精神病理学

2021年5月18日 (火)

テレンバッハ『メランコリー』(20)

 久しぶりに、テレンバッハの主著『メランコリー』に紹介された症例の検討の続きをしましょう。

 今回は「症例20」を扱う番ですが、じつはこの症例は、翻訳上の問題がほとんどないことと、病前性格についてはほとんど説明がないことから、どう扱ってよいかとしばらく迷っていました。単に要約するだけの紹介というのでは面白くありません。ここらへんは、症例19から妊娠・出産がメランコリーのきっかけとなるような症例がいくつか並んでいる文脈なのですが、ちょうど、症例19の前頁になぜか症例番号なしの別枠で紹介されている例が興味深いのでそちらを取り上げてみましょう。

 ドイツ語では、「Hoffnung希望」という語を用いた「in Hoffnung sein希望の中にある」という言い方で、婉曲に「妊娠している」という意味になるという事実が、まずは前提にあるようです。

 次に紹介する女性患者は、「心から結婚を望んでいたが、結婚後、彼女の女友達の婚礼の後で、はじめて生理期間中に憂鬱になった。この場合、月経がきたということは、「まだ[子供が]期待できない」ということと同義であった」「女性は月経期間中は例外なく「期待」のない状態にある」といった前置きの後で紹介されています。

女性患者フランツィスカ・Wは、いつも陽気で、ことのほか働き者で、良心的で自制心の強い女性であり、結婚前に性的関係を持ったことはなかった。彼女は子供をたくさんほしかったが、夫は反対だった。患者には、夫のこの無欲さがよくわからなかった。彼女は、自分が孤独で無視されていると感じ、そのために悲しい憂鬱な気持ちになった。このような状況で(1922)、義兄との間にごくときたま内密な関係を持つようになった。そのことは誰にも知られず、彼女はそれを《懺悔して済ませて》しまっていた。1927年のある日、姦通は重く罰せられるということを本で読んで、このことが9か月間、彼女の頭を離れなかった。彼女は徐々にメランコリーに陥って、明けても暮れても、《私は罪を犯した、夫に対する不義をはたらいた》といって自分を責めた。当時夕方夫が帰宅すると、彼女の気分は軽くなった。この時期に生理がとまった。彼女は妊娠の期待を抱いた。そして、短期間でメランコリーは消褪した。

 ここで、最後から二つ目の文、「彼女は妊娠の期待を抱いた」は、原文で「Sie kam in Hoffnung.」とありますが、「in Hoffnnung kommen」は端的に「妊娠する」という意味のようですから、翻訳は「彼女は妊娠した」とすべきと思います。そうであればこそ、ドイツ語の慣用用法と月経中の気分との関連についての前置きが生きてくるでしょう。

 生物学的には、月経前に抑うつ・不機嫌になって月経が始まると改善するということが多いと思いますが、この例のように月経開始とともに気分が落ち込む場合には、妊娠の期待との関連を考えてみても良いのかもしれません。

 それにしても、この女性は、「良心的で自制心の強い女性」とされながら、義兄と姦通してしまうというのがどうもアンバランスであって、ここらへんは、例によって、本書全体で主張されている病前性格論と、実際に紹介される個々の症例の行動特徴とがしばしば一致しないという難点の好例だといっても良いと思います。本書では、不倫関係があったと言及されるのはここまでで3人目です。医師に不倫歴を告白したのが20人中3人ということは、実際にはもっと居たのでしょう。これは当時の一般の不倫率と比べて多いのかどうかはわかりませんが、メランコリー患者群の病前のあり方は、並外れて良心的だとまではいえない、とは言ってよいのではないでしょうか。

メランコリー [改訂増補版]
H. テレンバッハ(著), 木村 敏 (翻訳)
出版社: みすず書房; 改訂増補版 (1985/12/5)

2021年4月29日 (木)

下田、中ら『初老期鬱憂病の研究』11

 久しぶりに思い出したので、戦前の我が国の下田・中らによるメランコリー論の症例紹介を続けましょう。

初老期鬱憂症 軽鬱状態型 動脈硬化その他の器質的疾患を伴うもの 

症例11 閉経期内分泌異常を伴うもの 富○敏○ 満54歳、女性、酒造業者の妻。

主訴 不眠、心気、憂鬱性思考

家族歴 父大酒家勝気の人、交際家ならず憤怒性あり、母早逝す、同胞8名中2名死亡、患者に性格的に甚だ類似の妹ありという外何等の負因なし。

既往歴 生来健、学業成績優良、245歳の時バセドー氏病に罹り甲状腺の腫脹を来す、1年計りの静養及子宮の掻爬により軽快せりという、近時全く月経を見ざりしが入院前月23日間継続する月経ありしという。性格。勝気、徹底的、責任感強し、信仰家、負け嫌い、我を通す、交際広し。

現病歴 推定原因、養子に対する不満。入院前年冬無暗に寒いといい湯保[たんぽ]を2-3個入れ眠り居たるため上衝[じょうしょう]を来し苦みしことあり、同10月頃某宗教会合に出席気分悪しとて直ちに医師を訪う、血圧190ありと言われ心痛し、その後上衝の為め眼瞼の腫脹及腫瘍を生じ、咽喉痛めることあり、甚だ心気的となり、小事に拘泥す、本年4月より不眠現わる、眠れる翌朝は落着き話も可能なるが不眠の場合は終日不平を漏し家人を当惑せしむ、有ゆる素人療法を試み、その度毎に最初は良く終り悪く遂に失望落胆す、幾度か逡巡せる後遂に8月東京に行きあらゆる大家を訪問くすりを飲むなと言わる、ここに於ても初め1ヶ月計りは元気なりしがその頃より手の脱力感、しびれ感、怔忡[せいちゅう]、咽喉の充塞感等を繰り返し訴うるに至り、子宮筋腫、血圧亢進、胃腸病等順次心痛の対象変遷す、常に朝悪く午後よし、10月下旬東京より帰り悪化、失望落胆し「余病が出たら寝て居られない(不安の為)から死んで仕舞う」等いう、睡眠時間は12時間のことあり6時間位のことあり、食思は良好なりしも最近1ヶ月不進、秘結に傾く。

現在症候 昭和7115日第1回入院

身体的徴候 体構闘士型、体格大、骨格強、筋肉弱、栄養不良、顔面蒼白、四肢に少しくチアノーゼあり、軽度の甲状腺腫を認む。瞳孔やや大その他に眼症候なし、舌やや白苔、凡ての反射機能正常、心音やや濁、血圧145-125、橈骨動脈硬化並蛇行。

精神的徴候 幻覚なく智的に大なる欠陥なし、意識は全く清明、考慮範囲は狭小、悲観的にして「余病が出れば死す」という、時に強度の苦悶性興奮状態を示し、極度の苦痛的表情の間に無表情の挿入あり、感情の表出突風的なれど演劇的誇張的ならず、強度の怔忡を訴え、自制力全くなく、多動不安多弁となることあり。

経過 直ちに持続睡眠療法を行う、スルフォナール全量25gに達せる頃より毎日20時間以上4日間眠る。その後漸次鎮静を来したれど1218日排尿障碍を来し発熱、再び睡眠障碍せらる、尿混濁して蛋白弱陽性なり、トリパフラピンにより下熱、恢復期少しく延びたれど漸次軽快を来し、翌120日入院後2ヶ月半にして全治退院。

再入院 同年818日。

退院後経過良好なりしが3月頃より膀胱炎に罹り、心痛し、腰痛ありしを以って子宮後屈なりとて灸、催眠術などを試み、再びあらゆる素人療法に親しみ前轍を踏む、すなわち3月頃より上衝、眩暈、耳鳴、嘔気、四肢の脱力感、主観的呼吸困難、腰痛、全身の冷感等あり、前同様の興奮を来したれど身体精神徴候共に前回よりは軽度なり。再び睡眠療法を行う、療法の経過中気分の転換性激しく一時ヒステリー性願望譫妄の如き状態に陥り夢の如き事実を真実と考えしことありしが一時的に経過、126日全治して退院せり。

 

本例の如きは初老期鬱憂症、閉経期神経症、ヒステリー症何れにも属するが如き病像を呈しその区別甚だ困難なり。その性格及び内因性らしき沈鬱は初老期鬱憂症に一致し上衝、眩暈、嘔気、耳鳴などの神経性徴候表在性にして、閉経、甲状腺の肥大等を伴う点は閉経期神経症に近似し、家庭的複合体の存在、被暗示性の亢進、徴候中に時に現わるる転換性、誇張的表情及びヒステリー性願望譫妄の状態を呈せる点等はヒステリー症に相当するが如し。

余等は本症例が甲状腺腫を有せる点、体構並びに性格はヒステリー性ならず、家系にもかかる患者なき点よりして閉経期内分泌障碍の為め甲状腺その他の異常を来しために過敏となりヒステリー性反応を呈するに至りたるものにして純粋のヒステリー症或はヒステリー性性格変化を来したるものにあらずと認めんとす。又本症者の性格が全く偏執性性格に一致し、種々の心気性は内因性沈鬱の二次的現象とも考えられ、常に睡眠療法の奏功する等の点よりして本症はその本体を初老期を鬱憂症に存し、症候の変形又は再発の容易なること等は合併症たる閉経期内分泌異常により説明し得べきものなりと思惟す、すなわち本症はヒステリー性徴候を伴う鬱憂症というよりは寧ろ閉経期内分泌障碍を伴う鬱憂症という方妥当なり。

 最後に「偏執性性格」とありますが、これは下田が後年「執着性格」と言い換えたもので、うつ病の病前性格とされます。これとテレンバッハの「メランコリー型」、笠原・木村が両者を参考にまとめて我が国の精神科医の間で最も有名になった「メランコリー親和型」(几帳面と他者配慮を強調し、かつ穏やかな弱力性の人柄を典型とした)との異同が時に議論になります。本症例は「徹底的、責任感強し、勝気、負け嫌い、我を通す、交際広し」など、テレンバッハや笠原の類型に比べて性格にかなりの強力性がうかがわれます。笠原らも「徹底的、責任感強し」に言及しましたが、それは持ち場を守り対人秩序を維持するための努力というニュアンスでした。

 この症例はたしかに「終日不平を漏し家人を当惑せしむ」「繰り返し訴うる」「『死んで仕舞う』等いう」などと、医師看護師からヒステリーを疑われやすそうなところがあります。著者が、体構と性格、家族負因からヒステリーを否定しているというのは、さすがに根拠が弱いと思います(体構、性格と疾患の組み合わせを仮に認めるとしても、例外なしとはいえませんし、家族内に一人だけ患者がでることもあるでしょう)が、ヒステリーは『満ち足りた無関心』という用語で呼ばれるように、身体症状の程度に比べて「治してくれ」という訴えは控えめで、歩けないと言いながら淡々と座っている、といった態度が典型です。この症例は性格傾向からしてもむしろ、躁病的な成分が症状に加わって症状を修飾して「多動不安多弁」などが現れてその一環として治療者通いも繰り返したんじゃないか、というのが、現代から後知恵でみた私の感想です。

2021年3月10日 (水)

ヤスパース『原論』の再読(第一章)2

 ヤスパースの『原論』を再読して気づいた翻訳問題をこのブログに載せながら読了したのはもうだいぶ昔ですが、最近『了解』という概念が気になって少し開いたら、また問題を見つけたので忘れないうちにここに挙げておきます。

現象学的な要素をみると、病的な精神生活には、われわれにわかりにくいにしても結局都合のよい情況ならはっきりわかるようなものと、本来われわれにはわからない、負のものとしてそうではないとしか言いかえられないようなものとがある。このように、本来われわれが心理的にわかるということによっては手がとどかない要素を静的了解不能、あるいは感情移入不能という。(みすず書房117頁。下線は引用者)

下線部が少々わかりにくく思います。ここは、nur negativ, durch das, was sie nicht sind, umschreiben koennenです。独和辞典でumschreibenをひくと、「遠回しに言う」という感じの意味のようです。それと、訳文中ひらがなの「わかる」の原語はanschaulichですが、これは「鮮明にありありと見えるようにわかる」ということなので、大辞泉で見つけた「現然」(=明らかに見えるさま)という言葉を使ってみます。以前はこの語を独和辞典でひいて見つけた「観照」という訳語が良いかと思ったのですが、国語辞典でこの語をひくと、目に見えるようにという意味はないようなのです。

現象学的な要素をみると、病的な精神生活には、われわれに現然しがたいにしても結局都合のよい情況ならはっきり現然するようなものと、本来われわれには現然しない、負のものとして、それではないものによって、遠回しにしか描かれないようなものとがある。このように、本来われわれの心理的現然ということによっては手がとどかない要素を静的了解不能、あるいは感情移入不能という。(代案)

 ついでにもう一か所、以前の記事(ヤスパースの妄想定義ですが: フロイトの不思議のメモ帳 (cocolog-nifty.com) )でも扱ったところを挙げましょう。

・・・今度は誤られた判断、妄想に移ろう。妄想とはごく漠然と、誤った判断を皆そういうのであって、互いにはっきり区別がつくとは限らないがかなりの程度に次の三つの外面的な特徴を持つ。一 非常な信、何ものにも比べられない主観的な確信。二 経験上こうである筈だとか、こうだからこうなるという正しい論理に従わせることができない。三 内容がありえないこと。(みすず書房版64頁、下線は引用者)

 前回は、下線部の主語が「Man」だということに注目しました。つまり、ここでヤスパースが言っているのは、妄想について世間では普通こう言われている、世間が言う妄想にはだいたいこういう特徴がある、ということに過ぎず、ヤスパース本人の主張ではない、ということです。前回はこの発見で満足してしまい、主語以外のところに目がいきませんでした。今回読み直して気づいたのは、ヤスパースはこれら三つの特徴が相互に区別が難しいといっているのではなく、それら三つの特徴はどれも程度に幅があってあいまいで、どの程度を越えたら妄想レベルなのかという線引きははっきりしない、といっているのだということです。

・・・今度は誤られた判断、妄想観念に移ろう。妄想観念とは世の人がごく漠然と、誤った判断を皆そう名指すのであって、それらは、かなりの -下限を明確化できないが- 程度に、次の三つの外面的な特徴を持つ。一 非常な信、何ものにも比べられない主観的な確信。二 経験上こうである筈だとか、こうだからこうなるという正しい論理に従わせることができない。三 内容がありえないこと。(代案。下線は変更点)

 原書die folgende aeussere Merkmale in einem gewissen hohen -nicht scharf begrenzten- Masse habenという表現のダッシュ句の位置からして代案のようにしか取れないと思います。みすず訳の通りだとしたら、aeussereの前か後ろにダッシュ句が入るはずです。なお、「Man」については、邦訳書の別の箇所に「世の人」という訳語があったので、今回はそれを使いました。それと、前回に続き「Wahnideen妄想観念」という語は字義通り訳しました。ヤスパース自身は、もっと後ろで、妄想観念ではなく妄想体験を重視して論を展開していきます。

精神病理学原論 
カール ヤスパース (著), Karl Jaspers (原著), 西丸 四方 (翻訳)
みすず書房; 限定復刻版 (1971/01)

Allgemeine Psychopathologie Ein Leitfaden Fur Studierende, Arzte Und Psychologen (1913) Karl Jaspers (ペーパーバック - 2009/11)

2021年1月 5日 (火)

シュナイダー『臨床精神病理学序説』2

 ふたつ前の記事で書いたように、この訳書の「妄想」の項がいかに原書から大きくかけ離れているか、ちょっと紹介してみましょう。原文にない箇所はとりあえず青文字にしておきますが、ほとんどが同じシュナイダーの主著(『新版 臨床精神病理学』針間博彦訳、文光堂)から勝手に借用、挿入された箇所です。

 妄想の発生はすべて感情や欲動や、ある種の人格を有する者の内外の体験から、了解し得るものであるとする学者が多い。しかしわれわれはヤスパースやグルーレに従い、真正妄想はかかる了解の出来る妄想様思想から区別さるべきであると信ずる。真正妄想は一次的なものであって、他の体験から導くことのできないものである。

 妄想には妄想知覚と妄想着想の二つの形がある。

 妄想知覚。これは元来正常な知覚に特別の意味が加わり、特に当人に深い関係が付けられる形の妄想である。たとえば道に足袋が落ちているのを見ると、これは自分がつけ狙われるのであると意味付け、街で二人の人が話をしていると、直ちに自分のことを話しているのだと考え、巡査がいると自分が捜索されているという意味にとる。このように、いわれもないのに関係を付けることが本質的なものである。これに反しいわれのある関係付け、たとえば不安とか邪推とかの一定の気分を基にするものは、一次的妄想とは異なるものである、逮捕されるという不安のある者は、階段を昇って来る人を皆警官ではないかと思う。かかる妄想様反応は畢竟我々に了解出来るものであって、妄想知覚とは異なるものである。ここに精神分裂病と異常反応との絶対的の区別がある。ゆえに妄想知覚は精神分裂病の診断に甚だ大切である。しかし実際には必ずしも上の例のごとく直ぐそうと判別がつくとは限らない(以上、主著の邦訳93頁を借用か)。

 人物誤認は妄想知覚のことがある。人物誤認という言葉は種々のものを含み、領識や記憶の障碍のこともあり、錯覚のこともある。失見当識もこれと同様の関係にあり、妄想によることもある。たとえば患者は他の人々がここをどこであるというかを知ってはいるが、更にそれ以上知るところがあるのである。すなわち人々はここを病院だというが、自分は牢屋だと知っているというごときである(以上、主著の邦訳93~94頁を借用か)。

 妄想着想。これは、自分には特別の使命があるとか、追跡迫害されているなどの考えが突然思い付かれたり、あるいは回想されたりすることである。妄想知覚はその構造からはっきりと妄想であることがわかるが、妄想着想は普通の着想や、妄想様思考との区別がない(以上、邦訳94頁と99~100頁を抜粋・借用か)。着想の内容の誤りを訂正しようとしないことや着想の内容の真実性のないことあるいは実際にはあり得ないことなどによって、妄想着想だと定めることはできない。普通の着想は可能性があるから妄想と区別できると思われるかもしれないが、妄想着想も可能性のあることがある。たとえば隣の娘が自分を恋しているという妄想着想は、それだけでは妄想かどうかわからず、また本当に伯爵の落としだねである者が、自分は伯爵の落としだねであるといったために、妄想患者と誤られることもある。われわれに訝しく、奇異と思われる着想を皆妄想であるとしてはならない。できるだけ事実を確かめなければならない。そうして全臨床状態を参酌して初めて妄想と断定できるのである。著しい場合にはもちろん直ちに妄想であることはわかるが、とにかく妄想知覚程決定的なものではない。(以上、主著の邦訳94頁を借用か)

 妄想知覚は精神分裂病にのみ現れる。精神分裂病であって、妄想が著しく、しかも人格の変化があまりなく、支離滅裂思考や感情障碍のないものはパラフレニーとも呼ばれる。妄想知覚の傾向は、癲癇性朦朧状態や急性外因性精神病等にも見られることがある。

 感情状態から了解されるものは妄想様思想と呼ばれる。たとえば鬱病の際の罪過思想や貧困思想がこれで、抑鬱気分が元に復すれば、これらの思想も消える。躁病や誇大型の進行麻痺における、自分は大金持である、何でも出来るなどの誇大妄想も、同様に理解できる。ただし進行麻痺では判断力の減退も、かかる思想の成立に関係がある。

 感情に基づく誤解や曲解は、精神病質者にも正常者にも見られる。身体的及び社会的低格感を有する者は、どこへ行っても自分は変な目で見られるとか、待遇が悪いとか考える。良心に咎のある者は、他人の態度から、人は自分の罪過を知っているので自分をじろじろ見たり、軽蔑したりするのだと思う。かような「妄想」は随分発展することがあるが、完全に了解できるものであって、われわれのいう意味での真正の妄想ではない。かくのごとき状態は妄想性反応と呼ばれる。

 妄想様思想は必ずしも感情の強い体験に関係があると限らず、他の一次性の体験に関係があることもある。酒精幻覚症、熱譫妄、癲癇性朦朧状態から覚めた者が、幻覚的に体験ことを、その後暫くの間本当であると思うことがある。(邦訳108~111頁)

 こうしてみると、じつはもとの文に「妄想着想」という言葉が一度も出てきません。「妄想着想」という言葉を使わずに説明しているという点にこそ、のちの主著とは異なる、本書独自の面白いところがあるのではないでしょうか。

 では、「妄想着想」という言葉を用いない本書原文での論じ方はどのようなものなのか、下に示してみましょう。上では青字にした挿入部分は省き、修正箇所は赤字を使ってみます。訳語の古さは訂正しません。順番の入れ替えや訳し落としも多いことに驚かされます。

 妄想の発生すべて感情や欲動や、人格と内外の体験から、了解し導こうとする学者が多い。しかしわれわれはヤスパースやグルーレに従い、真正妄想はかかる了解の出来る妄想様の体制 -われわれは今後もこれらを扱っていくが- から区別さるべきであると信ずる。真正妄想は一次的なものであって、他の体験から導くことのできないものである。これはとりわけ妄想知覚であきらかであり、ほとんどの妄想はもともと妄想知覚の形を取る。これは元来正常な知覚に特別の意味が加わり、特に当人に意味深い関係が付けられる形の妄想である。そのような患者は、たとえば庭に鳥の死骸が横たわっていると自分もまもなく殺されるはずだと意味付け、街で二人の人が話をしていると、直ちに自分のことを話しているのだと考え、本日はたくさん巡査がいると気づくと自分が捜索されているという意味にとる。このように、いわれもないのに関係を付けること、意味に満ちていることが本質的なものである(グルーレ)妄想知覚と並んで、患者にとって特に重大とされる、着想や想起という形の真正妄想がある。妄想にはしばしば二次的に判断の上塗りが生じ、さらには、秩序だったパラフレニー者とか精神病性「パラノイア者」のように、さらなる体系化に至り得る。

 感情状態から了解され導けるものは妄想様思考と呼ばれ悲哀や高揚といった多くの気分変調で起こる。たとえば循環鬱病の際の罪過思想や貧困思想がこれで、気分が元に復すれば、これらの思考も消える。ここで迫害妄想や、身体的枯渇の妄想や宗教的懲罰妄想を、ある程度までは抑鬱気分から了解できる。躁病や誇大型の進行麻痺における、自分は大金持である、何でも出来るなどの誇大妄想も、高まった気分から同様に了解できる。ただし進行麻痺では判断力の減退も関係がある。

 感情に基づく誤解や曲解による判断は、精神病質者にも正常者にも見られる。身体的及び社会的低格感を有する者は、どこへ行っても自分は変な目で見られるとか、待遇が悪いとか考える。良心に咎のある者は、他人の態度から、人は自分の罪過を知っているので自分をじろじろ見たり、軽蔑したりするのだと思わざるをえない根拠があるにせよ無いにせよ不全感を持つ人間は、広範な「妄想」を発展させることがあるが、完全に了解できるものであって、われわれのいう意味での妄想ではない。かくのごとき状態は反応性または精神病質性のパラノイアと呼んでもよいが、パラノイアという表現は歴史的な手あかのせいで避けることが好まれ、ここではむしろパラノイド反応と言うほうが良い。こうしたあらゆる場合において、事態は多少とも精神病質的な人格からの了解可能な妄想様思想なのか、あるいは詳しく物語られた真正妄想なのか ―とりわけ妄想知覚の形を取るものなのか― というのは、根本的な臨床問題となる。真正妄想は実際上精神分裂病プロセスにのみ現れる。言い換えればわれわれはそれがあるとき精神分裂病という妄想型の精神分裂病であって、人格が長期にわたり保たれ、支離滅裂思考や感情障碍のないものはパラノイド型分裂病またはパラフレニーとも呼ばれる。妄想知覚の兆候は、特に癲癇性朦朧状態やおそらく多くの急性外因性精神病さらに大酒家の精神病等にも見られることがある。

 妄想様の思路は必ずしも感情の強い体験に引き続くと限らず、他の一次性の体験に引き続くこともある。酒精幻覚症、熱譫妄、癲癇性朦朧状態から覚めた者が、幻覚的に体験したことを、その後暫くの間本当であると思うことがある。その現れはきわめて鮮明であって、実際に誰かが、ひょっとすると死者が、自分の枕元に立っていた、と言ってきかないほどである。(試訳)

という具合に、やはり原書に「妄想着想」という言葉は使われていないようです。

 シュナイダーには『妄想問題のむずかしさ』という1938年の論文の邦訳があり(なぜかマトウセック著『妄想知覚論とその周辺』金剛出版1983年や、我が国の学者たちの共著『妄想の臨床』新興医学出版社2013年にひっそりと所収)、そこでは、ヤスパースのいう妄想表象と妄想意識性とを「われわれは妄想着想の概念でまとめることにする」と明言するとともに、妄想知覚は知覚と意味づけという「二節性」が特徴の現象であり、いっぽうで知覚と関係なく一気に思いつく妄想着想は「一節性」の現象であるという名高い区別を導入しています。

 シュナイダーが1931年に書いた『病態心理学序説』という論の時点では、妄想表象と妄想意識性という言葉をヤスパースに従ってそのまま用いているので、おそらくシュナイダーは1930年代中期以降に、これらの概念よりも「妄想着想」と呼んで「一節性」「二節性」の区別と対応させるという自説を固めていったのだと思われ、今回扱った『序説』(1936年)はその過渡期にあって、妄想着想という言葉も一節性二節性という区別も未導入であった、ということだと思います。

 この『臨床精神病理学序説』の邦訳についていえば、後記に拠ればこの本は原著2版(1936年)をもとに1943年に南山堂から出版されたが、戦火で版が消失してしまい、1977年に改めてみすず書房から出版したとのことで、訳者は「回生版」と呼んでいます。シュナイダーの主著『臨床精神病理学』は原著初版が1950年、最初の邦訳は1955年ですから、普通に考えれば、『臨床精神病理学序説』邦訳初版(1943年)にはそこからの引用・挿入があったはずはなく、回生版の際に挿入されたのでしょう。

 この回生版の妄想論は結局、①訳者による挿入箇所には、妄想着想という語が混じり込んでいるが、一節性二節性の区別だけは混じり込まないように注意深く選ばれている、②訳者により省略された部分は診断に関わる箇所が多く、結果的にパラノイアという語が訳書にいちども登場しなくなった、③挿入と省略があるせいで、最終的なボリュームがほぼ元どおりになった、といった点をみると、かなり意図的な操作が行なわれているようにもみえます。邦訳の巻末索引にも「妄想着想Wahneinfall」と原語つきで挙げているのも、確信犯といったところでしょうか。

臨床精神病理学序説 新装版
クルト・シュナイダー (著), 西丸 四方 (翻訳)
出版社 : みすず書房; 新装版 (2014/7/5)

新版 臨床精神病理学 
クルト・シュナイダー、ゲルト・フーバー、ギセラ・グロス、 針間 博彦 (単行本 - 2007/9)
出版社: 文光堂 (2007/09)

続きを読む "シュナイダー『臨床精神病理学序説』2" »

2020年12月30日 (水)

シュナイダー『臨床精神病理学序説』

 古い小さな本ですが、なんと原書第二版(1936年)が手に入ったので、さいきん邦訳と比べながら拾い読みしています。

 邦訳も同じ第二版を底本にしているようですが、かなり自由に訳出されていて、段落の順番を変えたり省略したりが連続するので見比べづらいんですが、それだけなく、どうもシュナイダーのほかの著作(後年の主著『臨床精神病理学』)から一部をもってきて勝手に挿入していると思われる箇所が多いのが気になります。

 たとえば、妄想という項はこの訳書では45行からなるのですが、うち20行以上(半分弱)が、主著からの借用です。逆に、省かれている部分もたくさんあるので、かさ増しに使っているわけでもなさそうです。

 勝手に挿入された箇所が、忠実な引用であればまだしも、要約したり改変したりしているのが腹立たしいところです。なかでも、幻覚について挿入された次の箇所は大問題です。

精神分裂病の診断に重要なのは思考化声であって、患者は自分の考えることが聞こえるという。また自分の考えと言い合いをする声が聞こえることもあり、自分の行為が声で注意を受けることもあるが、何れも精神分裂病に特有な症状である。(102頁)

 この段落はまるごと原書にはありませんが、同じ本の中によく似た箇所がある(訳書なら160頁)のでそこから取ってきたのかもしれません。ところが、そちらの箇所でも別著でもシュナイダーは決して「自分[=患者自身]の考えと言い合いをする声」が統合失調症に特有だなどとは言っていないのです。シュナイダーは、「複数の声同士が話し合い、議論する」形の幻聴を統合失調症特有のものだと一貫して主張しています。訳書160頁のほうでは正しく「言い合いの形式の声」となっているので、なおのこと、訳書がどうして102頁だけ間違ったのか謎すぎます。

 邦訳102頁が示している「自分の考えと言い合いをする声」は、統合失調症では非常に多く発生する症状だということもあって、わが国の精神科医の一部は、シュナイダーはこちらのことを言っているのではないかと誤読したり(ひょっとしてこの古い本の翻訳が、こういう間違いを育んできたのかもしれませんが、シュナイダーの原書を読むと、患者の考えと幻聴との間の対話を指しているようには決して読めません)、「シュナイダーが複数の声の言い合いのことを述べているのが確かだとしたらシュナイダー説に訂正を加えるべきだ」と主張したりしているのですが、シュナイダーは統合失調症に高頻度にみられる症状を挙げたのではなく、診断の決め手となる特異的な症状を挙げたのですから、そうした我が国の説はどちらも間違いです。

 しかも、シュナイダーに従えば、対話性幻聴と呼ばれる現象では、声と声とが相手に答えたり反論したりの話し合いをしていなければならないようであるので、複数の声であってもめいめい勝手に話しているようだと該当しないともいえ、非常に狭い範囲の症状を指しています。ミルクボーイの漫才が幻聴で聞こえたら見事に該当しますが、今年のM1の漫才の多くは該当しないかもしれません。

 ほかにも、この邦訳書では、性行動の異常に関する部分がごっそりと省略されています。同じ訳者は、ヤスパースの『精神病理学原論』の訳では遺伝に関する箇所をごっそりと省略していました。どちらも訳者にとって興味がなかったのだろうと推察されます。

臨床精神病理学序説 新装版 
クルト・シュナイダー (著), 西丸 四方 (翻訳)
出版社 : みすず書房; 新装版 (2014/7/5)

続きを読む "シュナイダー『臨床精神病理学序説』" »

2020年4月 8日 (水)

フランスの記事から、コロナウイルスの襲来と精神科の人権配慮など


 たまたま見つけたフランスのブログ記事を訳してみました。コロナウイルスによって普段の精神科臨床ができなくなることを、反精神医学の襲来になぞらえているのが面白いし考えさせられるところが多いと思います。看護師さん目線なのでしょうか、フランスの精神病院の普段の病棟運営の様子もうかがえますし新自由主義嫌いなところも共感できます。
https://blogs.mediapart.fr/mathieu-bellahsen/blog/290320/psychiatrie-confinee-et-nouvelle-anti-psychiatrie-covidienne
 この筆者が嘆いている、covidのせいで患者さんとの握手がなくなり、職員と患者の食事の場の共有もなくなったという現状も、筆者がおそれている、精神科患者が心肺蘇生してもらえないというディストピア的状況も、日本ではコロナウイルス前からすでに普段通りの状況なんですが、筆者がそれを知ったらどう思うでしょう。
Psychiatrie confinée et nouvelle anti-psychiatrie covidienne
“封鎖された精神医学”と、covid由来の新たな反精神医学
ATHIEU BELLAHSEN
2020年3月29日
 ほぼ15日前から、精神医学チーム、患者とその家族は、住民の封鎖によって課された新しい状況に適応しなければならなかった。ウイルスの伝染の可能性から、ケアの場に厳格なルールが課され、それは通常精神的なケアを可能にすることに逆行している。
 2週間来、新型の反精神医学が、“封鎖された精神医学”のルールを命じている。このcovid由来の反精神医学は、精神科的ケアや心理的ケアを提供することさえ困難にしている。しかし、何が起こっているのか現場で読み取り、何らかの自主的活動を共有することこそ、この封鎖が新たな分断を招かないために必要である。
反精神医学の進展
 我々が他の場所で詳述したように、反精神医学の概念は社会の基調にあわせて変動する。
 60年代において、最初の反精神医学は、19世紀に構築されて20世紀初頭に発展した規律訓練的な病院精神医学への、ラディカルな批判をもたらした。この政治的批判は、社会の全面的解放の実践と関連したものである。これは、まだ精神医学から神経学を区別していなかった最初の神経精神医学の医療モデルに、疑問を投げかけた。
 1980年代には、この反精神医学の言説は、患者の均質的なグループを管理する新たな実践や、負担コストの合理化(したがって削減)に結びついた。この管理的な反精神医学は、以前の一連の議論から重要な言説を取り上げてはいるが、それはもはや最も重要なケア実践などではなく、むしろ上手な管理の実践であり、したがって、疎外の克服という口実でコストを削減することであった。
 2000年代以降、メンタルヘルスは、精神医学の分野を再編成する概念として幅をきかせている。アンチスティグマのさまざまな実践は、精神医学を解放することを、古典的な医学モデルと類似のものとみることになってしまった。精神疾患は「他の病気と同じような病気」になるべきである。その後、包含inclusionの概念が到来し、肯定的な用語として紹介されることで、排除exclusionのスティグマをひっくり返し、アンチスティグマ[という概念]に取って代わるだろう。包含というのは罠概念であり、新自由主義社会において「内からの排除」に力を貸すものである。
 2014年に、自閉症の分野を出発点として、ロリアン・ベラセンが、医療モデルに基づいた、より正確には脳に基づいた、新たな反精神医学を暴き出した。当時社会分野で流行中の「神経」科学を介して、「psy」は「neuro」に道を譲り、消去される。「神経発達」による障害という仮定が、政治的覇権に基づいたある種の実践を正当化する。この覇権を我々は、ピエール・ダルドー、クリスチャン・ラヴァル、フェラ・タイラン、ジャン・フランソワ・ビソネットと共に、神経政治neuropolitiqueと呼ぶことにしようと考えている。
 この仕事を続けるなかで、ピエール・ダルドーは現代の反精神医学を、「総合的かつ排他的な医学、排除主義的な医学」と特徴づけている。「しかもこれは、単なる振り子の揺り戻しだとか、精神科医たちの「反精神医学」の後に利用者たちの「反-反精神医学」が続いているといったことではない。この新たな反精神医学で我々は、科学的客観性への真の狂信に由来する、文字通り真の「精神科嫌悪psychophobie」に関わっている」。
 2020年3月上旬に出版された「精神医学の反乱」で我々は、ラシェル・クネーベルとロリアン・ベラセンと共にこの仕事をもう一度取り上げ、新たな反精神医学2.0は次に挙げるものの寄せ集めだという仮説を立てている。
- 以前からある、新自由主義社会に対応する管理的な反精神医学、
- 診断と選別の医療モデルを出発点に(つまり[かつての反精神医学のように]それらに対抗せず)、精神医学から解放される、精神科嫌悪的な反精神医学、
- 脳科学、大量データ(big data)、デジタル技術に由来する新たな神経精神医学。
 しかし、新たな反精神医学のこれらの諸層の内部にも、さまざまな程度にラディカルな実践と闘争が出現する可能性がある。神経多様性のなかにある多くの流れをみてもわかるだろう:神経多様性は、時には社会の制度全体に疑問を投げかけるために役立つこともあるが(CLE autisme)、時には「補償」を甘受して、大勢を占める社会規範に迎合してしまう。

“封鎖された精神医学”
 同じ時にも緊縮財政と保健システム破壊の政策は続いている。闘争は、ケアのすべての部門で広がっている:精神医学、EHPAD[=宿泊型老人福祉施設]、救急部、そして公立病院全体。
 3月の第2週、公権力はCOVID 19パンデミックに直面していくつかの措置をとり始めている。すでに公共政策によって仕組まれてきた不足状態が、緊縮運営によって強化されており、それを背景に、政治指導者たちの好戦的ないくつもの演説が、その場しのぎの約束と一体となっている。誤った犯罪的な政策によって何年ものあいだ破壊されてきたケアシステムにウイルスが拡散するという致命的なリスクに備えて、数日後、精神医学は封鎖される。
 “封鎖された精神医学”の日々の実践では、COVID手順のせいで、精神医学と反精神医学の埋もれた諸層が再活性化されてくる。なにしろ通常行われていることの反対を行うことになるからだ。コロナウイルス由来の一連の逆転は、緊急の状況のなかで行われている。それらの逆転は必要なことではあるが、現在とその後に向けて問いを提起している。
 かくして私は、私が実施している一般精神医学の部門で日常的に何が起こっているかを、当然ながら主観的なやり方で、報告したいと思う。

1 軽視から最初の措置へ
 封鎖の前の数週間、チームの大半も我々も、我々の病院から数キロ離れた、オアーズ近郊の部門で起こっている事態をまだ軽視している。15日前からひとりの妄想患者が、我々から感染させられたくないという理由でマスクを着用している。我々はそれを彼の妄想的な不安と関連づける・・・我々が間違っている。彼はただ我々に先んじているだけだ。
 その後、一部の同僚は、学校の休暇が終わっても戻ってこない。オアーズへ通学している彼らの子供たちは、この最初の封鎖から学校に戻らない。イタリアとオアーズからの劇的な証言が徐々に拡散し、[それまでの我々の]否認が明らかにされていく。共和国大統領が3月12日(木)に演説し、彼の同僚がそれに続く。
 3月16日(月)午前9時から、我々は初めての屋外チームミーティングを、防護的な[=接触を避けた?]仕草でもって行なっている。我々は部門全体、つまり外来ユニット(デイホスピタル、短時間治療受付センター、医療心理センター)と入院ユニットを再編成する。
 アニエールでは、必要な身体的チェック、予約なしの電話面接、定期的な家庭訪問と自主的活動を重視することに決め、不安や発作や入院リスクを未然に防ごうとする。生命線は、どんな形であってもつながりの連続性を維持することにある。毎朝、1時間、我々は前日に行われた全てのことを見直し、全ユニットの患者のために行うべき全てのことを確認する。オンライングループを含むケア集団(患者とケア提供者)の提案により、自主的活動が現れてきた。夕方と週末の定時電話連絡、EHPAD[=宿泊型介護老人施設]の同僚たちへの支援、避難所に封鎖された路上生活者への支援。入院ユニットと外来ユニットのケア提供者の間の1日数回の電話連絡ははるかに激しく、かつ気さくに行われている。身体的、精神的な生死に関わる課題がある以上、誰もその仕事を厭わない。
 入院ユニット側では、[普段なら]「ケア提供者-利用者」ミーティングの実践が集団生活のまとめ役となり、環境について話題にし対処するものだが、我々は、私たちの習慣とは根本的に異なる措置を講じることを患者に知らせる。1週間で、過去数年間のすべての成果が再検討され、covid由来の反精神医学のルールを尊重するために中止される:サービス部門の入り口のドアを閉鎖し(ユニットの入り口のドアは7年以上開放されていた)、集団の時間を中止し、施設内の治療活動を中止、施設の専門家と患者、看護学生の共通のカフェテリアを中止にする。つながりを作りケアの場の疎外感に対処することに貢献しているものの全てが中断される。我々は、ユニットの全面的な封鎖によって不可能になる前に、最小限の往来を保つために公園への同伴外出を編成する。
 多くの人と同様に、我々はウイルスの飛沫をすり抜けるだろうと思っている。そして最初のケースが我々のユニットに到着する。そして、その後まもなくさらに3症例が。入り口のドアを閉鎖するだけでなく、一人一人が自室に封鎖されていなくてはならない。病的なひきこもりの人々は、問題なくそれに順応できる(我々はいずれその精神的帰結に苦しむだろうと断言しておこう)。他の人々は、不安に圧倒されて、通常それには目をつむり、ケア提供者に気を配って、我々の調子はどうかと尋ねてくる。
 外出許可は中止され、近親者の訪問は延期される。精神科病院はひきこもる。幸いなことに、1901年の協会法はまだ私たちの施設に存在している。もはや誰も金銭を引き出し食料を購入するために施設を離れることができなくなると、治療クラブが毎日の購入の役を引き継ぐ。封鎖された連帯が組織される。Wi-Fiは無料アクセスになり、エヴァン法違反が公式化される:患者はケア提供者と同伴で室内で喫煙できる。ある患者はこうも言った、「この封鎖はいいね、ホテルのようだよ。私たちの部屋に朝食を運んでくるし、昼夕もそうさ。看護者はとてもいいし、部屋で喫煙もできる・・・同伴するだね!」。
 そしてある種の態度を取ることが、こうした選択に際して、我々の支えとなるだろう。自由剥奪のさまざまな場[=矯正施設など?]の総監察官の態度と同じことだ。この一連の出来事で、我々が持っているのは非常に少ない資材と多くの未知のことがら、少しの知識と多くの不安なのだ。

2 COVID到着:着替えたまえ!
 病院では、衣類の形や色に応じて、その人の身分上の地位の見当を付けることができる。精神医学では、規律訓練的な精神科権力への異議申し立てが、服装革命によっても行われてきた。ケア提供者の仕事着であろうと患者のパジャマであろうと、「上着が落ちる」のに何年もかかったことだろう。挫かれぼろぼろになった生身の人間たちとの遭遇に備えることを目的に、自己と他者との間に精神的によりうまく障壁を置くために、物理的に身につけることができる物質的障壁。これを脱ぎ捨てるために何年も。精神的感染への意識的または無意識的な恐怖。
 古き精神医学権力のこれらの形態(COVIDを待たずして、すでに少しずつ多くの場所に再来していた)が、我々がつい先ほど非難したもの全てを引き連れて再浮上する:人間的接触の拒否。これは握手、笑顔、感情表現の動作、食事どきの日常生活の共有、活動、非公式の時間、などの拒否として、いくつもの実践のなかに反映される。
 コロナウイルスは、白衣を、そして予防帽、マスク、予防衣を、復活させる。そして我々はそれらの数が不十分だと不平を言い始める。数日前には想像もつかない。
 社会的距離を取るという措置は、通常、患者との対峙を妨げるためにケア提供者が取る防衛的措置であるが、今や絶対に必要なこととなった。我々は、手持ちのわずかな資材でそれを綿密に尊重している。ほんの数ヶ月前、精神医学の春の総会で、フランス南部のチームは、彼らの同僚の数名が、衛生上の理由という彼らの軽蔑を隠すマスクでもって、患者との握手を拒否した経緯を報告した。そしていま、我々はアルコールジェルを求めている。数週間前には想像もつかない。
 我々は治療食の際に患者と同じ食器類で食べ、病院食があまり美味そうではなくても同じ大皿で同じ食事を共有している。今やコロナウイルス由来の逆転が、健康を維持するために真逆の措置を命じている。数ヶ月前には想像もつかない。
 しかもコロナウイルスの場合は、感染への恐怖もまた事態を一変させる。通常、ケア提供者たちは、精神疾患、狂気、重度の心的代償不全が[自らに]精神的に感染することを恐れることがある。彼らがこうしたことに接して働くことを選択したならば、それには一般にそれなりの理由があり、その一部の人々は障壁のこちら側にいることで自身を安心させる必要があるのかもしれない。ケア提供者たちは、彼らの生活歴と彼ら自身の防衛機制に応じて、こうした激しい不安にとらわれた人と対峙することを恐れるのかもしれない。そうした不安はケア提供者の心的装置に反映するので、チームと制度の心的装置に跳ね返ってくる。そしてこれが動揺をもたらし、さらにはそうした動揺からこそ、[ケアの]本当の仕事が生まれていくだろう。
 しかしこうしたことがあるのも、まだ心的装置があり、機械が精神科ケアを掌握しておらず、精神科嫌悪が科学技術礼賛と結びついてしまっていないからである。それはまた、機械装置だけでなく心的なものがあるからである。すなわち、考えるべき意味があり、了解すべき意味、すべての人にとって刻まれるべき意味があるからである。機械が感染を恐れることなどあるだろうか?

3 感染への恐怖が事態を一変するとき
 コロナウイルス由来のこの新規の逆転では、いまやケア提供者たちが、患者に感染させることを恐れている。患者の一部は体力低下し虚弱なのだ。感染はこの場合、身体的な、ウイルスの感染である。しかし、この感染は精神医学制度における精神的な仕事の基盤の一つを、身体面から、明るみに出す。すなわちケア提供者たちと施設が、彼らのグループ病理を患者に感染させることがありうるということだ。これはジャン・ウリが病理形成術pathoplastieと呼んだものである:ケア施設が、それ自身の病理を分泌する。
 精神医学において、「患者をケアするためにはケア提供者をケアしなければならない[=患者を看護するためには看護者を看護しなければならない]」という格言は、制度的精神療法の戒めの一つである。多くのケア提供者が、防護と検査の不足のせいでウイルスを広めてしまったこの時代には、耳の痛いフレーズである。
 そして、精神科ケアのサービス部門が本当に治療的であるためには、そして真に病人をケアするためには、精神医学で以下に挙げるいくつもの特殊なマスクを着けている院内病理に対処しなくてはならない:権力、疎外的階級制、主体性剥奪のプロセス、隔離、そして病人と同じ人間性を共有していることの否認といったマスクである。
 感染不安のこの逆転が、現時点で常にケア提供者を悩ませている。精神医学で、EHPAD[=宿泊型老人福祉施設]で、病院で。我々が知る限り、最も脆弱な人びと、併発症を持つ人々が、COVIDの重症型によってより強い影響を受けるのだ。
 精神科患者に対する我々の感染不安は二重である:個人的不安と社会的不安。個人的にというのは、多くの人が身体的に不健康だからである。精神的なカタストロフは身体との関係でも体験されるため、それを精神医学的ケアの日常において配慮することが重要なのである。
 次に[=社会的には]、アビー・ワールブルクが「生き残った形態」と呼ぶものが再浮上する怖れがある。我々の集団的歴史に刻まれ、しばしば我々の公的な歴史から削除されるこれらの形態:我々の社会の、多かれ少なかれ意識的な優生思想的衝動による、精神科の病人の新たな大殺戮への恐怖。
 精神病の人や妄想的な人、自殺志向をもつ人の生が、もっと価値が高いとみなされる生と競合関係に置かれる恐怖。何十年も前にヨーロッパですでに起こったことへの恐怖。同じく「成功した人生」なるものや「メンタル不調のコスト」についての現代の言説が産み出すかもしれないものへの恐怖。このコストとは、競争の激しい労働界への社会復帰という、功利主義的なリハビリテーションの究極目標を、達成できない者たちのコストのことである。アンチスティグマという罠が、スティグマを剥がされた者たちを荒々しく挟み付けるのではないかという不安:“精神疾患は、メンタルヘルスを至上とする精神医学教科書のなかでは他の病気と同じような慢性疾患なのではないか?ところで慢性疾患というなら併発症の同義語となってしまう・・・そして併発症は心肺蘇生[人工呼吸]から除外される一因となり得る”。これが根拠のない怖れの段階にとどまりつづけることを願おう。

4 来たるべきカタストロフに備える
 来たるべき波に立ち向かうために、病院では、我々の部門のユニットを、病理の程度、つまり身体的な病理(COVID疑い、COVID確定・・・)の程度によるユニットでもって再編成する。選別が再来する。そこから想像されるものも?
 具体的には、医療設備もなく隔絶された我々の田舎精神病院に、最初のCOVIDユニットが緊急に設置された。そして、そこへ収容されてきた人々の死を看取るという脳裏に浮かぶイメージが、我々の互いの目から目へと、資材の不足のため、十分に高度な非精神科医療スキルの欠如のため、跋扈し始めている。早くも、我々の患者四名がこのユニットに居て、そのうちの一人の体調はすぐれない。彼の検査値のいくつかが不良だが、救急隊は彼を総合病院に移すことを拒否する。もはや近隣の総合病院のCOVIDユニットに[空き]ベッドはほとんどなく、心肺蘇生[人工呼吸]の余地はもはやない。結局、彼は好転する。しかし我々の患者の一人に心肺蘇生[人工呼吸]が必要になったとしたら?
 現下の、そして来たるべきこのカタストロフの状況に直面して、我々と「共通の経営母体」にある総合病院の施設長とケア提供者たちが、精神科患者のためのこのCOVIDユニットを、そこから40キロ離れた他県にある彼らの総合病院内に移送することに直ちに同意する。この具体的な連帯は、優生思想が復活するという恐怖を緩和してくれる。そして、この時点でこれは重大なことである。絶対に必須のことでもある。
 しかし、全てのサービス部門で来たるべき飽和状態が論じられており、生きるであろう者たちと死ぬであろう者たちの選別が、少しずつ差し迫っている。
 このような不可能な選択は、ケア提供者としての我々の選択ではないことに念を押しておこう。たとえ終局においてはケア提供者こそがその選択を負うのだとしても。社会の究極のオーガナイザーは競争と金銭、金融であるという理念がますます受け入れられつつあるこのとき、我々は市民として、この選択枠に対する集団的な責任を負わねばならない。
 [COVID以前から]この種の最終選択(誰が生き、誰を死に委ねるか)を支配してきたのは、あらゆる改革とともに何年も前から熟してきた新自由主義的な枠組みである。平等、普遍性、健康を促進するこれらの改革のポジティブな言葉遣い、コミュニケーション、物言いの諸要素がもつ本当の現実がまさにこれ[=生死の選択]なのだ。これらの言葉[=平等、普遍性、健康]の本当の現実は、管理的な新言語で着飾ったこれらの選択の帰結としての死者たちである。社会の新自由主義的進展と、贅沢と軽蔑の服を身に着けた者たち以外に、こうした不可能な、有害な、残酷な選択に対して誰が責任を負うべきというのだろうか?

5 いくつかの教訓
 この危機から我々が引き出す一般的な教訓(空間と時間、労働、金銭などとの関係や社会制度を統合的に再考する必要性)とは別に、すでにいくつかの実践への道筋が開かれている。そうした道筋の出現を集団として支援していくことが我々に任されている。
 ケアの均質化が、集団的公衆衛生と個人の健康を保護するために復権するとしても、さまざまな実践の不均質性の維持と、そうした実践を基礎づけるさまざまな環境の不均質性の維持が、いつも[課題として]ありつづける。

1)仮想は現実的な支えなしには実在しない
 「コロナウイルス由来の」逆転のなかで、我々がまさしくもはや何も生きて体験しない(あるいはすぐ目の前の肉体と魂からほとんど何も生きて体験しない)とき、我々は自己と他者たちとの別の様態でのつながりを、駄目にならないために、見出さなくてはならない。
 精神医学では、デジタル通信技術と電子医学の時代にこの[COVIDの]試練を生きることが教訓を与えてくれる:科学技術は、身体的な本当の人間的つながりが前もって実在しない場合にはたいして役に立たない。我々はこれを、我々が創り出してきた無線での仮想的な社会的つながりの新たないくつもの空間全てに見ることができる。
 デジタル通信技術による「脱物質化」が想定されているが、それはデータセンターの巨大な倉庫に隠された過剰な物質化なしには実在しない。データと全く同様に、人間的つながりという目に見えないものも、どこかに物質化する。
2)物理的な封鎖の義務と想像力の移動の自由
 2週間来、我々の集団会合の時間はほとんど同じだが、もはや同じ物理的な空間を共有して行われてはいない。我々の精神医学部門では、radio sans nomがつながり、我々の頭の中で分断されていた場を開け放つ。封鎖の時代に、この開け放ちは、織り上げられてきた以前の社会的つながりの全て、友愛、共有と交換のつながりの全てを背景として行われている。これはつながりの脱物質化ではなくて、むしろつながりの新規の物質性、変更された物質性である。

暫定的な結論:covid由来の反精神医学は、襲来した反精神医学である
 他のタイプの反精神医学とは異なり、この反精神医学は選択されたものではない。これは老若男女に襲来した。社会的距離と封鎖のルールが我々に課される。covid由来の反精神医学は、我々が精神医学において治療的でありうるとみなすもの全てを、後戻りして見直すことを強いている。
 この反精神医学は、我々全員がカタストロフを共有するこの時点でさまざまな逆転を生んでいる。そしておそらくこの共有と、出現してくる新しい連帯から、我々は今後、大混乱のただなかに、新しいつながりを創出することができるだろう。精神医学はさまざまなカタストロフに対して敏感である。そこでは最悪と最良が隣り合っている。[マクロン政権の?]2期目に向けて軸足を変えることが、集団として我々に任されている。

2020年1月17日 (金)

下田、中ら『初老期鬱憂病の研究』10

 前回書いたように、講談社現代新書『日本社会のしくみ』を読んで、我が国のうつ病病前性格論を考え直し始めています。

 この本のはじめの方では、日本では戦後からずっと、大別すれば都市部の大企業型の家庭(=昇進・昇給・転勤の可能性がある家庭)と、非都市部の地元型の家庭があったが、前者のうち有名大学出の中核群はさほど変わっていないが、近年では後者が減って都会の非正規労働者になり、女性や高齢者も家業の手伝いではなくパート就労に出るようになっている、との指摘がありました。また、本の最後のほうには、日本では男性1名の収入だけで家族の生計が成り立つ世帯の割合は全世帯の3分の1に達したことはなかったのではないか、とも書かれています。

 日本の精神医学におけるうつ病発症状況論(70年代が最盛期でしょうか)では、男性はサラリーマン、女性では専業主婦が、周囲の秩序を重んじて几帳面な生活を送っていたなかで昇進や転居といった変化を機に発病するのが典型だとされていました。これは精神医学者たちが、主に大都市の大学病院で働いており、大企業の産業医なども引き受けていたことによって、偏った(上記のように3分の1にも満たない家庭に属する)患者層を診ていたことによるバイアスだったのかもしれない、と思うようになりました。そもそも地元型の人はあまり転居とかしません。

 こういう関心からさいきん読み直している下田・中らの論文は、九州帝国大学で集められた症例で、昭和9年のものですが、ここにはいわば地元型の人が多く収められています。活発でやり手な人が多く、そのせいか男性の場合、性病を罹患した歴のある人が半分ぐらいを占めていて、これはこれで偏った層が集まっているかもしれませんが、今回もそんな一例です。

症例10 動脈硬化を伴うもの 岡○龍○ 55歳、農家、町会議員。

主訴 不眠、耳鳴、眩暈、嘔気、沈鬱

 家族歴 父79歳死[、]酒不用、母は現存7410年前より中風症を患う、兄弟なく、三男一女皆健。従兄弟に資産家にして殊更に倹約する人ありという外精神変質性負因なし

 既往歴 小児期発育良好、生来全く健康、学業成績優良、小児期より性質温順。30年前黴毒を患う、服薬と局所治療により治癒せりという、25歳初婚4年後死別、間もなく再婚家庭円満なり。

 性格 責任感強く、熱中性、世話好き、信用組合長、町会議員にして県会議員に挙げられしことあり、規帳面、円満、交際広く、快活にして時には冗談等云う。

 現病経過 昨年5月頭重、耳鳴あり中風症を恐れ、医に診を乞うも血圧高からざるが故に動脈硬化症にあらずして神経衰弱及耳鼻疾患なりと言われ耳鼻科医院に通院す、著効なし。然るに924日街路に於て突然背後より暴漢に襲われ、右上膊[=上腕]及下膊[=前腕]に二太刀を浴びせ掛けられ重傷を負い直ちに某病院にて手当を受け外傷は治癒せるも右手の運動不全を残して11月末退院、外傷の直後より自己の被害の原因を考え、それが町内に跋扈する所謂親分なることを知り町政の前途に就き大いに苦慮し、ために睡眠障碍を来すに至る、右手運動不全の為め本年226日某温泉治療所に入院、毎日数回右手の温浴をなし身体を温めたるに1週間後より頭痛、眩暈、嘔気、頭部の緊張感起り耳鳴、不眠悪化す、全く無痛なりし左の肩胛及上肢も運動の際疼痛を覚ゆるに至り且又右膝蓋関節に疼痛あり正座し得るも胡座し得ず、外傷以来身体各部に障碍を来すが如き不安を覚え前途に光明を失い、情緒も沈鬱に傾き、床上に屡々反側し、溜息をつき不眠続く、付添人の慰安、家族の見舞、郷里の人々の同情の言葉を聞けば直ちに流涕、少しく込み入りたる話をすれば眩暈、頭痛増悪し、話を継続する能わず、考慮制止、罪業妄想的念慮、怔忡、異常感、秘結などはなし。睡眠療法を希望して当科を訪う、食思不良(量は相当之を摂る)、殆んど不眠、尿毎日一回、尿異常なく、酒不用、煙草以前は毎日敷島三箱[、]近時節す。

 現在症候 精神的徴候。感情沈鬱「何も面白くない」「散歩も嫌である」「何を見ても嫌な気持ちがする」等言い、顔貌は厳粛、苦悩的、自覚的の考慮制止決断力欠乏なきも、思考は常に疾病に固着し思考範囲の極度の縮小を来し、連想やや迂遠にして同時を繰り返し訴え、甚だ心気的にして小事に拘泥す、幻覚、妄想、連想の質的変化なく、意志抑制的にして病床を守って動かず自ら話すことも少し。(略)

 経過 スルフォナール1.5、アダリン0.5及び抱水クロラール1.0臭剥3.0程度の軽度の睡眠療法を行う、不眠は治癒したれど、眩暈、耳鳴、食思不進治癒せず、睡眠療法も無効なりしという悲観的観念生じ更に心気的となり常に病気のことのみを考え溜息をつく、「ふらふらと食欲云々」を口癖の如く言い、一見不関的の如く見ゆるも内心は極度に悲観的なり。

 ザルソフロカノンの連続注射(20cc16回)やや奏功せるも全治せしむるに至らず、10%葡萄糖300.0インシュリン(トロント)7単位の連続注射(インシュリンは12単位まで上昇)14回無効、マグフロン、ネオヒポアポ等試むるも奏功せず、遂に629日入院後約3ヶ月にして全治に至らず退院。 

 本例はその性格、厳粛なる一次的沈鬱、考慮範囲の縮小、種々の神経性訴え等は初老期鬱憂症に一致し強迫考慮を伴う軽鬱状態と考えざるを得ず、然れども患者の訴うる頭重、眩暈、耳鳴、嘔気、食思不進などは脳動脈硬化性のものと考えらる、すなわち頭髪は殆ど白く、一般に老衰の感あり、橈骨動脈は硬化し、黴毒性ならざる肝臓肥大を有し、顔面はやや浮腫的にして常に紅潮し又温泉療法により急に悪化せる点も凡て脳動脈硬化の存在を想像せしむ、血圧は睡眠療法開始後125-79、その後135-80にして正常なるも睡眠療法中及後は一般に血圧下降するものなれば高血圧なしとは言い得ず、而して仮令高血圧なしとするも脳動脈硬化は之を否定し得ざるなり。

 本例の如きも精神的誘導宜しきを得ば自覚的に満足の域まで治癒するは左程困難ならざらんも、睡眠療法失敗に終われりとの印象深く、疾病恐怖強く精神療法に困難を伴えり、すなわちかかる型を治療するに当っては充分なる精神療法的手腕の必要なるを知るべし。

 現代では注目されない、動脈硬化の有無を論点にされていて、その当否について私は評価しかねますが、それにしても、まずは町会議員が、「町内に跋扈する所謂親分」の差し金で「背後より暴漢に襲われ」て「二太刀」浴びせられるなどという出来事の大きさと、それが医学雑誌とはいえ症例報告されるという時代のおおらかさに驚かされます。  

 私はこの例は「厳粛なる一次的沈鬱」に達していたと書かれていますし、「床上に屡々反側」などけっこう重症という印象を持ちましたが、考察では「強迫考慮を伴う軽鬱状態」とされていて、当時と現代との重症度評価の違いも興味深いところです。「考慮制止、罪業妄想的念慮[…]などはなし」だから軽うつということでしょうか。70年代に笠原らが想定した例は外来レベルでしたからもう一段軽症であり、今世紀に入って論じられる新型うつ病はさらにもう一段軽症ですから、それらは下田らの目にはもう鬱憂症には見えないかもしれません。

 この症例は、流涕したりため息が目立ったり変な口癖があったりした点は典型的ではなく(うつ病ではむしろ感情が出てこないことが多く、『悲哀不能』と呼ばれます)、けっこう重症なのに考慮制止もないのはアンバランスで、そこらへんを筆者なら動脈硬化の影響と考えるかもしれませんが、私は暴漢に斬りつけられるといった大きな出来事からくる心因的なうつ病だったからではないかとも思いましたが、いかがでしょうか。

2019年12月31日 (火)

下田、中ら『初老期鬱憂病の研究』9

 年末の新聞の書評欄で今年の名著として紹介されていた小熊英二『日本社会のしくみ』(講談社現代新書)を読んでいます。まだ読みかけですが、我々が当たり前のように考える日本の雇用形態が、国際的にみれば独特であり、わが国でも1920年ごろから1960年ごろまでに出来上がったのではないかという箇所がありました。

 日本の精神病理学におけるうつ病患者の病前性格論(代表的には笠原嘉の論)は、特に男性患者については昭和のサラリーマンを典型例と想定して、彼らは病気になる前はもともと温和で周囲との調和を重んじ、几帳面・勤勉な模範的会社人間だとされていました。近年、内海は、当時のそうした働き方では会社や上司からの庇護・見返りが無意識的に期待されまた享受されていたとも論じています。この類型は、戦中生まれまでの世代のうつ病患者には典型的でしたが、戦後生まれ(団塊の世代)以降は、その割合が、一般人口からもうつ病患者群からも減っていったと考えられていますから、時代に応じて変化していくものなのでしょうけれど、今回、『日本社会のしくみ』を読んで、雇われ人のそうした性格類型というか職場への帰属関係はさほど古いものではないと気づかされました。

 ほぼ全社員が新卒一括採用され、会社人間として周囲の和を重んじて勤勉に働いていれば、右肩上がりに昇給し、配置転換を繰り返しながら定期的に昇進していく、という雇われ方が、戦後になってようやく完成した、わが国独特の制度だということなら、そもそも会社員の「昇進うつ病」なんてものは、他国には起こりにくいでしょうし、わが国でも、そうした働き方が根付く以前には少なかっただろうと予想されます。

 そこで、このブログで何年も前に紹介しはじめて中断していた、下田・中らによる『初老期鬱憂病の研究』という昭和9年(1934年)の論文にもういちど注目してみたくなりました。というのは、そこには当時のうつ病の具体例がたくさん紹介されているんですが、自営業とか農家が多く、しかも人柄もエネルギッシュでやり手な人物が多い印象があって、のちに笠原が論じた類型とは異なる気がしていたからです。たとえば第一例はこんなふうhttp://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-e52d.htmlでした。ほか、このブログ右側の「カテゴリー」一覧から「病前性格」を選ぶと、1~8例の記事を探しやすいと思います。

 第8症例まで紹介していましたから、今回は9例目にあたります。残念ながらこれは、鬱憂病との鑑別を示すために出されたヒステリー例であり、男性会社員でもありませんから、私のいまの興味にドンピシャではないけれど、まあ、順番に紹介していけば、おいおいそういう例も登場するでしょう。

 

初老期鬱憂症と誤診せられたるヒステリー性神経症 

症例9 中○ハ○ 42歳、女性、商家の妻。

主訴 睡眠障碍、種々の心気的訴。

家族歴(略)及性格 過敏、熱中性、嫉妬、偏頗(へんぱ)、内気、男勝り、冷淡、競争心

既往歴 小児期順調、手芸に秀で、小学卒業後家庭的に厳格に養育せらる、算術を好まず。20歳にして結婚五男二女を挙ぐ。昭和2年(36歳)家庭的の心痛の結果ヒステリー性鬱憂状態となり4月より5ヶ月間当科に入院治癒したれど、その後時々睡眠障碍を訴うるに至る、第1回発作前までは不眠など全く之を知らず、順次妊娠して分娩、その間月経無き程なりき、然るに退院後直ちに妊娠せるを以て之を人工的に中絶す、その後5回人工流産を行い、その度毎に身体の衰弱を来せる如く漸次月経困難症を現し月経時には不眠、刺戟性、頭痛等を訴うるに至る、一昨年(40歳)4月薬品流産をなしてより考慮困難、歩行障碍、家事不能に陥り、夜12時過ぐれば全く不眠、物品の処理を苦痛に感じ、面会を厭い、家事の面倒を見るを嫌い、気分は「ぽかぽか」して健忘的となり、焦燥す。昨年の1月、4ヶ月にして又々人工流産をなし、その後子宮の悪化を来し、月経時に分娩時の如き苦痛あり、引き続き睡眠障碍を来し子宮疾患を心気的に苦慮し、胸部の圧迫感、右側偏頭痛、左耳の充塞感、右膝蓋関節の不安全感等々。5月自宅にて睡眠療法を行いやや良好、海水浴に行き再び不眠となり、海水浴場にて頭を日に照らされたるにより悪化せるものと信じ苦悶す。不眠、頭を按摩せざるべからず、自殺念慮、歯痛、上衝、四肢冷感、精神病恐怖症、人の病気を思い出し自分の病気と似ているとて恐怖し「歯を抜いて死んだ人があるから自分も死ぬ」等言い、鼻の根元が「コツコツ」する或いは耳の後ろが「バッ」と塞がる、「後頭部より下に物が降りて来るような気がする」その他弱視感、胸部圧迫感など訴多し10月初め再び睡眠療法を始めたれど途中嘔吐、食欲不振起り益々身体の衰弱を来す。

 昭和8123日遂に当科に入院。精神的に甚だ多訴、浅眠(熟眠感なし、「うとうと」する)頭重特に前頭及び後頭部、右下肢の牽引感、右下腹部の不快感、歩行時子宮に不快感、食思不振、鬱憂性不機嫌(自殺念慮)、考慮渋滞その他の心気的念慮。(略)

経過 (略)有らゆる睡眠剤、鎮静剤無効、少しく平静となることあるも直ちに逆転す、遂に不穏病棟に監禁殆ど医薬を廃し、ギネロゲン0.5、アレブシン2粒のみを与う、不眠不食身体衰弱せるを以って10%葡萄糖300.0インシュリン0.5(トロント)約2週間、身体的に恢復したるもなお不眠を訴えしが漸次医薬に対する執着去りしものの如く訴え減少す、不干渉の儘放置、監禁30日間その後約1週間後退院可能に迄恢復、退院後間もなく常態に復せりという。 

 (略)患者の性格は寧ろ非社交的、過敏にして「シツオイード」に近く、熱中性男勝りなどの性格的因子は患者の性格の偏頗、内気、冷淡、競争心強し等の二次的現象として説明しうること(略)症候中沈鬱は過敏の二次的現象にして一次的沈鬱ならず、直ちに「サメザメ」と誇張的に涕泣するところ鬱憂症者の厳粛なる一次的沈鬱と区別し得(略)。

 

 考えさせられるところの多い症例です。これほどの人工中絶歴は今なら夫からの虐待レベルとされるでしょうか。しかも「不干渉の儘放置」して回復したというのも面白いところです。深く掘り下げるばかりが精神療法ではないからでしょう。むしろ夫への家族心理教育とか家族関係への介入の方が効果ありそうでもあります。

参考文献:日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学 (講談社現代新書) 小熊 英二

2019年12月19日 (木)

ラカンのヤスパースいじり

 ドイツの精神病理学者ヤスパースは、他者の精神現象の生起を学問的に扱うに当たって、相手の身になってわかることを「了解Verstehen」と呼び、一方で、客観的な因果関係などを扱うことを「説明」と呼んでいます。了解できないときは説明することしかできない、という考え方は、我が国でも精神病理学でよく知られた考え方です。なお、「了解」と訳されるこの「Verstehen」というドイツ語は、ごく日常的に「わかる」「理解する」という意味で用いられる単語でもあります。

 フランスの精神分析家ラカンは、1950年代の講義(セミネール)でこのヤスパースの理論に言及し、精神科医が患者の症状を了解できたと思っても実は間違った理解に陥ってしまうことがあると警鐘を鳴らしています。なお、ヤスパースの「了解」概念の訳語として、フランス語でも、「わかる」「理解する」という意味の日常語、「comprendre」が用いられています。

 ラカンにとってヤスパースはよほど気になる大家であったのか、1970年代に至っても、セミネール11巻の後書きでヤスパースの了解概念を踏まえて次のように書いています。

「ステクリチュール(筆者注:ラカンの造語で、この文脈では、漢字仮名交じりの日本語の書き言葉を指す)をみなさんは了解しない。それでいいのだ。そのことは、みなさんにとって、このものを説明する理由になるだろうから」。(岩波版邦訳、379頁を改訳。1973年1月1日の日付が記されている)

 この、「皆さんがわからないのであれば皆さん自身が説明すればよい」というヤスパースをもじった屁理屈をラカンはちょっと気に入ったらしく、同時期のセミネールで、これと自虐を絡めた次のような冗談を言って聴衆の笑いを誘っています。なお、この発言の前提として、ラカンが書いた本や論文はわからない、理解できない、という評判が立っているという事実があります。

「あなた方は私の書物(エクリ)を了解するには及びません。了解できないなら、それは結構なことです、それがあなた方にとっては、ちょうどそれらを説明するための機会をもたらすでしょう」(『アンコール』藤田・片山訳、講談社62頁を改訳。1973年1月9日)

 このセミネールは聴衆によってテープ録音されており、その音声ファイルはネット上に無料で転がっているので聞いてみると、ここで聴衆には笑いが起こっていることがわかります。聴衆にもここがヤスパースを念頭に置いていることはすぐにわかったがゆえの笑いだろうと思われます。ヤスパースは主に精神病患者の精神現象について了解不能と論じていますから、ここでラカンは、自らの論文の書き方を精神病的だと述べているということにもなるわけですが、一瞬で聴衆にそこまで伝わったのかどうかまではわかりません。

 これを踏まえると、11巻の後書きでは、ラカンが、日本語は精神病的だと述べているということにもなりますね。これもラカンならありえないことではないように思えます。

参考文献:アンコール (講談社選書メチエ) (日本語) 単行本(ソフトカバー) – 2019/4/12

2017年2月 9日 (木)

ラカン『精神病』3章再読

 前回は「要素現象」の概念を取り上げましたが、辞書を引き直すと、「elementar」にはドイツ語では「荒々しい、抑えられない、激烈な」という意味もあるようで、しかもこの意味での使用頻度が高いのか、小学館の大独和ではこの語義が最初に挙げられています。フランス語のelementaireにはこの意味はないようだし、意味的にもラカンの訳には「要素(現象)」でよさそうですが、ヤスパースを訳す際には、この意味を含み持つような訳を考えるべきかもしれません。ヤスパースでは、その後の精神病プロセスの起爆剤的な現象を指すともいえそうですから。

 さて、3章の翻訳からは次の箇所を取り上げましょう。

 医療上関わり合った男性達が次々と登場したこと、つまりそれらの人たちが次々と名前を挙げられ、シュレーバー議長のとてつもない迫害妄想の中心に相次いで出現したことは、たしかにこれらの男性達の重要性を示しています。(邦訳上巻47~48頁)

 下線部の原文を直訳すると「とてつもなくパラノイド的な迫害」です。精神医学用語でパラノイドとは、パラノイアに似て非なる妄想型統合失調症を指しますから、翻訳はわかりやすく「とてつもなく妄想型統合失調症的な迫害」としてもよいでしょう。こういう箇所を見ると、ラカンはシュレーバーを、(妄想形成メカニズムを論じるときにはパラノイアという言葉を使っていますが)診断的には妄想型統合失調症とみていたことが分かります。当たり前ですけど。

 次に、私にとっては58頁のほぼ真ん中にある段落が、今回読み直しても非常に理解困難に感じます。

 まず第一の形、それは「信頼」、つまり捧げられたパロールです。たとえば「君は僕の妻だTu es ma femme.」とか「あなたは私の師Tu es mom maitre.」がそれです。これらのパロールが意味しているのは、「君はなお私のパロールの中にあるものだ。そして、私がそう言えるのは君という場で、このパロールを捉えているからこそなのだ。それは、君から生じて、私が任すことの確かさを君に見出すのだ。このパロールは君の任に置くパロールなのだ、君の」ということです。(邦訳上巻58頁)

 「君という場で、パロールを捉えている」は原文では「prendre la parole a ta place」なのですが、このprendre la paroleはふつう成句として「発言する」という意味になるのです。上に引用した邦訳なら、パロールを受け取っているという意味、成句と取ればパロールを発しているという意味になりますが、ここは文脈上どちらと取るべきかがまず迷う点です。
 「君という場」はラカン理論では大文字の他者を指すという点も考えなければなりません。
 それと、「任す」「任に置く」と訳されたengagerですが、辞書を見るとかなり多義的だし、ものを補語とするときと人を補語とするときとで意味が違うので困ります。他の箇所での訳との整合性も考えなければなりません(前の段落には「任されたパロールparole engagee」という箇所もありますが、engager la paroleは「言質を与える」という意味もあるようでなおややこしい)。それと、途中の「君に(見出す)」ですが、原文は「y」ですので「君の場に(見出す)」ではないでしょうか。というわけで、かなり暫定的に次のような代案を考えてみました。

 まず第一の形、それは「fides信頼」、つまり捧げられたパロールです。たとえば「君は僕の妻だTu es ma femme.」とか「あなたは私の師Tu es mom maitre.」がそれです。これらのパロールが意味しているのは、「君はなお私のパロールの中にあるものだ。そして、私がそう言えるのは君の場で、このパロールを発しているからこそなのだ。それは、君から生じて、私が任ずることの確かさを君の場に見出すのだ。このパロールは君を任ずるパロールなのだ、君を」ということです。(仮の代案)

 最後に些細な箇所です。

 つまり嫉妬妄想では、何よりも、性化の記号が逆転された[ルビ:アンベルティ]他者との同一化が見出されるのです(邦訳上巻68頁)

 ここのルビは正しくは「アンテルベルティ」です。フランス語にはアンテルベルティもアンベルティも実在して、意味もよく似ているのですが。

 翻訳の問題から離れて、この章で印象的なのは、精神分析家ならば患者に対して、「相手は普通の人々が理解しているよりももっと深い仕方で、無意識という体系のメカニズムそのものに通暁した人だという感じをお持ちになるでしょう」という箇所です。このように、ラカンにとって、精神病患者は、人間の精神の普遍的な問題に気づくことがある人々だというわけです。一方でこれと対照的に、現象学的な精神医学者は、たとえばブランケンブルク『自明性の喪失』で詳論されている患者、アンネ・ラウを、極めて高い内省能力でもって症状を語っていると評価しているにもかかわらず、アンネは(人間一般の精神構造ではなく)単に統合失調症の基本障害に気づいている、としているのです。
 しかし上のような対比を踏まえて私がアンネ自身の言葉を読み返してみると、アンネは、人間の精神構造一般の問題についての鋭い洞察を随所で語っているように感じますけれど、皆さんはいかがでしょうか。

精神病〈上〉 
ジャック ラカン (著), ジャック・アラン ミレール (編集), 小出 浩之 (翻訳), 川津 芳照 (翻訳), 鈴木 国文 (翻訳), 笠原 嘉 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (1987/03)

続きを読む "ラカン『精神病』3章再読" »

より以前の記事一覧

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ