ヤスパース

2021年3月10日 (水)

ヤスパース『原論』の再読(第一章)2

 ヤスパースの『原論』を再読して気づいた翻訳問題をこのブログに載せながら読了したのはもうだいぶ昔ですが、最近『了解』という概念が気になって少し開いたら、また問題を見つけたので忘れないうちにここに挙げておきます。

現象学的な要素をみると、病的な精神生活には、われわれにわかりにくいにしても結局都合のよい情況ならはっきりわかるようなものと、本来われわれにはわからない、負のものとしてそうではないとしか言いかえられないようなものとがある。このように、本来われわれが心理的にわかるということによっては手がとどかない要素を静的了解不能、あるいは感情移入不能という。(みすず書房117頁。下線は引用者)

下線部が少々わかりにくく思います。ここは、nur negativ, durch das, was sie nicht sind, umschreiben koennenです。独和辞典でumschreibenをひくと、「遠回しに言う」という感じの意味のようです。それと、訳文中ひらがなの「わかる」の原語はanschaulichですが、これは「鮮明にありありと見えるようにわかる」ということなので、大辞泉で見つけた「現然」(=明らかに見えるさま)という言葉を使ってみます。以前はこの語を独和辞典でひいて見つけた「観照」という訳語が良いかと思ったのですが、国語辞典でこの語をひくと、目に見えるようにという意味はないようなのです。

現象学的な要素をみると、病的な精神生活には、われわれに現然しがたいにしても結局都合のよい情況ならはっきり現然するようなものと、本来われわれには現然しない、負のものとして、それではないものによって、遠回しにしか描かれないようなものとがある。このように、本来われわれの心理的現然ということによっては手がとどかない要素を静的了解不能、あるいは感情移入不能という。(代案)

 ついでにもう一か所、以前の記事(ヤスパースの妄想定義ですが: フロイトの不思議のメモ帳 (cocolog-nifty.com) )でも扱ったところを挙げましょう。

・・・今度は誤られた判断、妄想に移ろう。妄想とはごく漠然と、誤った判断を皆そういうのであって、互いにはっきり区別がつくとは限らないがかなりの程度に次の三つの外面的な特徴を持つ。一 非常な信、何ものにも比べられない主観的な確信。二 経験上こうである筈だとか、こうだからこうなるという正しい論理に従わせることができない。三 内容がありえないこと。(みすず書房版64頁、下線は引用者)

 前回は、下線部の主語が「Man」だということに注目しました。つまり、ここでヤスパースが言っているのは、妄想について世間では普通こう言われている、世間が言う妄想にはだいたいこういう特徴がある、ということに過ぎず、ヤスパース本人の主張ではない、ということです。前回はこの発見で満足してしまい、主語以外のところに目がいきませんでした。今回読み直して気づいたのは、ヤスパースはこれら三つの特徴が相互に区別が難しいといっているのではなく、それら三つの特徴はどれも程度に幅があってあいまいで、どの程度を越えたら妄想レベルなのかという線引きははっきりしない、といっているのだということです。

・・・今度は誤られた判断、妄想観念に移ろう。妄想観念とは世の人がごく漠然と、誤った判断を皆そう名指すのであって、それらは、かなりの -下限を明確化できないが- 程度に、次の三つの外面的な特徴を持つ。一 非常な信、何ものにも比べられない主観的な確信。二 経験上こうである筈だとか、こうだからこうなるという正しい論理に従わせることができない。三 内容がありえないこと。(代案。下線は変更点)

 原書die folgende aeussere Merkmale in einem gewissen hohen -nicht scharf begrenzten- Masse habenという表現のダッシュ句の位置からして代案のようにしか取れないと思います。みすず訳の通りだとしたら、aeussereの前か後ろにダッシュ句が入るはずです。なお、「Man」については、邦訳書の別の箇所に「世の人」という訳語があったので、今回はそれを使いました。それと、前回に続き「Wahnideen妄想観念」という語は字義通り訳しました。ヤスパース自身は、もっと後ろで、妄想観念ではなく妄想体験を重視して論を展開していきます。

精神病理学原論 
カール ヤスパース (著), Karl Jaspers (原著), 西丸 四方 (翻訳)
みすず書房; 限定復刻版 (1971/01)

Allgemeine Psychopathologie Ein Leitfaden Fur Studierende, Arzte Und Psychologen (1913) Karl Jaspers (ペーパーバック - 2009/11)

2021年1月 5日 (火)

シュナイダー『臨床精神病理学序説』2

 ふたつ前の記事で書いたように、この訳書の「妄想」の項がいかに原書から大きくかけ離れているか、ちょっと紹介してみましょう。原文にない箇所はとりあえず青文字にしておきますが、ほとんどが同じシュナイダーの主著(『新版 臨床精神病理学』針間博彦訳、文光堂)から勝手に借用、挿入された箇所です。

 妄想の発生はすべて感情や欲動や、ある種の人格を有する者の内外の体験から、了解し得るものであるとする学者が多い。しかしわれわれはヤスパースやグルーレに従い、真正妄想はかかる了解の出来る妄想様思想から区別さるべきであると信ずる。真正妄想は一次的なものであって、他の体験から導くことのできないものである。

 妄想には妄想知覚と妄想着想の二つの形がある。

 妄想知覚。これは元来正常な知覚に特別の意味が加わり、特に当人に深い関係が付けられる形の妄想である。たとえば道に足袋が落ちているのを見ると、これは自分がつけ狙われるのであると意味付け、街で二人の人が話をしていると、直ちに自分のことを話しているのだと考え、巡査がいると自分が捜索されているという意味にとる。このように、いわれもないのに関係を付けることが本質的なものである。これに反しいわれのある関係付け、たとえば不安とか邪推とかの一定の気分を基にするものは、一次的妄想とは異なるものである、逮捕されるという不安のある者は、階段を昇って来る人を皆警官ではないかと思う。かかる妄想様反応は畢竟我々に了解出来るものであって、妄想知覚とは異なるものである。ここに精神分裂病と異常反応との絶対的の区別がある。ゆえに妄想知覚は精神分裂病の診断に甚だ大切である。しかし実際には必ずしも上の例のごとく直ぐそうと判別がつくとは限らない(以上、主著の邦訳93頁を借用か)。

 人物誤認は妄想知覚のことがある。人物誤認という言葉は種々のものを含み、領識や記憶の障碍のこともあり、錯覚のこともある。失見当識もこれと同様の関係にあり、妄想によることもある。たとえば患者は他の人々がここをどこであるというかを知ってはいるが、更にそれ以上知るところがあるのである。すなわち人々はここを病院だというが、自分は牢屋だと知っているというごときである(以上、主著の邦訳93~94頁を借用か)。

 妄想着想。これは、自分には特別の使命があるとか、追跡迫害されているなどの考えが突然思い付かれたり、あるいは回想されたりすることである。妄想知覚はその構造からはっきりと妄想であることがわかるが、妄想着想は普通の着想や、妄想様思考との区別がない(以上、邦訳94頁と99~100頁を抜粋・借用か)。着想の内容の誤りを訂正しようとしないことや着想の内容の真実性のないことあるいは実際にはあり得ないことなどによって、妄想着想だと定めることはできない。普通の着想は可能性があるから妄想と区別できると思われるかもしれないが、妄想着想も可能性のあることがある。たとえば隣の娘が自分を恋しているという妄想着想は、それだけでは妄想かどうかわからず、また本当に伯爵の落としだねである者が、自分は伯爵の落としだねであるといったために、妄想患者と誤られることもある。われわれに訝しく、奇異と思われる着想を皆妄想であるとしてはならない。できるだけ事実を確かめなければならない。そうして全臨床状態を参酌して初めて妄想と断定できるのである。著しい場合にはもちろん直ちに妄想であることはわかるが、とにかく妄想知覚程決定的なものではない。(以上、主著の邦訳94頁を借用か)

 妄想知覚は精神分裂病にのみ現れる。精神分裂病であって、妄想が著しく、しかも人格の変化があまりなく、支離滅裂思考や感情障碍のないものはパラフレニーとも呼ばれる。妄想知覚の傾向は、癲癇性朦朧状態や急性外因性精神病等にも見られることがある。

 感情状態から了解されるものは妄想様思想と呼ばれる。たとえば鬱病の際の罪過思想や貧困思想がこれで、抑鬱気分が元に復すれば、これらの思想も消える。躁病や誇大型の進行麻痺における、自分は大金持である、何でも出来るなどの誇大妄想も、同様に理解できる。ただし進行麻痺では判断力の減退も、かかる思想の成立に関係がある。

 感情に基づく誤解や曲解は、精神病質者にも正常者にも見られる。身体的及び社会的低格感を有する者は、どこへ行っても自分は変な目で見られるとか、待遇が悪いとか考える。良心に咎のある者は、他人の態度から、人は自分の罪過を知っているので自分をじろじろ見たり、軽蔑したりするのだと思う。かような「妄想」は随分発展することがあるが、完全に了解できるものであって、われわれのいう意味での真正の妄想ではない。かくのごとき状態は妄想性反応と呼ばれる。

 妄想様思想は必ずしも感情の強い体験に関係があると限らず、他の一次性の体験に関係があることもある。酒精幻覚症、熱譫妄、癲癇性朦朧状態から覚めた者が、幻覚的に体験ことを、その後暫くの間本当であると思うことがある。(邦訳108~111頁)

 こうしてみると、じつはもとの文に「妄想着想」という言葉が一度も出てきません。「妄想着想」という言葉を使わずに説明しているという点にこそ、のちの主著とは異なる、本書独自の面白いところがあるのではないでしょうか。

 では、「妄想着想」という言葉を用いない本書原文での論じ方はどのようなものなのか、下に示してみましょう。上では青字にした挿入部分は省き、修正箇所は赤字を使ってみます。訳語の古さは訂正しません。順番の入れ替えや訳し落としも多いことに驚かされます。

 妄想の発生すべて感情や欲動や、人格と内外の体験から、了解し導こうとする学者が多い。しかしわれわれはヤスパースやグルーレに従い、真正妄想はかかる了解の出来る妄想様の体制 -われわれは今後もこれらを扱っていくが- から区別さるべきであると信ずる。真正妄想は一次的なものであって、他の体験から導くことのできないものである。これはとりわけ妄想知覚であきらかであり、ほとんどの妄想はもともと妄想知覚の形を取る。これは元来正常な知覚に特別の意味が加わり、特に当人に意味深い関係が付けられる形の妄想である。そのような患者は、たとえば庭に鳥の死骸が横たわっていると自分もまもなく殺されるはずだと意味付け、街で二人の人が話をしていると、直ちに自分のことを話しているのだと考え、本日はたくさん巡査がいると気づくと自分が捜索されているという意味にとる。このように、いわれもないのに関係を付けること、意味に満ちていることが本質的なものである(グルーレ)妄想知覚と並んで、患者にとって特に重大とされる、着想や想起という形の真正妄想がある。妄想にはしばしば二次的に判断の上塗りが生じ、さらには、秩序だったパラフレニー者とか精神病性「パラノイア者」のように、さらなる体系化に至り得る。

 感情状態から了解され導けるものは妄想様思考と呼ばれ悲哀や高揚といった多くの気分変調で起こる。たとえば循環鬱病の際の罪過思想や貧困思想がこれで、気分が元に復すれば、これらの思考も消える。ここで迫害妄想や、身体的枯渇の妄想や宗教的懲罰妄想を、ある程度までは抑鬱気分から了解できる。躁病や誇大型の進行麻痺における、自分は大金持である、何でも出来るなどの誇大妄想も、高まった気分から同様に了解できる。ただし進行麻痺では判断力の減退も関係がある。

 感情に基づく誤解や曲解による判断は、精神病質者にも正常者にも見られる。身体的及び社会的低格感を有する者は、どこへ行っても自分は変な目で見られるとか、待遇が悪いとか考える。良心に咎のある者は、他人の態度から、人は自分の罪過を知っているので自分をじろじろ見たり、軽蔑したりするのだと思わざるをえない根拠があるにせよ無いにせよ不全感を持つ人間は、広範な「妄想」を発展させることがあるが、完全に了解できるものであって、われわれのいう意味での妄想ではない。かくのごとき状態は反応性または精神病質性のパラノイアと呼んでもよいが、パラノイアという表現は歴史的な手あかのせいで避けることが好まれ、ここではむしろパラノイド反応と言うほうが良い。こうしたあらゆる場合において、事態は多少とも精神病質的な人格からの了解可能な妄想様思想なのか、あるいは詳しく物語られた真正妄想なのか ―とりわけ妄想知覚の形を取るものなのか― というのは、根本的な臨床問題となる。真正妄想は実際上精神分裂病プロセスにのみ現れる。言い換えればわれわれはそれがあるとき精神分裂病という妄想型の精神分裂病であって、人格が長期にわたり保たれ、支離滅裂思考や感情障碍のないものはパラノイド型分裂病またはパラフレニーとも呼ばれる。妄想知覚の兆候は、特に癲癇性朦朧状態やおそらく多くの急性外因性精神病さらに大酒家の精神病等にも見られることがある。

 妄想様の思路は必ずしも感情の強い体験に引き続くと限らず、他の一次性の体験に引き続くこともある。酒精幻覚症、熱譫妄、癲癇性朦朧状態から覚めた者が、幻覚的に体験したことを、その後暫くの間本当であると思うことがある。その現れはきわめて鮮明であって、実際に誰かが、ひょっとすると死者が、自分の枕元に立っていた、と言ってきかないほどである。(試訳)

という具合に、やはり原書に「妄想着想」という言葉は使われていないようです。

 シュナイダーには『妄想問題のむずかしさ』という1938年の論文の邦訳があり(なぜかマトウセック著『妄想知覚論とその周辺』金剛出版1983年や、我が国の学者たちの共著『妄想の臨床』新興医学出版社2013年にひっそりと所収)、そこでは、ヤスパースのいう妄想表象と妄想意識性とを「われわれは妄想着想の概念でまとめることにする」と明言するとともに、妄想知覚は知覚と意味づけという「二節性」が特徴の現象であり、いっぽうで知覚と関係なく一気に思いつく妄想着想は「一節性」の現象であるという名高い区別を導入しています。

 シュナイダーが1931年に書いた『病態心理学序説』という論の時点では、妄想表象と妄想意識性という言葉をヤスパースに従ってそのまま用いているので、おそらくシュナイダーは1930年代中期以降に、これらの概念よりも「妄想着想」と呼んで「一節性」「二節性」の区別と対応させるという自説を固めていったのだと思われ、今回扱った『序説』(1936年)はその過渡期にあって、妄想着想という言葉も一節性二節性という区別も未導入であった、ということだと思います。

 この『臨床精神病理学序説』の邦訳についていえば、後記に拠ればこの本は原著2版(1936年)をもとに1943年に南山堂から出版されたが、戦火で版が消失してしまい、1977年に改めてみすず書房から出版したとのことで、訳者は「回生版」と呼んでいます。シュナイダーの主著『臨床精神病理学』は原著初版が1950年、最初の邦訳は1955年ですから、普通に考えれば、『臨床精神病理学序説』邦訳初版(1943年)にはそこからの引用・挿入があったはずはなく、回生版の際に挿入されたのでしょう。

 この回生版の妄想論は結局、①訳者による挿入箇所には、妄想着想という語が混じり込んでいるが、一節性二節性の区別だけは混じり込まないように注意深く選ばれている、②訳者により省略された部分は診断に関わる箇所が多く、結果的にパラノイアという語が訳書にいちども登場しなくなった、③挿入と省略があるせいで、最終的なボリュームがほぼ元どおりになった、といった点をみると、かなり意図的な操作が行なわれているようにもみえます。邦訳の巻末索引にも「妄想着想Wahneinfall」と原語つきで挙げているのも、確信犯といったところでしょうか。

臨床精神病理学序説 新装版
クルト・シュナイダー (著), 西丸 四方 (翻訳)
出版社 : みすず書房; 新装版 (2014/7/5)

新版 臨床精神病理学 
クルト・シュナイダー、ゲルト・フーバー、ギセラ・グロス、 針間 博彦 (単行本 - 2007/9)
出版社: 文光堂 (2007/09)

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2019年12月19日 (木)

ラカンのヤスパースいじり

 ドイツの精神病理学者ヤスパースは、他者の精神現象の生起を学問的に扱うに当たって、相手の身になってわかることを「了解Verstehen」と呼び、一方で、客観的な因果関係などを扱うことを「説明」と呼んでいます。了解できないときは説明することしかできない、という考え方は、我が国でも精神病理学でよく知られた考え方です。なお、「了解」と訳されるこの「Verstehen」というドイツ語は、ごく日常的に「わかる」「理解する」という意味で用いられる単語でもあります。

 フランスの精神分析家ラカンは、1950年代の講義(セミネール)でこのヤスパースの理論に言及し、精神科医が患者の症状を了解できたと思っても実は間違った理解に陥ってしまうことがあると警鐘を鳴らしています。なお、ヤスパースの「了解」概念の訳語として、フランス語でも、「わかる」「理解する」という意味の日常語、「comprendre」が用いられています。

 ラカンにとってヤスパースはよほど気になる大家であったのか、1970年代に至っても、セミネール11巻の後書きでヤスパースの了解概念を踏まえて次のように書いています。

「ステクリチュール(筆者注:ラカンの造語で、この文脈では、漢字仮名交じりの日本語の書き言葉を指す)をみなさんは了解しない。それでいいのだ。そのことは、みなさんにとって、このものを説明する理由になるだろうから」。(岩波版邦訳、379頁を改訳。1973年1月1日の日付が記されている)

 この、「皆さんがわからないのであれば皆さん自身が説明すればよい」というヤスパースをもじった屁理屈をラカンはちょっと気に入ったらしく、同時期のセミネールで、これと自虐を絡めた次のような冗談を言って聴衆の笑いを誘っています。なお、この発言の前提として、ラカンが書いた本や論文はわからない、理解できない、という評判が立っているという事実があります。

「あなた方は私の書物(エクリ)を了解するには及びません。了解できないなら、それは結構なことです、それがあなた方にとっては、ちょうどそれらを説明するための機会をもたらすでしょう」(『アンコール』藤田・片山訳、講談社62頁を改訳。1973年1月9日)

 このセミネールは聴衆によってテープ録音されており、その音声ファイルはネット上に無料で転がっているので聞いてみると、ここで聴衆には笑いが起こっていることがわかります。聴衆にもここがヤスパースを念頭に置いていることはすぐにわかったがゆえの笑いだろうと思われます。ヤスパースは主に精神病患者の精神現象について了解不能と論じていますから、ここでラカンは、自らの論文の書き方を精神病的だと述べているということにもなるわけですが、一瞬で聴衆にそこまで伝わったのかどうかまではわかりません。

 これを踏まえると、11巻の後書きでは、ラカンが、日本語は精神病的だと述べているということにもなりますね。これもラカンならありえないことではないように思えます。

参考文献:アンコール (講談社選書メチエ) (日本語) 単行本(ソフトカバー) – 2019/4/12

2017年2月 9日 (木)

ラカン『精神病』3章再読

 前回は「要素現象」の概念を取り上げましたが、辞書を引き直すと、「elementar」にはドイツ語では「荒々しい、抑えられない、激烈な」という意味もあるようで、しかもこの意味での使用頻度が高いのか、小学館の大独和ではこの語義が最初に挙げられています。フランス語のelementaireにはこの意味はないようだし、意味的にもラカンの訳には「要素(現象)」でよさそうですが、ヤスパースを訳す際には、この意味を含み持つような訳を考えるべきかもしれません。ヤスパースでは、その後の精神病プロセスの起爆剤的な現象を指すともいえそうですから。

 さて、3章の翻訳からは次の箇所を取り上げましょう。

 医療上関わり合った男性達が次々と登場したこと、つまりそれらの人たちが次々と名前を挙げられ、シュレーバー議長のとてつもない迫害妄想の中心に相次いで出現したことは、たしかにこれらの男性達の重要性を示しています。(邦訳上巻47~48頁)

 下線部の原文を直訳すると「とてつもなくパラノイド的な迫害」です。精神医学用語でパラノイドとは、パラノイアに似て非なる妄想型統合失調症を指しますから、翻訳はわかりやすく「とてつもなく妄想型統合失調症的な迫害」としてもよいでしょう。こういう箇所を見ると、ラカンはシュレーバーを、(妄想形成メカニズムを論じるときにはパラノイアという言葉を使っていますが)診断的には妄想型統合失調症とみていたことが分かります。当たり前ですけど。

 次に、私にとっては58頁のほぼ真ん中にある段落が、今回読み直しても非常に理解困難に感じます。

 まず第一の形、それは「信頼」、つまり捧げられたパロールです。たとえば「君は僕の妻だTu es ma femme.」とか「あなたは私の師Tu es mom maitre.」がそれです。これらのパロールが意味しているのは、「君はなお私のパロールの中にあるものだ。そして、私がそう言えるのは君という場で、このパロールを捉えているからこそなのだ。それは、君から生じて、私が任すことの確かさを君に見出すのだ。このパロールは君の任に置くパロールなのだ、君の」ということです。(邦訳上巻58頁)

 「君という場で、パロールを捉えている」は原文では「prendre la parole a ta place」なのですが、このprendre la paroleはふつう成句として「発言する」という意味になるのです。上に引用した邦訳なら、パロールを受け取っているという意味、成句と取ればパロールを発しているという意味になりますが、ここは文脈上どちらと取るべきかがまず迷う点です。
 「君という場」はラカン理論では大文字の他者を指すという点も考えなければなりません。
 それと、「任す」「任に置く」と訳されたengagerですが、辞書を見るとかなり多義的だし、ものを補語とするときと人を補語とするときとで意味が違うので困ります。他の箇所での訳との整合性も考えなければなりません(前の段落には「任されたパロールparole engagee」という箇所もありますが、engager la paroleは「言質を与える」という意味もあるようでなおややこしい)。それと、途中の「君に(見出す)」ですが、原文は「y」ですので「君の場に(見出す)」ではないでしょうか。というわけで、かなり暫定的に次のような代案を考えてみました。

 まず第一の形、それは「fides信頼」、つまり捧げられたパロールです。たとえば「君は僕の妻だTu es ma femme.」とか「あなたは私の師Tu es mom maitre.」がそれです。これらのパロールが意味しているのは、「君はなお私のパロールの中にあるものだ。そして、私がそう言えるのは君の場で、このパロールを発しているからこそなのだ。それは、君から生じて、私が任ずることの確かさを君の場に見出すのだ。このパロールは君を任ずるパロールなのだ、君を」ということです。(仮の代案)

 最後に些細な箇所です。

 つまり嫉妬妄想では、何よりも、性化の記号が逆転された[ルビ:アンベルティ]他者との同一化が見出されるのです(邦訳上巻68頁)

 ここのルビは正しくは「アンテルベルティ」です。フランス語にはアンテルベルティもアンベルティも実在して、意味もよく似ているのですが。

 翻訳の問題から離れて、この章で印象的なのは、精神分析家ならば患者に対して、「相手は普通の人々が理解しているよりももっと深い仕方で、無意識という体系のメカニズムそのものに通暁した人だという感じをお持ちになるでしょう」という箇所です。このように、ラカンにとって、精神病患者は、人間の精神の普遍的な問題に気づくことがある人々だというわけです。一方でこれと対照的に、現象学的な精神医学者は、たとえばブランケンブルク『自明性の喪失』で詳論されている患者、アンネ・ラウを、極めて高い内省能力でもって症状を語っていると評価しているにもかかわらず、アンネは(人間一般の精神構造ではなく)単に統合失調症の基本障害に気づいている、としているのです。
 しかし上のような対比を踏まえて私がアンネ自身の言葉を読み返してみると、アンネは、人間の精神構造一般の問題についての鋭い洞察を随所で語っているように感じますけれど、皆さんはいかがでしょうか。

精神病〈上〉 
ジャック ラカン (著), ジャック・アラン ミレール (編集), 小出 浩之 (翻訳), 川津 芳照 (翻訳), 鈴木 国文 (翻訳), 笠原 嘉 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (1987/03)

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2016年11月27日 (日)

ヤスパース『原論』の遺伝論はまずかったのか…

 ヤスパース『精神病理学原論』のみすず版邦訳からは、遺伝に関して論じられた箇所が大幅に省かれており、以前、その部分の拙訳をこのブログで公開してみました。

http://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-cec7.html

 私がこの記事を書いた当時は、ヤスパースの遺伝論が、その後の遺伝学の知見からみて古すぎるので訳者が省いたのかと思っていましたが、いま(2016年秋現在)思えば、ヤスパースのこの部分は、優生思想的に読まれてしまうおそれを感じて省かれたのかもしれない、と思えてきました。実際には何でもない内容ですが。

精神病理学原論 
カール ヤスパース (著), Karl Jaspers (原著), 西丸 四方 (翻訳)
みすず書房; 限定復刻版 (1971/01)

Allgemeine Psychopathologie Ein Leitfaden Fur Studierende, Arzte Und Psychologen (1913) Karl Jaspers (ペーパーバック - 2009/11)

 今年の新語・流行語大賞の候補がたくさん公開されていますが、個人的には「厚化粧の大年増」や「優生思想」「生前退位」が入るべきじゃないかと思ってますけども、例年、無難な言葉しか入りませんよね。

2014年6月11日 (水)

ヤスパース『原論』の再読(附録)

 この本の翻訳の検討はこれで最後になりました。

現象学的に明らかにするためには、患者にできるだけ自分の精神的体験の形を見させるようにし、自己観察をさせるようにして、体験の内容だけでなく、体験の主観的な様式をわれわれに伝えてもらわなければならない。(379頁)

現象学的に明らかにするためには、患者にできるだけ自分の精神的体験の形を見させるようにし、自己観察をさせるようにして、体験の内容を通じてだけでなく、体験の主観的な様式を通じてわれわれに何かを伝えてもらわなければならない。(代案)

 次は、前々回も扱った、verruecktという言葉に関するところです。

慢性の妄想患者はその妄想体系をいわないように気をつけるが、それは皆が自分を気が狂っていると思うことを知っているからである。(380頁)

慢性のパラノイア患者はその妄想体系をいわないように気をつけるが、それは皆が自分を偏執狂と思うことを知っているからである。(代案)

 最後は、記述者と分析者を対比して論じた箇所からです。構文に省略もあって難しいんですが、私は次のように解しました。構文全体に関わるので、今回は変更箇所に下線を引きません。

それゆえ記述者はどっちへ行ってもうまく行くが、分析者はうまくいかない。しかし記述者は同じところをぐるぐる回っており、分析者は先へ先へと進んでいく。(395頁)

それゆえ記述者の広大な成果が、分析者にとっては失敗にあたる。しかも記述者が同じところを堂々巡りすることが、分析者にとっては進捗にあたるのである。(代案)

 読みかけの本はこの調子で次々に片付けていきたいものです。

 

精神病理学原論 
カール ヤスパース (著), Karl Jaspers (原著), 西丸 四方 (翻訳)
みすず書房; 限定復刻版 (1971/01)

Allgemeine Psychopathologie Ein Leitfaden Fur Studierende, Arzte Und Psychologen (1913) Karl Jaspers (ペーパーバック - 2009/11)

2014年6月10日 (火)

ヤスパース『原論』の再読(第七章)

 この本の翻訳の検討も終りが見えてきましたので、一気に進めたいと思います。

 まずは、単なる単語レベルの問題です。「接神論」は私の辞書では探せません。

あるグループには異常者や精神病患者が集まる性質があり、外人部隊とか、自然にかえれ主義や菜食主義の人のグループとか、何々健康法の狂信者の団体とか、心霊主義者や神秘主義者や接神論者の集まりなどがそうである。(366~367頁)

あるグループには異常者や精神病患者が集まる性質があり、外人部隊とか、自然にかえれ主義や菜食主義の人のグループとか、何々健康法の狂信者の団体とか、心霊主義者や神秘主義者や神智学者の集まりなどがそうである。(代案)

 次の箇所に含まれる「変質entarten」の語は、1箇所(「遺伝的の変質」の箇所)を除いて、320頁で出てきた「変質性精神病」という表現とは原語が異なりますので、ここは「変性」にしておきます。略した部分にも4箇所、また引用箇所の後ろの段落にも1箇所、「変質」の語がありますが、やはり「変性entarten」とすべきと思います。

 文化の発展の影響である種族は種族は「変質」するのか。(…略…)文化の影響による変質の存在をどうしても考えさせる顕著な例は文化家系の運命である。この場合二つの見解がひどく対立する。一方においては遺伝的の変質は起こらないと考えられ、子孫が子供の時からもうぶつかる環境の作用で、柔弱になり、努力を避け、怠惰になり、不規則な生活をし、子供の数を無理に制限し、偶発事故のためにそういう結果になると説明される。(368~369頁)

 文化の発展の影響である種族は種族は「変性」するのか。(…略…)文化の影響による変性の存在をどうしても考えさせる顕著な例は文化家系の運命である。この場合二つの見解がひどく対立する。一方においては遺伝的の変質は起こらないと考えられ、子孫が子供の時からもうぶつかる環境の作用である。つまり柔弱になり、努力を避け、怠惰になり、不規則な生活をし、子供の数を無理に制限し、偶発事故のためにそういう結果になると説明される。(代案)

 次は、「非社会性」と「反社会性」を対比して述べている箇所からです。

彼のやり方はまずくて臆しているかと思うとひどく度を過したり荒っぽかったりして、とにかくうまく整わず極端なので、彼は誰にもいやに思われ、彼もそのはねかえりを感じてますます自分を遮断してしまう。この形の異常性はいくらも了解的関連を持ち、様々の「コンプレクス」に左右されるので、うまくいけば消えることがあるが、まずくいくとまったく孤独になって室に閉じこもって出なくなり、分裂性の痴呆過程と似てくる。(373頁)

彼のやり方はまずくて臆しているかと思うとひどく度を過したり荒っぽかったりして、とにかくうまく整わず極端なので、彼は誰にもいやに思われ、彼もそのはねかえりを感じてますます自分を遮断してしまう。この形の非社会性はいくらも了解的関連を持ち、様々の「コンプレクス」に左右されるので、うまくいけば消えることがあるが、まずくいくとまったく孤独になって室に閉じこもって出なくなり、分裂性の痴呆過程と似てくる。(代案)

 次は「病誌Pathographien」についての箇所です。これは現代日本では「病跡」と呼ばれることが多いと思います。。

深い精神病理学的な目、歴史的批判の能力が信頼すべき認識の条件であり、畏敬と気高い憚りのようなもの -といっても何かいわずにおくという必要はないが- が、病誌を作ることに要求されるが、気が向かないからやらずにおくべきものではあるまい。(376頁)

深い精神病理学的な目、歴史的批判の能力が信頼すべき認識の条件であり、畏敬と気高い憚りのようなもの -といっても何かいわずにおくという必要はないが- が、人々から敬遠されないような病誌の描写に要求される。(代案)

 残るは「附録」のみです。

精神病理学原論 
カール ヤスパース (著), Karl Jaspers (原著), 西丸 四方 (翻訳)
みすず書房; 限定復刻版 (1971/01)

Allgemeine Psychopathologie Ein Leitfaden Fur Studierende, Arzte Und Psychologen (1913) Karl Jaspers (ペーパーバック - 2009/11)

2014年6月 7日 (土)

ヤスパース『原論』の再読(第六章)

 翻訳の検討を続けます。この章には問題は少ないと思いました。

それはすなわち躁うつ病 -フランスの学者の循環精神病と感情疾患もこれに入る- と早発性痴呆 -カールバウムの緊張病と、破瓜病と狂気(フェルリュクトハイト)がこれに入る- とである。(邦訳312頁)

それはすなわち躁うつ病 -フランスの学者の循環精神病と感情疾患もこれに入る- と早発性痴呆 -カールバウムの緊張病と、破瓜病と偏執狂(フェルリュクトハイト)がこれに入る- とである。(代案)

 この『Verruecktheit』をはじめとする古い疾患概念をどう統一的に訳すかは非常に難しいところですが、ここは早発性痴呆(統合失調症)の下位分類ですから、今でいう妄想型に相当するものがあるはずで、上のように訳すべきでしょう。『狂気(フェルリュクトハイト)』という訳語は、322頁、334頁にもありますが、同様に偏執狂で良いでしょう。

 次です。

精神病理学の課題は進行麻痺その他の種々の脳病過程の時の異常精神現象に対しては、この脳病過程がみつかれば、全く同じもの以上に出ることはないという事実や…(320頁)

精神病理学の課題は進行麻痺その他の種々の脳病過程の時の異常精神現象に対しては、この脳病過程がみつかって以来、全く同じもの以上に出ずにとどまっているという事実や…
(代案)

 次です。

症状群(322頁)

症状複合(代案)

 群というと単に複数あるという意味ですが、ここは「コンプレックス」、関連した複合という意味です。このあとたくさん出てきます。

 次です。

五 症状群の単位のもとになるものにはさらに、全然異質のカテゴリーの症状にある同じ性質がある。こういうのはたとえば、患者が「させられる」と感ずるのはみな妄想症状群とし、神経学的に説明できず心理学的に了解できない異常な運動現象は緊張症状群、過度な「刺激性」と「弱さ」から出たものとみられる出来事は皆神経衰弱症状群とするごときものである。(325頁)

五 症状複合の単位のもとになるものにはさらに、その他の点では全然異質の症状カテゴリーに分類すべき同じ性質がある。こういうのはたとえば、患者が「させられる」と感ずるのはみなパラノイア複合とし、神経学的に説明できず心理学的に了解できない異常な運動現象は緊張病複合、過度な「刺激性」と「弱さ」から出たものとみられる出来事は皆神経衰弱性とするごときものである。(代案)

 思考させられることも、行動させられることも、知覚させられることも、みな同じく「させられ」現象と分類される、といった事情を指しているのでしょう。さらにここでは、ヤスパースがさせられ体験を持つ患者も「パラノイア」と呼んでいることにも注目すべきです。第二章一節では、有名なシュレーバー症例も、パラノイアの例として挙げられていました。

 次です。

その最も著しい型として妄想症状群と緊張症状群をのべる。(334頁)

その最も著しい型としてパラノイア症状複合緊張病症状複合をのべる。(代案)

 ここは『分裂性精神生活』についての項に含まれる箇所ですから、ヤスパースがやはりパラノイアを統合失調症の中に含めていたことがうかがわれます。

 次です。

しかし一点への中心化はこの真正妄想症状群の特徴ではなく、むしろ支配観念と妄想的観念の特徴である。(337頁)

しかし一点への中心化はこの真正のパラノイア症状複合の特徴ではなく、むしろ支配観念と妄想様観念の特徴である。(代案)

 次が最後です。

六 体験は単一であって、患者にとってただ一つの現実しかなく、それは精神病の現実である。逆に、起る体験は空想的で、患者は二つの世界に同時に生活しているが、それは現実の世界 -患者はそれを正しく理解し判断している- と精神病の世界である。(345頁)

六 ある場合には、体験は単一であって、患者にとってただ一つの現実しかなく、それは精神病の現実である。逆に、別の場合には、起る体験は空想的で、患者は二つの世界に同時に生活しているが、それは現実の世界 -患者はそれを正しく理解し判断している- と精神病の世界である。(345頁)

 この本は残りわずかになってきました。私の関心がまた別の本に向かわないうちに仕上げてしまいたいものです。

精神病理学原論 
カール ヤスパース (著), Karl Jaspers (原著), 西丸 四方 (翻訳)
みすず書房; 限定復刻版 (1971/01)

Allgemeine Psychopathologie Ein Leitfaden Fur Studierende, Arzte Und Psychologen (1913) Karl Jaspers (ペーパーバック - 2009/11)

 

2014年6月 1日 (日)

ヤスパース『原論』の再読(第五章)

 当ブログでヤスパースの『原論』の翻訳を4章まで検討したところでずいぶん長く放ってありましたが、最近読んだ鈴木國文著『同時代の精神病理』で『人格』という概念が主題的に扱われているのをみて、ヤスパース『原論』の5章『知能と人格』という章を読み直しました。

 翻訳上の大きな問題は少ないように感じました。まずは誤植というかケアレスミスと思われる次の箇所。

区別の問題、たとえば誤りと嘘のちがい、信識と信仰の区別など(邦訳290頁)

区別の問題、たとえば誤りと嘘のちがい、知識と信仰の区別など(代案)

 次は、aktuellという語を「現実」「実際ある」と訳していますが、「現時点での」「当座の」「目下の」といった意味でしょう。ほかいくつか手を入れてみました。

了解的関連全体に対し、すなわち欲動や感情の動きや、反応や、行為や、目的や、理想に対して、われわれはいつも素質というものが加わっていると考え、この素質がこの現実の意識された精神過程に現われてくる。この素質も人格と呼ばれる。こういうものとしてわれわれは意識外のでき、素地を了解的関連全体に付け加えて考え、この人格素質は -これのいろいろの現れの関連は皆了解できるものであるが- その実際の存在全体としては了解できないもので、たとえば遺伝の法則などで説明されるのである。検査の方向いかんによって、人格の概念としてこの素質を強調することもあるし、実際ある了解的関連を強調することもある。(邦訳292~3頁)

了解的関連全体に対し、すなわち欲動や感情の動きや、反応や、行為や、目的や、理想に対して、われわれはいつも素質というものが加わっていると考え、この素質がこの目下の意識された精神過程に現われてくる[と考える]。この素質も人格と呼ばれる。こういうものとしてわれわれは意識外の素因を了解的関連全体に付け加えて考え、この人格素質は -これのいろいろの現れの関連は皆了解できるものであるが- その実際の存在全体としては了解できないもので、たとえば遺伝の法則などで説明されるのである。検査の方向いかんによって、人格の概念としてこの素質を強調することもあるし、目下了解的関連を強調することもある。(代案)

 上にも出てきましたが、この訳書には素因・素質といった意味を表すために「でき」というぼんやりした語が頻用され、ほか「素地」「持前」などの語も使われて、原語と一対一対応していないので非常にわかりにくく感じます。これまでも何度か取り上げてきましたが、全ての箇所を取りあげるのは煩雑ですし、とりあえず次の箇所を挙げておきます。

本当の性格、すなわち欲動と感情のできの体系の質の異常な変異は、人格の性質にとっては構造の変異よりもずっと深い関係がある。異常な構造という点でみるとわれわれに性質の似た性格であるが、質の点で見るとできのちがう人々の間には感情と欲動のできに非常に隔絶したちがいのあることがわかる。ある欲動のでき、たとえば性欲倒錯のある時に、全人格はその質が全然別であるとは限らない。けれどもある場合には異常な性的なできがあると、人格が妙に冷たく非性的で、ときにはひどく敏感で感情が繊細であるが世界全体を別の照明の下に見ているような同性愛者となり、この場合その性質のできに隔絶した変異がはじまっている。(299頁)

本来の性格、すなわち欲動と感情素質の体系の質の異常な変異は、人格の本性にとって、構造の変異よりもずっと重大であるあらゆる異常な構造形式のなかに、われわれと本性の似た性格がみつかるが、情緒素質や欲動素質の場合には、資質のちがう人々の間に、非常に隔絶したちがいがきわめて速く生じる。ある欲動素質、たとえば性欲倒錯の欲動方向がある時に、全人格にも本性的に(質的に)全然別の特徴がもたらされるとは限らない。けれども多くの場合には異常な性的素質があると、人格が妙に冷たく非性的であるとか、ときにはひどく敏感で感情が繊細であるが世界全体を別の照明の下に見ているような同性愛者となるとかいう点に、その本性の資質の重大な変異がはじまっている。(代案)

 はじめの文と最後の文の「重大」は同じ語ですので揃えました。

 今回の最後は短い箇所から。

年齢の各時期と関係なく、ひとりでに(内因性に)起こる出現期、位相として現れる人格の現れ方の変動がある。(306頁)

年齢の各時期と関係なく、自発的な(内因性の)出現期として現れる人格の現象形態の変動がある。(代案)

 

精神病理学原論 
カール ヤスパース (著), Karl Jaspers (原著), 西丸 四方 (翻訳)
みすず書房; 限定復刻版 (1971/01)

Allgemeine Psychopathologie Ein Leitfaden Fur Studierende, Arzte Und Psychologen (1913) Karl Jaspers (ペーパーバック - 2009/11)

2013年1月19日 (土)

ヤスパース『原論』の再読(第四章)

 先週の精神病理コロックでヤスパースを話題にした発表を聴き、ひさしぶりにヤスパースの本に手をつけてみることにしました。このブログでは、みすず書房から出ている『精神病理学原論』の翻訳の疑問点の検討を、第3章の終りまで済ませていましたので、その続きです。

 最初は、『hervorwaechsen』という語の訳し落としです。ただしこの語に適当な日本語を当てるのは難しいと思います。

外部からの作用は内部の素質に対立するものである。前者の作用は外因性といい、後者のは内因性という。(邦訳232頁)

代案:外部からの作用は内部の素質に対立するものである。前者の作用は外因性といい、後者から育ち現れるのは内因性という。

 次です。

解剖学的局在という、このこと自体は非常に興味のある説は精神病理学には今まで重要性はなく、何の結果もこれから出てこない。(邦訳244頁)

 「これから出てこない」の箇所ですが、「今まで」のあとに「これから」と出てくるので、私は未来のことを言っているのかと勘違いしました。

代案:解剖学的局在という、このこと自体は非常に興味のある説は精神病理学には今まで重要性はなく、何の結果も出ていない

 次はケアレスミスのようです。

内因性の条件は素質という条件でまとめられる。(邦訳254頁)

代案:内因性の条件は素質という概念でまとめられる。

 さて、この第4章でも『でき』という理解困難な訳語が頻出して困ります。この点についてはすでにこのブログで何度も触れました。

ヤスパース(3):ヤスパース訳の「でき」

ヤスパース『原論』の再読(第二章第一節)

 後者でも書いたように、Konstitution、Disposition、Anlage、Veranlagungには、それぞれ順に「体質」「素因」「素質」「資質」とあてておくとだいたいの箇所で意味が通ると思います。たとえば今回の範囲では次の箇所です。原語を大括弧内に補っておきます。

病的過程によって、人格や精神的なでき[Konstitution→体質]や、ひとりでに進んでゆくなりゆきへのでき[Disposition→素因]などの上に変化が起きるときにも、将来の生活にとってはいわば新しい素質[Veranlagung→資質]ができたようにみられるが、やはり素質[Anlage]といわない。これからの先の生活へのこういう基礎はみな後天的に得られたものと呼ぶ。(邦訳255頁)

 このあと邦訳256頁からの遺伝の節についてはすでにこのブログで取り上げました。

ヤスパース『原論』の時点での遺伝学

 5章以降はまた次の機会に扱うことにします。

精神病理学原論 
カール ヤスパース (著), Karl Jaspers (原著), 西丸 四方 (翻訳)
みすず書房; 限定復刻版 (1971/01)

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