病識

2012年4月24日 (火)

ヤスパース『原論』の再読(第三章第二~三節)

 久しぶりにヤスパース『原論』に手をつけてみます。これは先週、症例検討会で自分の鑑定例を紹介した際に、参加しておられた先生から、病的過程か人格の発展かというヤスパースの考え方に言及されたのがきっかけです。

 まずは単純な誤植から。

197頁

時として接続的な血管運動性、神経衰弱的症状群、たとえば災難の後など。

〈代案〉

時として持続的な血管運動性、神経衰弱的症状群、たとえば災難の後など。

 次も単語レベルの問題ですが、221頁に「意識下の」という語が3回ほど出てきます。この日本語は、私の語感だと「意識内の」という意味にとりたくなるのですが、原語は「Unterbewusstsein」で、文脈からいっても、「意識される閾よりも下の」「潜在意識の」という意味でしょう。手持ちの辞書では大辞泉で「下」をひくと

「名詞に付いて、そういう状態のもとにある、その中でのことである意を表す。『戦時下・意識下』」

とあり、私の語感に一致しますが、新明解の「下」には

「①表面に現れない部分。『地下・意識下』 ②…のもと、…に属すること。『インフレ下の日本経済・支配下』」

とあり、両方の意味があるようです。これははじめて知って驚きました(もし片方の辞書だけ持っていたら、相反する二つの意味のどちらかだけが正解と思ってしまいそうですよね)。

 さて、そのすぐあとに、「第3節 病気に対する患者の態度」の章があり、これは病識に関する理論として非常にしばしば引用される箇所です。しかし文献上あまり指摘されてはいませんが、ここでヤスパースは患者の態度を明瞭に二段階に分けています。

222頁

一 患者は病気の症状を消化加工する。すなわち、ある体験Erlebnisは消化加工して妄想体系にする(以下略)。二 本当の意味でいう態度というのは、人間が自分の体験Erlebenにむきあって観察し判断することである。自我が自分の中で経過してゆく出来事に向かいあうこととか、自我が対象から目をそらして自分を「反省」しながら自分自身に向かいあうという精神生活の根本現象は、病気の時にはめったにない。心理学的な判断によって何をどのように体験するかが意識されるようになる。患者がその体験Erlebenに対して正しい態度が理想的にとれるようなのは、患者が「病識」があるという。[原語は引用者が付け加えた]

 第一段階の「体験」は、客体化されたものということでしょうか、原文では「Erlebnis」という名詞が用いられており、一方で第二段階の「体験」には、「Erleben」という、動詞をそのまま名詞化したものが用いられています。(Spitzerが英語論文でexperienceとexperiencingの両者を使っていたことを参考にして)後者は、「進行中の体験」とでも訳したらよいかもしれません。

 このあとしばらくは、おもに前者の「体験」への反応について説明されます。後者について語られるのは、次の引用箇所の第二文以降です。

225頁

 この第一群ではいずれの場合にも患者の病気の内容に対する患者の態度から特徴を知り、また変化した精神生活への患者の反応から、内容の消化加工から、特徴を知ったのである。第二群では患者が内容ではなくて[進行中の]体験Erlebenと自己に目を向けてこの出来事の原因をたずねながら彼の病気の一つ一つの様子や病気全体を判断する時にとる患者の態度から特徴を集めるのである。こういうものは皆総括して疾病意識とか病識といわれる。

 「体験」の原語の区別に着目することで、上の第一群と第二群との相違が明瞭になると思います。

 最後は構文上の誤訳です。ただし長い一文なので訳しづらく、みすず版も3文に分けています。私は前後をひっくり返すことにしました。

229頁

 急性精神病の最中より重要なのは、精神病が経過して回復してからそれに対してとる患者の態度である。すなわち判断がはっきりしているので、その内容からみると、本当の態度を見てとる上に間違いをおこさせやすい。それゆえこの病像全体を誤って解さないようにしなければならない。

〈代案〉

 もし病像全体を誤って解さないようにしたいのであれば、表明された判断の内容 -これが間違いをおこさせやすい- を通じて、本当の態度に到達することが重要である。これは急性精神病の最中よりも、精神病が経過して回復してからそれに対してとる患者の態度に際して、いっそう重要[な注意点]である。

精神病理学原論 

カール ヤスパース (著), Karl Jaspers (原著), 西丸 四方 (翻訳)

みすず書房; 限定復刻版 (1971/01)

Allgemeine Psychopathologie Ein Leitfaden Fur Studierende, Arzte Und Psychologen (1913) Karl Jaspers (ペーパーバック - 2009/11)

出版社: Kessinger Publishing (2009/11)

 222頁の引用箇所の「向き合う」の原語は「gegenuebertreten」「sich gegenueberstellen」ですが、私は、「向き合う」っていう言葉、ニュースやドキュメント番組なんかで「認知症と向き合う」みたいな表現を聞くとすごく嫌なんです。なんででしょうかね。

 なお、今回の記事の内容のほとんどは、ヤスパースの同じ教科書の後年の版「精神病理学総論」についてすでにこのブログで取り上げました。参照ください。

http://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-8dd7.html

http://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-e838.html

2011年4月15日 (金)

病識にまつわる誤訳をもう少し

 前回、ヤスパース『精神病理学総論』で病識について述べられている箇所の誤訳について述べました。

 このほか病識論をあちこち拾い読みしてみますと、なぜかこのテーマは誤訳を招きやすいのか、次のような箇所も目につきました。

 治癒についてよく論議された基準は病識である。自分自身、発症中の妄想、態度を病的な現象であると述べる人々、かくしかじか治療されねばならぬということを理解し、しかも医者や精神病院に対し感謝している人々は、理由なしには簡単には治ったとはみなされない。他方その反対はかなり持続する病気の確実な徴候である。(E.ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群』医学書院301頁。太字による強調は原文による。下線は引用者が付した)

 治癒についてよく論議された基準は病識である。自分自身、発症中の妄想、態度を病的な現象であると述べる人々、かくしかじか治療されねばならぬということを理解し、しかも医者や精神病院に対し感謝している人々が、治ったと簡単にみなされるのは、理由のないことではない。他方その反対はかなり持続する病気の確実な徴候である。(代案、下線は変更箇所)

 想像するに、訳者はここで、「治癒したのなら治療を求める必要はないはず」と考えて意味をひっくり返してしまったのかもしれません。しかしこの前後の文脈を読めば分かりますが、ブロイラーはここで完全な治癒を想定していないようです。

 次はまたもやヤスパースです。

妄覚に関する正しい実在判断は『病識』という言葉で総括されるものの一部を表わしている。病識はあらゆる現象が客観的に無意味であると正しく判断することを意味し、妄覚は外部の原因で引き起こされるだけでなく、また声も動機がなく、妄想観念にも根拠がなく、病的な意思欲求も目的にかなっていないなどということを意味する。なお病識はその上これらすべての現象がある疾患であると判断することを意味し、またこの点で文化水準と関係があり、疾患とは何であり、何がその原因であるかなどに関する見解とも関連がある。(ヤスパース『精神病理学研究2』63頁。下線は引用者が付した)

妄覚に関する正しい実在判断は『病識』という言葉で総括されるものの一部を表わしている。病識はあらゆる現象が客観的に無意味であると正しく判断することを意味し、妄覚は外部の原因で引き起こされていないと判定するだけでなく、また声も動機がなく、妄想観念にも根拠がなく、病的な意思欲求も目的にかなっていないなどということを意味する。なお病識はその上これらすべての現象がある疾患に属すると判断することを意味し、またこの点で文化水準と関係があり、疾患とは何であり、何がその原因であるかなどに関する見解とも関連がある。(代案。下線は変更箇所)

 ここの一つ目の下線部は、またしても真逆の意味になっていますが、ここは単なるケアレスミスのようでもあります。

2011年4月 6日 (水)

引き続き病識について

 前回、ヤスパースのいう「病識」の概念では、患者が自らの病的体験についてリアルタイムで洞察することが必要かもしれないと書きました。

 ところが、精神医学の日本語文献を読んでいると、「病識」を論じる際に、すでに過ぎ去った病気に対する洞察を重視する考え方を採っているものが散見されます。

 その理由は、ひょっとすると、ヤスパースの『精神病理学総論』で病識について論じられた箇所(病識を扱う際には必ずといってよいほど引用されるところです)のなかの以下の部分の誤訳が影響を与えているのかもしれません。前回引用した、「病識」とは患者が自らの体験や病気に対して取る「構え」の問題であるという箇所の少し後ろの一節です。

患者の病像全体について誤りを犯さず知るためには、急性精神病の最中における患者の構えを見ることにも増して、経過が終わった精神病に対する彼の構えについて彼が述べる判断の内容から -この内容に欺かれやすいのであるが- 真実に達することが肝要である。 (ヤスパース『精神病理学総論中巻』岩波書店181頁)

患者の病像全体について誤りを犯さず知るためには、彼が述べる判断の内容 -この内容に欺かれやすいのであるが- を通り抜け、本当の構えにまで達することが肝要である。これは、急性精神病の最中にも増して、経過が終わった精神病に対する構えについて、より一層重要な注意点である。(代案)

 ここでいう「本当の構え」とはもちろん、前回引用した箇所、「人格が自らの体験動態に対し、観察し判定しながら向かう時にはじめて、本来の意味での構えの取り方が問題となってくる。」(岩波版176頁)を受けての表現です。岩波版は、経過が終わった精神病に対する構えを重視すべきであるかのような誤解を与えています。

 もうひとつ、我が国の論者が「病識」を検討する際に過去の体験への洞察を重視するようになった要因かもしれないと思われるのは、クレペリンの『精神医学』の教科書です。この本で「病識」という見出し付きで比較的明瞭に書かれている箇所が、精神疾患の転帰を論じた章に含まれているからです。

病識 回復が起こったという、認めうる症状の消失以外のもっとも重要な印は、克服した病気の病的な性質の洞察と、それと共に大抵、享受した治療や看護に対するある程度の感謝の出現である。その洞察はたしかにまさしく、回復しつつある患者が自分の精神生活の病的変化を何か異質のものと感じていること、別の言い方をすれば、彼が病前の健常な日々に立っていた判断の基盤に立ち返ったことを保証してくれる。病識の欠如は常に、精神障害中に蓄えられた経験を正しく判断することの不能を示唆する。(以下略)(クレペリン『精神医学総論』みすず書房240頁)

 これは、巻末索引で「病識」を引いて探せる箇所の中でも、最もまとまった論が読めるところでもあります。

 ここは、精神疾患の転帰の文脈のなかで、病識を治癒の指標として述べた箇所ですから、当然のことながら過去の体験への洞察について述べられています。

 しかしクレペリンは、進行中の病気に対する洞察についても、『精神分裂病』の巻で「病識」という語を用いています。ただ、残念ながら、それらは病識について主題的に述べた箇所ではなく、また巻末索引でも引けませんから、目立たない箇所にすぎません。

『(・・・)幻視もまぼろしもずっとありますが、これも皆霊媒の意図と私の想像力のために起こります。まぼろしは目を閉じたときにだけ現れます』。ここには病識と被影響感の奇妙な混合、ことに心の自由性喪失の感じがあることに注意されたい。(以下略)(クレペリン『精神分裂病』みすず書房19頁)

 ある程度の病識さえしばしば存在する。患者は自分の妙な行動を愚行だといい、自分は実にばかだという。精神病かと質問すると、ある患者はこう言った、『ええ、もちろんです、利口ならこんなことはやりません』。ある女の患者は、緊張病性運動常同が著しく現われていたが、こう言った、『私はこんなばかな運動をずっとやらなけりゃならないのです、だけどあんまり簡単すぎます』(以下略)(クレペリン『精神分裂病』みすず書房149頁)

 以上のように、精神病理学に大きな影響を与えたヤスパースとクレペリンの二大教科書といえる書物の翻訳が、一部の論者の「病識」概念に強く影響し、過ぎ去った病気への洞察を重視させたのではないかと想像しています。

精神医学総論 (精神医学 6)
エーミール クレペリン , Emil Kraepelin , 西丸 四方 , 遠藤 みどり 出版社: みすず書房 (1994/01)

Psychiatrie: Bd. Allgemeine Psychiatrie 
Emil Kraepelin
出版社: Nabu Press (2010/01)

出版社: みすず書房 (1986/01)

2011年2月28日 (月)

ヤスパース(5):ヤスパースの意味での病識

 ヤスパースの『精神病理学総論』岩波書店(第7版の訳)で病識を扱っている部分は、次のような章分けになっています。

疾病に対する患者の構えの取り方
 a)急性精神病の突発に対する了解可能な態度(困惑、変化の意識)
 b)急性精神病が過ぎた後の消化
 c)慢性状態における疾病の消化
 d)自分の疾病に関する患者の判断
  1.自己観察と自らの状態の意識
  2.急性精神病の際の構えの取り方
  3.過ぎ去った急性精神病に対する構えの取り方
  4.慢性精神病における構えの取り方

 すなわちa)b)c)で、急性期、急性期からの回復後、慢性期のそれぞれに患者が取る態度を扱っていながら、d)の2.3.4.で同じようにまた一つずつ取り上げて論じています。病識や疾病意識といった用語は、d)で初めて登場しているのですが、以前読んだときには、どうしてこのようにややこしい論じ方をしているのかよくわかりませんでした。

 原書をよく見直してみると、実はa)b)c)までの本文では、「患者が体験に対して取る態度」というときの「体験」には名詞「Erlebnis」が用いられているのですが、d)からは、「体験する」という動詞をそのまま名詞化した「Erleben」が用いられるように変わっています。つまりd)からは、患者自身が、「体験するという事態」に目を向け、体験様式ひいては自己自身を問題とするような場合について論じられています。幻聴の場合で言えば、幻聴の内容や送り主に対する反応ではなく、幻聴を聞く自分の状態に注意が向いていなければならないことになるわけです。以下はd)の冒頭の箇所ですが、この名詞化された動詞を「体験動態」と訳してみましょう。

『人格が自らの体験動態に対し、観察し判定しながら向かう時にはじめて、本来の意味での構えの取り方が問題となってくる。患者は、自らが何をいかに体験しているかを、心理学的判断のなかで意識化する。患者の体験動態に対する「正しい」構えの取り方の理想的なものは、患者が「病識」において到達するものである。今まで述べた項目では、疾病現象の内容に対する患者の態度や、変化した精神生活への患者の反応や、内容の消化などから種々の特徴を知ったが、ここで我々は、患者が[体験の]内容から離れて自らの体験動態と自分自身へ向かい、この事象の原因を尋ねて、自らの疾病を個々の特徴についてあるいは全体として判定するときに患者が取る構えから、特徴を集めようとする。つまり疾病意識および病識と総括されるものの全てがここに関わる。
 疾病意識とは次のような患者の構えをいう。病気という感じ、変化したという感じが表に現われてはいるが、しかしこの意識は全ての疾病症状や全体としての疾病に関わってはおらず、また発病の種類についての客観的に正しい判断や、疾病の重さの判定について客観的に正しい度合いに達してもいない。ただ、こうしたことが全て行われて、個々の疾病症状全て、あるいは全体としての疾病が、その種類と重さに従って正しく判定される場合にのみ、我々は病識という。しかし我々はこれに制限を加えて、ここでの判定は、同一文化圏の平均的健康人が他の病人に対してできるような正しさに到達すればよいとするものである。』(岩波版を改訳)

 この二段落は非常によく引用される箇所ですが、特に「個々の疾病症状全て、あるいは全体としての疾病が、その種類と重さに従って正しく判定される場合にのみ、我々は病識という」の部分のみを引用して、“ヤスパースの病識概念は狭すぎる”“実際にここまで達する患者はほとんどいない”などと評されることがしばしばです。しかし、ヤスパースはさらにその前提として、患者が自らの体験の様式に着目してその変化に気づいていることをも要請しているのです。

 ここで私がひとつ疑問に思うのは、ヤスパースが「自らの体験動態に対して構えを取る」という場合の、動詞形で書かれた「体験」は、「現在進行中の体験」でなければならないのか、それとも、過去の出来事の際の知覚様式・心理状態などへの振り返りであっても「(動詞形の)体験への構え」とみなしてよいのか、という点です。前者ならば、我々が夢を見ながら「これは夢だ」と気がつくように、あるいは逃げ水を見ても不思議に思わないように、その場で直ちに気づかなければならないことになります。これはあまりにも困難な要請でしょうか。私は、幻聴を聞いてから少し時間が経つと「あれは幻聴だった」と判別できるのに、幻聴が聞こえた瞬間には現実の音声と思い込んだり、幻聴からの命令に従って行動してしまう患者を何人か知っていますが、彼らにはさらなる洞察の余地がありますから、すでに十分な病識があるとはみなしがたいのです。なので、「病識がある」というためにはリアルタイムでの気づきが必須であると考える読み方も捨てがたいと思っています。

2008年5月13日 (火)

病識欠如について

 これは先月本当にあった話です。

 回診のとき、一人の統合失調症患者が、統合失調症についての解説書を病室内に持ち込んでおり、それを示しながらほぼ次のように話してくれました。「自分は自分の病気についてよくわかるようになった。この本に書いてあることはみんな自分に思い当たることばかりだ。なかでも、病識がもてないというところ、つまり自分で自分は病気だと思えないというところが、一番自分にぴったりと思った」。

 この患者には、病識(自分は病気であるという認識)があると考えても矛盾だし、病識がないと考えても矛盾になります。

 これについて論理学的にどう考えたらよいのだろうかと思っても私は混乱して疲れるばかりなんですが、どうにかすっきり整理できないものでしょうか。

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