ラカン

2018年1月13日 (土)

ラカン『精神病』10章再読

 今回は10章『現実界におけるシニフィアンと叫びの奇跡』の再読です。この章は、翻訳が細かいところで不正確な箇所が多いのですが、たいていの場合、大意としては問題ないので、いわゆる意訳といってよい範囲に収まっていると思います。

 文意が変わってしまいそうな箇所だけ、いくつか指摘しておきます。

 まず、精神病患者として名高いシュレーバー議長の回想録からの引用です。

私が何を経験しても、それが私に向けられていること、あるいは私に由来していることを、すぐに私に気づかせる悪い癖を持っているのは、この神なのだ。私は -シュレーバーは音楽家でもあったのですが- たとえば『魔笛』の一節を吹くにしても、この話しかけてくる神がそれに相応しい感情をすぐに教えてくれなければ、それを吹くこともできない。しかし教えてもらったからといって、それらの感情を私が持つわけではないが。(邦訳上巻224頁)

 シュレーバーは、神が感情を教えてくれると感じてはおらず、迷惑を感じています。原語はattribuerです。ほか、原文で「air」とある箇所は「アリア」と直訳しておきます。

私が何を経験しても、それが私に向けられていること、あるいは私に由来していることを、すぐに私に気づかせる悪い癖を持っているのは、この神なのだ。私は -シュレーバーは音楽家でもあったのですが- たとえば『魔笛』のアリアを演奏するにしても、この話しかけてくる神がそれに相応しい感情をすぐに私にお仕着せてしまうことが避けられない。しかしそれらの感情を私が持っているわけではないのだが。(代案)

 次も、精神病患者が体験を「被る」「押し付けられる」感覚にまつわる一節です。

一般に受け入れられている考え方、つまり幻覚とは間違った知覚である、という考え方に従えば、問題は、外界に出現し、知覚として、あるいは現実界のテキストにおける障害・破れとして現れてくる何かです。(邦訳上巻224~225頁)

一般に受け入れられている考え方、つまり幻覚とは間違った知覚である、という考え方に従えば、問題は、外界に出現し、知覚として押し付けられる何かであり、現実界のテキストにおける障害・破れです。(代案)

 ここで「押し付けられる」とした箇所は原文では「s'imposer」です。ここらへんを読むと、幻覚は知覚なのではなくて現実なのだということになるんでしょうね。

 次です。

 ランガージュによるこの存在、つまり「夕べの安らぎ」というこの存在は何かを意味しているのでしょうか、いないのでしょうか。私達がこのランガージュを待ち受けることなく、願わず、また長い間それについて考えることがなければないほど、ランガージュによるこの存在は本質的にシニフィアンとして現れて来ます。(邦訳上巻230頁)

 「このランガージュを待ち受ける」の箇所は、原文では代名詞で語られているのですが、使われているのは女性代名詞です。「この存在」は男性名詞、「夕べの安らぎ」は女性名詞なので、訂正しておきます。

 ランガージュによるこの存在、つまり「夕べの安らぎ」というこの存在は何かを意味しているのでしょうか、いないのでしょうか。私達がこの「夕べの安らぎ」を待ち受けることなく、願わず、また長い間それについて考えることがなければないほど、ランガージュによるこの存在は本質的にシニフィアンとして現れて来ます。(代案)

 ただここはアソシアシオン・ラカニエンヌによる海賊版では男性名詞です。どちらが正しいかは分かりませんが、男性名詞だとしたら下線部は「存在」とすべきと思います。岩波版の「ランガージュを待ち受ける」はちょっと意味が取りづらく思います。

 次も、「夕べの安らぎ」というシニフィアンをめぐる箇所です。下線部は岩波版のまま引用しました。たんなる誤植でしょう。

 この現実界におけるシニフィアンが不意に襲えば襲うほど -と言いますのは原理上私達の理解を超えているからです- このシニフィアンは、ディスクールの現象という多少とも適切な縁どりを伴って現われてきます。さて、私達の作業仮説を立てましょう。つまりシュレーバー議長の経験の中心にあるものは何かいうことです。そしてまた、経験の周辺部つまり縁どりにおいて、彼がそれとして知覚はしていないものの、結局はこれらすべての縁どり現象を組織化するシニフィアンが引き起こす泡の中に彼がいる時彼がそれと知らずに感じているもの、それは何かということです。(邦訳上巻231頁)

 ここで言われている「作業仮説」の内容が掴めません。「…は何かということ」というのは問いであって、これを作業仮説というのは変な気がします。正常の現象とシュレーバー議長の経験との両者を論じているという点でも非常に難しいところです。

 おわかりのように、この現実界におけるシニフィアンが私達を不意に襲えば襲うほど -と言いますのは原理上私達の理解を超えているからです- それだけでこのシニフィアンは、ディスクールの現象という多少とも適切な縁どりを伴って現われてきます。さて、私達の作業仮説を立てましょう。シュレーバー議長の経験の中心にあるもの、つまり彼がそれとして知覚していないものは、経験の周辺部つまり縁どりにこそ探すべきだということです。彼がそれとして知覚はしていないものの、結局はこれらすべての縁どり現象を組織化するシニフィアンが引き起こす泡の中に、彼は運び去られているのです。(代案)

 この代案では、経験の中心にあるものを、経験の周辺部に探すべしということになって、一見すると矛盾した内容になってしまいました。「縁どり」については、本書を通じてほんの数カ所しか出てこないので、裏づけを探すのも難しいところです。

 次です。一箇所、「en raison avec...」という部分です。

シュレーバーは、彼が身の周りで始終耳にするのは、現実的な雑音であることをよく知っています。それでもやはり彼は、これらの音はそのとき偶然に起きたものではなく、妄想世界への吸収の仲介的要素と仲たがいして、外的世界の中で神に捨てられた孤独な状態へと戻ってしまう途上で、彼に向けて作り出されたものだという確信を持っています。(邦訳上巻233頁)

シュレーバーは、彼が身の周りで始終耳にするのは、現実的な雑音であることをよく知っています。それでもやはり彼は、これらの音はそのとき偶然に起きたものではなく、妄想世界への吸収の仲介的要素と共に、外的世界の中で神に捨てられた孤独な状態へと戻ってしまう途上で、彼に向けて作り出されたものだという確信を持っています。(代案)

 最後は偶然にも縁どりに関する箇所からです。dissocierという語は精神医学用語で訳すべき(英語では「解離」という神経症症状を指しますが、フランスでは「association連合」が乱れた「連合弛緩」という統合失調症症状を指します)と思う箇所と、もうひとつは、けっこう重大な単純ミス(誤植?)です。

そして、この謎めいた場から彼が離れる度毎に、つまりそういう状態になれば休息できると彼が願ったであろう状態が成立する度毎に、外界の縁どりにおいて一種の輝きが起こります。それは、相互に連関のないランガージュの構成要素として彼の中を巡ります。一方には、最も要素的な形の叫びという音声活動があります。それは、 患者にとっては何らかの恥へと結び付く狼狽感を伴っています。他方には救いを求める呼びかけのシニフィアンとして自らを共示するシニフィカシオンがあります。(邦訳上巻234頁)

そして、この謎めいた場から彼が離れる度毎に、つまりそういう状態になれば休息できると彼が願ったであろう状態が成立する度毎に、外界の縁どりにおいて一種の輝きが起こります。それは、連合弛緩した、ランガージュのあらゆる構成要素として彼の中を巡ります。一方には、最も要素的な形の叫びという音声活動があります。それは、 患者にとっては何らかの恥へと結び付く狼狽感を伴っています。他方には救いを求める呼びかけのシニフィカシオンとして自らを共示するシニフィカシオンがあります。(代案)

 今回は以上です。

精神病〈上〉
ジャック ラカン (著), ジャック・アラン ミレール (編集), 小出 浩之 (翻訳), 川津 芳照 (翻訳), 鈴木 国文 (翻訳), 笠原 嘉 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (1987/03)

2018年1月 8日 (月)

ラカン『精神分析の倫理』5章再読

 今回は5章『ものDas Ding』(Ⅱ)の検討です。

 ざっと見た感じ、この章の翻訳には問題は少ないんじゃないでしょうか。なんとか頑張って2箇所探してみました。

組織体にとってホメオスターシス的に耐えられるレベルの緊張度に制御するという機能は、最終的には運動に委ねられているのです。しかし、神経装置のホメオスターシスという自律制御の場は、不調和を含みうるという点で、たとえば体液のバランスを司っている一般的なホメオスターシスとは違います。体液のバランスが登場するのは、内部に由来する刺激の次元としてです。だからフロイトは次のように言うのです。神経組織体の内部からも刺激が到来し、それは外部からの刺激と同等に扱われる、と。(邦訳上巻88頁)

 ここは邦訳上巻58頁、「この装置は生体の切り離すisolerことができる一部分として示されていることに注意しなくてはなりません」のあたりと同じ文脈で読むべきと思います。生体全体の中に、はっきり区別された部分として神経装置があるわけです。上記引用箇所ではdistinctという語が使われていますが、同じことを言っていると思います。ほんの少し手を入れてみます。

組織体にとってホメオスターシス的に耐えられるレベルの緊張度に制御するという機能は、最終的には運動に委ねられているのです。しかし、自律制御の場である神経装置のホメオスターシスは、不調和を含みうるという点で、たとえば体液のバランスを司っている一般的なホメオスターシスとは区別されます。体液のバランスが登場するのは、内部に由来する刺激の次元としてです。だからフロイトは次のように言うのです。神経組織体の内部からも刺激が到来し、それは外部からの刺激と同等に扱われる、と。(代案)

 それでも、引用箇所最後の三つの文の意味が分かりづらく感じられたので、非正規版であるアソシアシオン・ラカニエンヌ版を参照してみると、いくつかの相違があります。途中、isolerという語も登場して、上に書いた私の考えを裏打ちしてくれています。ちなみにアソシアシオン・ラカニエンヌ版では「神経装置のホメオスターシス」という表現はありません。この版を参照して代案を考えてみます。

組織体にとってホメオスターシス的に耐えられるレベルの緊張度に制御するという機能は、最終的には運動に委ねられているのです。しかし、自律制御の場である神経装置は生命との不調和を含みうるという点で、たとえば体液のバランス全体を司っている一般的なホメオスターシスとは区別されるもの、切り離されたものとみなすべきです。体液のバランスが登場するのは、内部に由来する刺激の次元としてです。だからフロイトは次のように言うのです。神経組織体に対して、内部からも刺激が到来し、それは外部からの刺激と同等に扱われる、と。(代案2)

 次です。原文の「dans telle ou telle circonstance」という句が抜けているというのが大きな訂正点ですが、それだけではなく少し手を入れてみます。

我々が自らの思考過程を知るのは、我々が自らの中で生じていることを話すからでしかありません。つまり、一方ではそれが不適切で、空しく、馬鹿らしいと知っているにもかかわらず、どうしようもなくお決まりの用語で話すしかないからなのです。我々が明晰な知性や自分の意思や悟性について話し始めるとき、そのときから我々は前意識を持つようになり、ディスクールのなかに何か無駄話を分節化できるようになります。そのような無駄話が我々にとって、自らの欲望の足どりを明瞭化し、正当化し、合理化するのに役立つのです。(邦訳上巻92頁)

我々が自らの思考過程を知るのは、我々が自らの中で生じていることを話すからでしかありません。つまり、一方ではそれが不適切で、空しく、馬鹿らしいと知っているにもかかわらず、どうしようもなくお決まりの用語で話すしかないからなのです。我々が自分の意思や悟性について別個の能力として話し始めるとき、そのときから我々は前意識を持つようになり、ディスクールのなかに何か無駄話を分節化できるようになります。そのような無駄話我々にとって、我々が繋がり合い、自己正当化し、自らの欲望の足どりをしかじかの状況で合理化するのに役立つのです。(代案)

 ここも海賊版を参照してみると、ひとつめの下線部は、「自分の意思について、悟性とは別個の能力として」となります。そちらの方が良さそうでもあります。

 このように、上の二箇所については海賊版に軍配があがるように思いますけれども、必ずしもあらゆる箇所で海賊版が優れているわけではないことを一応ここでお断りしておきます。

精神分析の倫理 上

出版社: 岩波書店 (2002/6/26)

ジャック・ラカン   (著),‎ ジャック・アラン・ミレール (編集),‎ 小出 浩之 (翻訳)

2017年12月29日 (金)

ラカン『精神病』9章再読

 今回はラカン『精神病』9章、『無意味、そして神の構造』の再読です。

 この章でラカンは、シュレーバーの著書の内容の大部分は神学的でありながら、そこに摂理という働きへの言及は全く認められない、と指摘しています。そのあとラカンは、無いということを示すことは有るということを示すより難しい、とか、別の資料が見つかればそこには見つかるかもしれず論駁される可能性が捨てきれない、といった留保を置きながらも、「不在に注意を向けることは、構造を位置づけるために非常に重要なことなのです」(邦訳上巻208頁)と述べています。私はいつも、ラカンが自説の説明の合間合間にさしはさむこういう指摘にこそ、ラカンのセミネールが(理論内容がきわめて難解であったにもかかわらず)聴衆を集め続けた才覚を感じますし、自分の臨床への指針をもらいつづけています。この章には特にそういう指摘が多く感じます。

 この章は、翻訳には問題が少ないと思いますが、少しだけ言及しておきます。

患者が妄想者だからといって、最初から患者の体系はでたらめだと決めてしまってはいけません。(邦訳上巻199頁)

 「でたらめ」と訳されている語はdiscordantです。フランス語でdiscordanceは、統合失調症の症候学で用いられる概念で、不統一とか不調和と訳されます。濱田の『精神症候学』(弘文堂)によればシャスランが唱えた概念のようです。ドイツ語圏での「分裂」に近い意味でしょうか。ここはその形容詞形ですので、精神医学用語で訳したいところですし、現代日本では「統合失調」と訳しても良いかもしれません。

患者が妄想者だからといって、最初から患者の体系は不調和[=統合失調]だと決めてしまってはいけません。(邦訳上巻199頁)

 次も些細なところです。

だから精神科医が患者に投げかける質問の最大の関心は、ペギーが最近の著書で言っているように、小さな穴にボルトを戻すことができるかどうかということでしょう。ペギーは、自分の体験を話すことによって、大変な破局が不意に起こったのに事態は以前と変わっていないのだと思おうとする精神科医達のことを言っているのです。そういう精神科医は患者に「順序立てて話してください」と言います。それでもう、その後の章立ては決まってしまうのです。(邦訳200頁)

 この「ペギー」が、詩人・思想家であるPeguy(1873-1914)だとすれば、セミネールが行われたのは没後50年以上経ってからですので、「最近の著書ses derniers ecrits」は間違いで、「最後の著作群」じゃないでしょうか。最後なのに複数なのは不思議ですが、このペギーは戦死したようなので遺稿としての書きつけ(ecrit)が残っているのかも知れません。ここではいちおう、我われの知らないペギーさんであっても良いように、細かいところまで直訳にしてみます。ただし、「小さな穴にボルトを戻す」の箇所は複数形が使われているので「それぞれに」と補いました。

だから精神科医が質問を投げかける際の最大の関心は、ペギーが最後の著作群で言っているように、小さな穴のそれぞれにボルトを戻すことでしょう自分が引き受けた体験を話しつつ、ペギーは、大変な破局が宣告されたのに諸物は以前と変わらぬ関係を保っているのだと思おうとする人々のことを言っているのです。彼らは病人に「順序立てて話してください」と言います。それでもう、章立ては決まってしまうのです。(代案)

 次も細かいところです。

この間読みあげた一節についてシュレーバーが強調しているように、そのディスクールが立てる音は、患者がひそひそ声と呼ぶほど小さなものです。(邦訳上巻201頁)

この間読みあげた一節シュレーバーが強調しているように、そのディスクールが立てる音は、患者がひそひそ声と呼ぶほど小さなものです。(代案)

 今回は以上です。

精神病〈上〉
ジャック ラカン (著), ジャック・アラン ミレール (編集), 小出 浩之 (翻訳), 川津 芳照 (翻訳), 鈴木 国文 (翻訳), 笠原 嘉 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (1987/03)

2017年12月20日 (水)

ラカン『精神分析の倫理』4章再読

 今回は4章『ものdas Ding』の翻訳の検討です。

 ドイツ語での『Dingもの』と『Sache事物』との違いを論じている箇所です。ラカンは両者の訳語としてフランス語の『chose』を用いています。ラカンが『Sache』を念頭に置いて『chose』と言っている箇所に、『もの』という訳語をあててしまうと、『Sache』と『Ding』の相違が分かりにくくなってしまいます。

 長い回り道をしましたが、それは本日は次のことを指摘するに止めようと思うからです。結局のところ、フロイトは「事物表象Sachvorstellung」という言い方はしますが、決して「もの表象Dingvorstellung」という言い方はしないということです。また、「事物表象Sachvorstellung」が「語表象Wortvorstellung」に結びつけられていることも、どうでもよいことではありません。このことによって、もの(chose)と語(mot)の間に一つの関係があることを我々に示しているのです。語というもみ殻がもみ殻と見えるのは、我々がこのもみ殻から、ものという穀粒を分離した限りにおいてのみであり、何よりももみ殻こそが穀粒をもたらしたのです。
 ここで一つの認識論を展開しようとは思いません。けれども、人間世界のものはパロールとして構造化された宇宙のものであり、ランガージュ・象徴的過程がすべてを支配していることは明らかです。(中略)
 「事物Sache」とはまさに、産業の産物、ランガージュによって支配された人間的行為の産物としてのもののことです。この意味でのものは、この人間的行為の成因という点では暗黙であるとはいえ、常に表面にあり、つねに明文化しうるものです。このものが人間的行為全体の下に暗々裏に存在する限りで、ものを結実として生み出す活動は前意識の次元に属します。すなわち我われが十分に注意し注目すれば、我われの関心によって意識に上らせることができます。語はそのとき相互的な位置にあります。つまり一方で、語はものによって分節され説明されますが、一方で、語は、それ自体ランガージュやさらには命令によって支配された行為であり、その行為がものというこの対象を引き出し、生れさせるのです。
 つまり「事物Sache」と「語Wort」は密接に結びついていてカップルを形成しているのです。これに対して「ものdas Ding」は、それとはまったく別のところに位置しています。
 …(一段落省略)
 この「ものdas Ding」は、語はものを拠り所にしている反面、ものは語によって創り出される、というような説明可能な関係、いわば相互的な関係の中にあるのではありません。「ものdas Ding」には、それとは別のものがあるのです。(邦訳上巻66~67頁)

 少し長くなりましたが、上の引用文の中で、『Sache』を想定して『chose』と言われていそうな箇所を、『物』と訳し直して『ものDing』と区別してみます。後者は複数形にならないというのも目印として役立ちます。そのさい、途中で『choses』という複数形ばかりが用いられているなかに出てくる代名詞『elle』(単数形)は、『chose』ではなく『activite活動』を指しているのではないかと思ったので、語順を変えてみます。

 長い回り道をしましたが、それは本日は次のことを指摘するに止めようと思うからです。結局のところ、フロイトは「事物表象Sachvorstellung」という言い方はしますが、決して「もの表象Dingvorstellung」という言い方はしないということです。また、「事物表象Sachvorstellungen」が「語表象Wortvorstellungen」に結びつけられていることも、どうでもよいことではありません。このことによって、(chose)と語(mot)の間に一つの関係があることを我々に示しているのです。語というもみ殻がもみ殻と見えるのは、我々がこのもみ殻から、諸物という穀粒を分離した限りにおいてのみであり、何よりももみ殻こそが穀粒をもたらしたのです。
 ここで一つの認識論を展開しようとは思いません。けれども、人間世界の諸物はパロールとして構造化された宇宙の諸物であり、ランガージュ・象徴的過程がすべてを支配していることは明らかです。(中略)
 「事物Sache」とはまさに、産業の産物、ランガージュによって支配された人間的行為の産物としてののことです。この意味での諸物は、この人間的行為の成因という点では暗黙であるとはいえ、常に表面にあり、つねに明文化しうるものです。この諸物を結実として生み出す活動は、それが人間的行為全体の下に暗々裏に存在する限りで、前意識の次元に属します。すなわち我われが十分に注意し注目すれば、我われの関心によって意識に上らせることができます。語はそのとき相互的な位置にあります。つまり一方で、語はによって分節され説明されますが、一方で、語は、それ自体ランガージュやさらには命令によって支配された行為であり、その行為がというこの対象を引き出し、生れさせるのです。
 つまり「事物Sache」と「語Wort」は密接に結びついていてカップルを形成しているのです。これに対して「ものdas Ding」は、それとはまったく別のところに位置しています。
 …(一段落省略)
 この「ものdas Ding」は、語は諸物を拠り所にしている反面、諸物は語によって創り出される、というような説明可能な関係、いわば相互的な関係の中にあるのではありません。「ものdas Ding」には、それとは別のものがあるのです。(代案)

 一つ目の箇所がかなり長くなりましたが、この章には他にはあまり大きな問題が見当たりません。次の箇所で終わりにしましょう。

感覚装置は、「質記号Qualitaetszeichen」がもたらしたもののガイドの役を果たしています。そのお陰で、回路のあれこれの点への注意が可能になります。さらにそれによって、思考過程への接近が、快楽原則によって自動的になされるよりもよりよく行われることになります。(邦訳上巻73頁)

感覚装置は、「質記号Qualitaetszeichen」がもたらした割り前[contributions]に対してガイドの役を果たしています。そのお陰で、回路のあれこれの点への注意として個別的な区別[departs]が可能になります。さらにそれによって、過程への近似が、快楽原則によって自動的になされるよりもよりよく行われることになります。(代案)

 上の最後の変更点の「過程processus」は、邦訳では補足されて「思考過程」とされていますが、邦訳72頁3行目などを見る限り、邦訳の補足は正しそうに思われます。

 今回の章では、最後に、邦訳上巻74頁11行目の『記載』という語は、前後にたくさん『記載』という語があるなかで、ここだけ原語が『エクリチュール』だという点を指摘しておきます。

精神分析の倫理 上

出版社: 岩波書店 (2002/6/26)

ジャック・ラカン   (著),‎ ジャック・アラン・ミレール (編集),‎ 小出 浩之 (翻訳)

2017年12月11日 (月)

ラカン『精神病』8章再読

 今回は8章『象徴界のフレーズ』の翻訳の検討です。

 ひとつめは、原文を残した箇所の間違いが明らかな箇所です。ただ、直後に非常によく似た文がある(そちらの引用は正しい)ので、引きずられたのかもしれません。ほか、自分なりのこだわりで「celui」を「者」としました。

「私は遠く離れたものであるJe suis celui qui est loin.」というこの聖書のような響きをもった表現が、神がシュレーバーに打ち明けたことについての彼の記述の中に見られます。シュレーバーにとっての神は「存在するところのもの(celui qui est)」ではなくて、「遥か遠くに離れたところのもの(celui qui est bien loin)」なのです。(邦訳上巻179頁)

「私は遠く離れた者なりJe suis celui qui est eloingne.」というこの聖書のような響きをもった表現が、神がシュレーバーに打ち明けたことについての彼の記述の中に見られます。シュレーバーにとっての神は「存在するところの(celui qui est)」ではなくて、「遥か遠くに…存在するところの者(celui qui est... bien loin)」なのです。(代案)

 次です。邦訳は大意としては問題ないようではありますが、いちおう代案を示しておきます。

フロイトが『夢判断』において「sit venia verbo(この言葉を使うのを許して下さい)と言い足して、無意識の思考という用語を明確化した時、彼が言っていることは、無意識の思考は、ランガージュという形で分節化されているということに他なりません。(邦訳上巻186頁)

フロイトが『夢判断』において「sit venia verbo(この言葉を使うのを許して下さい)と言い足して、無意識の思考という用語を明確化した時、彼が言っていることは、思考とは、ランガージュという形で分節化されているものを指しているということに他なりません。(代案)

 次です。ラカンがこのセミネールの直後にまとめた論文『精神病のあらゆる可能な治療の前提的問いについて』を読むとはっきりわかるのですが、ラカンが「modulation変調」という言葉で指している事態は、患者が頭に浮かんだ言葉を、「これは自分の考えとして引き受けよう、、これは自分の考えとしては否定しておこう、これは他人の考えとして投影しておこう、これは幻聴化しておこう」といった振り分けをする(場合によっては、さらにさまざまな声質を負わせて幻聴化する)作用のように思います。

人間にとって問題は、無意識というこのランガージュに占領されないように、この連続した変調の働きをうまく切り抜けることです。だからこそ、人間の意識は無意識から逸れるようになっているのです。ただ、無意識の存在を認めるということは、たとえ意識が無意識から逸れるとしても、先に述べた無意識の変調の働きや、すべての複雑さを伴った無意識のフレーズは、それでもなお存続しているということです。(邦訳上巻186~7頁)

 上の引用箇所の直前の段落にも(「modulation」という言葉は出てきませんが)その説明があります。私はこれを「モジュール割り」と訳しておきます。
 上の引用箇所は、最初の文、「s'en tirer avec cette modulation」を、「se tirer de...」「s'en tirer」「se tirer de... avec...」「s'en tirer avec...」といった熟語のいずれとしてとして解釈するかなかなか難しいのですが、次のように取ってみます。

人間にとって問題は、この連続したモジュール割りとうまく付き合い、それにあまりにも忙殺されないようにすることです。だからこそ、人間の意識はそれから逸れるようになっているのです。ただ、無意識の実在を認めるということは、たとえ意識がそれから逸れるとしても、先に述べたモジュール割りや、すべての複雑さを伴った[内的]フレーズは、それでもなお連続しているということです。(代案)

 「それから免れる」という表現が2箇所あって、「それ」が何を指すかも難しいのですが、一つ目は直前、二つ目は直後の、「モジュール割り」と取りました。角括弧の[内的]は、禁じ手ですが海賊版から取りました。

 次はラングとランガージュを取り違えるという大きなケアレスミスらしき箇所が目立ちますが、ほかもちょっとだけ手を入れてみます。

同様に十七世紀の「才女」の運動は、ランガージュという見地からすれば、信じられない程重要です。もちろん、この「才女」の運動の中には、モリエールという天才的人物が語っているような点が大いにあることはありますが、どうも彼には彼が望んだよりも少しばかり多くを語らせてしまったようです。(邦訳上巻189頁)

同様に十七世紀の「才女」の運動は、ラングという見地からすれば、信じられない程重要です。もちろん、この「才女」の運動の中には、モリエールという天才的人物が語ったような点が大いにあることはありますが、どうも彼は彼が望んだよりも少しばかり多くを語ったことにされているようです。(代案)

 次は、人名のカタカナ表記の問題です。

レンネック(邦訳上巻190頁)

 綴りはLaennecで、仏和辞典のほか英和辞典にも載っていますが、「ラエネク」と表記されるのが普通のようです。

 今回は次が最後です。

それ故に、シュレーバー議長の物語におけるランガージュの現象の変遷について、より念入りな検討をして、さらにそれに続いて、このランガージュの現象をリビドーの置き換えと結びつけることができるようになる所まで進みましょう。(邦訳上巻192頁)

それ故に、シュレーバー議長の物語における言葉の現象の変遷について、より念入りな検討をして、さらにそれに続いて、この言葉の現象をリビドーの置き換えと結びつけることができるようになる所まで進みましょう。(代案)

 ここの原文表現は「verbal」です。「verbe」は邦訳183頁2行目で「言葉」とされていますから、そちらにあわせてみました。

精神病〈上〉
ジャック ラカン (著), ジャック・アラン ミレール (編集), 小出 浩之 (翻訳), 川津 芳照 (翻訳), 鈴木 国文 (翻訳), 笠原 嘉 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (1987/03)

2017年12月 5日 (火)

ラカン『精神分析の倫理』3章再読

 今回は三章『草稿の再読』の翻訳についてです。この回では聴講者に発表させているので、ラカンの発言部分はかなり短めの章になっています。

 まずは綴り間違いです。次の箇所、下線で強調しておきますが、「c」が抜けてます。

「目的に合わせた理論構築の恣意性die Willkuerlichkeit der constructio ad hoc」(邦訳上巻58頁)

 次で最後です。

この点に関する本日の結論として、みなさんに一つのアナロジーを指摘しておきます。それは、あらゆる無意識的傾向を活気づけている蒼古的な、ほとんど退行的ともいうべき、表現しがたいような快楽の質の探求と、もう一つは、道徳的な意味で最も完全に実現され満足をもたらすものとのアナロジーです。(邦訳上巻60頁)

この点に関する本日の結論として、みなさんに一つのアナロジーを指摘しておきます。それは、あらゆる無意識的傾向を活気づけている、表現しがたいような快楽の、蒼古的な、ほとんど退行的ともいうべき質の探求と、もう一つは、道徳的な意味での、最も申し分のない意味での、満足をもたらすものとのアナロジーです。(代案)

 この章では、途中で発表を任されたポンタリスに向けてラカンが述べた、「先ほどあなたが少々強調しすぎたパラドックスに陥ってしまうでしょう。つまり、現実が自らを理解させ、結局は優位を占めるようになることを納得のいくよう説明することは不可能だというパラドックスです。経験が示すように、現実は人類にとってあまりに過剰なのに、人類は当面、絶滅の道をたどってはいないではないかというわけです」(上巻56頁)という部分(の下線の箇所)の意味がいまひとつわからないのですが、ポンタリスの発言の主要部分が省かれているせいもあって他にヒントも探せないのが残念です。ポンタリスは発言に先立って前置き部分で、「フロイトのこの独創的なテキストの中でとりわけ問題をはらみ、かつ極めて逆説的であるとラカン博士が記しておられる現実との関係」(上巻55頁)と述べていて、この「逆説=パラドックス」について語っていそうなのは確かなのですが。
 ちなみにネット上の海賊版でセミネール7巻を探せば、このときのポンタリスの発言を読むことはできますが当然のことながら全文仏語です。

精神分析の倫理 上

出版社: 岩波書店 (2002/6/26)

ジャック・ラカン   (著),‎ ジャック・アラン・ミレール (編集),‎ 小出 浩之 (翻訳)

2017年11月30日 (木)

ラカン『精神病』7章再読

 今回は7章『想像的崩壊』です。この章の翻訳については、ルビの振り間違い2箇所を除くとさほど問題は無いように思います。

 まず一つ目。

私達が間隔効果(ルビ:ディスタンクシオン)という概念を慎重に操作する術を心得ているならば、ここでそれを使うことができるでしょう。この概念はでたらめに使われていますが、事実に適合した使い方がされるならば、この概念を拒否する理由はありません。(邦訳上巻153頁)

 ディスタンクシオンというルビが振られている箇所の原語は「distanciation(ディスタンシアシオン)」ですのでルビには変更が必要です。意味は「距離を置くこと」という感じなので、邦訳のままで良さそうです。ブレヒトの「異化作用」と訳される概念も、原語はこれのようです。

 次で今回は最後です。

彼が話さなかった時期の意識(ルビ:シニフィカシオン)については、あとでもう一度戻りましょう。(邦訳上巻160頁)

 「意識」に「シニフィカシオン」というルビが振られていますが、ここはルビのみが正しく、訳語を「意義」とか「重要性」とすべきと思います。

 久しぶりに読み返して、この章では、冒頭の序論部分の内容の濃さに驚きました。こういう切れ味があるからこそ、私にとってのラカンへの興味は絶えず刷新されて尽きることがありません。

精神病〈上〉
ジャック ラカン (著), ジャック・アラン ミレール (編集), 小出 浩之 (翻訳), 川津 芳照 (翻訳), 鈴木 国文 (翻訳), 笠原 嘉 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (1987/03)

2017年11月27日 (月)

ラカン『精神分析の倫理』2章再読

 今回は二章『快楽と現実』です。

 まずは次の箇所の翻訳について。

我々が各人に見いだす個別的真理の分節化の形式が他者たちと同じであるのは -この形式そのものを絶えず新たに我々は再発見するのですが- この形式が各人において、命令的「願望Wunsch」という性格を持っていて、各自の内密な特異性において現れるからです。この形式を妨げるものはありません。だからこの形式を外から測ることはできません。この形式の質として我々にいちばんよく解るのは、錯乱した非定型的な行動[症状]の根源にあったのは真の「願望」であるということです。(邦訳上巻32~33頁、原書でもp32~33)

 二文目の「Rien ne saurait s'y opposer qui permettre de...」の「y」は「形式」ではなく直前の「Wunsch」を指すのではないかという点と、「qui」以下の関係代名詞節の先行詞は、「rien」であろう、という点で大きく書き変えてみます。最後の文に出てくる代名詞「lui」も「Wunsch」を指すと思いました。ほか、「imperieux」が「imperatif命令的な」と混同されている箇所など、ちょこちょこといじってみます。

我々が各人に見いだす個別的真理の分節化の形式が他者たちと同じであると再発見するのは -この形式そのものを絶えず新たに我々は再発見するのですが- この形式が各人において、抗しがたい「願望Wunsch」という性格を持っていて、各自の内密な特異性において現れるからです。この形式を外から判定するような何ものも、この「願望Wunsch」に逆らうことはできないでしょうこの「願望Wunsch」の質として我々が見いだす最良のものは、錯乱した非定型的な行動[症状]の根源にあった真の「願望Wunsch」であるということ、です。(代案)

 次は単なる誤植らしきところから。

我々分析家にとって問題となる「正しい倫理ορθος λογος」、それは何らかの普遍命題ではなく…(邦訳上巻42頁、原書p39)

我々分析家にとって問題となる「正しい論理ορθος λογος」、それは何らかの普遍命題ではなく…(代案)

 次は、「essais」が「サンプリング」と訳されているところですが、単に「試行」で良いのではないでしょうか。ほか、複数形にしたり時制を変えたり、重複を削除したりと、ちょこちょこ手を入れてみます。

これが意味するのは、この心的装置の内的働きは -この働きを図式化する仕方については次回述べます- 手探り、矯正的吟味というかたちで遂行され、主体はすでに拓かれた「通道Bahnung」にもとづいて産出される緊張放出に導かれ、一連のサンプリング、迂回を行い、このサンプリング、迂回が主体を経験においてその都度現前する様々な対象を取り巻いているシステムの吟味の吻合、踏破に至らしめるということです。これが経験のバックボーンの緯糸をなしています。経験のバックボーンの横糸を構成しているもの、それは、こういう言い方が許されるなら、期待される快楽として定義される快楽の「願望Wunsch」、「期待Erwartung」についての何らかのシステムの建立です。(邦訳上巻43~44頁、原書p41)

これが意味するのは、この心的装置の内的働きは -この働きを図式化する仕方については次回述べます- 手探り、矯正的吟味というかたちで遂行され、そのおかげで主体はすでに拓かれた諸々の「通道Bahnungen」にもとづいて産出される緊張放出に導かれ、一連の試行、迂回を行うであろうし、この試行、迂回が主体を少しずつ、経験においてその都度現前する様々な対象を取り巻いているシステムの吟味の吻合、踏破に至らしめるであろうということです。これが経験のバックボーンの緯糸をなしています。経験のバックボーンの横糸を構成しているもの、それは、こういう言い方が許されるなら、期待される快楽として定義される快楽の「願望Wunsch」、「期待Erwartung」についての何らかのシステムの建立です。(代案)

 「吟味の吻合」っていう表現はこなれませんが、原文通りなのでいかんともしがたくそのまま残しました。
 上の引用の次の段落に二か所でてくる「サンプリング」も、やはり「試行」が良いと思います。ちなみに邦訳上巻112頁に「サンプリング(抽出試験)」という箇所がありますが、そこの原文は「echantillonnage」なので別の概念と思いますし、そちらは訳もそのままで良いとおもいます。

 次が今回の最後です。

逆に、無意識の方は要素、論理的要素の水準に位置づけられるのであり、これらの要素はロゴスの次元にあり、牽引力と必然性によって動機づけられる移行、転移、そして快楽の慣性が主体にたいして遂行される場の核心に隠された「正しい論理」というかたちで分節されます。移行、転移、快楽の慣性が、主体にたいして、主体の意向には無頓着に、あの記号よりもこの記号を選ぶのです。(邦訳上巻46頁、原書p43)

 原書で「les passages, les transferts motives par l'attraction et la necessite, l'inertie du plaisir」という箇所が、邦訳では「移行、転移、そして快楽の慣性」と三つを同格として訳出されていますが、前二者だけが複数なので、「快楽の慣性」は「牽引力と必然性」と同格と考えてみます。ほか、ロゴスを原書通りギリシア語表記するなど修正してみます。

逆に、無意識の方は要素、論理的複合体の水準に位置づけられるのであり、これらの要素は「論理λογος」の次元にあり、快楽の慣性、牽引力と必然性によって動機づけられる移行、転移、そして快楽の慣性が主体にたいして遂行される場の核心に隠された「正しい論理ορθος λογος」というかたちで分節されます。移行、転移、快楽の慣性が、主体にたいして、主体の意向には無頓着に、あの記号よりもこの記号を引き立たせるのです。(代案)

 今回はここまでです。

 毎週のセミネールの記録ですから、「○○についてはいずれお話しします」と言いながら必ずしも該当箇所がないことがあるのもやむをえないことですし、「以前私はこう言いました」という箇所が探せないのも、ラカン自身も毎週考えを変えながら話しているのでやむを得ないかもしれませんが、このセミネール7巻の前半は特に顕著な気がします。

精神分析の倫理 上

出版社: 岩波書店 (2002/6/26)

ジャック・ラカン   (著),‎ ジャック・アラン・ミレール (編集),‎ 小出 浩之 (翻訳)

2017年11月25日 (土)

ラカン『精神病』6章再読

 久しぶりに『精神病』のセミネールに戻ります。

 まず、シェーマLを念頭に置いた次の部分に訳し落としがあります。

この要求にこそ、私の小さな四角形は応えようとするものです。その四角形は、主体から他者へと向かいます。つまり、一方は現実界、すなわち主体、身体へと向かい、反対の方向は、相互主体性という大文字の他者(A)へと向かいます。(邦訳上巻121頁)

この要求にこそ、私の小さな四角形は応えようとするものです。その四角形は、主体から他者へと向かいます。そしてここである仕方で象徴界から現実界、すなわち主体、身体へと向かい、反対の方向は、相互主体性という大文字の他者(A)へと向かいます。(代案)

 次は、時制の間違い二つが大きいと思いますが、あとはちょっとした訳語の訂正です。

それは、自分が聞いている言葉は、他の誰にも聞えてはいない、ということを患者は容易に認めるということです。「そう、おっしゃる通りです。聴いているのは私一人です」と患者は言うのです。
 この場合、現実性ということが問題となっているのではありません。患者は、それぞれの能力に応じた言い回しによって、この幻聴という現象が現実とは別の次元に属するものであることを認めます。幻覚が現実性を持っていないことを患者はよく知っており、その非現実性をある点までは認めています。(邦訳上巻123頁)

それは、自分が聞いている言葉は、他の誰にも聞えてはいなかった、ということを患者は容易に認めるということです。「そう、おっしゃる通りです。聴いていたのは私一人です」と患者は言うのです。
 この場合、現実性ということが問題となっているのではありません。患者は、それぞれの能力に応じた言い回しによって、この幻聴という現象が現実界とは別の次元に属するものであることを認めます。幻覚が現実性を保証されていないことを患者はよく知っており、その非現実性をある点までは認めています。(代案)

 次ですが、邦訳では「de」を「…によって」と訳されてますけれども、私は「の」で良いと思います。

詩とは、世界への象徴関係の新しい次元を引き受けている主体によってなされた創造です。(邦訳上巻128頁)

詩とは、世界への象徴関係の新しい次元を引き受けている主体の創造です。(代案)

 最後は、文法的には邦訳通りとも取れるのですけれども、たぶんラカンの意図は私の代案の方だと思います。

否定においては、象徴、つまり「是認」という価値を与えることが問題なのではなくて、実在という価値を与えることが問題となっているのです。(邦訳上巻138頁)

否定においては、象徴という価値を与えること、つまり「是認」が問題なのではなくて、実在という価値を与えることが問題となっているのです。(代案)

 今回の代案は、3つめ以外はさほど解釈に影響しないようにも思えますけれど、こだわるひとには看過できないかもしれない微妙なラインじゃないでしょうか。

精神病〈上〉
ジャック ラカン (著), ジャック・アラン ミレール (編集), 小出 浩之 (翻訳), 川津 芳照 (翻訳), 鈴木 国文 (翻訳), 笠原 嘉 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (1987/03)

2017年11月23日 (木)

ラカン『精神分析の倫理』1章再読

 ラカンのセミネール第3巻『精神病』の再読がまだ途中で滞っておりますが、それは今年わけあって第11巻『精神分析の四基本概念』を読み直す必要があってそちらに手間を取られたからでした。私はかねがね第7巻『精神分析の倫理』のセミネールが最重要セミネールだと思ってましたが、11巻も読み直してみると甲乙付けがたいものでした。

 いま、これまたわけあって第7巻『精神分析の倫理』を読み直しているところです。で、例によって翻訳で気になったところなどは章ごとにここで報告してみようと思います。『精神病』に手をつけるときも書きましたが、私はいつも、要約したりする代わりにこういう作業を、自分が今回読んで考えたことのメモとしていくやり方を取っています。

 さて第一章ですが、翻訳はちょっと読みにくいところはあるものの、あんまり目だった問題はないように思いました。意地でもどこか見つけようと探して、なんとか見つけた問題箇所が次のところです。

この問題をもっとはっきりさせるために指摘すべきことがあります。つまり、分析的考察はわれわれの経験の[性器期への]収斂という性格を隠れ蓑にしているらしいということです。たしかにこの性格は否定すべくもありませんが、そこには限界があり、それを越えて進むことは容易ではない、と分析家は感じてもいます。(邦訳上巻11頁、Seuil版p17)

 下線部はse derober devant le caractere de convergence de notre experienceです。他動詞deroberには「隠す」といった意味もありますし、この訳でも大意にそぐわないわけでもないのですが、直後にdevant..とあるので上の訳は不可能なように思えます。このse doroberは、「回答を避ける」といった意味ではないでしょうか。

この問題をもっとはっきりさせるために指摘すべきことがあります。つまり、分析的考察はわれわれの経験の[性器期への]収斂という性格の前では回答を避けるらしいということです。しかも、たしかにこの性格は否定すべくもありませんが、そこには限界があり、それを越えて進むことは容易ではない、と分析家は感じてもいます。(代案)

 上の代案には、次の文とのつながりを考えて、「しかも、」と補ってみました。

 あとは邦訳の19頁に人名「アルフォンス・アレス」とありますが、ふつうは「アルフォンス・アレー」と表記される、といったことぐらいでしょうか。

 といった感じで進めていきます。

 ラカンはこの章で、当時の精神分析で主流であった考え方、患者は性器期的な愛情生活へと成熟することで利他性も身につけて幸福になるといった考え方に苦言を呈しています。精神分析以外の分野の精神医学では、性器期とか愛といった言葉はあまり使われませんが、順調に発達し成熟・成長すれば適応と症状改善が得られるといった楽天的で不気味な考え方はいまも広く共有されているように思えます。この先のラカンの暴れっぷりが楽しみです。

精神分析の倫理 上
出版社: 岩波書店 (2002/6/26)
ジャック・ラカン   (著),‎ ジャック・アラン・ミレール (編集),‎ 小出 浩之 (翻訳)

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