コンラート『分裂病のはじまり』(5)
この本について、これまでは冒頭の一症例の病歴の翻訳を検討してきましたが、今回は本全体からこまごまとした点を拾い上げていきます。
ここでツットを引用してみよう。「他者のまなざしが自分に向けられ、観察され、尾行されているとある患者が感じる。ついには催眠をかけられていると考え、自分の動きまでが他者の影響を受けるようになる。彼の四方の壁はもはや他者の圧迫から彼を守る役に立たない。盗聴器が取り付けられている。彼の身体境界はもはや彼を保護できず、他の人の考えが声として彼の中に入ってくる-。この素描は、いわゆるパラノイア性の被害妄想のありふれた病像である。さらに、ここに素描した症候群は分裂病の大多数において程度の差はあれ明瞭にもれなく観察されるということを付け加えておきたい。・・・」(邦訳6頁、下線は引用者)
下線部は原文では「パラノイド性の」ですから、例によってこれは「妄想型分裂病性の」という意味です。その直後の文に「分裂病の大多数において」とあるのは、パラノイドとの対比ではなく包含関係で、「妄想型に限らず分裂病ならばその大多数において」という意味でしょう。
もうひとつ、163頁の「パラノイア的」の箇所も原文では「パラノイド」です。
また、以下に並べる引用箇所で「妄想的」とされているのも全て原文で「パラノイド的」、つまり「妄想型分裂病的」という意味です。
そこの入院先の病歴によれば「当初は大きな動揺があったが、その後平穏な日が続いた。しかし、激しく妄想的であった」。(222頁、下線は引用者)
臨床の仲間うちの話し方では、これを、緊張病になるまでにかならず短期の妄想期があり、緊張病の解消後にも必ず短い妄想期があるという。これからも緊張病体験は妄想体験が一段階進んだものであることがわかる。(邦訳319頁、下線は引用者)
邦訳223頁では「妄想型的」という訳語が用いられていますが、私としてはこれに統一すれば良かったように思います。ただし、原文で同じ『パラノイド』の語が用いられていても邦訳289頁の「異常人格者の類妄想体験」という箇所はそのままの訳がいいと思います。
次の箇所に移ります。
同類項には兵役忌避をテーマとする症例がまだまだあるが、あまりに画一的なので一例だけを取り出しておこう。
症例八一 患者の述べるところでは、体力がひどく弱って、もう軍務を遂行することができなかったということである。命ぜられたことは全部したつもりなのに、戦友たちは、私が兵役忌避者で、歩哨に立つのを嫌がっている。「君は兵役忌避者とみられているというが何を根拠にそういうのか」と問うと、「自分はけっして兵役忌避者ではないが皆がそう思っている」と答えるだけだった。(邦訳78頁)
「兵役忌避」と訳されているのは「Drueckeberger」ですが、この語は辞書では、俗語で「(義務・責任などを回避する)卑怯者、逃避する者」、兵隊の用語として「(徴兵または勤務)忌避者」とあります。ここはすでに軍務に就いている兵士に対して言われているので、「勤務忌避者」か「卑怯者」ぐらいでいいんじゃないでしょうか。以前取り上げた「執銃訓練」の訳語もそうでしたが、訳者は軍隊という状況を翻訳の際に重視しすぎているように感じます。
次です。
症例一一一(邦訳187頁)
ここは棒が一本多すぎていて、原文は症例11です。内容的にも、邦訳198頁の症例一一の記載に重なります。なお、この症例では、自分の考えを他人が「私と同時に聞く」「盗み聞きする」といった表現が用いられていますが、いずれも原語で「mithoeren」であり(別の症例ですが193頁では「聞き取った」ともあります)、「傍聴する」ぐらいに統一できると思います。
もうひとつ訳語の統一について触れておきますと、前回まで取り上げた本書冒頭の症例ライナーでは「テレパシー」という訳語が用いられていましたが、他の箇所では「思考が伝わる」(189頁)、「これは思考の転送みたいなものだと言った」(191頁)などと訳されていて一貫しません。なお同じ「転送」の訳語は197頁にも頻出しています。
最後は以下の箇所です。
「私が手紙を書いていた時、あいつ(ある特定の患者)が私に一語一語読んで聞かせてきます。すべて文章として聞こえます。あいつは文章構成までも決めてしまうのです。直接声を出して聞かせるのではなくて、囁くような調子です。しかし、書いているものを覗き見ることのできる装置なんてあるはずがありません。それは思考を通してやってくるに違いないのです。先生にも今、私の考えていることが聞こえているのでしょう。考えるそばから言葉の節々からわかります」。患者の見たことは実に恐ろしいことであった。「私が読むと、それが話されます。まさに正確に話されるのが聞こえます。外のベランダでもそれが繰り返されています」。試しに、彼の前にテキストを置いてみると、著者がそれを先に盗み聞きしていると彼は信じていた。著者の目を見てわかったという。(邦訳198頁、下線は引用者)
下線部は「gehen」ですので「向こうへ行く」ぐらいにしておきます。意味的にも、前の文からスムーズにつながります。
出版社: 岩崎学術出版社 (1995/03)
この本については今回で終わりにしましょう。
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