の『ドン・ジョヴァンニ』が一部収録された正規CDも廃盤のようですがこれもサブスクで聴けます。
‎ウィーン国立歌劇場管弦楽団の「ウィーン・オペラ・フェスティバル1955」

2021年7月 5日 (月)

ラカン『精神病』5章再々読(3節から)

 ラカンのセミネールの再読をつづけます。

 5章3節は、『シュレーバー回想録』という、妄想や独自表現に満ちた精神病者の手記を、ラカンが仏訳をもとに解説しているので、それをさらに邦訳した文はどうしても微妙に難しいところが多くなっています。

 シュレーバーが、世界の裏打ちのしての神と、生きた神という、二つの考え方にどう折り合いを付けたかという点について述べられた、111頁最初の段落については、前回取り上げましたラカン『精神病』5章再読: フロイトの不思議のメモ帳 (cocolog-nifty.com)。その話題が続いている以下の箇所を取り上げましょう。

この隔たりは、彼にとっては次のような言い方に帰着しています。「完全な真理はおそらく四次元の様式に即して、ふたつの考え方の、人間にとっては把握されない、対角線上に存するのであろう」。
 彼はこれによって、この難問を何とか切り抜けています。それはちょうど我々が、たとえば自由と超越的必然性という二つの項を、どのように融合させて良いのか全く分からない時に、その対象とまるでそぐわないコミュニケーション、つまり形而上学をランガージュの中で使うのと同じことです。こういう時にはどこかに四次元や対角線があると言って事たれりとするか、さもなければ、この二つの項の一方を取るしかありません。(岩波上巻112~3頁)

 最初の「次のような言い方に帰着しています」の箇所は原文で「se resoudre en ces termes」となっていて、たしかに辞書では「se resoudre en...」は「~に帰着する」だとされるのですが、私はここはenの前で切って読むべきと思いました。

 「対角線diagonale」という語は、私には、多角形のイメージが強く、「平行線のあいだを交通する線」という意味には受け取れないので、「筋交い」という言葉を使ってみます。鉄道の複線区間で隣の線に乗り入れる箇所は「渡り線」と呼ばれますが、そんな感じの事態を表しているかもしれません。

この隔たりは、彼にとっては次のような言い方で解消されています。「完全な真理はおそらく四次元の様式に即して、ふたつの考え方の路線の、人間にとっては把握されない、筋交いという形で存するのであろう」。
 彼はこれによって、この難問を何とか切り抜けています。それはちょうど我々が、形而上学という、その対象とまるでそぐわないコミュニケーションのランガージュの中で、たとえば自由と超越的必然性という二つの項を、どのように融合させて良いのか全く分からない時に、そういう言い方を使うのと同じことです。こういう時にはどこかに四次元や筋交いの線があると言って事たれりとするか、さもなければ、鎖の両端の一方ずつを引っ張るしかありません。(代案)

 なお、引用箇所の後半は海賊版では約1行多くて、さらにややこしい論理になっていますけれど、スイユ版の直訳としては上のような感じになると思います。

 次は、直訳に変更したい箇所が細々と続く箇所を選んでみました。大意が変わるわけではないかも知れません。

しかし、最終段階に達した精神病的関係は、真正の次元に対していわば横に交わる次元の中へ、欺瞞という基本的弁証法を導入することはお解りいただけましたね。主体は、他者との間で信頼もしくは偽りが問題となる限りで、他者に話すことができます。しかし、被ったという想像界の基本的特徴を示す想像的な次元においてこそ、神秘的であろうとなかろうと、何であれ思考自体に存在する全ての秩序を覆すに至る絶え間ない騙し合いが、受動的な現象として、主体の実際の体験として、生み出されるのです。患者のディスクールからお解りのように、その結果、世界は、患者にとっては彼の体験したもののうち最も確かなものでありながら我々にとっては過剰幻想と見えるものへと変容してしまいます。この患者は正にこの騙し合いを自分に類似の他者との間にではなくて、現実界の保証人である第一の存在との間に保っているのです。
 シュレーバーは、彼自身が強調しているように、神との生きた体験以前に永遠の神というカテゴリーを持っていたわけでは決してありません。(岩波邦訳113~4頁)

しかし、発展の最終段階に達した精神病的関係は、真正の関係の次元に対していわば横に交わる次元の中へ、欺瞞という基本的弁証法を導入することはすでにお解りいただけましたね。主体は、他者との間で信頼もしくは偽りが問題となる限りで、〈他者〉に話すことができます。しかし、被った想像物という、想像界の基本的特徴を示す次元においてこそ、神話的であろうとなかろうと、何であれ思考自体における全ての秩序を覆すに至る絶え間ない騙し合いの実施が、受動的な現象として、主体に生きられる経験として、生み出されるのです。患者のディスクールから今後お解りいただけるように、その結果、世界は、患者にとっては彼の体験したもののうち最も確かなものでありながら我々にとっては過剰幻想と見えるものへと変容してしまいます。この患者は正にこの騙し合いのゲームを自分に類似のひとりの他者との間にではなくて、現実界の保証人である第一の存在との間に保っているのです。
 シュレーバーは、彼自身が強調しているように、無限の神との生きた体験について、それに先立つカテゴリーで待ち受けていたわけでは決してありません。(代案)

 なお、ここで「ゲーム」とした語は、次の段落では2箇所で「策略」と訳されています。

 ここでは、シュレーバーの体験の受動性は想像的な現象だとはっきり指摘されているところが印象に残りました。ドイツの精神病理学者Zuttの統合失調症論は、「立場を喪失した受動的な状態」を根源に置き、そこから、統合失調症においては、「幻聴=話しかけられるという受動的体験」に対応する視覚現象は「幻視=見るという能動的体験」ではなく「見られるという注察体験・注察妄想」だ、と述べて、統合失調症に幻視が少ない理由を説明したことがかなり有名なのですが、ラカンならば受動状態に置かれることは病の根源的な問題ではないということになるでしょう。

 次の段落のはじめ、岩波版における「誇大妄想の対極をなす」という箇所は、むしろ単に「誇大妄想の極をなす」とすべきで、ほぼ岩波版とは逆の意味になるだろう、という点については、やはりこのブログですでに取り上げましたラカン『精神病』5章再読: フロイトの不思議のメモ帳 (cocolog-nifty.com)

 次は、シュレーバーが回想録で使っているのと同じ表現をラカンがあえて採用していると思われる部分です。

シュレーバーの幻想・幻覚、つまり見事な彼の構築物の大部分は様々な要素からできていますが(岩波邦訳114頁)

シュレーバーの幻想・幻覚、つまり奇跡的あるいは不思議な彼の構築物の大部分は様々な要素からできていますが(代案)

 そして次は、上で「対角線→筋交い」とした箇所と同じ語が副詞形(diagonalement)で登場する箇所です。

何故ならば、主体と主体との関係、つまり有効なパロールの軸に対して、この次元は横に対置しているからです。(岩波邦訳114頁)

何故ならば、主体と主体との関係、つまり有効なパロールの軸に対して、この次元は筋交いに対置されているからです。(代案)

 次は、冗長なので邦訳では単に省略されていたのかもしれない二箇所と、私が複数性にこだわりたい一箇所です。

シュレーバーのテキストを隅から隅まで読むことによって、私が望んでいる構造や仕組みの基礎的要素を取り出すことができるものと、思っていました。(岩波邦訳115頁)

シュレーバーのテキストを隅から隅まで読むことによって、その途中で、私がみなさんに進んでいただこうと望んでいる構造や仕組みの要素を取り出すことができるものと、思っていました。(代案)

 次は、原文の「etudes secondaires」が「中等教育」という意味だとわかると意味が通ります。

(・・・)それにこのセミナーのレベルに相当する第二段階では、―みなさんの程度とさして変わらないといってよいでしょう― バカンスの前には短いものを何か読む伝統がありましたから、今日は私は最近書いた未刊の論文を読み上げることにします。(岩波邦訳115頁)

(・・・)それに中等教育課程の教育機関では、―みなさんの程度とさして変わらないといってよいでしょう― バカンスの前には短いものを何か読む伝統がありましたから、今日は私は最近書いた未刊の論文を読み上げることにします。(代案)

 次は、原文「sinon」のニュアンスが抜けています。

それは私達の教育のパリでの動きとか、私達のスタイル、一般的方向性を知ってもらうためのものです。(岩波邦訳116頁)

それは私達の教育の一般的方向性ではないにしても、パリでの動きとか、私達のスタイルを知ってもらうためのです。(代案)

 次は、原文は(「trop」ではなく)「assez」なので、「~過ぎる」ではなく「十分に」でしょうし、「pour que...」以下を結果として訳してみます。

その講演の時は、聴衆に合うようにと考えたので、主題が一般的に過ぎたと思います。(岩波邦訳116頁)

その講演の時は、主題が十分に一般的に思えるものでしたので、私も聴衆にうまく合わせることができたと思います。(代案)

 次は、ラカンが、今回の講義で読み上げる自著論文を、前回読み上げたシュレーバー回想録と対比している箇所です。フランス語の「lecture」には、講義という意味は無いようです。それと、「soutenir son attention」は辞書に「注意力を持続させる」とあったので、ここでの人称に修正したうえでそのまま使ってみます。

先回の講義よりも、みなさんの注意を引きつけることになると良いのですが。(岩波邦訳116頁)

先回の読み上げよりも、我々の注意力を持続させることができると良いのですが。(代案)

 だんだん語釈レベルの細かい話になってきましたが、最後も「ne serait-ce que...」という成句の訳です。

みなさんの好奇心を刺激するためにすぎませんが(岩波邦訳116頁)

みなさんの好奇心を刺激するためにすぎないかもしれませんが(代案)

 といったところで、この章の今回の検討を終わりましょう。

精神病〈上〉 
ジャック ラカン (著), ジャック・アラン ミレール (編集), 小出 浩之 (翻訳), 川津 芳照 (翻訳), 鈴木 国文 (翻訳), 笠原 嘉 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (1987/03)

2021年6月 7日 (月)

ラカン『精神病』5章再々読(2節から)

 5章の翻訳再検討の続きです。

 まず、“tenir(持つ/支える)という動詞は、言葉とか発言といった意味の目的語を取るときは、「述べる」という意味になる”という点などが気になった次の箇所を。ちなみに、1節で出てきたコルシカ出身の患者の抑圧内容はコルシカ方言で「支えられていた」とラカンがいうとき(2箇所)に用いられていたのは、supporterという別語です。

パロールという現象の内部そのものにおいて、私達は、シニフィアンによって示される象徴界、シニフィカシオンによって示される想像界、さらに通時的次元において正に現実的に支えられるディスクールである現実界、この三つの水準の統合を見ることができる、ということを覚えておいでと思います。
 主体は、母国語にしろそうでないにしろ、自身のラングである、シニフィアンという用具のすべてを手の内に持っており、様々のシニフィカシオンを現実へと移すためにそれを使います。(岩波版104頁)

パロールという現象の内部そのものにおいて、私達は、シニフィアンによって示される象徴界、シニフィカシオンによって示される想像界、さらに通時的次元において正に現実的に述べられるディスクールである現実界、この三つの水準の統合を見ることができる、ということを覚えておいでと思います。
 主体は、母国語にしろそうでないにしろ、自身のラングである、シニフィアンという用具のすべてを手の内に持っており、様々のシニフィカシオンを現実界へと移すためにそれを使います。(代案、下線は変更箇所)

 なお、ここで「通時的次元」というときのdimensionは、(時間的)「拡がり」という意味だと思いますが、次元という意味ももちろん含まれていると思います。

 次の箇所は、大意は変わらないんですけれども、微妙に不正確なので変更しておきます。

皆さんが非常に驚くべき発見をしたとしても、それを皆さんが伝えた時他の人がそれを追体験することができなければ、その体験は何の役にもたちません。(岩波版105頁)

皆さんが非常に驚くべき経験をしたとしても、それを皆さんが伝えた他の人がそれを再現することができなければ、その体験は何の役にもたちません。(代案、下線は変更箇所)

 次です。次の引用箇所のはじめに触れられている「図」がどんなものなのか、海賊版にも書かれていないのが難しいのですが。

 皆さんに、三つの入り口を持った図を描いて見せた時、私は妄想者のディスクールを分析するためのいくつかの異なる関係を位置づけました。そのシェーマは世界のシェーマではありません。あらゆる関係の基礎をなす条件です。垂直方向には、主体、及び他者性そのもの、即ち他者(A)の次元があります。これがパロールの領域です。パロールという機能の核心をなすことは、他者(A)の主体性、つまり他者(A)は主体と同様、言いくるめたり、嘘をついたりすることができる者だ、という事実です。全く現実的な対象という場が、この他者(A)の中にあるはずだとお話しした時、この現実を導入するのは、もちろん常にパロールの機能なのです。どんなものであれ何かが、主体や他者(A)に関して、現実における何らかの基礎と関わることができるためには、どこかに騙さない何かがあるのでなければなりません。(岩波版105頁)

 皆さんに、三つの見出しを持った図を描いて見せた時、私は妄想者のディスクールを分析するためのいくつかの異なる関係を位置づけました。そのシェーマは世界のシェーマではありません。あらゆる関係の基礎をなす条件です。垂直方向には、主体、パロール、及び他性そのもの、即ち他者(A)の登録域があります。 パロールという機能の核心をなすことは、他者(A)の主体性、つまり他者(A)は本質的に主体と同様、言いくるめたり、嘘をついたりすることができる者だ、という事実です。全く現実的な諸対象の区域が、この他者(A)の中にあるはずだとお話しした時、この現実を導入するのは、もちろん常にパロールの機能なのです。どんなものであれ何かが、主体や他者(A)に関して、現実における何らかの基礎と関わることができるためには、どこかに騙さない何かがあるのでなければなりません。(代案、下線は変更箇所)

 冒頭にある「三つの見出し」が、「主体、パロール、他性」じゃないかと思うのです。ほか、細かく直訳に直してみました。

 次に、106頁7行目に「デカルトの思惟」とあるのは、meditationがデカルトの著書名を指していて、「デカルトの省察」だと思います。

 その次の段落、アインシュタイン云々の箇所については以前に取り上げました(ラカン『精神病』5章再読: フロイトの不思議のメモ帳 (cocolog-nifty.com))。

 その次は、まず簡単な訳し落としがあるのと、「acte de foi」という成句の語釈についてです。この成句は、「信徳」「信仰のわざ」「信仰の行い」「信徳唱」「信仰の表明」「信仰の祈り」といった訳が辞書に並んでいます。全体から想像するに、信仰の表れとしての祈りという行為のことでしょうか。

 つまり、科学によって獲得された諸結果が騙さない神、すなわち容認された唯一の原理を支えているということです。私もそれは認めます。実際、自然の根底に騙す悪魔がいるなどということを示すものは何一つ見出されていません。それでもやはり、科学や実験科学の形成の第一歩にとって欠くことができなかったものは、信仰という行為であることに変わりはありません。(岩波版邦訳106頁)

 つまり、科学によって獲得された諸結果が騙さない神への参照、すなわち容認された唯一の原理を支えているということです。私もそれは認めます。実際、自然の根底に騙す悪魔がいるなどということを示すものは何一つ見出されていません。それでもやはり、科学や実験科学の形成の第一歩にとって欠くことができなかったものは、信仰表明acte de foiであることに変わりはありません。(改案)

 このacte de foiはとりあえず「信仰表明」としておきますが、少し後ろの、次の箇所にも出て来ます。そのひとつ前の段落から引用します。

 科学の発展の特色は頑固さ、執拗さ、そして大胆さですが、そういうものでもって構成されてきた科学が、このユダヤ-キリスト教的伝統の中で出現したのは、この伝統が、単に世界のみならず掟に対しても共通する唯一の基本原理を提供したからなのです。「無から」創造されたのは世界だけではありません。掟もそうなのです。この点は、しかし古来今日までずっと神学者達を悩ませ続けている合理主義と恣意主義との論争点です。それはつまり善悪の判断は、神の気まぐれとでも呼ばれるべきものに由来しているのか否かということです。
 信仰表明というにふさわしい、この決定的な一歩が可能となる点にまでユダヤ-キリスト教的思惟が徹底されたことこそが、絶対に騙すことのない何かがあるということを確立したのです。この歩みは結局のところ信仰という行為に他ならないということこそが本質的な点です。仮に、陽子、中性子などがあるだけでなく、これまで誰も考慮に入れることのなかった要素、原子物理学における余分な要素があるのだということ、つまり嘘をつく人物がいるのだということになったら、一体どういうことが起こるでしょう。(岩波版邦訳107頁)

 科学の発展の特色は頑固さ、執拗さ、そして大胆さですが、そういうものでもって構成されてきた科学が、このユダヤ-キリスト教的伝統の中で出現したのは、この伝統が、単に宇宙(世界)のみならず法(掟)に対しても共通する唯一の基本原理を措定したからなのです。「無から」創造されたのは宇宙(世界)だけではありません。法(掟)もそうなのです。この点は、しかし古来今日までずっと神学者達を悩ませ続けている合理主義と主意主義との論争点です。それはつまり善悪のクライテリアは、神の気まぐれとでも呼ばれるべきものに属しているのか否かということです。
 絶対に騙すことのない何かがあると措定するという信仰表明acte de foiというにふさわしい、この決定的な一歩が可能となったのは、この点についてのユダヤ-キリスト教的思惟の徹底性のおかげです。この歩みは結局のところこの行為acte[=信仰表明]還元されるということこそが本質的な点です。この先、仮に、陽子、中性子などがあるだけでなく、これまで誰も考慮に入れることのなかった要素、原子物理学における余分なメンバーがいるのだということ、つまり嘘をつく人物がいるのだということに我われが気付いたとしたら、一体どういうことが起こるでしょう。(改案)

 恣意主義という語は、ネットでも出て来ないので、たぶん誤植でしょう。universを世界とするか宇宙とするか、loiを掟とするか法とするかは決めがたく並列しました。

 長くなってきたので今回は次の箇所で最後にしましょう。

ごく最近の時代まで、天空の出来事を基本的な参照点として様々なことを考えるということが、あらゆる文化の中で行われてきたことを我われは知っています。天文学が天体の観察や研究を、大変進歩した形で保証してくれる文化が出現するまで、それは続いてきました。つまり、ずっと後になってユダヤ-キリスト教的立場を字義通りに取ることに同意した時以来、我われの文化は例外的なものになったのです。(岩波版邦訳108頁)

 二つ目の文に出てくる「文化」は、岩波版では「我われの文化」を指しているようですけれども、原文を見ると、「我われの文化以前に、すでに学問がかなり進んでいた諸文化」を指しているように思います。

ごく最近の時代まで、天空の出来事基本的な参照点として心にあるpresence mentaleということが、あらゆる文化の中で行われてきたという証言を我われは得ています天文学をみればその観察や考察が大変進歩した段階にあることが我われにわかる諸文化においても、それは続いてきました。つまり、ずっと後になってユダヤ-キリスト教的立場を字義通りに取ることに同意した時以来、我われの文化は例外的なものになったのです。(改案)

 この次の段落に「メンタリティー」と出てくるので、ここでもmentalの語を残しておきました。

 3節以降は、また日を改めて扱おうと思います。

 

精神病〈上〉 
ジャック ラカン (著), ジャック・アラン ミレール (編集), 小出 浩之 (翻訳), 川津 芳照 (翻訳), 鈴木 国文 (翻訳), 笠原 嘉 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (1987/03)

2021年5月10日 (月)

ラカン『精神病』5章再々読(1節まで)

 第5章に移ります。この章も数年前に取り上げました(ラカン『精神病』5章再読: フロイトの不思議のメモ帳 (cocolog-nifty.com))が、今回全文を原語で見直してみるとかなり不十分だったと思います。

 まず、以前も取り上げた冒頭部分。前回は邦訳の「蓋をせず」という部分を原文どおり「白日の下に」としたほうがよいと提案しました。そこはいま読み返してもやはり「白日の下に」としたほうがよいと思いますが、今回もさらに気になるところが出てきました。

 先日症例検討会の際に、ある重篤な患者を取り上げましたね。
 それは決して故意に選んだ症例ではありません。この症例は無意識を蓋をせずに働かせていました。もっともそれを精神分析上のディスクールに移行させるのは困難でしたが。(邦訳97頁)

 上の二段目、C'etait un cas clinique que je n'avais certainement pas choisi, mais qui faisait en quelque sorte jouer a ciel ouvert l'inconscient, ...ですが、ここは、副詞certainementの位置がpasよりも前なので、「選んだ」が全否定されていなくてはなりません。しかもここははっきりと関係詞節内を否定して「あれは私が選ばなかった症例でした」と書かれています。ラカンはあくまで、自分が先日症例検討会で取り上げた症例について、かなりきっぱりと「あれは確かに私が選ばなかった症例でした」と言っているのです。これだけを読むといったいどういう事情なのかわかりにくく、だからこそ岩波版では、「(私が)決して故意に選んだ症例ではありません」と、関係詞節ではなく主文を否定しているように訳したうえ、部分否定に近いぼんやりとした言葉が補われています。

 ところで、フランスの精神病院では、教授と聴衆が講堂で待っているところへ、病棟医たちが患者を病棟から講堂へ連れてきて、教授と患者が聴衆の前に立って公開面接が行なわれ、診察が終わると患者は帰されて、講堂ではひきつづき教授の講義や聴衆との意見交換が行われる、というスタイルでの患者紹介が伝統的に続けられています。これを想定すると、上に引用した箇所に特に不可解なところはなくなります。つまり、先日の患者紹介では、ラカンが特に選んだわけではなく病棟医たちが患者を選んで連れてきた、あるいは、ラカンは別の患者を選んでおいたのに別の患者が講堂に連れられて来てしまったということでしょう。選んでおいた患者が公開診察を直前に拒んだり、所用で外出したりするとよくあることですし、手違いもありえます。こう考えると、上の箇所は1行目から単に直訳すれば意味が通ります。

 先日、症例紹介presentationの際に、我われはある重篤な患者を診察voirしました

 それは確かに私が選ばなかった臨床例でしたが、この症例は無意識をいわば白日の下に働かせていました。もっともそれを精神分析上のディスクールに移行させるのは困難でしたが。(代案、下線部は変更箇所、原語を適宜補って強調した)

 これに関連してもう一箇所、98頁10行目に「予備面接において明らかでしたが」とありますが、原文はdans l'interrogatoireとあるだけですので、「問診において」とか「一連の質問で」でよいでしょう。岩波版の訳者はおそらく、日本で普通に医局や講堂で行われるような、患者本人が参加しない場での症例検討会を想定したので、言葉を補って、症例検討会よりも前に面接があったとせざるを得なかったのだろうと思われます。

 さて、この患者においては、家庭内でのコルシカ方言の世界と、家庭外のフランス語での生活とが分かれていたという点が注目されています。私は今回遅ればせに気付いたのですが、コルシカ方言というのはフランス語の方言ではなくイタリア語の方言なんですね。これらふたつの言語にはかなりの相違を想定すべきでしょう。

 以下の引用箇所では、この方言の世界での出来事について患者が語れなかったように書かれているのに、もう少し後ろには、患者から得られた情報が書かれているので、けっきょく公開診察の際に患者は語ることができたのかできなかったのか、どうもはっきりしない気がします。

第一に、予備面接において明らかでしたが、コルシカ方言で登録されていることはどんな事も思い出すreevoquerことができないということdifficulte、つまり彼が母親と話した唯一の言葉である幼年時代の方言では、自分を表現することができないdifficulteということがあります。たとえば、彼に、方言で喋ってごらんとか、父親と交わした言葉を話してrepeterごらんと促すと、彼は「うまく言えないんです」と答えるのでした。(邦訳98頁、疑問点に原語を補った)

 邦訳だけでなく原書を読んでもわかりにくく、この連休中何度も考えてみましたが、結局、avoir de la difficulte a+inf.という表現を、邦訳は「~ことができないということ」としていますが、辞書では「~するのに苦労する/難儀する」とあるのでそのように(つまり、苦労の末なんとか〜することができた、と)考えてみるとわかるような気がします。それと、ネットで読める海賊版(ALI版とStaferla版)を参考に、ここでの患者の発言内容も変えてみます。さらに、reevoquerという語は辞書にはありません(「思い出す」という意味なら単にevoquerでよいのに、わざわざ「再びevoquerする」という不自然な語が用いられています)ので、この語についても、後ろを参考にして訳し換えてみたいと思います。

第一に、一連の質問において明らかでしたが、コルシカ方言で登録されていることはどんな事もその場に持ち出すreevoquerことに苦労したということ、つまり彼が母親と話した唯一の言葉である幼年時代の方言では、自分を表現することに苦労したということがあります。たとえば、彼に、方言で喋ってごらんとか、父親と交わした言葉を繰り返してrepeterごらんと促すと、彼は「あなたが私に[フランス語で]話していると、うまく出て来ないんです」と答えるのでした。(代案、下線部は変更箇所、角括弧内はStaferla版の補足に従った)

 たしかに我われも、生まれ育った土地の方言とぜんぜん違う言葉を話す人たちの中では、方言で話しにくいものです。私はかなり方言のきつい地域で育ったのでよくわかります。

 次です。poussee(最も平易な訳語は「圧力」)という語は、ラカンを読んでいると「(欲動の)衝迫」という意味で用いられたり、「poussee a la femme女性化への推力」という表現で使われたりと多義的に使用されるのですが、ドイツ語由来の医学用語で言う「シュープ」(ほぼ「急性増悪」という意味だが、完全には戻らないという含意がある)という意味もあるようです。ドイツ語だと衝迫はDrang、シュープはSchubと使い分けられるせいもあってこれまで私は気付きませんでした。ほか、できるだけ直訳にしてみましょう。

精神病の最初の圧力、つまり正当にも、前精神病期といわれている病相と、精神病の病相・・・(以下略)(邦訳101頁)

精神病的なものの最初のシュープ、つまりそれなりの根拠をもって前精神病期といわれている病相と、精神病の病相・・・(以下略)(代案、下線部は変更箇所)

 次です。il est...que...という表現を岩波版では強調構文と解釈しているようですが、ilはque以下を指すのではなく直前に出てきた語を指しているのではないでしょうか。

ここで私達は、ある現象を前にしています。つまりそれは前意識的現象です。昨今ではこういう現象についてこの前意識的という用語はもはや使われないので、事がごちゃごちゃになってしまうのです。フロイトが夢の力動の中に介入させ、『夢判断』の中で大きな意味を与えているのは、この前意識という次元です。(邦訳101頁)

ここで私達は、ある現象を前にしています。つまりそれは前意識的現象です。昨今ではこういう現象についてこの前意識的という用語はもはや使われないので、事がごちゃごちゃになってしまうのです。それ[その現象]は、フロイトが夢の力動の中に介入させ、『夢判断』の中で大きな意味を与えているこの前意識という次元にあるのです。(代案、下線部は変更箇所)

 次です。ラカンはフロイトの仏訳を読み上げていますが、ラカンが読み上げる仏文を読んでもフロイトの原文を参照しても、代名詞が指すものや係り結び?がすこし違うと思います。

「(・・・)懲罰夢を生み出すのは、抑圧されたものから不意に出て来る無意識的欲望ではなくて、無意識的欲望とは逆の方向を持ち、逆の形を取る欲望、つまり自我に属する無意識の、正確には前意識の、罰しようとする欲望なのである」。
 「Verneinung(否定)」とは異なったメカニズム、フロイトのディスクールの中にしばしば現われるこのメカニズムに注意を促すことによって、徐々にみなさんを導いて来ましたが、(・・・)(邦訳102頁)

「(・・・)懲罰夢を生み出すのは、抑圧されたものから不意に出て来る無意識的欲望ではなくて、抑圧されたものとは逆の方向を持ち、逆の形を取る欲望、つまり無意識ではあるが ―正確には前意識ではあるが― 自我に属する罰しようとする欲望なのである」。
 「Verneinung(否定)」とは異なったメカニズム、フロイトのディスクールの中にしばしば現われるあるメカニズムに注意を促すことによって、徐々にみなさんを導いて来ましたが、(・・・)(代案、下線部は変更箇所)

 フロイトからの引用箇所は抑圧について語っていますが、段落が変わってラカンは、「抑圧」でも「否定」でもないメカニズム(つまり「排除」)について語り始めていると思います。下線部が「この」になっていると、前段の「抑圧」を指していることになってしまいます。

 このように抑圧か否かという二者択一と考えてしまうという誤解から、次の引用箇所の2段落目の余計な補足も生じてしまったのかも知れません。

 今問題にしている精神病のメカニズムは、神経症の場合に私達がいつも係わり合うメカニズム、なかんずく抑圧というメカニズムと同質のものではないことを予め言っておきます。もちろん、そのことに気がつくためには、まず抑圧とは何を意味しているのかということ、つまり抑圧はひとつのランガージュの現象として構造化されているということを理解することから始めなければなりません。
 問題は、抑圧という時、私達は精神病に固有のメカニズムを前にしているのか否かということです。(邦訳103頁)

 今問題にしている精神病のメカニズムは、神経症の場合に私達がいつも係わり合うメカニズム、なかんずく抑圧というメカニズムと同質のものではないことを予め言っておきます。もちろん、そのことに気がつくためには、まず抑圧とは何を意味しているのかということ、つまり抑圧はひとつのランガージュの現象として構造化されているということを理解することから始めなければなりません。
 問題は私達は精神病に固有のメカニズムを前にしているのか否かということです。(代案、下線部は変更箇所)

 次が今回の最後です。ここで用いられる動詞introduire(導入する)の目的語は「みなさん」です。

そういうわけで私は先回、私達の探究はどこへ向けられるべきかを、つまりそれは患者のディスクールの構造なのだということをお話ししたのです。(邦訳104頁)

そういうわけで私は先回、私達の探究を方向付けてくれるはずのものへ、つまり患者のディスクールの構造へ、みなさんを導いたのです。(代案、下線部は変更箇所)

 ここは、結局はもとの岩波版と大差ない意味になっているとおっしゃる方もおられるかも知れませんが。

精神病〈上〉 
ジャック ラカン (著), ジャック・アラン ミレール (編集), 小出 浩之 (翻訳), 川津 芳照 (翻訳), 鈴木 国文 (翻訳), 笠原 嘉 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (1987/03)

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