精神病理学

2017年2月 9日 (木)

ラカン『精神病』3章再読

 前回は「要素現象」の概念を取り上げましたが、辞書を引き直すと、「elementar」にはドイツ語では「荒々しい、抑えられない、激烈な」という意味もあるようで、しかもこの意味での使用頻度が高いのか、小学館の大独和ではこの語義が最初に挙げられています。フランス語のelementaireにはこの意味はないようだし、意味的にもラカンの訳には「要素(現象)」でよさそうですが、ヤスパースを訳す際には、この意味を含み持つような訳を考えるべきかもしれません。ヤスパースでは、その後の精神病プロセスの起爆剤的な現象を指すともいえそうですから。

 さて、3章の翻訳からは次の箇所を取り上げましょう。

 医療上関わり合った男性達が次々と登場したこと、つまりそれらの人たちが次々と名前を挙げられ、シュレーバー議長のとてつもない迫害妄想の中心に相次いで出現したことは、たしかにこれらの男性達の重要性を示しています。(邦訳上巻47~48頁)

 下線部の原文を直訳すると「とてつもなくパラノイド的な迫害」です。精神医学用語でパラノイドとは、パラノイアに似て非なる妄想型統合失調症を指しますから、翻訳はわかりやすく「とてつもなく妄想型統合失調症的な迫害」としてもよいでしょう。こういう箇所を見ると、ラカンはシュレーバーを、(妄想形成メカニズムを論じるときにはパラノイアという言葉を使っていますが)診断的には妄想型統合失調症とみていたことが分かります。当たり前ですけど。

 次に、私にとっては58頁のほぼ真ん中にある段落が、今回読み直しても非常に理解困難に感じます。

 まず第一の形、それは「信頼」、つまり捧げられたパロールです。たとえば「君は僕の妻だTu es ma femme.」とか「あなたは私の師Tu es mom maitre.」がそれです。これらのパロールが意味しているのは、「君はなお私のパロールの中にあるものだ。そして、私がそう言えるのは君という場で、このパロールを捉えているからこそなのだ。それは、君から生じて、私が任すことの確かさを君に見出すのだ。このパロールは君の任に置くパロールなのだ、君の」ということです。(邦訳上巻58頁)

 「君という場で、パロールを捉えている」は原文では「prendre la parole a ta place」なのですが、このprendre la paroleはふつう成句として「発言する」という意味になるのです。上に引用した邦訳なら、パロールを受け取っているという意味、成句と取ればパロールを発しているという意味になりますが、ここは文脈上どちらと取るべきかがまず迷う点です。
 「君という場」はラカン理論では大文字の他者を指すという点も考えなければなりません。
 それと、「任す」「任に置く」と訳されたengagerですが、辞書を見るとかなり多義的だし、ものを補語とするときと人を補語とするときとで意味が違うので困ります。他の箇所での訳との整合性も考えなければなりません(前の段落には「任されたパロールparole engagee」という箇所もありますが、engager la paroleは「言質を与える」という意味もあるようでなおややこしい)。それと、途中の「君に(見出す)」ですが、原文は「y」ですので「君の場に(見出す)」ではないでしょうか。というわけで、かなり暫定的に次のような代案を考えてみました。

 まず第一の形、それは「fides信頼」、つまり捧げられたパロールです。たとえば「君は僕の妻だTu es ma femme.」とか「あなたは私の師Tu es mom maitre.」がそれです。これらのパロールが意味しているのは、「君はなお私のパロールの中にあるものだ。そして、私がそう言えるのは君の場で、このパロールを発しているからこそなのだ。それは、君から生じて、私が任ずることの確かさを君の場に見出すのだ。このパロールは君を任ずるパロールなのだ、君を」ということです。(仮の代案)

 最後に些細な箇所です。

 つまり嫉妬妄想では、何よりも、性化の記号が逆転された[ルビ:アンベルティ]他者との同一化が見出されるのです(邦訳上巻68頁)

 ここのルビは正しくは「アンテルベルティ」です。フランス語にはアンテルベルティもアンベルティも実在して、意味もよく似ているのですが。

 翻訳の問題から離れて、この章で印象的なのは、精神分析家ならば患者に対して、「相手は普通の人々が理解しているよりももっと深い仕方で、無意識という体系のメカニズムそのものに通暁した人だという感じをお持ちになるでしょう」という箇所です。このように、ラカンにとって、精神病患者は、人間の精神の普遍的な問題に気づくことがある人々だというわけです。一方でこれと対照的に、現象学的な精神医学者は、たとえばブランケンブルク『自明性の喪失』で詳論されている患者、アンネ・ラウを、極めて高い内省能力でもって症状を語っていると評価しているにもかかわらず、アンネは(人間一般の精神構造ではなく)単に統合失調症の基本障害に気づいている、としているのです。
 しかし上のような対比を踏まえて私がアンネ自身の言葉を読み返してみると、アンネは、人間の精神構造一般の問題についての鋭い洞察を随所で語っているように感じますけれど、皆さんはいかがでしょうか。

精神病〈上〉 
ジャック ラカン (著), ジャック・アラン ミレール (編集), 小出 浩之 (翻訳), 川津 芳照 (翻訳), 鈴木 国文 (翻訳), 笠原 嘉 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (1987/03)

2016年11月27日 (日)

ヤスパース『原論』の遺伝論はまずかったのか…

 ヤスパース『精神病理学原論』のみすず版邦訳からは、遺伝に関して論じられた箇所が大幅に省かれており、以前、その部分の拙訳をこのブログで公開してみました。

http://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-cec7.html

 私がこの記事を書いた当時は、ヤスパースの遺伝論が、その後の遺伝学の知見からみて古すぎるので訳者が省いたのかと思っていましたが、いま(2016年秋現在)思えば、ヤスパースのこの部分は、優生思想的に読まれてしまうおそれを感じて省かれたのかもしれない、と思えてきました。実際には何でもない内容ですが。

精神病理学原論 

カール ヤスパース (著), Karl Jaspers (原著), 西丸 四方 (翻訳)

みすず書房; 限定復刻版 (1971/01)

Allgemeine Psychopathologie Ein Leitfaden Fur Studierende, Arzte Und Psychologen (1913) Karl Jaspers (ペーパーバック - 2009/11)

出版社: Kessinger Publishing (2009/11)

 今年の新語・流行語大賞の候補がたくさん公開されていますが、個人的には「厚化粧の大年増」や「優生思想」「生前退位」が入るべきじゃないかと思ってますけども、例年、無難な言葉しか入りませんよね。

2016年9月12日 (月)

気分障害患者の結婚歴

 中高年以降に発症した気分障害(うつ病または躁うつ病)の患者は、とにかく結婚歴のある人が多いんです。たとえばドイツの精神科医テレンバッハがうつ病症例を集めた名著『メランコリー』に登場する症例とか、笠原・木村が著書で紹介する例は、ことごとく既婚です。

 最近、勤務先の病院に、生涯未婚の中年うつ病患者が入院してきたので、珍しいなあと思い、医局でそう発言してみましたが、周囲の医師には私の感慨はうまく伝わらなかったようでした。

 気分障害患者のほとんどに結婚歴がある理由については、私なりに考えがあります。

①躁うつ病の人(循環性格の人)の病前性格は、異性を恋愛感情に巻き込む力(=同調性、本ブログのひとつ前の記事を参照)が強いので、交際相手ともども気分が盛り上がって結婚に至ることが多い。

②うつ病の人(メランコリー型の人)の病前性格は几帳面で仕事熱心で他者配慮があるので、異性からみて、手堅い結婚相手と捉えられやすく、また一昔前なら縁談も舞い込みやすかった。

 そしてもうひとつ、未婚である私がなかなか人前では言いづらいことなのですが、

③気分障害の人(うつ病の人も躁うつ病の人も)は、もともと性格的に、自分に達成可能な範囲のことしか望まない、とテレンバッハが言っていますが、そういう性格のせいで、彼らは、自分の手に入らないような異性を求めたりせず、自分に見合った範囲の異性から配偶者を選ぶ

ということがあるのではないでしょうか。

 みなさんはいかが思われますでしょうか。

メランコリー [改訂増補版]

H. テレンバッハ(著), 木村 敏 (翻訳)

出版社: みすず書房; 改訂増補版 (1985/12/5)

2016年8月29日 (月)

同調性

 躁うつ病の人の性格には、病気になる前から病気の間までを通じて、同調性があるといわれます。

 これを言い出したブロイラーは、教科書で同調性について次のように説明しています。

 「他人の気分、性癖に自分を合せることができる」邦訳Ⅰ巻9頁

 「このような人はしばしば社交的で人好きがし、適応性に富み、気持ちの良い人間である(同調性)」邦訳Ⅲ巻119頁

 「同調性者は、楽しげな人間と一緒の場合には楽しげであり、悲しんでいる人間と一緒の場合には悲しげであり、主として周囲と同調した態度をとる」邦訳Ⅲ巻291頁

 しかし、躁状態の人は、一人で勝手に高ぶっています。彼らは本当に同調的なのでしょうか。

 中井久夫は躁状態について次のようにいっています。

 「…つまり躁状態のよさは、あとに尾を引かないところにある。だからひどい躁状態のときはかなりの拘束を加えないといけないことも多いが、あとはさっぱりしてくれて、うらみがあまり残らないのが救いである。他の病気の活動増大ではこうはゆかない。
 それほどでないときは、やたらに握手したり肩をたたきまわったりする。次の番にすぐ移るので、短時間お相手をしていればすむ。そのあと苦笑していると「また帰ってきた」ということもあるが、「やあ」「うん」「そう」と握手をしていればすむ。
 このように、「上機嫌」であり「同調性」がある。同調性とは、相手と合わせることである。こちらも患者の気分に多少波長を合わせてしまう。躁病の上機嫌は伝染性がある。」(中井久夫、看護のための精神医学 155頁)

 引用した2段落目に挙げられた振る舞いは、他人に同調しているとか「相手と合わせ」ているとはとても言えません。しかしなにも中井久夫だけが悪いのではなくて、多くの精神科医たちが、こういう人を指して「同調性がある」というのです。精神科の専門外の人には理解不能な考え方じゃないでしょうか。

看護のための精神医学 第2>
2004/3/1
中井久夫山口直彦

2016年1月20日 (水)

ダメな人

 中井久夫著『看護のための精神医学』によれば、うつ状態では

自己価値観の低下は「微小妄想」となり、自分は何もできない、ダメな人間であると思いこむ。(160頁)

 一方、うつ病になりやすいとされた「メランコリー親和型」は、

日本の下田は「模範的な人」と書いているが、ドイツでは「ダメな人」だそうである。(162頁)

 だとすると、ドイツ人がみれば、患者が自分を「ダメな人」だと言うのは内容的に正しく、よって妄想ではないことになってしまいませんでしょうか。

 ちなみにフロイトも、メランコリーの人は正しい自己認識を語っているのだといってました。

看護のための精神医学 第2版
2004/3/1
中井 久夫山口 直彦

 

2016年1月 9日 (土)

去年の三冊

 昨年は本業にかまけて1年間このブログをほったらかしにしてしまいました。

 新聞の書評にならって、私にとっての昨年の3冊を挙げておきましょう。

人はみな妄想する -ジャック・ラカンと鑑別診断の思想-
2015/4/24

松本卓也

ジャック・ラカン 転移(上)
2015/10/28

ジャック=アラン・ミレール、 小出 浩之

自閉症スペクトラムの精神病理: 星をつぐ人たちのために
2015/11/24

内海 健

 しかしこの3冊、自分の専門分野そのものであって、しかも著者(ラカンに関しては訳者)の方々も知っているのでコメントの言葉が出てきづらいのですが、決して損をさせない3冊です。内海先生による、「こころの理論」説への徹底的批判には胸のすく思いです。

2014年7月29日 (火)

復刻本がいくつか

 以前もここで、クレペリンやヤスパースの復刻本について話題にしました。

 久しぶりにAmazonで精神医学ビッグネームの原書を検索してみると、名著の復刻版がさいきん次々に出ているようです。日本のアマゾンでも出てきますので注文も楽なのがよいです。

 まずは、ヤスパースの日本語版「精神医学総論」(岩波書店)全3巻の原版である1948年版。

Allgemeine Psychopathologie  Karl Jaspers (2013/10/4)

 これまで私は病院にあった1973年の9版(=最終版?)を参照していましたが、岩波版との相違点に気づくこともなかったので、1948年以降、ほとんど変更点はなかったようで読むために不便はありませんでした。しかし自分の論文に参考文献を付けるときなどには、邦訳の引用頁と揃えるためにやはり持っていたいものです。安価なこの機会にぜひ。しかし他の版もかなり出ているようで、こんなのが次々に出て来ると、医学古書のお店とかは大変ですね。

 つづいて、これは近日発売ですが、ブロイラーの「早発性痴呆または精神分裂病群」の原書も。

Dementia praecox oder Gruppe der Schizophrenien Eugen Bleuler (2014/6)

 どちらもきわめて面白いのに翻訳がいまひとつで、そのせいか邦訳本も絶版になっている、きわめてもったいない本です。原書と並べて読みたいものです。

 ジャネとかクレッチマーとかもたくさん出ているようですが私はいまのところそこまで手が回りません。

2014年6月23日 (月)

ブランケンブルク『自明性の喪失』その14

 前回で、私が目指していた病歴の章の検討は終りですが、後ろの頁からひとつ取り上げたいと思います。

 次に引用する箇所では、「患者は自分の状態について…とかのことばを並べたてるばかりであった」とありますが、「自分の状態について」は訳者による補足であり、むしろここでは患者は、自分の状態ではなく、思考促迫や表象促迫について語っています。

アンネの思考促迫ないし表象促迫(こうしたことばでは不正確にしか言い表せないが)は容易には説明できない性格を有していた。そのことが話題になった時、彼女が顔をゆがめながら示した激しい狼狽は、適切に言語化できない精神病症状の核心がその辺りにひそんでいることを如実に示していた。それを具体的に表現することができないままに、患者は自分の状態について《たこの糸が切れた》(herausgeloest)とか《まるででたらめ》(so ganz unvernuenftig)とか《ふつうでない》(ungewoehnlich)とか《おかしな具合》(komisch)とかの言葉を並べたてるばかりであった。(みすず版邦訳86~87頁)

アンネの思考促迫ないし表象促迫(こうしたことばでは不正確にしか言い表せないが)は容易には説明できない性格を有していた。そのことが話題になった時、彼女が顔をゆがめながら示した激しい狼狽は、適切に言語化できない精神病症状の核心がその辺りにひそんでいることを如実に示していた。それを具体的に表現することができないままに、患者は[思考促迫や表象促迫について]《浮かび出てくる》(herausgeloest)とか《まるででたらめ》(so ganz unvernuenftig)とか《ふつうでない》(ungewoehnlich)とか《おかしな》(komisch)とかの言葉を並べたてるばかりであった。(代案)

 ここは、邦訳69頁と関連しており、このブログでの検討にもすでに出てきました。http://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-d66f.html

 今回でこの本からはいったん離れようと思います。私はアンネの診断について、自閉症スペクトラムを疑うべき所見がはっきり読み取れるとはいえないと思いましたが、みなさんはどうでしょうか。

自明性の喪失―分裂病の現象学
W.ブランケンブルク、木村 敏、岡本 進、 島 弘嗣
(1978/7/10)

Der Verlust der natuerlichen Selbstverstaendlichkeit
Wolfgang Blankenburg 
(2012/11)

2014年6月21日 (土)

ブランケンブルク『自明性の喪失』その13・邦訳82頁~

 この本の邦訳を検討してきましたが、病歴の章は今回で終りです。

だから私は、いつもたくさんの疑問が、とてもたくさんの疑問があるから、理解できないという気持ちなんです》。(ひょっとするとそういう気持ちを持っていると思いこんでいるだけじゃないの?)《ええ、たぶんそうかもしれません。(みすず版邦訳82頁)

だから私は、いつもたくさんの疑問が、とてもたくさんの疑問が未解決だから、理解できないという感情を持つんです》。(ひょっとすると誤った感情じゃないの?)《ええ、たぶん誤りかもしれません。(みすず版邦訳82頁)

 ここの「理解verstehen」は、本書のキーワード「自明性」という語にも成分として含まれています。前回もそうでしたが、患者アンネ・ラウは、自分に欠けているのは感情的な事がらだと繰り返し言っています。ところが本書では、次の章から精神病理学的・哲学的に検討されていく際には、感情に関する部分は大幅に省略されていて、アンネに欠けているものが何やら哲学的な事がらにされてしまっているように思います。

 次です。「弱々しくhektisch」は邦訳68頁で「熱に浮かされたような」と訳されていたのと同じ表現ですが、辞書では「せわしなく」です。

(そんなに根掘り葉掘り考えることはやめてしまえないの?)《いろいろ考えることをやめるなんてこと、不可能です。先生のおっしゃる、いつも自分を判断してるってこと、それは自動的にそうなるのです。感情がないから、なんとかその埋め合わせをしなければならないのです》(弱々しく笑う)。彼女が《うめあわせ》というのは、彼女に不足しているものを意識的に考えることで補おうとすることである。(みすず版邦訳82頁)

(そんなに詮索することは自制できないの?)《いろいろ考えることを自制するなんてこと、不可能です。先生のおっしゃる、いつも自分を判定しなければならないってこと、それは自動的にそうなるのです。感情がないから、なんとか裏からその埋め合わせをしなければならないのです》(せわしなく笑う)。彼女が《裏から》というのは、彼女に不足しているものを意識的に考えることで補おうとすることである。(代案)

 次も同じ段落からです。 本書のタイトルにある「natuerlich自然な」という語にはやはり同じ訳語を当てたいところです。

私はほかの人から元気がなくてゆううつそうにみられるんです。でもそれにもう一つ別の故障があって、そのためにふつうの元気のなさがいっそうひどくなっているのです …でなければこんなにだめにはなりません。ほかの人はそれがないので、どうもないようにみえるのです。(みすず版邦訳82頁)

私はほかの人から抑制的で悲しげにみられるんです。でもそれにもう一つ別の障害があって、そのために自然な抑制がいっそうひどくなっているのです …ここが弱みなのです。ほかの人はそれがないので、障害なしにみられるのです。(代案)

 次です。「感情」「障害」といった言葉からわかるように、前段落の内容を引き継いで語られています。

今日はふつうの感じがあります。ここへ来たとき、浮きうきしたみたいな、嬉しい気持でした。でもまだときどき感じのなくなることもあります。(みすず版邦訳82頁)

今日はふつうの感情があります。ここへ来たとき、浮きうきしたみたいな、嬉しい気持でした。でもまだときどき感情の障害もあります。(代案)

 次も同じ段落からで、アンネの調子が良い時の様子です。

家庭の中とかなんかでたいせつなことはなにかということが、またわかってきました。(みすず版邦訳82頁)

家庭の中とかなんかで世間一般からみてたいせつなことはなにかということが、またはっきりしてきました。(代案)

 最後の段落は、「その後の経過については…」と始まりますが、実際には、ほとんどがここまですでに記載されてきた経過の要約です。診断にかかわるような訂正点はないのですが、直訳で代案を示しておきます。

外面的に見ても、患者自身の苦痛の点でも、三年間の経過のうちにすこしずつだんだんに良くなっていたが、その間には何回も悪化があった。薬物療法も電気もインシュリンも持続的な効果はなかった。精神指導的な努力はいくらかの影響を与ええたけれども、無意識をあばくような精神療法に対しては、患者は激しい抵抗を示して、急速に自殺念慮が高まり、そのつど即座に精神療法を中止し、より支持的な面接治療と生活指導に逆戻りせざるをえなかった。家族療法は残念なことにおこなえなかった。患者は一年後に退院して、デイケア(おもに作業療法)を施され、その後負担にならない程度の条件で家政婦として働いた。(みすず版邦訳83頁)

客観的な障害の程度も主観的な苦痛の度合いもはじめ三年間の経過のうちにすこしずつだんだんに良くなっていたが、その間には何回も、長短さまざまな再発による悪化があった。薬物療法も電気もインシュリンも持続的な効果はなかった。心理教育的な努力はいくらかの影響を与ええたけれども、無意識をあばくような精神療法の試みに対しては、患者は激しい抵抗を示して、急速に自殺念慮が高まり、そのつど即座に試みを中止し、より支持的な対話療法社会精神医学的措置に逆戻りせざるをえなかった。家族療法は残念なことにおこなえなかった。患者は一年後に退院して、入院治療からデイケア(おもに作業療法治療へと引き継がれ、その後負担にならない程度の条件で家事に雇われた。(代案)

 ここでこの章は終りです。

自明性の喪失―分裂病の現象学 W.ブランケンブルク、木村 敏、岡本 進、 島 弘嗣  (1978/7/10)

Der Verlust der natuerlichen Selbstverstaendlichkeit Wolfgang Blankenburg  (2012/11)

2014年6月20日 (金)

ブランケンブルク『自明性の喪失』その12・邦訳80頁~

 病歴の章は残り少なくなってきました。翻訳の検討を続けます。

患者は一年あまりの入院の後、一九六五年のクリスマスに退院を許された。その後数ヵ月間は昼間だけ作業療法に通ったのち、外来治療を続けながらパートタイムの家政婦をはじめた。最初のうちまだ作業能力が大そう低く、ちょっとしたこともうまくこなせなかったから通院は必要であった。(みすず版邦訳80頁)

患者は一年あまりの入院の後、一九六五年のクリスマスに退院を許された。その後数ヵ月間は昼間だけ作業療法に通ったのち、治療的な条件の下で、ある家庭で半日間の仕事を始めることができた。最初のうちまだ作業能力が大そう低く、ちょっとしたこともうまくこなせなかったから後者[=治療的条件下での仕事]は必要であった。(代案)

 この箇所について、かねてから私は、いったいどんな制度のもとでの治療だったのだろうかと疑問に思っていましたが、著者ブランケンブルクと直接会って話したことのある精神科医からお聞きしたところによると、患者アンネ・ラウは、精神科医の家庭に引き取られて面倒をみてもらっていた時期があるというのです。上の箇所はそれに当たるのかもしれません。

 次の箇所の代案で、「痛いweh」という語を使ったのは、すぐ次の段落に同じ語が出て来る際の訳語と揃えたからです。ほか、「感情」という語については以前の箇所に揃えました。また、「beiseitelegen」という語が二度出て来るので、訳語を「片付ける」で揃えました。みすず版の邦訳で「頭の中が混乱してしまいます」とされている箇所は、精神症状の表現ですから意訳せず直訳に戻しておきました。

いろんな印象が、またときどきひどくこたえるようになりました。疑問が多すぎて… きちんとしたけじめが感じられるようになりたい… それを健康な人のように心で感じとって、すっきりしたいのです。それが大切なことなのに…。(絶望した様子で)ほかの人のことをどう判断したらよいか、ものごとをどうやって確かめて、どうやって片付けたらよいのかがわからないと、頭の中が混乱してしまいます。(邦訳80頁)

いろんな印象が、またときどきひどく痛くなります… 疑問が多すぎて… きちんとしたけじめが感じられるようになりたい… それを健康な人のように感情的に洞察して片付けたいのです。それが大切なことなのに。(絶望した様子で)ほかの人のことをどう判断したらよいか、ものごとをどうやって確かめて、どうやって片付けたらよいのかがわからないと、誰でもうろたえてしまうものです。(代案)

 次の箇所は、上の引用箇所の冒頭と似たような内容の繰り返しですが、邦訳では訳語が揃ってません。文脈によっては、「痛い」という訳語がちょっと奇妙な表現に感じられるでしょうが、アンネ自身の原語での表現もやや奇異であったらしいので、同じ表現で統一しておきます。ほか、「Begriff概念」という語がなぜか「ことば」と訳されているので直していきます。

《いまはもう、いろんな感じが痛く感じられるだけになってしまいました。はじめのころ、痛い感じが始まったのは、何もかもが疑問になったときでした。年をとるとはどういうことか、とかなんとか。そういったことばの意味を考えずにはいられなかったのです。それは苦痛なことでした。ことばのちゃんとした意味の感覚がなくなってしまったのです。いろんなものごとの感じがないのです。たとえば病気とか苦しみとか日常生活とか》。(それはけっして彼女を悲しい気持ちにさせるようなことばのことだけではなかった。《どんなことばでも、それが出てくるとみんなそう》なのだった)。《そういったことばの意味がわかる前に、まずはじめに痛い感じがするのです…》。(邦訳81頁)

《いまはもう、いろんな印象が痛くなだけになってしまいました。はじめのころ、痛くなるのが始まったときいつも疑問ばかり持っていました。年をとるとはどういうことか、とかなんとか。そういった概念を考えずにはいられなかったのです。それは痛くなりました概念の感情がなくなってしまったのです。私から欠けてしまっているのは、いろんなものごとの感情なのです。たとえば病気とか苦しみとか日常生活とかの感情》。(それはけっして彼女を落胆させるような概念のことだけではなかった。《どんな概念でも、それが出てくるとみんなそう》なのだった)。《そういった概念の意味がわかる前に、まずはじめに痛くなるのです…》。(代案)

 ここでは、自分に欠けているのは感情的なことだといっています。邦訳75頁でも語られていましたが、アンネが喪失したと述べる『自然な自明性』とは感情的なこと、「わかったという感情」のようなことのようです。

 次の段落の邦訳に何箇所か出てくる「痛さ・痛み」という表現は、前の段落までに出てきて「痛い」と訳してきた語「weh」とはちがう「Schmerzen」という語なので、「苦痛」と訳し変えるのがよいと思います。次の引用箇所はその段落の後半です。「auf...eingehen」を「応対する」としてみました。

この痛みがあるかぎり、本当に晴ればれした気持になってほかの人とつきあうことができないのです。-たとえば会社で、私は自分のことをとても変だと思いました。人の話がわからないっていうことが重荷なのです。ことばは聞こえます。ただ、人の話に心からはいっていくことができないのです。(邦訳81頁)

この苦痛があるかぎり、本当に晴ればれした気持になってほかの人に応対することができないのです。-たとえば会社で、ほかの人は私のことをとてもおかしいと思いました。聴き入ることができないっていうことが重荷なのです。ことばは聞こえます。ただ、人[の話]に心から応対することができないのです。(代案)

 次が今回の最後です。すでに何度も強調してきましたが、「わかる」という語は本書のキーワードであって、特定の原語と対応させて使うべきですが、以下の箇所はまたちがった原語に対応しています。

私が見たり、考えたり、聞いたりするものがいったい何なのかということがよくわかりません。ほんとによくわからないのです。(ひょっとするとほかのひとにもわかっていないのでしょう、ただほかの人はそんなこと疑問にも思わない)(邦訳81頁)

私が見たり、考えたり、聞いたりするものがいったい何なのかということが私まで届かないからです。ほんとに不十分なのです。(ひょっとするとほかのひとにも届いていないのでしょう、ただほかの人はそんなこと疑問にも思わない)(代案)

 病歴の章は残り2頁となりました。

自明性の喪失―分裂病の現象学 W.ブランケンブルク、木村 敏、岡本 進、 島 弘嗣  (1978/7/10)

Der Verlust der natuerlichen Selbstverstaendlichkeit Wolfgang Blankenburg  (2012/11)

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