病的体験

2014年2月13日 (木)

ブランケンブルク『自明性の喪失』その7

 今回は『入院時の所見』の後半の訳文の検討です。

 まず次の箇所ですが、『保続的perseveratorisch』『滅裂Zerfahrenheit』『衒奇的manieriert』といった語は精神医学用語としての定訳があるのでそれを用いるべきです。一方、『すべてどこかへ行ってしまうalles weg』の箇所は、邦訳79頁の訳文の表現に合わせました

形式だけをとり出して問題にするならば、彼女の話しかたは、一生懸命にことばを探そうとし、同じことを繰り返したり途切れたりで、まるで支離滅裂に近いものとなることが多かった。一定のテーマでまとまった文章を作ることは不可能だった。ときどき話の筋道が失われることもあった。自分では考えが途切れる、急に《なんにもわからなく》なる、といっていたが、真の意味の思考奪取は確認できなかった。言語新作もときとしてみられた。苦労して標準語でしゃべろうとする傾向と、やや気取ったしゃべり方とが目についた。(69頁)

形式だけをとり出して問題にするならば、彼女の話しかたは、口ごもりながらことばを探そうとするばかりで保続的であったり途切れたりで、滅裂とすれすれのものとなることが多かった。特定のテーマについてはまとまった文章を作ることは不可能だった。しばしば話の筋道が失われることもあった。自分では考えが途切れる、急に《すべてどこかへ行って》しまう、と訴えていたが、真の意味の思考奪取は確認できなかった。言語新作もときとしてみられた。わざとらしく標準語でしゃべろうとする傾向がつねにあり、やや気取った衒奇的な特徴とが目についた。(代案)

 このあと引用する二つの箇所では強迫症状にも「させられ体験」にも類似した微妙な症状が描かれています。一般に、強迫症状を平易な言葉で(「○○するよう強いられる」のように)表現すると「させられ体験」の陳述に似たものとなってしまいますが、ここでのみすず版邦訳もそのような傾向にあって、大幅に「させられ体験」寄りの印象を与えるものになっています。

 とりあえず次の箇所では、『Gedankendraengen』には精神医学用語で『思考促迫』という定訳がある(訳書86頁ではこの語が採用されている)のでそれを用いましょう。これは濱田の『精神症候学』(弘文堂)によれば「考えが次々にまとまりなく浮かんできて抑えられないこと」だそうです。

考えが押し寄せてきて苦しいという体験があったが、このことにも患者ははじめのうちはそれとなく触れただけで、それがどういう内容のものなのかは詳しく話してくれなかった。(69頁)

苦しい思考促迫があったが、このことにも患者ははじめのうちはそれとなく触れただけで、それがどういうものなのかは詳しく話してくれなかった。(代案)

 次は、後年の多くの学者が注目して、「させられ体験」ではないかとか「自生思考」ではないかとか論じている箇所です。なお、ここで『押しつける』と訳されているのは『aufzwingen』という語であり、『zwingen=強迫する』を含む複合語です。

《空想といってしまってはあまり正確ではありません。とにかく、なにかが中から出てくるのです》 -(どんな内容なの)《たとえば他の人たちにみられたいろいろな反応とか…別にはっきりしたものではなくて…ほんのとりとめのない考えなんです》 -《いろいろな考えがおしつけられるんです。どのようにそれに逆らおうとしてもだめなのです》。しかし、それがだれかから押しつけられたものだとか、催眠術にかけられた感じだとかいうことは、はっきりしなかった。ただ、このことが話題になると、いつもは見なれないしかめ顔すれすれの表情の不自然な歪みや心の動揺が認められ、この体験が恐ろしいものであることがありありとうかがわれた。恐ろしいのは明らかにこの体験の内容ではなかった、。その内容がとるにたりないものであることは、彼女が何度もはっきりと述べている。恐ろしいのはむしろその体験の生じかた、つまり体験成立の形式的特徴らしかった。推察しうる限りにおいて、その空想というのは、彼女が他の人びとの態度や反応の仕方を -その場面全体のいろいろな細部までをも- 心の中で模倣するように強制されている、といったようなものらしかった。(69頁)

《空想といってしまってはあまり正確ではありません。とにかく、浮かび出てくる(herausgeloest)のです》 -(どんな内容なの)《たとえば他の人たちにみられたいろいろな反応とか…とりとめのないものでまるででたらめ(so ganz unvernuenftig)なんです》 -《私に押しつけられたのは、考えでした。それに対してはどうしても無力なのでした》。しかし、それがだれかから押しつけられたものとして体験されているとか、催眠術にかけられた感じだとかいうことにつながる手掛かりはなかった。ただ、このことが話題になると、いつもは見なれないしかめ顔すれすれの表情錯誤興奮が認められ、この体験が恐ろしいものであることがありありとうかがわれた。恐ろしいのは明らかに[この体験の]内容ではなかった、。その内容がとるにたりないものであることは、彼女が何度もはっきりと述べている。恐ろしいのはむしろその[体験の]生じかた、つまり体験成立の形式的特徴らしかった。明らかになった限りにおいて、そこで語られているのは、彼女が他の人びとの所作や反応の仕方を -その場面全体のいろいろな細部までをも- 心の中で模倣するような強迫を感じている、といったようなものらしかった。(代案)

 上ではherausgeloestとso ganz unvernuenftigの箇所に原語を残しましたが、それは本訳書86~87頁でこれらの表現が再び取り上げられて検討されており、そこでも原語が併記されているからです。
 『表情錯誤』と訳した『Paramimik』という精神医学用語は、濱田の『精神症候学』(弘文堂)によれば「抑制された、あいまいな表情」のことだそうです。

 あとは細かい訂正ばかりです。

要約すると、臨床観察も問診もテスト所見もすべて一致して、患者が自らの力では対処しえない状況につねにさらされていることを示している。彼女は遭遇するすべてのものから強い衝撃を受け、あらゆる不意の出来事が彼女の人格構造の統合に深い傷跡を残すのをいかんとも防ぎがたいようだった。彼女にとってはごく日常的なものほど動揺の原因となるらしく、このことは強迫性格者を思わすような生活領域および人格領域の全体の規格化や、表情がしばしば仮面のように硬直してしまうことからも推測された。(71頁)

要約すると、臨床観察も問診もテスト所見もすべて一致して、患者が自らの力では対処しえない状況につねにさらされていると体験していることを示している。彼女は遭遇するすべてのものから強い衝撃を受け、まったく無防備なようであり、あらゆる不意の出来事が彼女の人格構造の統合に深い傷跡を残すかのようだった。彼女にとってはごく日常的なものほど動揺の原因となるらしく、このことは制縛「性格]者を思わすような生活領域および人格領域の全体の規格化や、表情がしばしば仮面のように硬直してしまうことからも推測された。(代案)

 次が最後です。もとの邦訳でほとんど問題ないと思うのですが、「圧倒的に」のような言葉尻をとらえて、圧倒されるというのは統合失調症体験の特徴だとか考えられてはいけないので訂正しておきます。

知能や想像力はすぐれているのに、実生活での対処能力が全般に及んで低下していることや、体験領域全般が狭められて周囲とのつながりが表層的で非人格的なものになってしまっていることなどは、精神力動的にみれば、圧倒的に押しよせてくる体験内容に対する防衛機制と見なすことができた。(71頁)

知能や想像力はすぐれているのに、実生活での対処能力が全般に及んで低下していることや、体験領域全般が狭められて周囲とのつながりが表層的で非人格的なものになってしまっていることなどは、精神力動的にみれば、押しよせてくる制御不能な体験内容に対する主要な防衛機制と見なすことができた。(代案)

 今回の部分を検討しながら考えたのですが、精神病の「させられ現象gemachtes Phaenomen」などというときの「させられgemacht」という日本語訳はよくないですね。「○○させられる」というのは強迫症状にもあてはまる表現です。精神病の「gemacht」とは、意図に反して「○○している状態になってしまう」事態じゃないでしょうか。

自明性の喪失―分裂病の現象学 W.ブランケンブルク、木村 敏、岡本 進、 島 弘嗣  (1978/7/10)

Der Verlust der natuerlichen Selbstverstaendlichkeit Wolfgang Blankenburg  (2012/11)

2014年1月23日 (木)

ブランケンブルク『自明性の喪失』その4(改)邦訳63頁~

 今回は邦訳63頁からの『アンネ自身の追想』の部分について、前半2頁の翻訳を見て行きます。

学校ではひどく熱心に勉強しててたくさんのことを暗記したが、それは先生の関心と注目をひくためだったという。学校では《生き字引》というあだなをつけられた。中学卒業資格を取った後、家庭の事情で高校を中退してから商業学校に入ったが、《そのころはもう、人間関係がうまくいかなくなっていました》という。そこの先生は、彼女がすこしおかしいことに気付いていたはずなのに、逆にほめられることが多かったという。《どんな問題にも答えられるのに人間関係がうまく行かないなんて、不名誉なことですわ》と彼女はいった。(63~64頁)

 邦訳で「あだなをつける」と訳されているのは「nachrufen」という語ですが、これを辞書で調べると、「後ろから[罵声などを]浴びせる」という訳しか見つかりません。つまりアンネは、背後から浴びせられる声を聞いていたと言っており、このような呼ばれ方に関してアンネ以外の証言はないとなると、ふつう精神科医ならば、これは幻聴だったと考えるのが自然な自明性だし、十中八九そうでしょう。

学校ではひどく熱心に勉強しててたくさんのことを暗記したが、それは先生の関心と注目をひくためだったという。《生き字引》と後ろから[罵声を]浴びせられた卒業試験の後、家庭の事情で高校を中退してから商業学校に入ったが、《そのころはもう、人間的に付いていけなくなっていました》という。そこの先生は、彼女がどこかおかしいことに気付いていたはずだとアンネは思うが、逆にほめられることが多かったという。《どんな問題にも答えられるのに人間的には劣っているなんて、不名誉なことですわ》と彼女はいった。(代案)

 邦訳通り、「生き字引」とあだ名がつくほどの暗記力があったのだとすれば、アンネの診断を自閉症スペクトラム障害と考える論者にとって強力な論拠の一つとなりえますが、これが幻聴だったとすると、話は違ってきます。もちろん、そうした幻聴があったというだけでは統合失調症だとは言えず、自閉症スペクトラム障害でもありえますし、それ以外の疾患でもありえます。ただ、このような幻聴があったとなると、少なくとも「寡症状性」統合失調症(あるいは中安がアンネの診断として主張している「初期」統合失調症)という診断はかなり怪しくなると思います。

 そのあとの「人間的に」はアンネの中心テーマのひとつで、上の引用箇所以外にも何度も繰り返し出てきます(「人間として」と訳されている箇所もあります)から、ここで「対人関係的に」と訳し変えたりしないほうがよいと思います。

 次は細かいところばかりです。

アンネの性的発育についてはほとんどわからない。初潮は母親の言っていた通り一二歳ごろにあって、そのことは前から母親に教わっていた。同級生たちがセックスの話をしていても彼女はそれに加わらなかった。(64頁)

アンネの性的発育についてはほとんど聞き出せない。初潮は母親の言っていた通り正常に一二歳ごろにあって、そのことは前から母親に教わっていた。同級生たちがこうした話をしていても彼女はそれに加わらなかった。(代案)

 さて、前回もありましたが、アンネが「もっと○○しなければと考えていた」という箇所を、邦訳ではなぜか再三再四、「○○できていないと考えていた」と訳してしまっていて、アンネの強迫性を伝え損ねています。今回は次の箇所の2文目にありました。そうすると1文目の内容としっくりきませんので1文目も見直してみるとやはり訳が違ってます。

ダンスパーティーなどの類のことは念頭にも浮かばなかった。彼女はいつも自分がそういったことができるほど成熟していないと感じていた。(64頁)

ダンスパーティーなどの類のことは全く考えられなかった。彼女はいつも自分がそういったことができるにはまずはもっとしっかり成長しなければならないと感じていた。(代案)

 次は邦訳61頁にもあった、事実関係上の間違いです。

彼女は父親から離れるために、兄が大学に通っているX市で就職し、兄の隣りに部屋を借りた。(64頁)

彼女は父親から離れるために、兄が大学に通いはじめるX市で就職し、兄の隣りに部屋を借りた。(代案)

 前半最後は本書の主題に関わる点です。

母親を受け入れて折り合っていくことが、以前に比べてだんだん困難になっていったという。母親がまるっきり理解できないように思われた。(64頁)

母親を受け入れて折り合っていくことが、以前に比べてだんだん困難になっていったという。母親がまるっきり了解不能に思われた。(代案)

 ここの「了解不能unverstaendlich」は、ヤスパースが用いた「了解可能verstaendlich」という語の否定ですが、後者はアンネが訴える「自明性Selbstverstaendlichkeit」という語にも含まれ、概念的につながっています。母親を了解できないという状況が、のちに、あらゆることへの自明性の喪失につながっていくという流れが見えると分かりやすい気がします。

自明性の喪失―分裂病の現象学 W.ブランケンブルク、木村 敏、岡本 進、 島 弘嗣  (1978/7/10)

Der Verlust der natuerlichen Selbstverstaendlichkeit Wolfgang Blankenburg  (2012/11)

#2014年2月17日の補足

 この記事をアップした時はここまででよいと思ったのですが、杉山登志郎氏の『発達障害と統合失調症』という記事に、『アンネ症例の検討』として、「注目される点のみを抽出してみる」という前置きで次のような記載があったので見直してみます。

彼女の兄弟はすべて父親からの身体的虐待を受けて育ったが、彼女は「のろまで愚図」だったので、特にひどく虐待を受けることになった。彼女はそれを避けることすらせず、、まるで何も感じないかのように、なすがままにされていた。父親について、「私は当事者ではないからお話する立場にはない」と語ったことが記されている。(『そだちの臨床』197頁)

そだちの臨床―発達精神病理学の新地平 (こころの科学叢書) 杉山 登志郎  (2009/9)

 上のようにまとめられると、最後に引用されているアンネの発言はかなり奇異なものに聞こえます。しかしこれはそもそもアンネが「父親について」語ったことではなく、ある時期の父親の振る舞いについて語ったことですから不正確ですし、そもそもアンネが身体的暴力を受けていたのはかなり幼い頃のことでアンネはそれを思い出せないという情報も抜けています。該当箇所のみすず書房版の翻訳は以下のもので、悪くないのですが代案も示しておきます。

父親の行状についても彼女はただ、《私は当事者でないから、お話する立場にないと思います。本当はどうだったか私は全然聞かされていません》というだけだった。(『自明性の喪失』63頁)

父親の行状についても彼女はただ、《私がそれを語るとしたら、ほんとに下衆のような物言いですいったいどうだったか私は全然聞かされていません》というだけだった。(代案)

 『下衆』と訳したのは『Mob』という語ですが、辞書にもなかなかぴったりの訳語がありません。「自分が直接見聞きしていないことをおもしろがって語る群衆のようだ」、といったことが言いたいのでしょう。辞書には『野次馬』という訳語もありましたがそれがぴったりかもしれません。

 なお、杉山氏のこの本はやはり、『生き字引』とあだ名をつけられていたという記載に引っかかっています。
 

2012年9月17日 (月)

幻覚は見えるのか?

 先日、ある統合失調症の長期入院患者を診察していたときのことです。彼はふだん、自らの体験について「幻聴」や「幻覚」(彼は幻視をこう呼ぶ)という言葉を用いて報告するので、その日、私が何気なく、最近幻覚は見えますか、と尋ねたところ、彼は次のように答えたのです。

「あなたねえ、見えますかっていうけど、幻覚というのは、感覚器官で感じるんじゃないんですよ。脳で感じるんです。そんなことも知らなかったんですか?」

 もちろん、幻覚は脳で感じるものだというのは正しい意見と思います。この患者さんは、精神医学や心理学の本を読む人ではないけれど、オカルト関係の本を読んだりするので、その辺からの影響で、「幻覚は感覚器官で感じるのではない」という考え方を持っていたのかもしれません。ただ、そうだとしても、私が「見えますか」と尋ねた時にこのような返事が返ってきたという点が面白いと思います。私が言った「見える」という語は、「目で見える」という意味を補って受け取られたということでしょうが、この点だけみれば、ある意味では具象化傾向に近いものとも考えられ、思考障害のひとつと考えてよいのかもしれません。けれども、そう片づけてしまうことのできない本質的問題に触れているような感覚があって、ここに報告してみたくなった次第です。

 私はそのときとっさに、「それはそのとおりだけど、患者さんたちは『見える』という言いかたをすることが多いですよ」と返事をしました。私はこの患者の本質的指摘に対して、「幻覚が見える」という言い回しの一般性をもちだして返答してしまったわけです。

 
 しかも、いまこの自分の返事を思い返してみて思うのですが、たしかに患者さんが「幻覚が見える」という言い方をすることは多いものの、患者さんが書物や治療スタッフの言葉遣いの影響ではなく自発的に「幻覚が見える」と表現することは果たして多いのかは疑問で、自信がなくなってきました。もしそれが正しくないとしたら、私が言ったことは、自分(たち)の言葉づかいを押し付け続けてきた結果をもちだして、目の前の患者にも同じことを押し付けようとしただけになってしまいます。

 ともかく、ここで患者さんの方は、単なる言葉の問題としてではなく、幻覚の局在性に関する事実をどう描写するかという問題としてとらえています。さらには、幻覚の感覚性についても疑問に付しているようにも捉える事が出来ます。彼の考え方は、脳内現象を内視する小人を仮定するような素朴な考え方を逃れているようですし、一般に行われている疾患教育のテキストのレベルよりも上を行っている気がします。
 

 なお、この患者さんの趣旨から離れますが、「幻覚が見える」っていう言い回しは、例えば「視覚が見える」と言うようなもので、冗語的であることにも気づかされました。
 

 さて、この患者さんは以前、高校の数学の教科書を読んでいることが多かったのですが、数年前に教科書を無くして退屈そうにしていたとき、「病棟のテレビで、教育テレビの高校数学講座とかを観てみては?」と提案したところ、彼の答えは、「あれはIQが200ぐらいの人向けですよ。数学は、普通の人には、テレビで解き方を見て理解できるようなものじゃなくて、自分で手を動かさなければ理解できないんですよ」というもので、これもまたもっともな意見と思ったことでした。

2012年6月11日 (月)

意識性の概念

 ヤスパースの意識性/覚性という概念は、なかなか臨床的に使えるような理解に到達しがたいものです。実体的意識性というタームは有名ですが、ヤスパースが挙げる例に近い患者を診たことがありません。入院している患者で、「病棟の外に誰かが迎えに来ている」と主張するひとは時々居ますが、その誰かの存在を、病棟の外にありありと感じているとすれば、近い症状といえるかもしれません。

 今回、ヤスパースの当該箇所を読み直してみました。

「たとえば速やかに本を読んでいる時のごときである。われわれは文句の意味をはっきりと知っているが、そこでいう対象を目で見えるように表象してはいない。このようにある内容を目で見えないように、心像なしに、心に現していることを、意識性と呼ぶ。」(同書43頁)

 この、本を読んでいるときのように知覚もイメージも持たずに知る、という説明からして、私は、ヤスパースの言う意識性とは、内言語による思考のことであるとしか考えられません。それは例えば次の一節からも明らかです。

「知覚にはいつも何かの意味の意識が伴っている。家は人が住むためにそこに建っており、町を歩く人々は買い物に一所懸命であるなど。このような意味は我われの知覚では我われにはっきりとは意識されていないが、何らかの形の意識性としてやはりちゃんとあるのである。この意味意識が病気の場合に妙に変化するのである」(『精神病理学原論』67頁)

 我われは外部の事物を知覚するさい、内言語表象による認識が絶えず同時発生していますが、上の箇所を読む限りではこの正常の事態が「意識性」と呼ばれるようです(としか考えられない)。

 この意識性にはさらに二種類が区別される。

「このもの[意識性]はまたしても知覚と同じように実物的であることがあり、たとえば自分の後ろに誰かいるなと知るごときで、この場合その人を知覚も表象もしていないのである(このことを普通誰かがいるという感じという)。あるいはまた表象と同じように単に思考的な意識性であることもあるが、これは普通いくらもあるものである。」(同書43頁)

 先に知覚でも表象でもないといっておきながら、ここでは「知覚と同じように実物的」な場合と「表象と同じように単に思考的」な場合とに分けているのはやや理解困難ですが、ここでは(フロイトのW-Bw系を思い出しつつ)、知覚と同様に外部に定位する場合と、意識の内部のものとして捉える場合とに分けているのであろうと思います。

 ここでは大まかにいって言語表象の二つの側面、すなわち、さまざまな知覚物を言分けし差異を示すという面と、内言語として日常的に我われが意識的思考に用いうるという面という二面が扱われているように思えます。しかしこの二つの用法が必ずしも峻別できず混線が生じること、そして正常者はこの混線をほとんど無視することに成功しているが、精神病においてはこの混線がさまざまな症状を生むということが、ラカンの『精神病』のセミネールの主眼のひとつであろうとも思います。

精神病理学原論 

カール ヤスパース (著), Karl Jaspers (原著), 西丸 四方 (翻訳)

みすず書房; 限定復刻版 (1971/01)

Allgemeine Psychopathologie Ein Leitfaden Fur Studierende, Arzte Und Psychologen (1913) Karl Jaspers (ペーパーバック - 2009/11) 

出版社: Kessinger Publishing (2009/11)

2012年4月24日 (火)

ヤスパース『原論』の再読(第三章第二~三節)

 久しぶりにヤスパース『原論』に手をつけてみます。これは先週、症例検討会で自分の鑑定例を紹介した際に、参加しておられた先生から、病的過程か人格の発展かというヤスパースの考え方に言及されたのがきっかけです。

 まずは単純な誤植から。

197頁

時として接続的な血管運動性、神経衰弱的症状群、たとえば災難の後など。

〈代案〉

時として持続的な血管運動性、神経衰弱的症状群、たとえば災難の後など。

 次も単語レベルの問題ですが、221頁に「意識下の」という語が3回ほど出てきます。この日本語は、私の語感だと「意識内の」という意味にとりたくなるのですが、原語は「Unterbewusstsein」で、文脈からいっても、「意識される閾よりも下の」「潜在意識の」という意味でしょう。手持ちの辞書では大辞泉で「下」をひくと

「名詞に付いて、そういう状態のもとにある、その中でのことである意を表す。『戦時下・意識下』」

とあり、私の語感に一致しますが、新明解の「下」には

「①表面に現れない部分。『地下・意識下』 ②…のもと、…に属すること。『インフレ下の日本経済・支配下』」

とあり、両方の意味があるようです。これははじめて知って驚きました(もし片方の辞書だけ持っていたら、相反する二つの意味のどちらかだけが正解と思ってしまいそうですよね)。

 さて、そのすぐあとに、「第3節 病気に対する患者の態度」の章があり、これは病識に関する理論として非常にしばしば引用される箇所です。しかし文献上あまり指摘されてはいませんが、ここでヤスパースは患者の態度を明瞭に二段階に分けています。

222頁

一 患者は病気の症状を消化加工する。すなわち、ある体験Erlebnisは消化加工して妄想体系にする(以下略)。二 本当の意味でいう態度というのは、人間が自分の体験Erlebenにむきあって観察し判断することである。自我が自分の中で経過してゆく出来事に向かいあうこととか、自我が対象から目をそらして自分を「反省」しながら自分自身に向かいあうという精神生活の根本現象は、病気の時にはめったにない。心理学的な判断によって何をどのように体験するかが意識されるようになる。患者がその体験Erlebenに対して正しい態度が理想的にとれるようなのは、患者が「病識」があるという。[原語は引用者が付け加えた]

 第一段階の「体験」は、客体化されたものということでしょうか、原文では「Erlebnis」という名詞が用いられており、一方で第二段階の「体験」には、「Erleben」という、動詞をそのまま名詞化したものが用いられています。(Spitzerが英語論文でexperienceとexperiencingの両者を使っていたことを参考にして)後者は、「進行中の体験」とでも訳したらよいかもしれません。

 このあとしばらくは、おもに前者の「体験」への反応について説明されます。後者について語られるのは、次の引用箇所の第二文以降です。

225頁

 この第一群ではいずれの場合にも患者の病気の内容に対する患者の態度から特徴を知り、また変化した精神生活への患者の反応から、内容の消化加工から、特徴を知ったのである。第二群では患者が内容ではなくて[進行中の]体験Erlebenと自己に目を向けてこの出来事の原因をたずねながら彼の病気の一つ一つの様子や病気全体を判断する時にとる患者の態度から特徴を集めるのである。こういうものは皆総括して疾病意識とか病識といわれる。

 「体験」の原語の区別に着目することで、上の第一群と第二群との相違が明瞭になると思います。

 最後は構文上の誤訳です。ただし長い一文なので訳しづらく、みすず版も3文に分けています。私は前後をひっくり返すことにしました。

229頁

 急性精神病の最中より重要なのは、精神病が経過して回復してからそれに対してとる患者の態度である。すなわち判断がはっきりしているので、その内容からみると、本当の態度を見てとる上に間違いをおこさせやすい。それゆえこの病像全体を誤って解さないようにしなければならない。

〈代案〉

 もし病像全体を誤って解さないようにしたいのであれば、表明された判断の内容 -これが間違いをおこさせやすい- を通じて、本当の態度に到達することが重要である。これは急性精神病の最中よりも、精神病が経過して回復してからそれに対してとる患者の態度に際して、いっそう重要[な注意点]である。

精神病理学原論 

カール ヤスパース (著), Karl Jaspers (原著), 西丸 四方 (翻訳)

みすず書房; 限定復刻版 (1971/01)

Allgemeine Psychopathologie Ein Leitfaden Fur Studierende, Arzte Und Psychologen (1913) Karl Jaspers (ペーパーバック - 2009/11)

出版社: Kessinger Publishing (2009/11)

 222頁の引用箇所の「向き合う」の原語は「gegenuebertreten」「sich gegenueberstellen」ですが、私は、「向き合う」っていう言葉、ニュースやドキュメント番組なんかで「認知症と向き合う」みたいな表現を聞くとすごく嫌なんです。なんででしょうかね。

 なお、今回の記事の内容のほとんどは、ヤスパースの同じ教科書の後年の版「精神病理学総論」についてすでにこのブログで取り上げました。参照ください。

http://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-8dd7.html

http://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-e838.html

2011年6月30日 (木)

ヤスパースの妄想定義ですが(2)

 前回の話題を受けて、ドイツ語圏の文献の翻訳本をいくつかめくって、主に巻末索引ではありますが「妄想」や「ヤスパース」に関する項を探してみました。すると、妄想について「非常な確信」その他の標識をあげている箇所はあっても、そうした定義づけがヤスパースに由来すると書いてある本はありませんでした。そうすると、日本で過去数十年にわたって「ヤスパースが妄想を定義した三特徴」と語られてきたという事実は、日本精神病理学のガラパゴス化現象だったのかもしれません。

 見つけた範囲ではひとつだけ、ドイツ語圏ではSpitzerが自らの妄想定義を述べた本で、自論を展開する際の比較対象としてこの三特徴が挙げられており、批判対象というか踏み台として使われていますが、そこではヤスパースが主張した三特徴とまとめられていました。まあそういう目的にはビッグネームを挙げた方が都合が好さそうではあります。

 面白いと思ったのは、邦訳も出ているテレToelleの教科書『精神医学』の「妄想の基準」の項です。

妄想の基準
 妄想の診断のためには、明らかな錯誤、誤った判断形成、あるいは奇妙な確信だけでは十分ではない。というのは本当に病的なものは、内容ではなく、体験内部における意味づけであり、自己-関係性だからである。これはすでに、妄想の古典的定義の中に示された。つまり病的な自己-関係づけkrankhafter Ich-Bezug(Gruhle)、病的に自己に関係づけた誤謬krankhafter ichbezogener Irrglaube(Kehrer)、異常な意味意識abnormes Bedeutungsbewusstsein(Jaspers)などである。しかしこれらは妄想の一面しかとらえていない。(邦訳168頁)

 「明らかな錯誤、誤った判断形成、あるいは奇妙な確信」は、普通ヤスパースが挙げたとされる3特徴の言い換えですが、この項ではそこにヤスパースの名前は出てきません。そして、それらの特徴は「十分ではない」とされて、「妄想の古典的定義」として、先の三特徴とは違った考え方を紹介しているのですが、そこに初めてヤスパースの名前が挙げられているわけです。これはヤスパース本人の書き方に忠実で信用できる記載です。

 さて、ここで挙げられた「意味意識Bedeutungsbewusstsein」は(ざっと見たところヤスパースの『原論』には見当たらず、『総論』にみつかります)、ラカン用語に翻訳すればひとこと「シニフィカシオン」でよさそうで、上記の「妄想の基準」の項やヤスパースの精神病論はそのままラカンの枠組みでも考えられそうな気がします。まあ上の定義では、「病的」とか「異常」とは何か、ということこそ問題にすべきですし、そこはむしろラカンで考えたほうが良さげな気がします。

精神医学

R. テレ、飯田 真、大橋 正和、 市川 潤

  • 出版社: 西村書店; 第7版 (1991/08)
  • 2011年6月25日 (土)

    ヤスパースの妄想定義ですが

     さいきん周囲の若手医師たちが、ヤスパースの『精神病理学原論』の日本語版での輪読会を行っているので、私も出席しながらまたはじめから読み直しています。

     この本では、ヤスパースが妄想を定義したとされる部分が有名で、以前も取り上げました。

    心理学の前置きのところで対象意識の形として知覚、表象、意識性と判断を区別した。病的な知覚と表象は大部分以上述べた。病的に誤られた判断は一般に妄想という。心理分析の場合には厳密に元来の体験とそれを基として物語るだけの判断とを区別しなければならない。(みすず書房版63頁、下線は引用者)

    ・・・今度は誤られた判断、妄想に移ろう。妄想とはごく漠然と、誤った判断を皆そういうのであって、互いにはっきり区別がつくとは限らないがかなりの程度に次の三つの外面的な特徴を持つ。一 非常な信、何ものにも比べられない主観的な確信。二 経験上こうである筈だとか、こうだからこうなるという正しい論理に従わせることができない。三 内容がありえないこと。しかしこのような客観的な外面的な特徴の背後に立入って妄想の心理学的な性質をもっと深く見ると、まず二つの大きな分類ができる。その一つはわれわれにとって了解しうるごとくに、感情とか、あるいは妄覚のような他の体験とか、意識が変化したときの知覚界の疎外の体験から出てきたものであり、もうひとつは心理学的にそれ以上遡りえない、現象学的に究極のものである。前者を妄想的観念といい、後者を真性妄想という。(みすず書房版64頁、下線は引用者)

     今回気が付いたのですが、この本はヤスパース自らの精神病理学の考え方を紹介しているのでだいたい主語は「Wirわれわれ」で語られているんですけれども、下線部の主語はいずれも「Man」です。つまり、ここでヤスパースが言っているのは、妄想について世間では普通こう言われている、世間が言う妄想にはだいたいこういう特徴がある、ということに過ぎないのです。

     この部分は教科書や論文などに「ヤスパースによる妄想の定義」として紹介されていますが、そういうくくり方はちょっと不正確ではないかという気がします。

     ここらは妄想を体験と観念に分けるという点が重要でもあるのですが、この本の訳文では「Wahnideen妄想観念」という語をほとんど単に「妄想」と訳しています。そこらへんにも注意して、上の二箇所の代案を示しておきます。

    心理学の前置きのところで対象意識の形として知覚、表象、意識性と判断を区別した。病的な知覚と表象は大部分以上述べた。病的に誤られた判断は一般に妄想観念といわれている。心理分析の場合にはわれわれは厳密に元来の体験とそれを基として表明される判断とを区別しなければならない。(代案。下線は変更点)

    ・・・今度は誤られた判断、妄想観念に移ろう。妄想観念とはごく漠然と、誤った判断が皆そういわれるのであって、それらは互いにはっきり区別がつくとは限らないがかなりの程度に次の三つの外面的な特徴を持つ。一 非常な信、何ものにも比べられない主観的な確信。二 経験上こうである筈だとか、こうだからこうなるという正しい論理に従わせることができない。三 内容がありえないこと。しかしわれわれがこのような客観的な外面的な特徴の背後に立入って妄想的観念の心理学的な性質をもっと深く見ると、そうした観念にはまず二つの大きな分類ができる。その一つはわれわれにとって了解しうるごとくに、感情とか、あるいは妄覚のような他の体験とか、意識が変化したときの知覚界の疎外の体験から出てきたものであり、もうひとつは心理学的にそれ以上遡りえない、現象学的に究極のものである。前者を妄想的観念といい、後者を真性妄想観念という。(代案。下線は変更点)

     ここで「妄想的観念」とされている語は、邦訳70頁では「妄想様観念」とされていますが、まあそれぐらいの不統一は読んでいけば大体分かるところでしょう。

    精神病理学原論 

    カール ヤスパース (著), Karl Jaspers (原著), 西丸 四方 (翻訳)

    みすず書房; 限定復刻版 (1971/01)

    Allgemeine Psychopathologie Ein Leitfaden Fur Studierende, Arzte Und Psychologen (1913) Karl Jaspers (ペーパーバック - 2009/11)

    出版社: Kessinger Publishing (2009/11)

     この前まで読んでいたシュナイダーの『臨床精神病理学』は、編者による解説部分が、内容がつまらないうえに長いし文章も読みにくくて閉口しましたが、どうにか惰性で読み終えました。誤植なのか、ドイツ語として成り立っていない(としか私のドイツ語力では思えない)文もあったりして、翻訳者の忍耐・苦労がしのばれます。

    2011年4月15日 (金)

    病識にまつわる誤訳をもう少し

     前回、ヤスパース『精神病理学総論』で病識について述べられている箇所の誤訳について述べました。

     このほか病識論をあちこち拾い読みしてみますと、なぜかこのテーマは誤訳を招きやすいのか、次のような箇所も目につきました。

     治癒についてよく論議された基準は病識である。自分自身、発症中の妄想、態度を病的な現象であると述べる人々、かくしかじか治療されねばならぬということを理解し、しかも医者や精神病院に対し感謝している人々は、理由なしには簡単には治ったとはみなされない。他方その反対はかなり持続する病気の確実な徴候である。(E.ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群』医学書院301頁。太字による強調は原文による。下線は引用者が付した)

     治癒についてよく論議された基準は病識である。自分自身、発症中の妄想、態度を病的な現象であると述べる人々、かくしかじか治療されねばならぬということを理解し、しかも医者や精神病院に対し感謝している人々が、治ったと簡単にみなされるのは、理由のないことではない。他方その反対はかなり持続する病気の確実な徴候である。(代案、下線は変更箇所)

     想像するに、訳者はここで、「治癒したのなら治療を求める必要はないはず」と考えて意味をひっくり返してしまったのかもしれません。しかしこの前後の文脈を読めば分かりますが、ブロイラーはここで完全な治癒を想定していないようです。

     次はまたもやヤスパースです。

    妄覚に関する正しい実在判断は『病識』という言葉で総括されるものの一部を表わしている。病識はあらゆる現象が客観的に無意味であると正しく判断することを意味し、妄覚は外部の原因で引き起こされるだけでなく、また声も動機がなく、妄想観念にも根拠がなく、病的な意思欲求も目的にかなっていないなどということを意味する。なお病識はその上これらすべての現象がある疾患であると判断することを意味し、またこの点で文化水準と関係があり、疾患とは何であり、何がその原因であるかなどに関する見解とも関連がある。(ヤスパース『精神病理学研究2』63頁。下線は引用者が付した)

    妄覚に関する正しい実在判断は『病識』という言葉で総括されるものの一部を表わしている。病識はあらゆる現象が客観的に無意味であると正しく判断することを意味し、妄覚は外部の原因で引き起こされていないと判定するだけでなく、また声も動機がなく、妄想観念にも根拠がなく、病的な意思欲求も目的にかなっていないなどということを意味する。なお病識はその上これらすべての現象がある疾患に属すると判断することを意味し、またこの点で文化水準と関係があり、疾患とは何であり、何がその原因であるかなどに関する見解とも関連がある。(代案。下線は変更箇所)

     ここの一つ目の下線部は、またしても真逆の意味になっていますが、ここは単なるケアレスミスのようでもあります。

    2011年4月 6日 (水)

    引き続き病識について

     前回、ヤスパースのいう「病識」の概念では、患者が自らの病的体験についてリアルタイムで洞察することが必要かもしれないと書きました。

     ところが、精神医学の日本語文献を読んでいると、「病識」を論じる際に、すでに過ぎ去った病気に対する洞察を重視する考え方を採っているものが散見されます。

     その理由は、ひょっとすると、ヤスパースの『精神病理学総論』で病識について論じられた箇所(病識を扱う際には必ずといってよいほど引用されるところです)のなかの以下の部分の誤訳が影響を与えているのかもしれません。前回引用した、「病識」とは患者が自らの体験や病気に対して取る「構え」の問題であるという箇所の少し後ろの一節です。

    患者の病像全体について誤りを犯さず知るためには、急性精神病の最中における患者の構えを見ることにも増して、経過が終わった精神病に対する彼の構えについて彼が述べる判断の内容から -この内容に欺かれやすいのであるが- 真実に達することが肝要である。 (ヤスパース『精神病理学総論中巻』岩波書店181頁)

    患者の病像全体について誤りを犯さず知るためには、彼が述べる判断の内容 -この内容に欺かれやすいのであるが- を通り抜け、本当の構えにまで達することが肝要である。これは、急性精神病の最中にも増して、経過が終わった精神病に対する構えについて、より一層重要な注意点である。(代案)

     ここでいう「本当の構え」とはもちろん、前回引用した箇所、「人格が自らの体験動態に対し、観察し判定しながら向かう時にはじめて、本来の意味での構えの取り方が問題となってくる。」(岩波版176頁)を受けての表現です。岩波版は、経過が終わった精神病に対する構えを重視すべきであるかのような誤解を与えています。

     もうひとつ、我が国の論者が「病識」を検討する際に過去の体験への洞察を重視するようになった要因かもしれないと思われるのは、クレペリンの『精神医学』の教科書です。この本で「病識」という見出し付きで比較的明瞭に書かれている箇所が、精神疾患の転帰を論じた章に含まれているからです。

    病識 回復が起こったという、認めうる症状の消失以外のもっとも重要な印は、克服した病気の病的な性質の洞察と、それと共に大抵、享受した治療や看護に対するある程度の感謝の出現である。その洞察はたしかにまさしく、回復しつつある患者が自分の精神生活の病的変化を何か異質のものと感じていること、別の言い方をすれば、彼が病前の健常な日々に立っていた判断の基盤に立ち返ったことを保証してくれる。病識の欠如は常に、精神障害中に蓄えられた経験を正しく判断することの不能を示唆する。(以下略)(クレペリン『精神医学総論』みすず書房240頁)

     これは、巻末索引で「病識」を引いて探せる箇所の中でも、最もまとまった論が読めるところでもあります。

     ここは、精神疾患の転帰の文脈のなかで、病識を治癒の指標として述べた箇所ですから、当然のことながら過去の体験への洞察について述べられています。

     しかしクレペリンは、進行中の病気に対する洞察についても、『精神分裂病』の巻で「病識」という語を用いています。ただ、残念ながら、それらは病識について主題的に述べた箇所ではなく、また巻末索引でも引けませんから、目立たない箇所にすぎません。

    『(・・・)幻視もまぼろしもずっとありますが、これも皆霊媒の意図と私の想像力のために起こります。まぼろしは目を閉じたときにだけ現れます』。ここには病識と被影響感の奇妙な混合、ことに心の自由性喪失の感じがあることに注意されたい。(以下略)(クレペリン『精神分裂病』みすず書房19頁)

     ある程度の病識さえしばしば存在する。患者は自分の妙な行動を愚行だといい、自分は実にばかだという。精神病かと質問すると、ある患者はこう言った、『ええ、もちろんです、利口ならこんなことはやりません』。ある女の患者は、緊張病性運動常同が著しく現われていたが、こう言った、『私はこんなばかな運動をずっとやらなけりゃならないのです、だけどあんまり簡単すぎます』(以下略)(クレペリン『精神分裂病』みすず書房149頁)

     以上のように、精神病理学に大きな影響を与えたヤスパースとクレペリンの二大教科書といえる書物の翻訳が、一部の論者の「病識」概念に強く影響し、過ぎ去った病気への洞察を重視させたのではないかと想像しています。

    精神医学総論 (精神医学 6)
    エーミール クレペリン , Emil Kraepelin , 西丸 四方 , 遠藤 みどり 出版社: みすず書房 (1994/01)

    Psychiatrie: Bd. Allgemeine Psychiatrie 
    Emil Kraepelin
    出版社: Nabu Press (2010/01)

    出版社: みすず書房 (1986/01)

    2011年2月28日 (月)

    ヤスパース(5):ヤスパースの意味での病識

     ヤスパースの『精神病理学総論』岩波書店(第7版の訳)で病識を扱っている部分は、次のような章分けになっています。

    疾病に対する患者の構えの取り方
     a)急性精神病の突発に対する了解可能な態度(困惑、変化の意識)
     b)急性精神病が過ぎた後の消化
     c)慢性状態における疾病の消化
     d)自分の疾病に関する患者の判断
      1.自己観察と自らの状態の意識
      2.急性精神病の際の構えの取り方
      3.過ぎ去った急性精神病に対する構えの取り方
      4.慢性精神病における構えの取り方

     すなわちa)b)c)で、急性期、急性期からの回復後、慢性期のそれぞれに患者が取る態度を扱っていながら、d)の2.3.4.で同じようにまた一つずつ取り上げて論じています。病識や疾病意識といった用語は、d)で初めて登場しているのですが、以前読んだときには、どうしてこのようにややこしい論じ方をしているのかよくわかりませんでした。

     原書をよく見直してみると、実はa)b)c)までの本文では、「患者が体験に対して取る態度」というときの「体験」には名詞「Erlebnis」が用いられているのですが、d)からは、「体験する」という動詞をそのまま名詞化した「Erleben」が用いられるように変わっています。つまりd)からは、患者自身が、「体験するという事態」に目を向け、体験様式ひいては自己自身を問題とするような場合について論じられています。幻聴の場合で言えば、幻聴の内容や送り主に対する反応ではなく、幻聴を聞く自分の状態に注意が向いていなければならないことになるわけです。以下はd)の冒頭の箇所ですが、この名詞化された動詞を「体験動態」と訳してみましょう。

    『人格が自らの体験動態に対し、観察し判定しながら向かう時にはじめて、本来の意味での構えの取り方が問題となってくる。患者は、自らが何をいかに体験しているかを、心理学的判断のなかで意識化する。患者の体験動態に対する「正しい」構えの取り方の理想的なものは、患者が「病識」において到達するものである。今まで述べた項目では、疾病現象の内容に対する患者の態度や、変化した精神生活への患者の反応や、内容の消化などから種々の特徴を知ったが、ここで我々は、患者が[体験の]内容から離れて自らの体験動態と自分自身へ向かい、この事象の原因を尋ねて、自らの疾病を個々の特徴についてあるいは全体として判定するときに患者が取る構えから、特徴を集めようとする。つまり疾病意識および病識と総括されるものの全てがここに関わる。
     疾病意識とは次のような患者の構えをいう。病気という感じ、変化したという感じが表に現われてはいるが、しかしこの意識は全ての疾病症状や全体としての疾病に関わってはおらず、また発病の種類についての客観的に正しい判断や、疾病の重さの判定について客観的に正しい度合いに達してもいない。ただ、こうしたことが全て行われて、個々の疾病症状全て、あるいは全体としての疾病が、その種類と重さに従って正しく判定される場合にのみ、我々は病識という。しかし我々はこれに制限を加えて、ここでの判定は、同一文化圏の平均的健康人が他の病人に対してできるような正しさに到達すればよいとするものである。』(岩波版を改訳)

     この二段落は非常によく引用される箇所ですが、特に「個々の疾病症状全て、あるいは全体としての疾病が、その種類と重さに従って正しく判定される場合にのみ、我々は病識という」の部分のみを引用して、“ヤスパースの病識概念は狭すぎる”“実際にここまで達する患者はほとんどいない”などと評されることがしばしばです。しかし、ヤスパースはさらにその前提として、患者が自らの体験の様式に着目してその変化に気づいていることをも要請しているのです。

     ここで私がひとつ疑問に思うのは、ヤスパースが「自らの体験動態に対して構えを取る」という場合の、動詞形で書かれた「体験」は、「現在進行中の体験」でなければならないのか、それとも、過去の出来事の際の知覚様式・心理状態などへの振り返りであっても「(動詞形の)体験への構え」とみなしてよいのか、という点です。前者ならば、我々が夢を見ながら「これは夢だ」と気がつくように、あるいは逃げ水を見ても不思議に思わないように、その場で直ちに気づかなければならないことになります。これはあまりにも困難な要請でしょうか。私は、幻聴を聞いてから少し時間が経つと「あれは幻聴だった」と判別できるのに、幻聴が聞こえた瞬間には現実の音声と思い込んだり、幻聴からの命令に従って行動してしまう患者を何人か知っていますが、彼らにはさらなる洞察の余地がありますから、すでに十分な病識があるとはみなしがたいのです。なので、「病識がある」というためにはリアルタイムでの気づきが必須であると考える読み方も捨てがたいと思っています。

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