シュナイダー

2021年1月 5日 (火)

シュナイダー『臨床精神病理学序説』2

 ふたつ前の記事で書いたように、この訳書の「妄想」の項がいかに原書から大きくかけ離れているか、ちょっと紹介してみましょう。原文にない箇所はとりあえず青文字にしておきますが、ほとんどが同じシュナイダーの主著(『新版 臨床精神病理学』針間博彦訳、文光堂)から勝手に借用、挿入された箇所です。

 妄想の発生はすべて感情や欲動や、ある種の人格を有する者の内外の体験から、了解し得るものであるとする学者が多い。しかしわれわれはヤスパースやグルーレに従い、真正妄想はかかる了解の出来る妄想様思想から区別さるべきであると信ずる。真正妄想は一次的なものであって、他の体験から導くことのできないものである。

 妄想には妄想知覚と妄想着想の二つの形がある。

 妄想知覚。これは元来正常な知覚に特別の意味が加わり、特に当人に深い関係が付けられる形の妄想である。たとえば道に足袋が落ちているのを見ると、これは自分がつけ狙われるのであると意味付け、街で二人の人が話をしていると、直ちに自分のことを話しているのだと考え、巡査がいると自分が捜索されているという意味にとる。このように、いわれもないのに関係を付けることが本質的なものである。これに反しいわれのある関係付け、たとえば不安とか邪推とかの一定の気分を基にするものは、一次的妄想とは異なるものである、逮捕されるという不安のある者は、階段を昇って来る人を皆警官ではないかと思う。かかる妄想様反応は畢竟我々に了解出来るものであって、妄想知覚とは異なるものである。ここに精神分裂病と異常反応との絶対的の区別がある。ゆえに妄想知覚は精神分裂病の診断に甚だ大切である。しかし実際には必ずしも上の例のごとく直ぐそうと判別がつくとは限らない(以上、主著の邦訳93頁を借用か)。

 人物誤認は妄想知覚のことがある。人物誤認という言葉は種々のものを含み、領識や記憶の障碍のこともあり、錯覚のこともある。失見当識もこれと同様の関係にあり、妄想によることもある。たとえば患者は他の人々がここをどこであるというかを知ってはいるが、更にそれ以上知るところがあるのである。すなわち人々はここを病院だというが、自分は牢屋だと知っているというごときである(以上、主著の邦訳93~94頁を借用か)。

 妄想着想。これは、自分には特別の使命があるとか、追跡迫害されているなどの考えが突然思い付かれたり、あるいは回想されたりすることである。妄想知覚はその構造からはっきりと妄想であることがわかるが、妄想着想は普通の着想や、妄想様思考との区別がない(以上、邦訳94頁と99~100頁を抜粋・借用か)。着想の内容の誤りを訂正しようとしないことや着想の内容の真実性のないことあるいは実際にはあり得ないことなどによって、妄想着想だと定めることはできない。普通の着想は可能性があるから妄想と区別できると思われるかもしれないが、妄想着想も可能性のあることがある。たとえば隣の娘が自分を恋しているという妄想着想は、それだけでは妄想かどうかわからず、また本当に伯爵の落としだねである者が、自分は伯爵の落としだねであるといったために、妄想患者と誤られることもある。われわれに訝しく、奇異と思われる着想を皆妄想であるとしてはならない。できるだけ事実を確かめなければならない。そうして全臨床状態を参酌して初めて妄想と断定できるのである。著しい場合にはもちろん直ちに妄想であることはわかるが、とにかく妄想知覚程決定的なものではない。(以上、主著の邦訳94頁を借用か)

 妄想知覚は精神分裂病にのみ現れる。精神分裂病であって、妄想が著しく、しかも人格の変化があまりなく、支離滅裂思考や感情障碍のないものはパラフレニーとも呼ばれる。妄想知覚の傾向は、癲癇性朦朧状態や急性外因性精神病等にも見られることがある。

 感情状態から了解されるものは妄想様思想と呼ばれる。たとえば鬱病の際の罪過思想や貧困思想がこれで、抑鬱気分が元に復すれば、これらの思想も消える。躁病や誇大型の進行麻痺における、自分は大金持である、何でも出来るなどの誇大妄想も、同様に理解できる。ただし進行麻痺では判断力の減退も、かかる思想の成立に関係がある。

 感情に基づく誤解や曲解は、精神病質者にも正常者にも見られる。身体的及び社会的低格感を有する者は、どこへ行っても自分は変な目で見られるとか、待遇が悪いとか考える。良心に咎のある者は、他人の態度から、人は自分の罪過を知っているので自分をじろじろ見たり、軽蔑したりするのだと思う。かような「妄想」は随分発展することがあるが、完全に了解できるものであって、われわれのいう意味での真正の妄想ではない。かくのごとき状態は妄想性反応と呼ばれる。

 妄想様思想は必ずしも感情の強い体験に関係があると限らず、他の一次性の体験に関係があることもある。酒精幻覚症、熱譫妄、癲癇性朦朧状態から覚めた者が、幻覚的に体験ことを、その後暫くの間本当であると思うことがある。(邦訳108~111頁)

 こうしてみると、じつはもとの文に「妄想着想」という言葉が一度も出てきません。「妄想着想」という言葉を使わずに説明しているという点にこそ、のちの主著とは異なる、本書独自の面白いところがあるのではないでしょうか。

 では、「妄想着想」という言葉を用いない本書原文での論じ方はどのようなものなのか、下に示してみましょう。上では青字にした挿入部分は省き、修正箇所は赤字を使ってみます。訳語の古さは訂正しません。順番の入れ替えや訳し落としも多いことに驚かされます。

 妄想の発生すべて感情や欲動や、人格と内外の体験から、了解し導こうとする学者が多い。しかしわれわれはヤスパースやグルーレに従い、真正妄想はかかる了解の出来る妄想様の体制 -われわれは今後もこれらを扱っていくが- から区別さるべきであると信ずる。真正妄想は一次的なものであって、他の体験から導くことのできないものである。これはとりわけ妄想知覚であきらかであり、ほとんどの妄想はもともと妄想知覚の形を取る。これは元来正常な知覚に特別の意味が加わり、特に当人に意味深い関係が付けられる形の妄想である。そのような患者は、たとえば庭に鳥の死骸が横たわっていると自分もまもなく殺されるはずだと意味付け、街で二人の人が話をしていると、直ちに自分のことを話しているのだと考え、本日はたくさん巡査がいると気づくと自分が捜索されているという意味にとる。このように、いわれもないのに関係を付けること、意味に満ちていることが本質的なものである(グルーレ)妄想知覚と並んで、患者にとって特に重大とされる、着想や想起という形の真正妄想がある。妄想にはしばしば二次的に判断の上塗りが生じ、さらには、秩序だったパラフレニー者とか精神病性「パラノイア者」のように、さらなる体系化に至り得る。

 感情状態から了解され導けるものは妄想様思考と呼ばれ悲哀や高揚といった多くの気分変調で起こる。たとえば循環鬱病の際の罪過思想や貧困思想がこれで、気分が元に復すれば、これらの思考も消える。ここで迫害妄想や、身体的枯渇の妄想や宗教的懲罰妄想を、ある程度までは抑鬱気分から了解できる。躁病や誇大型の進行麻痺における、自分は大金持である、何でも出来るなどの誇大妄想も、高まった気分から同様に了解できる。ただし進行麻痺では判断力の減退も関係がある。

 感情に基づく誤解や曲解による判断は、精神病質者にも正常者にも見られる。身体的及び社会的低格感を有する者は、どこへ行っても自分は変な目で見られるとか、待遇が悪いとか考える。良心に咎のある者は、他人の態度から、人は自分の罪過を知っているので自分をじろじろ見たり、軽蔑したりするのだと思わざるをえない根拠があるにせよ無いにせよ不全感を持つ人間は、広範な「妄想」を発展させることがあるが、完全に了解できるものであって、われわれのいう意味での妄想ではない。かくのごとき状態は反応性または精神病質性のパラノイアと呼んでもよいが、パラノイアという表現は歴史的な手あかのせいで避けることが好まれ、ここではむしろパラノイド反応と言うほうが良い。こうしたあらゆる場合において、事態は多少とも精神病質的な人格からの了解可能な妄想様思想なのか、あるいは詳しく物語られた真正妄想なのか ―とりわけ妄想知覚の形を取るものなのか― というのは、根本的な臨床問題となる。真正妄想は実際上精神分裂病プロセスにのみ現れる。言い換えればわれわれはそれがあるとき精神分裂病という妄想型の精神分裂病であって、人格が長期にわたり保たれ、支離滅裂思考や感情障碍のないものはパラノイド型分裂病またはパラフレニーとも呼ばれる。妄想知覚の兆候は、特に癲癇性朦朧状態やおそらく多くの急性外因性精神病さらに大酒家の精神病等にも見られることがある。

 妄想様の思路は必ずしも感情の強い体験に引き続くと限らず、他の一次性の体験に引き続くこともある。酒精幻覚症、熱譫妄、癲癇性朦朧状態から覚めた者が、幻覚的に体験したことを、その後暫くの間本当であると思うことがある。その現れはきわめて鮮明であって、実際に誰かが、ひょっとすると死者が、自分の枕元に立っていた、と言ってきかないほどである。(試訳)

という具合に、やはり原書に「妄想着想」という言葉は使われていないようです。

 シュナイダーには『妄想問題のむずかしさ』という1938年の論文の邦訳があり(なぜかマトウセック著『妄想知覚論とその周辺』金剛出版1983年や、我が国の学者たちの共著『妄想の臨床』新興医学出版社2013年にひっそりと所収)、そこでは、ヤスパースのいう妄想表象と妄想意識性とを「われわれは妄想着想の概念でまとめることにする」と明言するとともに、妄想知覚は知覚と意味づけという「二節性」が特徴の現象であり、いっぽうで知覚と関係なく一気に思いつく妄想着想は「一節性」の現象であるという名高い区別を導入しています。

 シュナイダーが1931年に書いた『病態心理学序説』という論の時点では、妄想表象と妄想意識性という言葉をヤスパースに従ってそのまま用いているので、おそらくシュナイダーは1930年代中期以降に、これらの概念よりも「妄想着想」と呼んで「一節性」「二節性」の区別と対応させるという自説を固めていったのだと思われ、今回扱った『序説』(1936年)はその過渡期にあって、妄想着想という言葉も一節性二節性という区別も未導入であった、ということだと思います。

 この『臨床精神病理学序説』の邦訳についていえば、後記に拠ればこの本は原著2版(1936年)をもとに1943年に南山堂から出版されたが、戦火で版が消失してしまい、1977年に改めてみすず書房から出版したとのことで、訳者は「回生版」と呼んでいます。シュナイダーの主著『臨床精神病理学』は原著初版が1950年、最初の邦訳は1955年ですから、普通に考えれば、『臨床精神病理学序説』邦訳初版(1943年)にはそこからの引用・挿入があったはずはなく、回生版の際に挿入されたのでしょう。

 この回生版の妄想論は結局、①訳者による挿入箇所には、妄想着想という語が混じり込んでいるが、一節性二節性の区別だけは混じり込まないように注意深く選ばれている、②訳者により省略された部分は診断に関わる箇所が多く、結果的にパラノイアという語が訳書にいちども登場しなくなった、③挿入と省略があるせいで、最終的なボリュームがほぼ元どおりになった、といった点をみると、かなり意図的な操作が行なわれているようにもみえます。邦訳の巻末索引にも「妄想着想Wahneinfall」と原語つきで挙げているのも、確信犯といったところでしょうか。

臨床精神病理学序説 新装版
クルト・シュナイダー (著), 西丸 四方 (翻訳)
出版社 : みすず書房; 新装版 (2014/7/5)

新版 臨床精神病理学 
クルト・シュナイダー、ゲルト・フーバー、ギセラ・グロス、 針間 博彦 (単行本 - 2007/9)
出版社: 文光堂 (2007/09)

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2020年12月30日 (水)

シュナイダー『臨床精神病理学序説』

 古い小さな本ですが、なんと原書第二版(1936年)が手に入ったので、さいきん邦訳と比べながら拾い読みしています。

 邦訳も同じ第二版を底本にしているようですが、かなり自由に訳出されていて、段落の順番を変えたり省略したりが連続するので見比べづらいんですが、それだけなく、どうもシュナイダーのほかの著作(後年の主著『臨床精神病理学』)から一部をもってきて勝手に挿入していると思われる箇所が多いのが気になります。

 たとえば、妄想という項はこの訳書では45行からなるのですが、うち20行以上(半分弱)が、主著からの借用です。逆に、省かれている部分もたくさんあるので、かさ増しに使っているわけでもなさそうです。

 勝手に挿入された箇所が、忠実な引用であればまだしも、要約したり改変したりしているのが腹立たしいところです。なかでも、幻覚について挿入された次の箇所は大問題です。

精神分裂病の診断に重要なのは思考化声であって、患者は自分の考えることが聞こえるという。また自分の考えと言い合いをする声が聞こえることもあり、自分の行為が声で注意を受けることもあるが、何れも精神分裂病に特有な症状である。(102頁)

 この段落はまるごと原書にはありませんが、同じ本の中によく似た箇所がある(訳書なら160頁)のでそこから取ってきたのかもしれません。ところが、そちらの箇所でも別著でもシュナイダーは決して「自分[=患者自身]の考えと言い合いをする声」が統合失調症に特有だなどとは言っていないのです。シュナイダーは、「複数の声同士が話し合い、議論する」形の幻聴を統合失調症特有のものだと一貫して主張しています。訳書160頁のほうでは正しく「言い合いの形式の声」となっているので、なおのこと、訳書がどうして102頁だけ間違ったのか謎すぎます。

 邦訳102頁が示している「自分の考えと言い合いをする声」は、統合失調症では非常に多く発生する症状だということもあって、わが国の精神科医の一部は、シュナイダーはこちらのことを言っているのではないかと誤読したり(ひょっとしてこの古い本の翻訳が、こういう間違いを育んできたのかもしれませんが、シュナイダーの原書を読むと、患者の考えと幻聴との間の対話を指しているようには決して読めません)、「シュナイダーが複数の声の言い合いのことを述べているのが確かだとしたらシュナイダー説に訂正を加えるべきだ」と主張したりしているのですが、シュナイダーは統合失調症に高頻度にみられる症状を挙げたのではなく、診断の決め手となる特異的な症状を挙げたのですから、そうした我が国の説はどちらも間違いです。

 しかも、シュナイダーに従えば、対話性幻聴と呼ばれる現象では、声と声とが相手に答えたり反論したりの話し合いをしていなければならないようであるので、複数の声であってもめいめい勝手に話しているようだと該当しないともいえ、非常に狭い範囲の症状を指しています。ミルクボーイの漫才が幻聴で聞こえたら見事に該当しますが、今年のM1の漫才の多くは該当しないかもしれません。

 ほかにも、この邦訳書では、性行動の異常に関する部分がごっそりと省略されています。同じ訳者は、ヤスパースの『精神病理学原論』の訳では遺伝に関する箇所をごっそりと省略していました。どちらも訳者にとって興味がなかったのだろうと推察されます。

臨床精神病理学序説 新装版 
クルト・シュナイダー (著), 西丸 四方 (翻訳)
出版社 : みすず書房; 新装版 (2014/7/5)

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2011年6月25日 (土)

ヤスパースの妄想定義ですが

 さいきん周囲の若手医師たちが、ヤスパースの『精神病理学原論』の日本語版での輪読会を行っているので、私も出席しながらまたはじめから読み直しています。

 この本では、ヤスパースが妄想を定義したとされる部分が有名で、以前も取り上げました。

心理学の前置きのところで対象意識の形として知覚、表象、意識性と判断を区別した。病的な知覚と表象は大部分以上述べた。病的に誤られた判断は一般に妄想という。心理分析の場合には厳密に元来の体験とそれを基として物語るだけの判断とを区別しなければならない。(みすず書房版63頁、下線は引用者)

・・・今度は誤られた判断、妄想に移ろう。妄想とはごく漠然と、誤った判断を皆そういうのであって、互いにはっきり区別がつくとは限らないがかなりの程度に次の三つの外面的な特徴を持つ。一 非常な信、何ものにも比べられない主観的な確信。二 経験上こうである筈だとか、こうだからこうなるという正しい論理に従わせることができない。三 内容がありえないこと。しかしこのような客観的な外面的な特徴の背後に立入って妄想の心理学的な性質をもっと深く見ると、まず二つの大きな分類ができる。その一つはわれわれにとって了解しうるごとくに、感情とか、あるいは妄覚のような他の体験とか、意識が変化したときの知覚界の疎外の体験から出てきたものであり、もうひとつは心理学的にそれ以上遡りえない、現象学的に究極のものである。前者を妄想的観念といい、後者を真性妄想という。(みすず書房版64頁、下線は引用者)

 今回気が付いたのですが、この本はヤスパース自らの精神病理学の考え方を紹介しているのでだいたい主語は「Wirわれわれ」で語られているんですけれども、下線部の主語はいずれも「Man」です。つまり、ここでヤスパースが言っているのは、妄想について世間では普通こう言われている、世間が言う妄想にはだいたいこういう特徴がある、ということに過ぎないのです。

 この部分は教科書や論文などに「ヤスパースによる妄想の定義」として紹介されていますが、そういうくくり方はちょっと不正確ではないかという気がします。

 ここらは妄想を体験と観念に分けるという点が重要でもあるのですが、この本の訳文では「Wahnideen妄想観念」という語をほとんど単に「妄想」と訳しています。そこらへんにも注意して、上の二箇所の代案を示しておきます。

心理学の前置きのところで対象意識の形として知覚、表象、意識性と判断を区別した。病的な知覚と表象は大部分以上述べた。病的に誤られた判断は一般に妄想観念といわれている。心理分析の場合にはわれわれは厳密に元来の体験とそれを基として表明される判断とを区別しなければならない。(代案。下線は変更点)

・・・今度は誤られた判断、妄想観念に移ろう。妄想観念とはごく漠然と、誤った判断が皆そういわれるのであって、それらは互いにはっきり区別がつくとは限らないがかなりの程度に次の三つの外面的な特徴を持つ。一 非常な信、何ものにも比べられない主観的な確信。二 経験上こうである筈だとか、こうだからこうなるという正しい論理に従わせることができない。三 内容がありえないこと。しかしわれわれがこのような客観的な外面的な特徴の背後に立入って妄想的観念の心理学的な性質をもっと深く見ると、そうした観念にはまず二つの大きな分類ができる。その一つはわれわれにとって了解しうるごとくに、感情とか、あるいは妄覚のような他の体験とか、意識が変化したときの知覚界の疎外の体験から出てきたものであり、もうひとつは心理学的にそれ以上遡りえない、現象学的に究極のものである。前者を妄想的観念といい、後者を真性妄想観念という。(代案。下線は変更点)

 ここで「妄想的観念」とされている語は、邦訳70頁では「妄想様観念」とされていますが、まあそれぐらいの不統一は読んでいけば大体分かるところでしょう。

精神病理学原論 
カール ヤスパース (著), Karl Jaspers (原著), 西丸 四方 (翻訳)
みすず書房; 限定復刻版 (1971/01)

Allgemeine Psychopathologie Ein Leitfaden Fur Studierende, Arzte Und Psychologen (1913) Karl Jaspers (ペーパーバック - 2009/11) 
出版社: Kessinger Publishing (2009/11)

 この前まで読んでいたシュナイダーの『臨床精神病理学』は、編者による解説部分が、内容がつまらないうえに長いし文章も読みにくくて閉口しましたが、どうにか惰性で読み終えました。誤植なのか、ドイツ語として成り立っていない(としか私のドイツ語力では思えない)文もあったりして、翻訳者の忍耐・苦労がしのばれます。

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2010年12月23日 (木)

クルト・シュナイダー『臨床精神病理学』(2)

 少しずつ読んできたこの本も、本篇の終わりにさしかかってきました。この本の翻訳についてはストレスなく読み進められるので助かっていますが、原書を参照したくなった(数少ない)箇所の紹介を続けます。

『たしかに、全く奇妙な、筋違いで「狂った」印象を与える着想とその処理暈だけに基づいて統合失調性精神病を想定しなければならない例が存在する。こうした着想には自分自身に関するもの(心気、血統)、他の人に関するもの(追跡、冷遇、嫉妬)、事物に関するもの(発明)がある。こうした例は頻度が高くなく、たいていは単なる異常パーソナリティ発展ではないかという疑問が生じる。我々やヤンツァリックのように、そうした例の中に統合失調症性精神病の1類型しか認めないとしても、コレ(Kolle)にならって誤解のないよう「パラフレニー」と呼ぶこともできるし、ガウプ(Gaupp)にならって「パラノイア」と呼ぶこともできる。命名が重要なのではなく、精神病性の事象と精神病質性ないし体験反応性の発展の区別だけが肝要である。』(針間訳版p94-95、下線は引用者)

 下線の部分ですが、何が何に包含されるのかが今ひとつ曖昧です。原文では「in et3 et4 sehen」の表現ですので、簡単に辞書通り「et4をet3とみなす」と訳したほうが意味が明瞭と思います。すなわち、下線部は「そうした例を統合失調症性精神病の1類型としかみなさないとしても」となります。

 この引用文を読むと、シュナイダーはパラノイアを統合失調症の1タイプとしかみておらず本質的な違いはないと考えているようです。ところが、シュナイダーが統合失調症にかなり特異的として列挙した症状(シュナイダーの言う「1級症状」)は、国際診断基準ICD-10では、統合失調症とそれ以外の妄想性障害(パラノイアを含む)とを鑑別するための指標とされていますし、日本の普通の精神科医の考え方もおおむねこれに近いように思います。しかし、もしシュナイダーの1級症状を援用するのであれば、あくまでシュナイダーに従うべきであり、妄想性障害というカテゴリーを残すことは許されないように思えます。

 上の引用よりも少し前の箇所では、たんなる妄想的解釈と思われる例が妄想知覚(1級症状のひとつ)として紹介されていて、シュナイダーの統合失調症の範囲はかなり広いようです。

 最後にもう一箇所引用しておきます。ここは、カギ括弧内に私が補っておいたいくつかの言葉がないと、ちょっと分かりにくい気がしました。

『循環病性の自己陳述は、はるかにより高い正当性をもって言葉通りに受け取ってよい。循環病性うつ病患者の思考構造と少なくとも内容は、比較にならないほどより非精神病性の生活に近い。このことは、臨床的にここで移行を認めなくても当てはまる。そのため、統合失調症性の自己陳述に特有の置き換えは、臨床的に明らかな[循環病の]例では[存在せず、]問題にならない。ここで[われわれが“置き換え”と言うことで]意味しているのは、厳密に上に述べた意味での[統合失調症性の]置き換えであり、体験されるそれぞれのことから語られることへの、構造に関わらない日常的な変形ではない。』(針間訳版p94-95、下線は引用者)

 この本はまだ補遺と解説が残っていますので、来る年もクルト・シュナイダーを読み続けることになります。

新版 臨床精神病理学 
クルト・シュナイダー、ゲルト・フーバー、ギセラ・グロス、 針間 博彦 (単行本 - 2007/9)
出版社: 文光堂 (2007/09)

2010年11月27日 (土)

クルト・シュナイダー『臨床精神病理学』

 いま、通勤中の運転席で信号待ちの合間に読んでいるのは、クルト・シュナイダーの『臨床精神病理学』です。これは統合失調症を診断するために有用な症状として、いくつかの陽性症状を提案し、『一級症状』という呼び名でまとめたことで名高い書物です。1950年代にこの本が出てから数十年の間に、統合失調症を陽性症状で診断する見方が世界中にかなり浸透し、この考え方は現代の操作的な診断基準にも取り入れられています。今やわれわれは、それ以前の書物を読む際にも、同じ診断姿勢を想定してしまうほどであって、フロイトやラカンがシュレーバー症例論をパラノイア論として論じたことがピンと来なくなってきてしまっています。

 といった事情を引き起こしたものとして、私はこの本に対してあまり良い印象を持っておらずこれまで拾い読み程度で済ませていたのですが、じっさい読んでみると、この本は、内因とか外因といった精神医学の慣用的な用語の妥当性を疑い、洗い直している点で、むしろ好感が持てるようになってきまして、やはり原著を読んでみなければならないものだなあと痛感しております。

 訳文がよくわからないときは車を降りてから原書と比べているのですが、以下のあたりがちょっと気になりました。

「考想奪取は統合失調症診断にとって極めて重要な症状であり、単純な考想の中断でもそうである。(…)確実に統合失調症性の障害が想定されるのは、他の人が考えを取り去る、と陳述される場合に限られるべきである。たしかに、統合失調症患者には単純な考想中断もあることが多いが、それを用いることにははるかに慎重でなくてはならない。考想奪取と同じ水準に、考想が吹き入れられるなど、他の人々による他の方法の考想被影響がある。同じく重要なのは、考えが自分だけのものではなく、他の人々がその考えを共有する、いや町中、世界中がその考えを知っている、という陳述である。他の人々が考想内容を直接共有する、というこの症状を、われわれは考想没収ないし考想伝播と命名したい。これは必ずしも把握するのが容易でない。これは声が報告するのではなく、また他の人々の何らかの動作や発言から、彼らが患者の心の中で起こっていることを知っている、と気づく妄想患者の妄想知覚でもなく、また知覚の基盤なしにこうした内容を有する妄想着想でもない。むしろ、それ以上に還元できない思考過程自体の質的変化であると想定しなければならない(グルーレ)。」(針間博彦訳版87-88頁、下線は原文による。太字での強調は引用者)

 まず、太字にした「考想没収」ですが、これは訳を読む限り、引用文冒頭の「考想奪取」と違うものなのかどうかわかりにくいと思います。原文は「Gedankenenteignung」なので、「Enteignung」を辞書でひいてみたところ、確かに「没収」という訳語もあるのですが、意味的には「公有化」というニュアンスが含まれるようです。これを用いて訳せば「考想公有化」となりますが、これなら上記訳文中に置いたときにぴったり来るように感じます。

 二つ目の太字、「妄想患者」の部分が気になったのは、「統合失調症」という語が連発された後にここで「妄想患者」と出てくると、パラノイアなど幅広い疾患群の患者を指すのかと思えてしまい、妄想知覚は統合失調症以外の妄想にも幅広く認められうるかのように読めてしまうからです。原文に当たると、「妄想患者」と訳されている語は「パラノイド患者」つまり「類パラノイア患者」です。以前も書きましたが、「パラノイド」とはパラノイアそのものを指すのではなく、パラノイア類似の疾患、つまり主として妄想型統合失調症を指すために用いられる言葉です(あとは文脈によって「妄想反応」に用いられるぐらいです)。この訳書ではほとんどの個所でしっかりと区別して「類パラノイア」の訳語を用いられているのですが、ここで「妄想」と訳されてしまっているのはちょっと不親切と思います。ちなみにここで太字にした二つの訳語は、平井・鹿子木による旧訳でも同じではありますが。

 さて、このすぐ次のページに「基礎的な考想伝播」という表現があって、私としては以前この「基礎的elementar」という概念についていろいろ教えてもらったことがあって(このブログでも取り上げました)、非常に興味深いところです。

 もう一か所、訳について取り上げておきましょう。

「…妄想知覚は統合失調症状であるが、我々が臨床的に統合失調症と呼ぶものに例外なく認められる症状ではない。おそらく精神病理学的意味において統合失調症性のあらゆる症状がそうであるように、妄想知覚は時にてんかん性のもうろう状態、中毒性精神病、脳過程にもみられる。」(針間博彦訳版92頁、下線は原文による)

 引用文のうち、一つ目の文では、妄想知覚は統合失調症診断の必要条件ではないと述べられている一方で、二つ目の文では、むしろ十分条件ではないことを示すような例が挙げられていて、両者のつながりが悪く、唐突な気がします。一つ目の文は、内容的にあまりにも当たり前すぎるのも変に思えます。そこで原書に当たってみましたが、私としては以下のような意味ではないかと思います。

「…妄想知覚は統合失調症状であるが、我々が臨床的に統合失調症と呼ぶものの徴候であると、全く例外なしに言えるわけではない。おそらく精神病理学的意味において統合失調症性のあらゆる症状がそうであるように、妄想知覚は時にてんかん性のもうろう状態、中毒性精神病、脳過程にもみられる。」(代案)

 同じ文光堂から出ている旧訳も当たってみましたが、旧訳は構文全体のとらえ方が雑なように感じられ、新訳の方がはるかに優れていると思います。この印象は今日の一つ目の引用個所でも同じことです。

新版 臨床精神病理学 
クルト・シュナイダー、ゲルト・フーバー、ギセラ・グロス、 針間 博彦 (単行本 - 2007/9)
出版社: 文光堂 (2007/09)
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