フロイト全集(岩波書店)

2016年4月30日 (土)

フロイト全集18から『神経症および精神病における現実喪失』2

 この論文の岩波版翻訳もかつてこのブログで取り上げました。

http://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_b609.html

 今回読み直して気になった箇所がありましたので紹介します。

 ひとつめ。下に引用する箇所の冒頭の二文は主語がManであってフロイトではありませんから、「読者」としてみます。ここでフロイトは、読者が陥りやすい間違った考え方の例を挙げたあとで、正しい考え方を示しています。最後の文の「不快」は、「Unlust」の定訳ですがここで原語は「Anstoss」なので「不愉快」としました。

もちろん異なる審級のあいだでではあるけれども、精神病の発生に関して、神経症の過程と類比的な何かが起きていると予想できるだろう。したがって、精神病においても、第一段階は自我をまず現実から引き離し、第二段落は損害を賠償しようとし、エスを犠牲にして現実との関係を回復する、という二つの段階がはっきりと分かれると予想されるだろう。実際、精神病において類比の事柄も観察される。ここでも二つの段階があり、その第二段階は修復という性質を持っているが、そうなると類比どころか両過程が同じ意味を持つことになる。精神病の第二段階も現実の喪失を埋め合わせようとはするが、神経症において現実関係が犠牲になるのと同じように、エスを制約するという犠牲を払うのではなく、もっと独裁的な方法で、不快を感じさせる現実を捨て去り、そうした不快をもはや与えることのない一つの新しい現実を創造する。(岩波版312~313頁)

いまや読者は、もちろん異なる審級のあいだでではあるけれども、精神病の発生に関して、神経症の過程と類比的な何かが起きていると予想するかもしれない。したがって、精神病においても、第一段階は自我をまず現実から引き離し、第二段落は損害を賠償しようとし、エスを犠牲にして現実との関係を回復する、という二つの段階がはっきりと分かれると予想されるかもしれない。実際、精神病において少々類比の事柄も観察される。ここでも二つの段階があり、その第二段階は修復という性質を持っているという点であるがしかしここでは、類比どころか両過程がもっと徹底的に同じ意味を持つことになる。精神病の第二段階もやはり[第一段階で生じた]現実の喪失を埋め合わせようとはするが、神経症において現実関係が犠牲になるのと同じように、エスを制約するという犠牲を払うのではなく、もっと独裁的な方法で、不愉快を感じさせる現実を捨て去り、そうした不愉快をもはや与えることのない一つの新しい現実を創造する。(代案)

 上の箇所の直後に、正しい考え方がずばり述べられています。そのあと、以下のように続きます。

神経症も精神病も、両者とも、外界に対するエスの反逆と、現実の危急、《アナンケー》に順応する不快さ、あるいはこう言うことができるとすれば、無能力の表現なのである。(岩波版313頁)

 ここでの「不快さUnlust」は、定訳どおりの訳語ではありますが、直後にzu不定詞句が添えられているので、「○○したくないこと」「○○することに乗り気でないこと」という意味でしょう。また、「Unlust」も「Unfaehigkeit=無能力」も、原文では「seiner=エスの」と明示されています。

神経症も精神病も、両者とも、外界に対するエスの反逆と、現実の危急、《アナンケー》にエスが順応したくないこと、あるいはこう言うことができるとすれば、エスはそうした順応ができないことの表現なのである。(代案)

 このあとに、このブログで前回取り上げた314頁の箇所が続きます。その後ろの部分に移りましょう。以下の箇所では、原文で用いられている「reagieren=反応する」という語のニュアンスが抜けています。

神経症の場合、いつも決まって不安が発動され、抑圧された欲動が突進を試みるものの、葛藤の結末は妥協以外の何ものでもなく、満足としては不完全に終わることが見てとれる。(岩波版314頁)

神経症の場合、抑圧された欲動が突進を試みるものの、いつも決まって不安でもって反応されること、葛藤の結末は妥協以外の何ものでもなく、満足としては不完全に終わることが見てとれる。(代案)

 次は、時間的な順序がぼやけてしまっている箇所が二つ続きますが、まずひとつめ。

これらの違い、いやもしかすると他の多くの違いも、病気を引き起こす葛藤の起点となる状況の局所論的な差異に由来する。すなわち、自我が屈して現実世界に忠実であろうとするのか、それとも、エスに従属するのか、である。(岩波版315頁)

これらの違い、いやもしかすると他の多くの違いも、病気を引き起こす葛藤の起点となる状況の局所論的な差異に由来する。すなわち、そのさい自我が屈して現実世界に忠実であったのか、それとも、エスに従属したのか、である。(代案)

 細かいことを言い出すとキリがないのですが、上の「局所論的」の箇所の原語は「topisch」であって「topologisch」ではないので、翻訳も単に「局所的」でよさそうな気がします。

 次は空想世界についての説明箇所からです。やはり時制が問題です。

この世界は、現実原理が導入されるさいに現実の外的世界から隔離され、その後は一種の「保護」によって生活必要上なされるいろいろな要求から解放された領域である。(岩波版315頁)

この世界は、かつて現実原理が設置されたさいに現実の外的世界から隔離され、その後は一種の「保護」によって生活必要上なされるいろいろな要求を免除されてきた領域である。(代案)

 この論文についてはここまでにします。

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

2016年4月25日 (月)

フロイト全集18から『神経症と精神病』2

 フロイトの論文『神経症と精神病』の岩波版翻訳については8年以上前に取り上げました。

  http://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_eafb.html

 今回読み直してみて、また少し翻訳についてコメントしたい箇所がみつかったので報告します。

 まず一つ目。以下の引用箇所では、下線を引いた訂正箇所のうち3つめが特に重要と思います。

これらすべてのことによって、神経症が形成されるのである。自我が抑圧を行う際に、超自我の命令に基本的に従い、この超自我の命令は、現実の外的世界が、超自我のうちに自分の代わりを立てさせ、影響を行使することによって、成立していることに異議はない。ここで自我は、超自我の側に立っている。自我にとっては、超自我の要求の方が、エスの欲動要求よりも強力なのである。(岩波版240頁)

これらすべてのことによって、神経症の病像が形成されるのである。自我が抑圧を行う際に、超自我の命令に基本的に従うこと、この超自我の命令は、現実の外的世界が、超自我のうちに自分の代わりを立てさせ、影響を行使することによって、成立していることに異議はない。ここで自我は、これらの力[現実と超自我]の側に立っている。自我にとっては、それらの力の要求の方が、エスの欲動要求よりも強力なのである。(代案、[ ]内は補足)

 次の引用箇所では、一文目は副詞が形容詞として訳されていること、二文目は日本語の自然さが問題と思います。

そこで自我は、自らが統御する新しい外的世界と内的世界をつくりあげることになる。ここで次の二つの事実をみてとることは疑いない。(岩波版241頁)

そこで自我は、自分勝手に新しい外的世界と内的世界をつくりあげることになる。ここで次の二つの事実に疑いの余地はない。(代案)

 次は訳し落としです。

妄想の形成についての分析から明らかになったのは(岩波版241頁)

妄想の形成の成因についての分析から明らかになったのは(代案)

 この論文については次が最後です。どうも(この論文に限りませんが)副詞の訳し落としが多いように感じます。論理の繋がりなどを示す大事な副詞も含まれますけれども、いちいちすべて指摘するほどでもないようにも思われ、どう扱って良いか悩ましいところです。

欲望の不首尾は、根本的には外的な要因によるものであるが、個々の症例にあわせて言うならば、現実要求の代わりを引き受ける(超自我における)あの内的審級によって、不首尾は引き起こされるといえるだろう。病気を引き起こしているのは、自我が外的世界に従い続け、結果としてエスを黙らせようと試みるか、それともエスに打ち負かされて現実から引き剥がされるか、という葛藤した緊張状態に自我が陥っていることにある。この一見すると単純な状態に、超自我の存在が複雑さを持ち込むのである。というのも超自我は、未だ解明されていない結びつきによってエスと外的世界からの影響をひとつにまとめるからだ。ある意味で、超自我は、自我のあらゆる追求が目的とする理想模範であり、自我の幾重にも依存した諸関係の調停を目標としている。(岩波版242頁)

欲望の不首尾は、根本的にはつねに外的な要因によるものであるが、個々の症例にあわせて言うならば、現実要求の代わりを引き受けた(超自我における)あの内的審級によって、不首尾が引き起こされることもありうるここでは、病気を引き起こしている効果は、自我が葛藤した緊張状態で外的世界に忠実に従い続け、結果としてエスを黙らせようと試みるか、それともエスに打ち負かされて現実から引き剥がされるか、という点にかかっている。この一見すると単純な状態に、超自我の存在が複雑さを持ち込むのである。というのも超自我は、未だ解明されていない結びつきによってエスと外的世界からの影響を自らのうちでひとつにまとめるからだ。ある意味で、超自我は、自我のあらゆる追求が目的とする事柄の、つまり自我の幾重にも依存した諸関係の調停の、理想模範である。(代案)

 最後の文の解釈は難しいところですが、私は上のように考えました。

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

2012年11月 2日 (金)

抑圧という意味で去勢を知ろうとしなかった・・・

 いま、フロイト全集から、14巻の『狼男』症例を読んでいます。
 ラカンが引用して有名な、次の一節に引っかかりました。原文と合わせて紹介します。

 彼は去勢を棄却したと私が述べたとき、この表現のさしあたりの意味は、抑圧の意味であって、去勢など知らないということである。(邦訳89頁、下線は引用者が付した)

 Wenn ich gesagt habe, dass er sie verwarf, so ist die naechste Bedeutung dieses Ausdrucks, dass er von ihr nichts wissen wollte im Sinne der Verdraengung.

 まず明らかな間違いとして、下線部は原文には「wissen wollte」とあるので「(去勢など)知りたくなかった」という意味になりますが、岩波版邦訳にはこの助動詞「wollen(・・・しようとする、するつもりだ)」のニュアンスが無く、「(去勢など)知らない」とされています。

 この箇所の翻訳が問題だと思うのは、上の訳では、“私は棄却という言葉を、抑圧という意味で使った”という意味になってしまうことです。

 といいますのは、「彼が去勢を棄却したと私が述べたとき」とは邦訳83頁のことですが、そこでフロイトははっきりと、「抑圧は棄却とは別ものである」と言っているからです。

 
 私としては、岩波版のように「『棄却』=『抑圧』」といわれているのではなく、「『棄却』=『抑圧したい』」ということではないかなと思うのです。訳としては、次のようになるでしょう。

 彼は去勢を棄却したと私が述べたとき、この表現のさしあたりの意味は、去勢など -抑圧の意味で- 全く知りたくないということである。(代案1)

 もう少し意訳して良ければ、

 彼は去勢を棄却したと私が述べたとき、この表現のさしあたりの意味は、去勢などは、抑圧に適うように全く知りたくない、ということである。(代案2)

 彼は去勢を棄却したと私が述べたとき、この表現のさしあたりの意味は、去勢などは、全く知りたくない、つまり抑圧したい、ということである。(代案3)

 さて、ラカンは、『抑圧』と『排除』(先のフロイト全集では『棄却』と訳されていた概念)との相違(それぞれ、ラカンが神経症のメカニズムと考えるものと、精神病のメカニズムと考えるものです)を説明する文脈で、この症例から次のように引用しています。

 「排除」に関して、フロイトは次のように言っています。「主体は、抑圧という意味においてすら、去勢について何一つ知ろうとしなかった」。実際、抑圧という意味では、知りたくないと思っているものを或る意味では知っているわけです。(ラカン『精神病』邦訳上巻250頁)

 ちなみに、初めの二文のフランス語原文は、A propos de la Verwerfung, Freud dit que le sujet ne voulait rien savoir de la castration, meme, au sens du refoulement.となっています。

 この仏訳(およびそこからの邦訳)のように取れば、抑圧と排除は別物ということになりますし、フロイト全集邦訳83頁の説明(=抑圧されたものは、以後も多くの影響を及ぼし続ける)にも合致しています。ただ私にとっては、フロイトの原文をそう読むことができるかなあ、という疑問が残るんで、この訳が全面的に正しいとまでは言えない気がしてます。

2012年2月 7日 (火)

フロイト全集19から『制止、症状、不安』第8章

 岩波版の第8章の検討に進みます。前の2つの章と比べ、この章には直すべきと思える箇所が非常に多く見つかったので、今回は長くなりました。一つ一つはさほど読解に影響しなかったりもするので、どこまで拾い上げたらよいかも迷いました。

 まずは次の箇所から。

私たちは、不安の本質私たちに解明してくれるようなひとつの認識を求めている。つまり、不安について、その真実と誤謬を区別してくれるような〈あれか、これか〉を求めている。しかし、これを得るのは困難であり、不安を把握することはそれほど容易ではない。(岩波版59頁、下線は引用者が付した)

 一つ目の文の「不安の本質が私たちに解明してくれる」は、原文を見ると「不安の本質を私たちに解明してくれる」とも取ることができます。文法的にはどちらも可能ですが、直後の二文の内容と見比べてみれば、「不安の本質を」と解釈せざるを得ません。

 次は文脈に関する点なので段落全体を引用します。

不安の原因を出生という出来事に求めるなら、当然予測される反論に対して弁護する必要がある。反論とはこうである。不安はおそらくあらゆる生物、少なくともあらゆる高等生物に起こる反応であり、出生を体験するのは哺乳類に限られるので、出生が全ての哺乳類にとって外傷の意味を持つとするのは疑問である。つまり、出生をその手本としない不安というものがある、と。しかし、この反論は、生物学と心理学の間の垣根を越えて立てられている。不安が危険の状態に対する反応として生物学的になくてはならない機能を果さねばならないという、まさにそれゆえにこそ、不安はさまざまな生物において、さまざまな仕方で準備されていなくてはならない。人間とかけ離れた生物にあって、私たちには、不安の感覚と神経支配が人間の場合と同じものなのかどうかもわからない。だからといって、人間にあっては不安の原型は出生過程にあるとする考え方が妨げられるわけではない。(岩波版61頁9~10行、下線は引用者が付した)

 「だからといって」は原文で「also」ですが、「それゆえ」に訂正しないと段落全体の論理が理解困難と思います。

 次です。

個人がある新たな危険状況に陥った際、その時点での危険に見合った適切な反応を示す代わりに、不安状態すなわち昔の危険に対する反応でもって応えるなら、容易に目的にかなったものではなくなってしまう。しかし、危険状況が切迫していると認識され、不安の噴出という信号で注意喚起されるならば、そこには再び合目的性が見いだされる。(岩波版62頁、下線は引用者が付した)

 「signalisieren」という動詞については前回も取り上げました。ここでは「信号で注意喚起する」という訳になっていますが、フロイト理論で「注意Aufmerksamkeit」という語は一つの特殊な働きを指しますので、このように別の語を訳す際の補足としては用いない方が良いです。前回述べたように、「信号される」と訳しておいて「知らされる」とルビを振るのがよいと個人的には思いますが、とりあえず下線部について、「不安の噴出によって信号される[=知らされる]ならば」という代案を提案しておきます。なお、引用しませんでしたが、3行後ろの名詞「注意喚起」も「信号」とすべきです。

 次へいきましょう。

出生の危険と言う時、その語にまだ心的な内実は全くない。確かに私たちは胎児に関して、それが生命の破滅というあり得べき帰結について何か知識らしいものを持つと前提とすることはできない。胎児に気づくことができるのは、彼のナルシス的リビードの経済における巨大な障碍にほかならない。巨大な興奮量が彼のもとに押し寄せ、新種の不快の感覚を生み出し、少なからぬ器官が無理に備給を高め、それは程なく始まる対象備給の序曲のようなものである。このうちのどの器官が「危険状況」を印づける目印として用いられることになるのだろうか。(岩波版62頁)

 下線部「was davon」を、「このうちのどれ」に変更すべきと思います。つまりここは前の文の全体を指しているのであって、「少なからぬ器官」のみを指しているのではないと思います。

 次です。

憧れの人物の想起像は間違いなく強く備給され、恐らく当初は幻覚のように備給されるのだろう。しかしそれは実を結ばないので、まるでこの憧れが不安へと転じるかのように見える。あたかもこの不安が困惑の表現であり、まだまだ未発達の人間が、この憧れの備給で事情をどう好転させたらよいのか皆目わからずにいるかのような印象を与える。つまり、不安は対象の不在に対する反応であると思われる、そして以下のことを私たちに類推させられる。すなわち、去勢不安もまた、貴重と思われていた対象からの分離を内実とし、そして、根源的な不安(出生の「原不安」)は母親からの分離の際に出現する、と。(岩波版64~65頁)

 「ersehnen」は辞書では「待望する」ですし、「Sehnsucht」を「思慕」として訳し分けるよう代案を提案します。他にも、最後の一文は現在と過去がひっくり返っていたりと、細かい不適切箇所があります。

待望される人物の想起像は間違いなく強く備給され、恐らく当初は幻覚のように備給されるのだろう。しかしそれは実を結ばないので、まるでこの思慕が不安へと転じるかのように見える。あたかもこの不安が困惑の表現であり、まだまだ未発達の人間が、この思慕の備給をうまく扱う術を皆目わからずにいるかのような印象を与える。つまり、不安は対象の不在に対する反応であると思われる、そして以下のことを私たちに類推させられる。すなわち、去勢不安もまた、貴重と思われている対象からの分離を内実とし、そして、根源的な不安(出生の「原不安」)は母親からの分離の際に出現した、と。(岩波版64~65頁)

 ここで「分離」とされているのは全て「Trennung」の訳なので、前回も論じておいた理由から、「分断」とか「切断」が良いと思います。

 次は岩波版のままでも良いかなと思いましたが、一応、代案と並べて紹介しておきます。

外部の対象が、知覚によってとらえられ、出生時を喚起するような危険な状況に終止符を打ってくれる・・・(岩波版65頁)

知覚によってとらえられうる外部の対象が、出生時を喚起するような危険な状況に終止符を打ってくれる・・・(代案)

 次。

まず当初、自分の体を新たにしつらえることによって胎児の欲求をすべて満たしていた母親は、子供の出生後も同じ機能を部分的に、別の手段によって継続する。(66頁、下線は引用者が付した)

 下線部「durch die Einrichtungen ihres Leibes」は、「自分の体のいくつかの仕組みによって」ぐらいでよいです。

 次の箇所は、細かな訂正点の連続なので、まず代案と並べてみてもらいましょう。

対象喪失という不安の条件は、今後も引き続き大きな影響力をもつ。次に引き続く不安の変容はこれもまた去勢不安で、ファルス期に出現する。この去勢不安は分離への不安であり、同じ条件に結びついている。ここでの危険とは、性器が分離されてしまうことである。フェレンツィの至極正当な思考の道筋によって、私たちはここにおける早期の危険状況の内実との関連をはっきりと知ることができる。ペニスに対する高いナルシス的な評価は、この器官を所有することが、性交行為において母親(母親の代替物)と再び合一するための保証を含意する、という点に基づくであろう。男根が剥奪されてしまうことは、母親との新たな分離を示唆することにほかならず、それゆえ再び(出生の時のような)不快に満ちた欲求の緊張に寄る辺なく晒されることを意味する。しかし、その亢進が恐れられている欲求は、特殊化されたもの、すなわち性器的リビードの欲求であって、もはや乳児期のような恣意的なものではない。(岩波版66~67頁、下線は引用者が付した)

対象喪失という不安の条件は、今後も引き続き大きな影響力をもつ。次に引き続く不安の変容は去勢不安で、ファルス期に出現する。この去勢不安はこれもまた分離への不安であり、同じ条件に結びついている。ここでの危険とは、性器が分離されてしまうことである。フェレンツィの至極正当な思考の道筋によって、私たちはここに、危険状況のより早期の内実との関連をはっきりと知ることができる。ペニスに対する高いナルシス的な評価は、この器官を所有することが、性交行為において母親(母親の代替物)と再び合一するための保証を含意する、という点に基づくであろう。男根が剥奪されてしまうことは、母親との新たな分離を示唆することにほかならず、それゆえ再び(出生の時のような)不快に満ちた欲求の緊張に寄る辺なく晒されることを意味する。しかしいま、その亢進が恐れられている欲求は、特殊化されたもの、すなわち性器的リビードの欲求であって、もはや乳児期のような任意のものではない。(代案、下線は変更箇所)

 ここには、あえて訂正しませんでしたが訳語の問題もありまして、上にも触れたように「分離」を「分断」か「切断」ぐらいにすべきであるのと、「男根」はふつう「ファルス」の訳として用いられる同義語なので、上の引用の後ろから二つ目の文にある「男根Glied」には「陰茎」の訳語が良いと思います。

 次は論文タイトルにもある「制止」という語の訳語の統一性にも関わってくる箇所です。

一つ目は、エスにおいて、自我に対し危険状況の一つを賦課する何ものかが生じ、制止のために、これが自我に対し不安信号を送るように駆り立てる場合である。(岩波版68頁)

一つ目は、エスにおいて、自我に対し危険状況の一つを賦課する何ものかが生じ、したがって自我が、阻害のために不安信号を送るように駆り立てられる場合である。(代案)

 次も語句レベルの訂正点なので、代案と並べて紹介します。

すなわち、禁欲や、性欲の蠢きの流れがその乱用によって阻害される場合、また、性欲の蠢きがその心的加工から逸脱する場合には、不安が直接リビードから生じる。(岩波版69頁、下線は引用者が付した)

すなわち、禁欲や、性的興奮の経過がその乱用によって阻害される場合、また、性的興奮がその心的処理から転導される場合には、不安が直接リビードから生じる。(代案、下線は変更箇所)

 次も主に訳語の統一性についてです。

その場合は恐らく、不安を一時的に宙づりにしておくことを学び取っている自我はそこから逸れ、次いで症状形成によって不安を縛り付けておこうと試みるのである。(岩波版69頁、下線は引用者が付した)

 はじめの下線部は原文で「ersparen」で、この論文の岩波版では、45頁1行目「省略する」や13行目「せずに済ませている」、51頁1行目「なしで済ませた」といったあたりに既出の語です。二つ目の下線部「binden」は他のほとんどの箇所で「拘束する」と統一されています。

その場合は恐らく、不安を一時的に宙づりにしておくことを学び取っている自我は、この不安をなしで済ませ、次いで症状形成によって不安を拘束しようと試みるのである。(代案、下線は変更箇所)

 次の箇所は、ややこしいので代案も並べて示しましょう。

心的な寄る辺なさという危険は、自我の未熟な時期と対をなす。例えば、対象喪失の危険は小児期のはじめにおける自立の欠如と、また、去勢の危険はファルス期と、超自我への不安は潜伏期とそれぞれ対をなす。他方で、これらの危険状況と不安条件が全て並列的に存続し、自我に不安反応を引き起こさせる。それは、本来の相応しい時期よりも遅い時期のこともあれば、それらのいくつかの時期が同時に作用することもある。(岩波版69~70頁、下線は引用者が付した)

心的な寄る辺なさという危険は、自我の未熟な時期と対をなす。例えば、対象喪失の危険は小児期のはじめにおける自立の欠如と、また、去勢の危険はファルス期と、超自我への不安は潜伏期とそれぞれ対をなす。他方で、これらの危険状況と不安条件が全て並列的に存続し、本来の相応しい時期よりも遅い時期に自我に不安反応を引き起こさせうるあるいはそれらのいくつか[のみ]が同時に作用することもある。(代案、下線は変更箇所)

 原文を見る限り、岩波版の訳のように「遅い時期か、いくつかの時期か」という択一ではなく、「全ての時期か、そのいくつかの時期か」という択一のようです(Aber es koennen doch alle diese Gefahrsituationen und Angstbedingungen...[略], oder es koennen mehrere von ihnen...[略])。

 次が最後ですが、ここも代案と並べて見ていただきます。最初の下線部は、フロイトの他の著作のいくつかで繰り返し論じられている点です。

これまでは、抑圧過程のうち、意識と運動の間の妨害と、代替物(症状)形成という、自我に向いた側に目を向けるだけで事足れりとして、抑圧された欲動の蠢きに関してすら、それが無意識において未規定の形で長期に変化せぬまま存続する、と想定していた。(岩波版71頁註、下線は引用者が付した)

これまでは、抑圧過程のうち、意識や運動への妨害と、代替物(症状)形成という、自我に向いた側に目を向けるだけで事足れりとして、抑圧された欲動の蠢きに関してすら、それが無意識においていつまでも長く変化せぬまま存続する、と想定していた。(代案、下線は変更箇所)

 最後に訳語についてもう少し補っておきます。まず59頁14行目の「分離」は、ここまで区別すべきと論じてきた「Entmischung」「Trennung」のいずれとも違い、原文で「Isolieren」ですので、まあ「単離」ぐらいに訳しておくと良いと思います。次いで60頁1行目で、不安が呼吸や心拍に影響を与えることについて「運動性の神経支配、つまり放散過程」と書かれている部分は、私の訳語選択では「運動出力性の神経伝達、つまり放散過程」としたいところですし、ここ以外にもいくつかでてくる「運動性」「神経支配」の語はみな「運動出力性」「神経伝達」がよいでしょう。「神経支配」というと、解剖学的・静的な構造を指すように思えてしまいます。今回の記事の最後の引用箇所、71頁の註の「意識や運動への妨害」も、「意識や運動出力への妨害」がいいと思います。

1925-28年 否定 制止,症状,不安 素人分析の問題 (フロイト全集 第19巻) 

フロイト (著), 加藤 敏 (編集)

出版社: 岩波書店 (2010/6/26)

 FISCHER社のポケット版では、岩波版59頁11行目の 「さまざまな不快な情動」の箇所が「Verlustaffektenさまざまな喪失情動」になっていまして、意味からして明らかに誤りと思います。実際、ネットで読める原文では「Unlustaffekten」となっていまして、そちらが正しいでしょう。前の章にも誤植と思われる箇所があったことをここに書きましたが、この論文に関してはFISCHERのポケット版はあまり信用してはいけないかもしれません。このシリーズは、他の論文ではほとんど誤植に気づくこともありませんし、入手容易で持ち運びも軽く重宝しているのですが。

2012年1月29日 (日)

フロイト全集19から『制止、症状、不安』第7章

 岩波版の第7章の検討に進みます。

それゆえ、動物恐怖症の不安は、自我の危険に対する情動的反応である。ここで信号化される危険とは、去勢の危険である。(岩波版54頁)

 「自我の危険に対する情動的反応」の箇所ですが、「自我の」は、「危険」ではなく「反応」にかかります。日本語表現でそれを強調するとしたら「危険に対する、自我の情動的反応である」とでもすると良いかもしれません。

 また、「ここで信号化される危険」の箇所は原文で「die Gefahr, die hier signalisiert wird」なので、むしろ危険は信号で伝えられる内容であって、危険そのものが信号になるわけではないと思います。ですので「signalisieren」の訳としては「信号で知らせる」というのが素直で、上の箇所の訳としては「ここで信号で知らされる危険」とでもすべきでしょう。

 ところで、岩波版では、次の二箇所では「注意喚起の信号を送る」という訳がなされています。

症状は、不安の増長によって注意喚起の信号を送られる危険状況を避けるために作り出されるのだ、と言ったほうがより正しい。(岩波版56頁、下線は引用者)

こうして私たちには、不安は情動として注意喚起の信号を送るのみならず、状況の経済論的諸条件を出発点に新たに生み出されることになる、という第二の可能性をまのあたりにするのであることも考え併せねばならない。(岩波版58頁、下線は引用者)

 「信号で知らせる」とするにせよ「注意喚起の信号を送る」とするにせよ、もともと一語の動詞であった語なのに、「信号」という名詞を含む表現に訳してしまうと、意味は正しくても読みにくくなってしまうきらいがあります。私としては、上の3箇所はいずれも受動形なので、「信号される」という一語で訳しておいて、「信号」には「しら」というルビを振って、「知らされる」と読ませるのがシンプルでよいと思います。このブログではルビを振れないので、次のように表記しておきます。

それゆえ、動物恐怖症の不安は、危険に対する、自我の情動的反応である。ここで信号される[=知らされる]危険とは、去勢の危険である。(岩波版54頁の代案、下線は変更箇所)

症状は、不安の増長によって信号される[=知らされる]危険状況を避けるために作り出されるのだ、と言ったほうがより正しい。(岩波版56頁の代案、下線は変更箇所)

こうして私たちには、不安は情動として信号される[=知らされる]のみならず、状況の経済論的諸条件を出発点に新たに生み出されることになる、という第二の可能性をまのあたりにするのであることも考え併せねばならない。(岩波版58頁の代案、下線は変更箇所)

 次の箇所は、前後の文脈には波及しない短い箇所ですし、代案も並べて紹介します。

こうした限定が選択されるに際しては、彼の神経症すべてを支配しているさまざまな小児的な契機の影響が示されている。(岩波版55頁)

こうした限定が選択されるに際しては、神経症によって彼を支配しているさまざまな小児的な契機の影響が示されている。(代案)

 さらに次へ行きます。これも一文で完結する箇所なので、代案とまとめて紹介します。

しかし、超自我のいかなる側面を自我が恐れているのか、と問うならば、超自我による懲罰は去勢懲罰から発展的に形成されたものである、という考え方が浮かび上がる。(岩波版56頁)

しかし、超自我の側からの何を自我が恐れているのか、と問うならば、超自我による懲罰は去勢懲罰から発展的に形成されたものである、という考え方が浮かび上がる。(代案)

 最後は日本語の問題です。

私たちは不安を、これまでは危険の情動信号と見なしてきたが、今では不安は、去勢の危険に関することが非常に多い点からして、喪失、分離に対する反応であると私たちには見える。この結論に反するようないくつかの事柄も、これはすぐ後で示されるが、私たちは極めて奇妙な一致があることに驚かざるを得ない。(岩波版58頁)

 引用箇所の二文目の意味が私には読みとりにくいので、次のように提案します。

この結論に反するようないくつかの事柄 -これはすぐ後で示される- もあるかもしれないが、私たちは極めて奇妙な一致があることに驚かざるを得ない。(代案)

 なお、上に引用した一文目に含まれる「分離Trennung」は、たとえば41頁などで「欲動の分離」という際に用いられた「Entmischung」とは原語が違いますし、別の訳語、「分断」「切離」などが良いのではないかと思います。これは同じ58頁に何度も登場します。

 訳語について最後にまとめて指摘しておきます。52頁2~3行目の「結びつき」は他の箇所と統一するなら「拘束」とすべきです。逆に53頁の8~9行目の「制止」は、他の箇所で「制止」と訳されている語ではないので別の語にすべきで、「阻害」ぐらいが良いでしょう。同じく53頁14行目の「危機」は「危険」に、58頁1行目の「刺激量」は、「興奮量」とすべきです。

 蛇足ですが、次の引用箇所の「直接的direkt」の箇所は、私が使っているFISCHER社のポケット版の原文では「間接的indirekt」とありました。ネットでは「direkt」と書かれた原文が探せたので、おそらく岩波版のままで正しいでしょう。

不安を自我の危険に対する反応であるとみるならば、生き延びることができた生命の危険に引き続いて起こることが非常に多い外傷性神経症を、生命の不安あるいは死の不安の直接的帰結としてとらえるのは自然で、この場合、自我の依存性や去勢は考慮に入れられない。(岩波版56~57頁)

1925-28年 否定 制止,症状,不安 素人分析の問題 (フロイト全集 第19巻) 

フロイト (著), 加藤 敏 (編集)

出版社: 岩波書店 (2010/6/26)

2012年1月15日 (日)

フロイト全集19から『制止、症状、不安』第6章

 この論文の岩波版の検討を続けてきましたが、今回は第6章に進みます。

強迫神経症儀礼は、なかったことにする、という意図にその第二の根を持っている。第一の根は、ある特定の事柄が起こらないように、あるいは反復しないように、という予防であり用心である。両者の差異は容易に把握できる。用心の措置は合理的であり、なかったことにすることで「棚上げ」するのは非合理的で、魔術的性質のものである。むろんこの第二の根の方がより古いもので、環境世界に対するアニミズム的態度に由来するものだと想定しなければならない。なかったことにすることへの努力は、出来事を「《起コラナカッタ》」こととして扱うその決然とした仕方において、正常なものに対して際立った様相を呈するが、しかし、そこから先なんの対抗策もとられることなく、出来事もその帰結も気にされることがない。他方で神経症においては、過去を自ら解消し、身体運動によって抑圧しようと努める。(岩波版47頁、下線は引用者が付した)

 一つ目の下線部「(なかったことにすることへの努力は)正常なものに対して際立った様相を呈する」は、原文では文頭にあり、「seine Abschattung zum Normalen findet」です。文頭にある以上、「seine」は、前文の「第二の根」を指していると思われます(もちろん「アニミズム的態度」の可能性もありますが、前文全体が「第二の根」について語っているのでこちらをとります)。さらに「Abschattung」を辞書で引くと、「1)abschattenすること 2)輪郭、シルエット」(小学館独和大辞典)、「1)輪郭、略図 2)陰影、《哲》射映」(博友社大独和辞典)とあり、動詞「abschatten」は「1)…に陰影〈濃淡〉をつけ[て際立たせ]る 2)暗くする、影にする 3)…の輪郭〈シルエット〉を描く」(小学館)、「1)輪郭〈略図〉を描く 2)陰影〈濃淡・ニュアンス〉をつける」(博友社)とあります。私はここを、「第二の根は正常なものにも影を落としている」、つまり正常者にもその痕跡が認められるという意味だと考えます。よって下線部について以下のように代案を提案します。

[正常なものが]出来事を「《起コラナカッタ》」こととして扱おうという決心の際の、なかったことにすることへの努力において、第二の根が正常なものにも影を落としている。しかし、[正常なものでは]そこから先なんの対抗策もとられることなく、出来事もその帰結も気にされることがない。(代案)

 これの次の文で下線を付した「身体運動によって抑圧」の箇所ですが、ここは「抑圧」の原語「Verdraengung」の意味に帰って、「押しのけ」「排外」「圧排」といった意味を念頭に置かないと、なかなか腑に落ちないところだと思います。日本語の「抑圧」という語は、心の奥底へ押さえつけるといったニュアンスで読んでしまいがちですので注意が必要でしょう。この段落の最後の文(引用箇所よりもはるか後ろ)の「抑圧」もそうです。

 その次の段落には「その連想的諸連関は抑圧されるか中断されて」という部分(48頁10行目)がありますが、そこで「抑圧」と訳されている語は原書で「unterdruecken」なので「禁圧」か「抑え込む」(←岩波の全集では多くの論文でこれが使われている)ぐらいが良いでしょう。

 次です。

正常な集中の過程は、神経症のこのような手続きにかこつけてなされている。(岩波版48頁)

 これは主語と目的語が逆です。

神経症のこのような手続きは、正常な集中の過程にかこつけてなされる。(代案)

 この短い段落の問題点はこれぐらいだと思います。

1925-28年 否定 制止,症状,不安 素人分析の問題 (フロイト全集 第19巻)

フロイト (著), 加藤 敏 (編集)

出版社: 岩波書店 (2010/6/26)

 今年のセンター試験の国語の問題は木村敏でしたので、新聞の問題文を読んでみました。私はいつも木村敏の自己論はまさしく国語の問題にすぎないという気がしてるんですが、この問題文の内容からもやはりそういう印象を受けました。

2012年1月 5日 (木)

フロイト全集19から『制止、症状、不安』第5章(2)

 あけましておめでとうございます。今年は、再び我々の生活を大きく脅かすような出来事がないことを切に願っています。

 見通しをつけづらい論文、『制止 症状 不安』の岩波版を、行きつ戻りつしながら読み進めていますが、結局、5章以降は原文と一字一句照らし合わせてみることにしました。すでにこのブログでは、5章の翻訳上の問題を取り上げたことがありましたが、原書と突き合わせてまた新たに見つかった点を紹介します。

また、強迫神経症においては、いつも、その最下層において極めて早期に形成されたヒステリー症状が見出されるようである。しかし、それ以降の形成は、ある体質的要因によって決定的な仕方で変容させられる。リビードの性器的編成は、脆弱で、あまりにも抵抗力を欠いていることが明らかとなる。自我が、自らの防衛努力を開始した際に自我が手にする最初の成果は、自我が、(ファルス期の)性器的編成が完全に、あるいは部分的に、それ以前のサディズム肛門期へと逆戻りさせられる、ということである。(岩波版40頁、下線は引用者)

 これは誤植のようで(私はどうして一度目に読んだとき気づかなかったのでしょう)、三つめの「自我が」を省いてください。なお、その直前の「成果Erfolg」は、41頁10行目で同じ事態が説明される際には「戦果」とされています。

 次の問題点に移ります。

早期小児期の自慰を続けようとする誘惑は、容赦なく厳禁され、それゆえにまた必ずしも成功せず、退行的(サディズム肛門的)表象に依拠するようになる。他方でその誘惑はまた、ファルス的編成への抑えつけようのない関与を代理表現している。(岩波版42頁、下線は引用者)

 この訳文では、「成功せず」の主語は「誘惑」であるかのように読めますが、原文は違います。

早期小児期の自慰を続けようとする誘惑は、容赦なく -だからといって必ずしも成功しないが- 厳禁され、いまや退行的(サディズム肛門的)表象に依拠するようになる。他方でその誘惑はまた、ファルス的編成の克服されていない関与を代理表現している。(代案、下線は変更箇所)

 二つ目の下線部は、何が何に関与しているかという事項関係に関する訂正と、「bezwingen」の訳語を岩波版40頁8行目と統一するという点で変更しました。

 次です。

なぜなら、まさしく抑圧された自慰が強迫的行為という形で、満足への接近をどこまでも追求するからである。(岩波版42頁、下線は引用者)

 いつものことですが、「抑圧」は「verdraengen」の定訳なので、ここの「unterdruecken」は「禁圧する」とか、岩波の全集のたとえば『精神分析概説』など多くの後期論文で用いられていた「抑え込む」といった訳にしたほうが良いでしょう(岩波版44頁6行目の「抑圧」も同様です)。二つ目の下線部については些細な変更かもしれませんが一応直しておきます。

なぜなら、まさしく抑え込まれた自慰が強迫的行為という形で、満足へのかぎりない接近を掴み取るからである。(代案、下線は変更箇所)

 次です。

ヒステリーの防衛過程は抑圧に限定され、そこでは、自我は好ましくない欲動の蠢きを避けて、無意識の経過にこれを委ね、その運命にこれ以上関与しない。もちろん、このことが唯一正しいわけではないが、実際、私たちは、ヒステリー症状が同時に超自我の懲罰要求の満足を意味するような症例を知っている。(岩波版42頁、下線は引用者)

 下線部の日本語表現からすると、その後には、ヒステリーの防衛過程が抑圧に限定されているような例が挙げられるであろうと思えますが、そのあと実際に挙げられているのは、ヒステリーが抑圧以外の役割を果たすような例です。以下のように訂正します。

ヒステリーの防衛過程は抑圧に限定され、そこでは、自我は好ましくない欲動の蠢きを避けて、無意識の経過にこれを委ね、その運命にこれ以上関与しない。もちろん、このことが唯一正しいわけではない。というのも、実際、私たちは、ヒステリー症状が同時に超自我の懲罰要求の満足を意味するような症例を知っている。(代案、下線は変更箇所)

 次です。

かくして、一方では幼児期の攻撃的な蠢きが再び目覚め、他方では新たなリビード的蠢きの、程度差はあっても大きな部分 -最悪の場合にはその全部- が、退行によって予め敷かれた軌道に従い、攻撃的で破壊的な意図として登場する。このような性愛的要求の仮装と、自我における強い反動形成の帰結として、ここに性欲に対する闘いが、倫理的な旗幟のもとで継続される。(岩波版44頁、下線は引用者)

 下線部ですが、原文では「Infolge dieser Verkleidung der erotischen Sterebungen und der starken Reaktionsbildungen im Ich」とあり、2つ目の「der」は、「Reaktionsbildungen」が複数形ですから2格であり、「der erotischen Sterebungen」と同格です。岩波版ではこの「der」を誤って3格と解したようで、「dieser Verkleidung」と同格であるかのように訳されています。この点を改めて(ついでに私なりの訳語選択で「Strebung」を「要求」ではなく「志向」と訳して)、以下のように提案します。

かくして、一方では幼児期の攻撃的な蠢きが再び目覚め、他方では新たなリビード的蠢きの、程度差はあっても大きな部分 -最悪の場合にはその全部- が、退行によって予め敷かれた軌道に従い、攻撃的で破壊的な意図として登場する。性愛的志向と自我における強い反動形成とのこのような仮装の帰結として、ここに性欲に対する闘いが、倫理的な旗幟のもとで継続される。(代案、下線は変更箇所)

 次の箇所で今回の最後にしましょう。

この疾病を最初から支配していた、エスと超自我との間の極度に先鋭化された葛藤は、無力で媒介しえない自我がどのような方策を用いても、それに巻き込まれることから逃れようがなくなるほどに拡張することもある。(岩波版44頁、下線は引用者)

 下線部「zur Vermittlung unfaehig」ですが、「(エスと超自我とを)調停しえない」ということでしょう。

1925-28年 否定 制止,症状,不安 素人分析の問題 (フロイト全集 第19巻)

フロイト (著), 加藤 敏 (編集)

出版社: 岩波書店 (2010/6/26)

2011年12月21日 (水)

フロイト全集19から『制止、症状、不安』第4章(3)

 この論文は何度もわからなくなって元に戻って読み返しているのですが、第4章にまたひとつ翻訳上の問題が見つかりました。

・・・その後私は、第三の症例として、ある若いアメリカ人を見出した。彼において動物恐怖症は形成されなかったが、まさにこの欠落ゆえに他の症例を理解する一助となるのである。彼の性的な蠢きは、彼が読み聞かせをしてもらうある空想的な子供用の物語によって燃え立つのだったが、それは、食べることのできる物質でできている人間(ジンジャーブレッドマン)を、食べてしまうために追いかけて捕まえるアラビアの酋長についてのものだった。彼自身この食べることのできる人間と同一化しており、酋長が父の代替物なのは容易に見て取れるが、この空想が彼の自体性愛的な活動の最初の基礎となった。父親に食われるという表象は、幼児が保持する典型的かつ太古的な財産であり、神話(クロノス)や動物生態との類似は広く知られている。
 このように病的性格を緩和させる事情があるにもかかわらず、この表象の内容は、私たちにとってやはり異様なものであり、これを子供において認めることができるとは信じがたいことである。(岩波版30~31頁、下線は引用者)

 一つ目の下線部の『容易に見て取れる』は『leicht kenntlich』、二つ目の『病的性格を緩和させる』は『Erleichterung』です。後者の語には『leicht』という部分が含まれることから、一つ目の下線部を踏まえており、『容易化』といった意味になると考えるのが自然だと思います。

 ですので二段落目は次のように訳したほうがつながりが分かりやすそうです。

 このような容易化にもかかわらず、この表象の内容は、私たちにとってやはり異様なものであり、これを子供において認めることができるとは信じがたいことである。(代案、下線は変更箇所)

 すでにこの章については二度
http://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-2784.html
http://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-44eb.html
扱っているので、それらと併せて参考にしていただければ幸いです。気づいては付け加える繰り返しになってしまて読みづらいでしょうが、これも、私にとってはその時々に考えたことの日記でもありますのでご寛恕ください。

1925-28年 否定 制止,症状,不安 素人分析の問題 (フロイト全集 第19巻) 

フロイト (著), 加藤 敏 (編集)

出版社: 岩波書店 (2010/6/26)

2011年12月14日 (水)

フロイト全集19から『制止、症状、不安』第3章(2)

 この論文は難しいので何度も前に戻って読み直しています。第3章の翻訳の問題点はすでに取り上げました。http://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-1c6f.html

 しかし前回取り上げた以外にもいくつか訂正すべき箇所があると思われたのでもう一度検討してみます。

通常は、抑圧されるべき欲動の蠢きは孤立したままである。抑圧の行為が自我の強さを私たちに示すものだとしても、抑圧はまた一方で、自我は無力であり、エスの個々の欲動の欲動の蠢きに対し、影響を及ぼせないことを明らかにする。というのも、抑圧によって症状へと生成する過程は、自らの存在を、自我編成の外部において、それとは無関係に主張するからである。(岩波版22~23頁、下線は引用者)

 下線部「生成する」は、「geworden ist」なので完了形です。「nun」という一語も抜けています。代案は次のようになります。

通常は、抑圧されるべき欲動の蠢きは孤立したままである。抑圧の行為が自我の強さを私たちに示すものだとしても、抑圧はまた一方で、自我は無力であり、エスの個々の欲動の欲動の蠢きに対し、影響を及ぼせないことを明らかにする。というのも、抑圧によってすでに症状になった過程は、いまや自らの存在を、自我編成の外部において、それとは無関係に主張するからである。(代案、下線は変更箇所)

 次の疑問箇所です。

自我の非性化されたエネルギーは、それが結合と統一化を求める努力のうちにも自らの由来を物語っており、この総合への強迫は、自我が力強く増長すれば増長するほど増大する。このようにして、自我がまた、症状を何とかして自らに結びつけ、その紐帯を介して自らの編成に組み込むため、あらゆる可能な方法を用いて症状の異質性と孤立とを解消しようと試みるのは、納得のゆくところである。(岩波版23頁、下線は引用者)

 下線の「結合」は、原文では「Bindung」で、岩波の全集ではたいてい「拘束」と訳されています。フロイトはこれ以外の論文で、拘束されたエネルギーと拘束されないエネルギーという分類を行っていますから、ここでもエネルギーの拘束と関連した話題なのかもしれません。二つ目の下線も動詞形ですが同じことです。

自我の非性化されたエネルギーは、それが拘束と統一化を求める努力のうちにも自らの由来を物語っており、この総合への強迫は、自我が力強く増長すれば増長するほど増大する。このようにして、自我がまた、症状を何とかして自らに拘束し、その紐帯を介して自らの編成に組み込むため、あらゆる可能な方法を用いて症状の異質性と孤立とを解消しようと試みるのは、納得のゆくところである。(代案、下線は変更箇所)

 次は単なる訳し落としです。

パラノイアにおける妄想形成では、患者たちの鋭敏な感覚と空想に対し、彼らにとっては求めようがない一つの活動領野が切り開かれる。(岩波版25頁)

パラノイアにおける妄想形成では、患者たちの鋭敏な感覚と空想に対し、彼らにとってほかでは求めようがない一つの活動領野が切り開かれる。(下線は追加箇所)

 前回の訂正箇所と合わせて、少しでも読みやすくなると良いんですが。

1925-28年 否定 制止,症状,不安 素人分析の問題 (フロイト全集 第19巻) 

フロイト (著), 加藤 敏 (編集)

出版社: 岩波書店 (2010/6/26)

2011年10月24日 (月)

フロイト全集19から『制止、症状、不安』第5章

 この章の訳文は、第4章に比べると問題となる箇所が少なく、またそれぞれ訂正すべき部分も短いのですが、少しでも読みやすくするための代案を提案してみます。

 拘縮は通常、その当時は、当人が意図の支配下にあった筋肉の神経伝達が別の部位へとずらし移されることである。けいれん発作は、自我による正規の制御から逃れたことによる突発的興奮の表現である。(岩波版邦訳38頁)

 拘縮は通常、その当時別の部位で意図されていた、筋肉への神経伝達が、[当該部位へと]ずらし移されることである。けいれん発作は、自我による正規の制御から逃れた情動突発の表現である。(代案)

 二文とも微妙な違いではありますが、邦訳はやや不正確です。

 次に移りましょう。

強迫神経症の症状は一般的に二種類あり、両者は対立する傾向がある。禁止、予防的措置、懲罰のような、すなわち否定的性質のものであるか、あるいは逆に代償的満足であって、こちらは極めて多くの場合、象徴的偽装を纏う。(岩波版邦訳39頁)

強迫神経症の症状は一般的に二種類あり、両者は対立する傾向のものである。禁止、予防的措置、償いのような、すなわち否定的性質のものであるか、あるいは逆に代償的満足であって、こちらは極めて多くの場合、象徴的偽装を纏う。(代案)

 岩波版で「懲罰」とされている「Busse」は辞書によれば「償い」「贖罪」です。

 次です。

最も新鮮な症例においては、症状が二つの時期に分かれる。すなわち、一定の指示に従う行動にすぐ続けて、それを棚上げにしたり、あるいは撤回したりする第二の行動がなされる。もっともその指示と反対のことを敢行するほどではまだない。(岩波版邦訳40頁)

最も新鮮な症例においては、症状が二つの時期に分かれる。すなわち、一定の規定を実行する行動にすぐ続けて -その行動と反対のことを実行するほどではまだないにせよ- それを相殺したり、あるいは撤回したりする第二の行動がなされる。(代案)

 岩波版では「aufheben」を「棚上げ」と訳していて、ヘーゲル的な訳語を避けるという意図が伺えますが、ここの文脈で訳語を選ぶならむしろ「相殺」という感じでしょう。

 次にいきましょう。

 私たちのいくつかの前提に対する矛盾の一つとして、好ましからざる強迫的表象がそもそも意識される、という点をあげることができるかもしれない。とはいえ、そのような強迫的表象がかつて抑圧の過程を切り抜けてきたことは疑い得ない。(岩波版邦訳44頁)

 私たちのいくつかの前提に対する矛盾の一つとして、好ましからざる強迫的表象がそもそも意識される、という点をあげることができるかもしれない。とはいえ、そのような強迫的表象がかつて抑圧の過程を通り抜けてきたことは疑い得ない。(代案)

 本当に細かい箇所で、durchmachenという語の訳だけの問題なんですけれど、私の日本語の語感では「切り抜ける」だと影響を受けずに済んだような印象を受けるので、ちょっと違うなあという感じです。

 次にいきます。

抑圧は、攻撃的な欲動の蠢きの内容を蝕みはしなかったとしても、それに付随する情動的性格を払拭してしまった。そこで攻撃性は自我にとって、刺激因ではなく、患者たちの言うように、冷静さを保たせてくれる単なる「思考内容」であると見えることになる。(岩波版邦訳44頁)

抑圧は、攻撃的な欲動の蠢きの内容を蝕みはしなかったとしても、それに付随する情動的性格を除去してしまった。そこで攻撃性は自我にとって、衝動ではなく、患者たちの言うように、冷静さを乱さない単なる「思考内容」であると見えることになる。(代案)

 ここも単語レベルの訳だけの問題です。

 さらに次へいきます。

自我は、贖罪行為や自己懲罰のための制限など一連の新たな症状によって、罪悪意識を知覚せずに済ませている。しかしながら、これらの症状は、マゾヒズム的な欲動の蠢きの満足をも同時に意味する。しかし、その欲動の蠢きは退行によって増幅される。(岩波版邦訳45頁)

自我は、贖罪行為や自己懲罰のための制限など一連の新たな症状によって、罪悪意識を知覚せずに済ませている。しかしながら、これらの症状は、退行によって増幅されたマゾヒズム的な欲動の蠢きの満足をも同時に意味する。(代案)

 岩波版は関係詞節を後ろからひっくり返して訳さないことが多いんですけれど、ここはひっくり返した方がよさそうです。

 次が最後です。

強迫神経症における症状形成の一般的傾向は、すでに記述したところである。社会機能を果たすことが不首尾に終わるという犠牲を払って、代替満足がますます大きな領域を占めるようになる、というのがその趣旨である。元来は自我の制限を意味していた同じ症状は、自我の統合への傾向のお陰で、後には満足の制限をも受け容れる。(岩波版邦訳46頁)

強迫神経症における症状形成の一般的傾向は、すでに記述したところである禁止という面が次第に退いて、代替満足がますます大きな領域を占めるようになる、というのがその趣旨である。元来は自我の制限を意味していた同じ症状は、自我の統合への傾向のお陰で、後には満足の症状という意味も帯びる。(代案)

 代案で「禁止」としたのは原書で「Versagung」です。たとえばこの論文の邦訳26頁には「彼が自らに禁じている満足はどこにあるのか。なぜ彼はその満足を自らに禁じなくてはならないのか」という箇所がありますが、そこで用いられている「禁じているversagen」という語に近い語ということで翻訳を「禁止」に統一しました。ただ私としては頓挫とか断念といった訳の方がよいと思います。(邦訳39頁に「禁止(Verbot)」とあり、同じ事態を表していると思いますが、いちおう原語は違うので区別したほうがよいと思います)。二文目は「満足の症状」とも「満足の制限」とも解釈可能ではありますが、このあとの文との整合性などを考えて「満足の症状」としてみました。

1925-28年 否定 制止,症状,不安 素人分析の問題 (フロイト全集 第19巻) 

フロイト (著), 加藤 敏 (編集)

出版社: 岩波書店 (2010/6/26)

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