心と体

2011年11月 9日 (水)

医療観察法ムラ

 医療観察法病棟内で事件があったとのニュースがありました。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111104-00000031-mai-soci

 詳細は分からないものの、そもそも無理のある法律やガイドライン・病棟構造のなかで、治療を受ける患者や家族、その治療を行っている末端の担当者にしわ寄せが及んでいるという印象を受けます。

 原発事故以降、「原子力村」とか「御用学者」といった言い方がされることがありますが、医療観察法にも、「医療観察法村」があるように思えます。司法精神医学者たちが、“非定型抗精神病薬の単剤使用と認知行動療法の組み合わせによって統合失調症は治りうる病気になった”、というフィクション(=治療可能神話)で官僚や政治家と結託して(あるいはだまして?)法律・ガイドラインを制定し、いくつかの国公立病院が公金で新病棟を建て、患者一人あたり一般の精神科医療の3倍もの診療報酬を受け取り、さらにその中心にいる医師をはじめとする病棟スタッフは、新しい制度のもとに集められた患者たちを論文や学会発表のネタにもしているわけです。医療観察法に適するかどうかの鑑定を引き受ける医師はかなりの個人収入も得られます(従来は起訴前鑑定だけで済んでいた患者が、もういちどこんどは医療観察法鑑定を受けるわけですから、一人の患者につき少なくとも二度の鑑定料が公金から医師たちに支払われるようになりました)。

 医療観察法で治療中の患者には、実際には結構な数の自殺とか、まれには他害行為の再発も起こっているらしいですが、ムラの中ではひそひそと語られているらしいものの、(私なぞは結構ムラの近くにいるのですが)詳細が全然明るみに出てきません。法律・ガイドラインでは、医療観察法の先進的な知見を今後広く一般医療に広めていくようなことが書かれていますけれど、かなりの隠蔽体質です。

 ガイドライン作りには医者のほか心理士などが参加しているようですが、(過去にここでもhttp://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_22d3.html書きましたが)よくできているとはいえませんし、精神病のことがわかっていると思えません。まるで患者は妄想をいつでもその気になれば捨てられるのに好きこのんで思い込んでいて、治療者と話し合えば主張を撤回するかのような書かれ方なのです。

 治るようになったという前提でできあがっていますから、医療観察法に基づく治療を行っても改善しなかった患者をどうするかという規定はありません。他の病院に転入院を引きうけてもらえなければ、医療観察法病棟にそのまま長期入院となっていくしかありませんので、末端のスタッフが、上層部からの圧力を受けて、各患者がもともとかかっていた病院に転入院を頼み込むなどして必死に病棟を回転させています。

 今回の場合、一度目の事件はすでに標準的な病院で入院治療を受けていたなかでの出来事だったのに、その患者に医療観察法病棟での治療が命令され、入院直後に二度目の殺人事件が起こったということになりますが、はたして医療観察法入院ではこれまでの治療に比べて治療効果の上乗せがどれだけ可能だというのでしょうか?。看護師として普通に看護学校や看護大学で教育されたスタッフが、そうした患者を隔離せずに安全に観察することが可能だという前提は現実的でしょうか?。そもそも医療観察法では鑑定を行った病院から治療病棟へと必ず転院させるシステムになっています(今回は千葉から神奈川への転院の2日後の出来事でした)が、見知らぬ土地とお互いに慣れないスタッフのもとへと転院させることで状態悪化の危険が増すというデメリットはどう考えられているのでしょうか?。そういえば、数年前に医療観察法病棟から外出中の患者がスタッフから離れて自殺した例がニュースになりましたが、それも遠隔地への入院患者でした。遠隔地へ入院させて家族や地域からひき離すといったデメリットを超えるほどの治療上のメリットがないことは、もうそろそろ見えてきているのではないでしょうか?。

 まあ医療観察法ムラの人たちはこの機会に、従来の治療と比べて別に治療成績なんか優れていないし、安全も守れていないのに多額の公金をつぎ込んでいることを、まずは広く情報開示するべきでしょう。

2011年5月25日 (水)

心のケアチームの評価

 震災後に被災地に派遣された心のケアチームについての新聞記事などをよく目にするのですが、派遣されたチームのメンバーが語っている記事は多いものの、現地でどう思われているのかという記事は新聞やネットにほとんどありません。たまたま目にした記事には、アンケートを配ってデータを取ろうとして被災者の反発を買った心理カウンセラーについて批判的に書かれていたりもしました。まして、心のケアチームが現地で感謝されているという記事を私は見たことがありません。そこでネットで『震災 こころのケアチーム 感謝』などを検索ワードに調べてみると、まあ感謝の声が全くといっていいほど現地から上がっていないことがわかります。一方で、検索ワードを『心のケアチーム』から『医療チーム』とか『ボランティア』に変えると感謝の声がたくさん出てくるんですけども。

 心のケアチームの活動が、疾患の予防とか早期発見にどれだけ効果があったのかの医学的評価は、そもそもデータの取りようがないようにも思われますし、コスト対効果を考えると非常に微妙なところでしょう。そのうえ、ここまでの活動の短期的・対症療法的効果が、現地で実感されて感謝されるほどではないとなると、各県がかなり苦労して今もチームを派遣し続けている作業が報われない気がしてきます。

 それでも何らかのお役に立っていると考えるための希望的な仮説として考えられるのは、“正常範囲の変化を示す被災者の方々にはまず他県からのチームが対応することで、少しでも現地の精神科スタッフが緊急性の高い患者に専念できるようにすること”といった間接的な効果でしょうか。

2009年8月12日 (水)

地震から

 精神科入院患者の一人が早朝の地震で目を覚まし、病棟のテレビで情報を得ようとしたところ、看護師に「まだテレビをつけて良い時刻になってない」と止められ、テレビを見られなかったそうです。

 精神科の患者は社会への関心が失われがちななか、健全な関心を育むためにも、今日に限ってはテレビを見せるのが正しい対応ではなかったかと思った次第です。

2009年8月 9日 (日)

「外傷後ストレス障害」であって「ストレス後外傷障害」ではない

 PTSD(=外傷後ストレス障害)についての一般的イメージは、災害などの心的な外傷が、強いストレスになって後々まで障害を及ぼす状態、といったものではないかと推測します。ところが、この障害の名称は「外傷後ストレス」とありますので、「外傷=ストレス」という意味には読めません。

 『ストレス』という語を、たとえば手持ちの電子辞書に入っている国語辞典で調べると、「物理的、精神的な刺激(ストレッサー)によって引き起こされる生体機能のひずみ。また、それに対する生体の防衛反応。一般には、ストレッサーとなる精神的・肉体的な負担をいう」とのことです。

 PTSD(=外傷後ストレス障害)について、はじめに書いたように「外傷=ストレス」と考えてしまうのは、上の辞書にあったように、ストレスという語をストレッサーという意味で使うという一般的用法に引きずられてしまっているためのようです。PTSDについては、外傷の後に、生体機能がひずんだストレス状態に陥り続けている、と考えるのが正しいのでしょう。

 ところで、ストレスという語は、精神医学の中でもやはりストレッサーという意味と混同されやすいような気がします。たとえば、「ストレス(に対する)耐性」とか「ストレス(に対する)脆弱性」、「ライフイベントというストレス」などの表現は、さらっと読む限り、ストレスが外からやってくるもののように読めてしまいやすい気がします。

 これに関連して、私が持っている本には次のような記載がありましたので紹介します。

「一般に心身的な不快をもたらす要因をストレスと呼ぶが、それが非常に強い心的な衝撃を与える場合には、その体験が過ぎ去った後も体験が記憶の中に残り、精神的な影響を与え続けることがある。このようにしてもたらされた精神的な後遺症を特に心的なトラウマ(外傷)と呼んでいる」(『心的トラウマの理解とケア』厚生労働省 外傷ストレス関連障害の病態と治療ガイドラインに関する研究班)。

 「ストレス」や「外傷」という語の意味がこの記載の通りだとすると、後遺症の呼び名としてはむしろ「ストレス後外傷症候群」がふさわしいということになってしまいます。

 厚労省関係のこの書物の記載は果して正しいのでしょうか?。いったいどういう用語法が正しく、どのような使用は誤用なのか、どこかに簡明な説明があれば教えてもらいたいところです。

心的トラウマの理解とケア (単行本 - 2001/5)

厚生労働省精神神経疾患研究委託費外傷ストレス関連障害の病態と治療ガイドラインに関する研究班http://www.jiho.co.jp/shop/goods/goods.asp?goods=35433

出版社: じほう

追記:第2版が出ていました。著者が個人名になっています。

金 吉晴

出版社: じほう; 第2版 (2006/03)

2009年6月 3日 (水)

心神喪失・責任能力

 こないだ出席した講義で、統合失調症患者の責任能力について話題になっていたんですが、そのさい、どうもその参加者の中では重鎮らしい先生が、統合失調症で妄想に支配された状態での他害行為を罪に問うべきではないと言うための例として、てんかん患者が発作中の突発的な動きで近くにいた人を突き飛ばして殺してしまう場合を挙げ、両者は同じようなものだと言っていました。これはいろんなところで用いられる例え話ですが、私にはどうしても合点がいきません。てんかん発作中の患者と統合失調症患者はまったく別の状態であって、池田小学校事件や幼女連続誘拐殺人の犯人たちと統合失調症患者がまったく違うのと同様に(いやむしろそれ以上に)似ても似つかぬ状態と思うからです。

 心神喪失とは、事物の是非善悪を弁別する能力またはその弁別に従って行動する能力が完全に失われた状態、心神耗弱とはそうした能力が完全に失われたとはいえないが著しく障害された状態、という定義の表現を素直に読んでみれば、私には統合失調症で心身喪失に至ることはほぼありえないと思えます。世間の相場では結構な割合で心神喪失とされてしまいますし、こないだの講義の参加者たちもまた世間の相場を構成しているわけですけれども。

2009年6月 2日 (火)

言外の意味

 ラカンは、ある男性が「君は僕の妻」と(プロポーズの場面で)語るとき、言外に「僕は君の夫である」という自己規定を示している、という場面を、『充ちたパロール』の例として挙げます。さらには、フロイトの論文『子どもが叩かれる』のなかに「自分の同胞が叩かれている」という空想場面が登場することを挙げて、これは「同胞よりも自分の方がかわいがられている」ことを言外に示している、とも説明していたはずです。

 これを踏まえて考えると、既婚女性芸能人(主に中年以上のお笑いの人)が、自分の夫について冗談めかして「うちの反町隆史が・・・」と語るとき、そこには、「夫が反町隆史であるならば、自分はさしずめ松嶋菜々子であろう」という言外の意味があって、この言い回しのおもしろさを一段高めていると思います。

 という話を私の身近な人に話してもあまりピンとこないようで、「あの人たちはいちいちそんなことを考えて喋っていないよ」と一蹴されてしまいます。それでも私はあえて、上に書いたことを踏まえて、これまでは「自分の職場にも松たか子のような部下が付いていたらなあ」と言い続けていたのですが、最近はもちろん「綾瀬はるかのような部下が付いていたらなあ」と口にしているのです。

2009年4月16日 (木)

供述調書の漏洩について

 昨日の判決がニュースになってました。私としては、もし自分の家族が大きな犯罪を犯したら、と考えると・・・ もしも今回の判決とは逆に、自分が供述した内容が全て公けに出版されることが許されてしまうなら、私は警察で聴取される際に、供述したくないこと、自分の胸にとっておこうと思うことが、非常に多くなってしまうと思います。そうなると正確な鑑定や判決が導きづらくなりませんでしょうか。ですのでこの判決結果には賛同せざるを得ません。

 ところで、私は医療観察法の鑑定だけは時々やっているのですが、患者の付添人となった弁護士が、書き上がった鑑定書を入手して、患者の家族に見せたりコピーを渡すことがよくあります(家族がコピーを渡された場合、当然ながら、患者自身もあとで家族から見せてもらうことができます)。付添人となる弁護士の人選は、患者の家族が行っている場合が多く、その場合、家族が依頼者ですので、見せたくなるのはわかるのですが・・・私としては

①鑑定書に、家族による患者への関わり方とか、病気についての家族の理解度などについて、ネガティブなことを書きづらいです。場合によっては、家族の関わり方が患者の病状を悪化させていそうなこともありますし、家族のなかに、病院には掛かっていないけれども精神疾患を罹患していそうな人がいて家族全体の生活様式に大きな影響を及ぼしている、なんてこともあったりするんですが、それもやはり書けない。患者の社会復帰環境に関わる大事な情報なんですが。

②患者が、家族に対して秘密にしておきたいと言いながら大事なことを話してくれたときにも、それを書くことができないことがありますし、患者が家族についてネガティブな評価を下しているときにも、それを書くことで家族関係が悪化しないか心配で書けません。

③鑑定を始めるとき、患者に対して、「ここで話したことは裁判所に提出して審判で使われます」といった説明をしているのですが、けっこう高頻度で家族にそのまま伝わることがわかってきたので、患者にも「ここで話したことはそっくりそのまま家族が知る可能性があります」とはっきりと伝えるべきなようにも思いますし、それでは患者が包み隠さず話しづらくなりはしないかとも思うので迷います・・・

といった問題を感じます。裁判での鑑定ならば後々の家族関係などは気にしなくても良いかもしれませんが、医療観察法は、その後の社会復帰に資するという目的で行われる鑑定なので、どうしても気になるのです。

 場合によっては、患者の妄想の対象となっている相手が、患者が起こした事件の被害者として事件について証言し、その内容が供述調書や鑑定に引用されている場合があります。そういった証言を患者が知ってしまうと、患者の恨みがさらに燃え上がる可能性があります。しかし弁護士さんというのは、そういった書類が患者の目に入ることは証人にとって危険じゃないかという懸念は顧慮しないもののようです。「そんなことは、一般に裁判という公開の場で証言が行われるときに証人が将来お礼参りの危険を負うことと同じことだ」ということのようですが、私としてはどうも釈然としません。

2009年3月16日 (月)

昨夜の夢

 昨夜、珍しく場面転換のある長い夢をみたので、忘れないように書き留めておきます。現時点ではほとんど解釈できませんが。

 舞台はおそらくアフリカで、戦争が終わったばかりです。3人の女性が登場します。;痩せた、薄っぺらい胸をして、上半身裸かそれに近い格好です。うち一人は他の二人よりも肌の色が薄いので、同じ民族に属するかどうか疑われ、兵隊に銃口を向けられます。しかし、他の二人の後ろを歩きながら同じ民族の者であることを必死にアピールすることによって、撃たれずに済みます。

 場面が変わります。終戦後、国を二分割して、中国と日本がそれぞれを援助することになります。国民を集めた集会の場で、壇上に太った中国の役人が全身赤い服を着て立っていて、演説します。曰く、これからもこの国と中国とは、困難や苦しみはあろうとも、産みの苦しみとして堪えながら、友好と発展のために協力していこうではないか、といった内容です。その演説とともに映像が流されています。それはなぜか馬の交尾の映像です。雌馬は苦しそうな鳴き声を上げています。私はその映像に驚きながら、演説を、こんな甘い言葉にだまされてはいけない、と思いながら聞いています。そのあと日本の役人がスーツ姿で登場し、真面目で実務的な演説を行ったらしいです。私はそれを聞いてはいないのですが、こうした地味な演説が現地の人々に好印象を与えることができればよいのだが・・・といった心配をしながら観ています。

以上で終わりです。

 最初の場面で、銃を向けられることがすでに性的な意味があることは明瞭です。しかし全体的に、夢の各部分についての連想がなかなか出てこず、前日のどういった出来事から材料が採られているのかいまのところよくわかりません。前日アフリカについて考えたことと言えば、間寛平のテレビを観て、太古の昔、太平洋の真ん中のハワイにどこかから住民が漂着したのだとすればそれは大変な行程であったことだろう、といったことを考えたのち、人類遺伝学上、現生人類の祖先とされる一女性がかつてアフリカにいたとされていることをちょっと思い出したことぐらいです。

 中国については、数日前にダライ・ラマが英語でなにやら話しているニュースを観た覚えがありますが、内容については忘れました。衣服の色はダライ・ラマが着ている服に似ていますが、上着とズボンですし、中国人の風貌は、太っていて唇も厚く、黒烏龍茶のコマーシャルに出てきそうな人物です。

2009年2月25日 (水)

定年退職に際して蔵書を病院に寄付すること

 我が病院の図書室には、何人かの精神科医が定年退職時に寄付していった蔵書が多く残されています。おかげでブロイラーやクレペリンの原書が容易に読めたりするのでありがたいのですが、それでも私にはどうしても疑問に思い、また時に幻滅を感じることでもあります。

 といいますのは、退職したからといって人間精神について書かれた本が不要になってしまうことがありうるのだろうか、彼らはそれまで精神を単に職業として扱っていたにすぎないのだろうか、という疑問があるからです。最新の薬物療法についての本などであればまだしも、精神分析や現象学についての本は、精神について考え続けるならば必須の本であるはずです。

 精神医学とは精神疾患に苦しむ人を治療するためのものに過ぎないと考える方が健康的かもしれませんが今の私にそのようには考えられません。しかし私も定年が近くなってくれば、もはや精神についてさほど考えなくて良くなってしまうのでしょうか。

2008年12月11日 (木)

こころやさし ラララ科学の子

 鉄腕アトムの歌には「心やさし」というフレーズが出てきます。しかしこのアトムの心とはいったいどんなものでしょうか。私は精神科医という特殊な仕事をしていますが、そうではない一般の方々は、アトムに心という語が用いられてもさほど違和感を感じないのでしょうか。最近まで私もこの歌詞を気に留めずにいたのですが、さきごろ一度気になり始めてからは、「心」という語を耳にする度にこの歌のフレーズが頭に浮かんでくる状態です。

 ちょうどラカンのセミネールの読書会で来週扱う箇所で、次のような部分に遭遇しました。雄のカマキリが雌に食われるという事実を念頭に置いた議論です。

 ここでカマキリに主体性を持ち込むのは、カマキリに性的享楽を想定しているからです。このことは決して行き過ぎではありません。確かに我々はカマキリの性的享楽について何も知りません。カマキリは恐らくデカルトなら迷わず言うように端的にひとつの機械です。つまり機械は機械のランガージュでうまくやっているという意味であって、全ての主体性というものの除外を前提としているという意味でもそうです。しかし我々としてはこの最少限の点にとどまっている必要はさらさらありません。我々はカマキリにも享楽があることを認めます。
 この享楽は これが次の一歩です- 享楽によって破壊されるような何ものかにとっての享楽でしょうか。なぜなら、ここから出発してはじめてこの享楽は我々に自然の意志を示唆することができるからです。
 本質的なことをただちに明確にするために、そしてこの享楽が、今議論していること、つまり我々の口唇的カニバリズム、我々の原初的エロティズムについて何等かのモデルたり得るために、我々は次のように想像してみなくてはならないでしょう。つまり、この享楽がパートナーの斬首に相関していること、しかも、享楽がある程度それを認識していると想定されているということです。(8巻15章)

 そういえばアトムも最後、地球を守るために自らの存在を犠牲にします。このときのアトムには、単なる苦痛を超えた享楽があると想定しうるように思えます。だとするとそこには主体も存在するということになるのかもしれません。それは「心」なのかというと難しいところがありますが。

 ところで、よく自閉症者は「心の理論課題」に正答を与えることができない、といわれますが、心の理論課題の内容ときたら、登場人物たちが「心」を持っていることを想定する必要など全くない、それこそ全てロボットであっても起こりうる状況の描写です。これが「心の理論課題」と普通に呼ばれているところをみると、専門家の間でも、「心」という語が指し示す内容にさほど思い入れを持たないのがむしろ普通なのかもしれません。

 私には、「うつ病は心の風邪」とか「心の医療センター」とかいう言い方にもいちいち違和感があります。例えば精神病患者について、『幻聴やテレパシー体験などの異常な知覚に対して、正常な心で反応している』と考えたくなる場合も多々ありますし、これについて私の同僚の一人は、精神病は心の病といってよいかどうか疑問だと言っていました。

 一方で、最近よく、一部のうつ病患者が周囲の出来事や状況によって気分が晴れたり落ち込んだりする(そのため、休職中なのに職場外で楽しく遊んでいたりする)という事実を挙げ、そういう軽いものは病気じゃないとか、そういう患者は世間に流布しているうつ病概念を悪用しているなどといった批判を展開している書物がありますが、そういった患者さんこそ「心」の問題、「心」の病気というべきであって、普段「心のナントカ」といったソフトなイメージを身に纏っている専門家が真っ先に扱うべき対象と思います。

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