心と体

2009年8月23日 (日)

漱石『こころ』の先生の被害妄想について

 ある統合失調症患者が診察時、自分は漱石の『こころ』を20回ぐらい読んだことがある、と言っていました。そこで私は、『こころ』に出てくる先生は父親の遺産を叔父に横取りされたと信じ込んでいるが、親戚たちの態度を変に感じてそのように推測しただけであって、叔父の使い込みの明らかな証拠があるわけではないことから、使い込みは先生の被害妄想だったのではないかという考え方があることを紹介し、それをどう思うかと聞いてみました。

 患者は、それはパラノイアということですね、父親が死んだショックでいろいろあってそうなっちゃったんですね、と答えてくれました。

 私の記憶では、物の本には、先生の被害妄想を根拠に先生は統合失調症であると書かれていたように思うのですが、その本の著者よりも私の患者の方が診断力が確かであったというところに驚かされました。

2009年8月20日 (木)

ヤスパース2

 精神医学の教科書や辞典では、妄想を説明するに当たって、ヤスパースの『精神病理学原論』をひいて、ヤスパースが妄想を三つの特徴で定義したとされていることが多いと思います。それは、原著から引用すれば

「1 非常な信念、何ものにも比べられない主観的な確信。2 経験上こうである筈だとか、こうだからこうなるという正しい論理に従わせることができない。3 内容がありえないこと。」(『精神病理学原論』みすず書房64頁)

の3つです。ところが、原著には、この直前に、

「妄想とはごく漠然と、誤った判断を皆そういうのであって、互いにはっきり区別がつくとは限らないがかなりの程度に次の三つの外面的な特徴を持つ。」

と書かれていて、どうもこの3特徴は、妄想を定義しているとは言えないように思うのです。とくに3つめを満たさない妄想はいくらでもあります(周囲から嫌われている、など)。2つめだって、経験にあわせて少しずつ変わっていく妄想はいくらでもあるので例外が存在します。

 それでも他に良い定義がないので引用されているんでしょうけれども。

精神病理学原論

カール ヤスパース、西丸 四方 

みすず書房; 限定復刻版 (1971/01)

2009年8月12日 (水)

地震から

 ある精神科入院患者が早朝の地震で目を覚まし、病棟のテレビで情報を得ようとしたところ、看護師に「まだテレビをつけて良い時刻になってない」と止められ、テレビを見られなかったそうです。

 精神科の患者は社会への関心が失われがちななか、健全な関心を育むためにも、今日に限ってはテレビを見せるのが正しい対応ではなかったかと思った次第です。

2009年8月 9日 (日)

「外傷ストレス後」ではなく「外傷後ストレス」

 PTSD(=外傷後ストレス障害)についての一般的イメージは、災害などの心的な外傷が、強いストレスになって後々まで障害を及ぼす状態、といったものではないかと推測します。ところが、この障害の名称は「外傷後ストレス」とありますので、外傷がストレスだという意味には読めません。

 『ストレス』という語を、手持ちの電子辞書に入っている明鏡国語辞典で調べると、「物理的、精神的な刺激(ストレッサー)によって引き起こされる生体機能のひずみ。また、それに対する生体の防衛反応。一般には、ストレッサーとなる精神的・肉体的な負担をいう」とのことです。

 PTSD(=外傷後ストレス障害)について、はじめに書いたように「外傷=ストレス」と考えてしまうのは、上の辞書にあったように、ストレスという語をストレッサーという意味で使うという一般的用法に引きずられてしまっているためのようです。PTSDについては、外傷の後に、生体機能がひずんだストレス状態に陥り続けている、と考えるのが正しいのでしょう。

 ところで、ストレスという語は、精神医学の中でもやはりストレッサーという意味と混同されやすいような気がします。たとえば、「ストレス(に対する)耐性」とか「ストレス(に対する)脆弱性」、「ライフイベントというストレス」などの表現は、さらっと読む限り、ストレスが外からやってくるもののように読めてしまいやすい気がします。

 最後に、私が持っている本には次のような記載がありましたので紹介します。

「一般に心身的な不快をもたらす要因をストレスと呼ぶが、それが非常に強い心的な衝撃を与える場合には、その体験が過ぎ去った後も体験が記憶の中に残り、精神的な影響を与え続けることがある。このようにしてもたらされた精神的な後遺症を特に心的なトラウマ(外傷)と呼んでいる」(『心的トラウマの理解とケア』厚生労働省 外傷ストレス関連障害の病態と治療ガイドラインに関する研究班)。

「ストレス」や「外傷」という語の意味がこの記載の通りだとすると、後遺症の呼び名としてはむしろ「ストレス後外傷症候群」がふさわしいということになってしまいます。この記載は正しいのでしょうか?。いったいどういう用語法が正しく、どのような使用は誤用なのか、どこかに簡明な説明があれば教えてもらいたいところです。

心的トラウマの理解とケア (単行本 - 2001/5)

厚生労働省精神神経疾患研究委託費外傷ストレス関連障害の病態と治療ガイドラインに関する研究班

出版社: じほう

2009年7月26日 (日)

ヤスパース

 ヤスパース『精神病理学原論』(みすず書房)を、運転中の信号待ちの時などに、少しずつ読んでいます。正直なところ、自分好みの考え方の本ではないので、こういう読み方でもないと続きません。いま半分ほど読み終えたところです。

 しかしおもしろく感じられるところが結構あります。例えば、患者の芸術作品について、著者はどうも積極的な価値を見出していないように思われ、患者にとっての治療的な意味や芸術的価値について触れない冷淡な表現で語られていることなど、私には著者の考え方が、「こんな考え方もあるんだ」とむしろ興味深く思います。例えば:

 精神分裂病的過程の群のある程度才能のある患者では、その原始性、明瞭な表現方法、不気味な意味がものすごく人にせまる力のために、健康者にも強い印象を与えることは否定できない。(175頁)

 ところで次の箇所は、ごく当たり前のことが書かれているだけですが、自分が引きこもり論について普段感じている違和感にまさしく該当する内容であって、印象に残るものでした。

 周囲の人々が観察する時には昔から患者のすることの内容がもっとも目につくものであったし、精神医学の学問もはじめはこういう見方から出発した。そして内容の点で特徴的な行為の仕方に名をつけて病気として分類し、有名なモノマニー、単一狂の説を作った。これは実りのないもので外面的なことしか言っていないものであるとされて、まもなく棄てられた。この説による名前はことに専門家以外にまだよく用いられている。窃盗狂、放火狂、飲酒狂、色情狂、殺人狂など。(176頁)

 ひきこもりもまた、単なる行動の特徴にすぎませんから、ひとまとめにして論じても「実りないもので外面的なことしか言っていない」ことは自明なように思えます。

精神病理学原論

カール ヤスパース、西丸 四方 

みすず書房; 限定復刻版 (1971/01)

2009年6月 3日 (水)

心神喪失・責任能力

 こないだ出席した講義で、統合失調症患者の責任能力について話題になっていたんですが、そのさい、どうもその参加者の中では重鎮らしい先生が、統合失調症で妄想に支配された状態での他害行為を罪に問うべきではないと言うための例として、てんかん患者が発作中の突発的な動きで近くにいた人を突き飛ばして殺してしまう場合を挙げ、両者は同じようなものだと言っていました。これはいろんなところで用いられる例え話ですが、私にはどうしても合点がいきません。てんかん発作中の患者と統合失調症患者はまったく別の状態であって、池田小学校事件や幼女連続誘拐殺人の犯人たちと統合失調症患者がまったく違うのと同様に(いやむしろそれ以上に)似ても似つかぬ状態と思うからです。

 心神喪失とは、事物の是非善悪を弁別する能力またはその弁別に従って行動する能力が完全に失われた状態、心神耗弱とはそうした能力が完全に失われたとはいえないが著しく障害された状態、という定義の表現を素直に読んでみれば、私には統合失調症で心身喪失に至ることはほぼありえないと思えます。世間の相場では結構な割合で心神喪失とされてしまいますし、こないだの講義の参加者たちもまた世間の相場を構成しているわけですけれども。

2009年6月 2日 (火)

言外の意味

 ラカンは、ある男性が「君は僕の妻」と(プロポーズの場面で)語るとき、言外に「僕は君の夫である」という自己規定を示している、という場面を、『充ちたパロール』の例として挙げます。さらには、フロイトの論文『子どもが叩かれる』のなかに「自分の同胞が叩かれている」という空想場面が登場することを挙げて、これは「自分の方がかわいがられている」ことを言外に示している、とも説明していたはずです。

 これを踏まえて考えると、既婚女性芸能人(主に中年以上のお笑いの人)が、自分の夫について冗談めかして「うちの反町隆史が・・・」と語るとき、そこには、「夫が反町隆史であるならば、自分はさしずめ松嶋菜々子であろう」という言外の意味があって、この言い回しのおもしろさを一段高めていると思います。

 という話を私の身近な人に話してもあまりピンとこないようで、「あの人たちはいちいちそんなことを考えて喋っていないよ」と一蹴されてしまいます。それでも私はあえて、上に書いたことを踏まえて、これまでは「自分の職場にも松たか子のようなパートナーがいたらなあ」と言い続けていたのですが、最近はもちろん「綾瀬はるかのようなパートナーがいたらなあ」と口にしているのです。

2009年4月16日 (木)

供述調書の漏洩について

 昨日の判決がニュースになってました。私としては、もし自分の家族が大きな犯罪を犯したら、と考えると・・・もしも今回の判決とは逆に、自分が供述した内容が全て公けに出版されることが許されてしまうとするならば・・・私は警察で聴取される際に、供述せず自分の胸にとっておこうと思う事柄が非常に多くなってしまうと思います。そうなると正確な鑑定や判決が導きづらくなりませんでしょうか。

 ところで、私は医療観察法の鑑定だけは時々やっているのですが、患者の付添人となった弁護士が、書き上がった鑑定書を入手して、患者の家族に見せたりコピーを渡すことがよくあります(コピーを渡された場合、当然ながら、患者自身もあとで家族から見せてもらうことができます)。付添人となる弁護士の人選は、患者の家族が行っている場合が多く、その場合、家族が依頼者ですので、見せたくなるのはわかるのですが・・・私としては

①鑑定書に、家族による患者への関わり方とか、病気についての家族の理解度などについて、ネガティブなことを書きづらいです。場合によっては、家族の関わり方が患者の病状を悪化させていそうなこともありますし、家族のなかに、病院には掛かっていないけれども精神疾患を罹患していそうな人がいて家族全体の生活様式に大きな影響を及ぼしている、なんてこともあったりするんですが、それもやはり書けない。患者の社会復帰環境に関わる大事な情報なんですが。

②患者が、家族に対して秘密にしておきたいと言いながら大事なことを話してくれたときにも、それを書くことができないことがありますし、患者が家族についてネガティブな評価を下しているときにも、それを書くことで家族関係が悪化しないか心配で書けません。

③鑑定を始めるとき、患者に対して、「ここで話したことは裁判所に提出して審判で使われます」といった説明をしているのですが、けっこう高頻度で家族にそのまま伝わることがわかってきたので、患者にも「ここで話したことはそっくりそのまま家族が知る可能性があります」とはっきりと伝えるべきなようにも思いますし、それでは患者が包み隠さず話しづらくなりはしないかとも思うので迷います・・・

といった問題を感じます。裁判での鑑定ならば後々の家族関係などは気にしなくても良いかもしれませんが、医療観察法は、その後の社会復帰に資するという目的で行われる鑑定なので、どうしても気になるのです。

 場合によっては、患者が妄想的な理由で恨んでいる相手が、患者が起こした事件について証言し、その内容が供述調書や鑑定に引用されている場合があります。そういった証言を患者が知ってしまうと、患者の恨みがさらに燃え上がる可能性があります。しかし弁護士さんというのは、そういった書類が患者の目に入ることは証人にとって危険じゃないかという懸念は顧慮しないもののようです。「そんなことは、一般に裁判という公開の場で証言が行われるときに証人が将来お礼参りの危険を負うことと同じことだ」といわれるのですが、私としてはどうも釈然としません。

2009年3月16日 (月)

昨夜の夢

 昨夜、珍しく場面転換のある長い夢をみたので、忘れないように書き留めておきます。現時点ではほとんど解釈できませんが。

 舞台はおそらくアフリカで、戦争が終わったばかりです。3人の女性が登場します。;痩せた、薄っぺらい胸をして、上半身裸かそれに近い格好です。うち一人は他の二人よりも肌の色が薄いので、同じ民族に属するかどうか疑われ、兵隊に銃口を向けられます。しかし、他の二人の後ろを歩きながら同じ民族の者であることを必死にアピールすることによって、撃たれずに済みます。

 場面が変わります。終戦後、国を二分割して、中国と日本がそれぞれを援助することになります。国民を集めた集会の場で、壇上に太った中国の役人が全身赤い服を着て立っていて、演説します。曰く、これからもこの国と中国とは、困難や苦しみはあろうとも、産みの苦しみとして堪えながら、友好と発展のために協力していこうではないか、といった内容です。その演説とともに映像が流されています。それはなぜか馬の交尾の映像です。雌馬は苦しそうな鳴き声を上げています。私はその映像に驚きながら、演説を、こんな甘い言葉にだまされてはいけない、と思いながら聞いています。そのあと日本の役人がスーツ姿で登場し、真面目で実務的な演説を行ったらしいです。私はそれを聞いてはいないのですが、こうした地味な演説が現地の人々に好印象を与えることができればよいのだが・・・といった心配をしながら観ています。

以上で終わりです。

 最初の場面で、銃を向けられることがすでに性的な意味があることは明瞭です。しかし全体的に、夢の各部分についての連想がなかなか出てこず、前日のどういった出来事から材料が採られているのかいまのところよくわかりません。前日アフリカについて考えたことと言えば、間寛平のテレビを観て、太古の昔、太平洋の真ん中のハワイにどこかから住民が漂着したのだとすればそれは大変な行程であったことだろう、といったことを考えたのち、人類遺伝学上、現生人類の祖先とされる一女性がかつてアフリカにいたとされていることをちょっと思い出したことぐらいです。

 中国については、数日前にダライ・ラマが英語でなにやら話しているニュースを観た覚えがありますが、内容については忘れました。衣服の色はダライ・ラマが着ている服に似ていますが、上着とズボンですし、中国人の風貌は、太っていて唇も厚く、黒烏龍茶のコマーシャルに出てきそうな人物です。

2009年2月25日 (水)

定年退職に際して蔵書を病院に寄付すること

 我が病院の図書室には、何人かの精神科医が定年退職時に寄付していった蔵書が多く残されています。おかげでブロイラーやクレペリンの原書が容易に読めたりするのでありがたいのですが、それでも私にはどうしても疑問に思い、ショックに感じることがあります。

 退職したからといって人間精神について書かれた本が不要になってしまうことがありうるのだろうか、彼らはそれまで精神を単に職業として扱っていたにすぎないのだろうか、という疑問です。最新の薬物療法についての本などであればまだしも、精神分析や現象学についての本は、精神について考え続けるならば必須の本であるはずです。

  精神医学とは精神疾患に苦しむ人を治療するためのものに過ぎないと考える方が健康的かもしれませんが私には考えられません。私も定年が近くなってくれば、もはや精神についてさほど考えなくて良くなってしまうのでしょうか。

2009年1月29日 (木)

「思考伝播の存在を主治医がわかってくれない」

 最近余裕がなくて更新が滞っているので、とりあえず回診時のエピソードを紹介しましょう。

 ある統合失調症患者が、自分には思考伝播があって辛いのに主治医も看護師もわかってくれない、と訴えていました。

 この思考伝播というのは、英語ではbroadcasting of thoughtといいますが、自分の思考が「皆に知られてしまう」という体験のことで、「先生、私の考えは言わなくてもわかっているでしょう」と述べたりするとされています。統合失調症の特徴的な症状として、ブロイラーもシュナイダーも、「皆に知られてしまう」という体験、「先生もわかっているしょう?」という訴えについて述べています。

 このような定義に従えば、この患者には実は思考伝播はないと思われます。主治医にわかってもらえないということはあり得ないからです。

 ところで、「思考伝播」は、文献においてすら「思考察知」(誰かが自分の考えを読みとっているという体験)としばしば混同されているように思います。この患者は、以前このブログで紹介した病識についてのエピソードと同じ患者であって、統合失調症についての書物をよく読んでいるのですが、この患者が持っている書物でも混同されているのかもしれません。

 さて、一般に患者が心の中で幻聴と話し合うという体験をしている場合に、患者に対して「幻声の主はあなたの考えを知っていますか」と質問すれば、患者からの答えは普通イエスとなりますが、これをもって患者に思考伝播があるとしている文献も見受けられます。「対話性幻聴」という用語も、本来は「複数の声が(患者自身について)話し合っている」という体験のことですが、上記のように患者と幻聴との間で会話しているだけで「対話性幻聴」とされることもあります。「思考伝播」も「対話性幻聴」も古くから統合失調症に特異的な症状とされているので、用語法を間違えば、このような幻聴の例が簡単に統合失調症とされてしまいます。まあ、そのような軽症例がどんどん統合失調症と診断されるようになっていくと、「最近は統合失調症も治るようになった」「社会復帰も容易になった」などと主張できて、製薬会社その他いろんな人々が得をするんでしょうけども、症候学は大事にしていかなければならないと思いますけどね。

2008年12月31日 (水)

妄想の核となる体験

 今年一年、ありがとうございました。

 前々回、ある種の断片的体験を核として妄想が形成されるという機制について書きました。私はそうした体験を病的体験と呼んでいたのですが、この病的体験という言葉は、妄想の結果として生じるまとまった世界認識を指すこともあるようですので、必ずしもこの用語を用いることで私の精神病観を聞き手に伝えられるわけではなさそうです。

 では、そのような体験を、精神医学用語で明示的に呼ぶためにはどうしたらよいのかと考えてみました。すると、これはラカンが『精神病』のセミネールでクレランボーの概念「基礎的現象」「精神自動症」を用いて説明していた事態であったことを思いだし、これらの用語の辞書的意味を、精神医学用語辞典で探してみました。

 「基礎的現象」の方は、講談社の精神医学辞典にはありませんが、弘文堂のほうで探せました。しかしこの項目の筆者は、ラカンの訳者である小出浩之氏です。なので、この語がラカン派以外の一般の精神科医によってどのような意味で用いられているか知りたいという私の目的にはかえって不適当なのが残念です。とりあえず以下に引用します。

基礎的現象

 フランスの精神医学者クレランボーの概念で、「基礎的」とは「非観念因的」、つまり観念の流れの結果起こってくるのではない、という意味である。臨床的には、影響体験、幻聴、妄想知覚などを指し、精神自動症と重なるが、より広い概念であり、またそこから出発して多様な精神病症状が形成される理念的な概念である。(以下略)(小出浩之/弘文堂)

 一方で、精神自動症についての記述はいずれの辞書にもみつかります。

精神自動症

 (略)クレランボーの精神自動症の学説は、フランス精神症状論独特の詳細かつ入念な臨床的観察および病者の主観的体験の記述、ならびに大胆な器質論によって特徴づけられる。まず精神自動症の症状論について述べると、①意識や意志の統制を離れた精神現象ないし行動であること、②加えて病者がこれらを、きわめて異質なもの、自分の人格活動とはほど遠いものとして受け取ること、そのうえ外界に起因するものと感じることにある。(以下略)(荻野恒一・阿部隆明/弘文堂)

 フランスの精神医学者クレランボーが精神分裂病の症状、ことに幻覚や作為思考などの根底にあると考えた現象。
 これらの症状は自己の人格とは無関係で異質な現象を基礎として成立しており、最初は中世で無意味な原発的体験であるが、二次的に病者がそれに妄想的な加工を加えて意味のある幻聴その他になると考え、かつこの現象は大脳の器質的・局在的病変によって起こるとした。(以下略)(村上仁/講談社)

 こうしてみてみると、この概念は、妄想を持つ以前に否応なく到来する体験の存在を言い表すという私の目的のために適当なもののように思えます。ただ、この日本語の語感から語義が容易に類推できるわけではないのが残念で、日常のスタッフ同士の検討に持ち込みづらい気がします。しかも、いずれの辞書でも、現在ではそうした器質・局在的な考え方は廃れたと書かれていますし(私には、局在と結びつけずに純粋に精神病理学的に使う限り今でも有効と思えますが)。なんとかよい概念はないでしょうか。

 なお、上に引用した「精神自動症」の語釈のうち後者では、これが精神分裂病の症状論の文脈で考えられていると書かれていますが、私の理解では、フランスでは陽性症状はパラノイアの症状論で論じられるもののように思います。気になってきたので、来年はクレランボーの『精神自動症』でも読み返して確認することにします。

クレランボー精神自動症 クレランボー

クレランボー (著), 針間 博彦

出版社: 星和書店

2008年12月11日 (木)

こころやさし ラララ科学の子

 鉄腕アトムの歌には「心やさし」というフレーズが出てきます。しかしこのアトムの心とはいったいどんなものでしょうか。私は精神科医という特殊な仕事をしていますが、そうではない一般の方々は、アトムに心という語が用いられてもさほど違和感を感じないのでしょうか。最近まで私もこの歌詞を気に留めずにいたのですが、さきごろ一度気になり始めてからは、「心」という語を耳にする度にこの歌のフレーズが頭に浮かんでくる状態です。

 ちょうどラカンのセミネールの読書会で来週扱う箇所で、次のような部分に遭遇しました。雄のカマキリが雌に食われるという事実を念頭に置いた議論です。

 ここでカマキリに主体性を持ち込むのは、カマキリに性的享楽を想定しているからです。このことは決して行き過ぎではありません。確かに我々はカマキリの性的享楽について何も知りません。カマキリは恐らくデカルトなら迷わず言うように端的にひとつの機械です。つまり機械は機械のランガージュでうまくやっているという意味であって、全ての主体性というものの除外を前提としているという意味でもそうです。しかし我々としてはこの最少限の点にとどまっている必要はさらさらありません。我々はカマキリにも享楽があることを認めます。
 この享楽は これが次の一歩です- 享楽によって破壊されるような何ものかにとっての享楽でしょうか。なぜなら、ここから出発してはじめてこの享楽は我々に自然の意志を示唆することができるからです。
 本質的なことをただちに明確にするために、そしてこの享楽が、今議論していること、つまり我々の口唇的カニバリズム、我々の原初的エロティズムについて何等かのモデルたり得るために、我々は次のように想像してみなくてはならないでしょう。つまり、この享楽がパートナーの斬首に相関していること、しかも、享楽がある程度それを認識していると想定されているということです。(8巻15章)

 そういえばアトムも最後、地球を守るために自らの存在を犠牲にします。このときのアトムには、単なる苦痛を超えた享楽があると想定しうるように思えます。だとするとそこには主体も存在するということになるのかもしれません。それは「心」なのかというと難しいところがありますが。

 ところで、よく自閉症者は「心の理論課題」に正答を与えることができない、といわれますが、心の理論課題の内容ときたら、登場人物たちが「心」を持っていることを想定する必要など全くない、それこそ全てロボットであっても起こりうる状況の描写です。これが「心の理論課題」と普通に呼ばれているところをみると、専門家の間でも、「心」という語が指し示す内容にさほど思い入れを持たないのがむしろ普通なのかもしれません。

 私には、「うつ病は心の風邪」とか「心の医療センター」とかいう言い方にもいちいち違和感があります。例えば精神病患者について、『幻聴やテレパシー体験などの異常な知覚に対して、正常な心で反応している』と考えたくなる場合も多々ありますし、これについて私の同僚の一人は、精神病は心の病といってよいかどうか疑問だと言っていました。

 一方で、最近よく、一部のうつ病患者が周囲の出来事や状況によって気分が晴れたり落ち込んだりする(そのせいで休職中なのに職場外で楽しく遊んでいたりする)という事実を挙げ、そういうものは病気じゃないとか、そういう患者は世間に流布しているうつ病概念を悪用しているなどといった批判を展開している書物がありますが、そういった患者さんこそ「心」の問題、「心」の病気というべきであって、普段「心のナントカ」といったソフトなイメージを身に纏っている専門家は真っ先に扱うべき対象と思います。

2008年11月29日 (土)

『病的体験』

 医療観察法では、対象患者の問題点について、裁判官ら非専門家にもわかりやすいよう共通評価項目という評価基準リストに点数をつけていくことになっています。

 そこには、例えば「破局妄想」「影響妄想」といった言葉が並んでいます。これらは、われわれ精神科医の普段の用語では「世界没落体験」「被影響体験」などと呼ばれているもののようです。すなわち、我々はそれらを普通、患者が受動的に体験する事態であり、精神疾患のせいで否応なく陥る状態であると考えています。ところが、医療観察法の共通評価項目では、患者の捉え方が間違っているだけであるから、認知療法により考え方を変えれば克服できるはずのものという考え方に誘導されているように思えるのです。

 これは私には統合失調症観に関わる重大な問題と思えます。患者は病的体験に支配されるのであり、そうした体験の強度や頻度が低ければ患者自身が注意を逸らしたり無視したりすることで対処することもできるでしょうが、重症化すると患者自身の認知療法的対処ではどうにもならなくなると考えますし、さらには、そうした事態を認めないならば統合失調症と妄想性障害の区別も、ひいては心神喪失という概念も、無効になるだろうと思います。ですからそうした共通評価項目が、精神科医、他職種、裁判官らのあいだに流通することにも危機感を覚えます。

 といったことを考えながら、『病的体験』なる用語の重要性を改めて感じ、これを辞典で探してみたのですが、この言葉は弘文堂や講談社の精神医学事典、今年配布された精神神経学会の用語集や、濱田の『精神症候学』といった辞書的書物には載っておらず、さらに精神科の教科書類の巻末索引でも探せません。病院にあった看護系の教科書の巻末索引にもこの言葉は載っておらず、臨床上非常に使用頻度の多いこの語が、重要語ではないのかそもそも精神医学の専門用語ではないのか、書物で意味を調べられないことに驚きました。

 病院にあった本で、唯一定義が載っていたのは、メジカルフレンド社『精神科看護用語辞典』です。

病的体験 pathological perceptions

幻覚や妄想など、精神病的現実によって生じ、患者が主観的に体験していること。患者は自己本位の立場を変えることができなくなる状態になる。したがって、患者は自己の精神病的変化を病的とは思えなくなる。

 私は普段、病的体験とは、幻聴、させられ体験や筒抜け体験、電波体験やテレパシー体験などを指すと考えているので、上の説明の「幻覚や妄想など」という部分を、はじめ「患者が主観的に体験していること」に掛かると思ったのですが、先入観を廃してこの文をじっくり考えてみると、「精神病的現実」に掛かるように思えます。つまりこの説明の筆者は病的体験を、精神病症状から二次的に生じる事態と考えているようです。

 しかし私はこれまで、患者はまず幻覚や筒抜け体験などを体験し、それらを説明するために妄想を構築すると考えてきたので、上の辞書的説明をみるとかえって混乱してしまいます。私が働いている精神科の文化圏が特殊なんでしょうか。

 ところでこの語の英訳がこの辞書の通りperceptionだとすると、普通の訳は『知覚』となるはずで、上に引用した語釈とはぴったりこない気がします。なのでこの辞書自体が今ひとつ信用ならならない気がするんですけれども、どこかにきちんとした説明がないものでしょうか。

2008年11月22日 (土)

フロイト著作集『夢判断』から、1851年の請求書の夢2

 前回の続きです。前回取り上げた、フロイト著作集第二巻356頁(新潮文庫現行版で下巻212頁)に紹介されている夢は、368頁(同じく新潮文庫現行版下巻237頁)でもう一度取り上げられていますので、今回は後者の部分の翻訳問題に触れましょう。

 この同じ夢はその最初の部分に、推論の性格を否定することのできない若干の文章を含んでいる。そしてこの推論は決して荒唐無稽とはいわれない。覚醒時のものと見ても一向におかしくはない。《私は夢の中で、市参事会から送りつけられたその書状を滑稽に思った。なぜなら、第一に私は一八五一年にはまだ生まれていなかったのだし、第二にこの書状に関係を持つ私の父はその時分にはもう死んでいたからだ》 この二事実はすでにそれだけで正確なものであるばかりか、かりに私がそういう通知状を受けとったとしたら、やはりそういっただろうと思われる現実の推論とも完全に合致している。以前の分析からして(三六九頁参照)。われわれは、この夢が憤慨と嘲罵とを持った夢思想の地盤から生い育ってきたものであることを知っている。そのうえもしわれわれが検閲の諸動機はきわめて強烈なものであったと仮定していいとしたら、夢の作業は、夢思想の中に含まれているお手本に従って、無意味な推測に対する非の打ちどころなき論駁を行うべき十分の理由を持っていることがわかる。(著作集369頁)

 ここで『推論』と訳されているのは『Argument』ですが、独語や仏語でこの語の主たる辞書的意味は『論拠』です。実際、上の引用部分で《 》内に紹介されている夢本文に挙げられた二つの事実は、推論というよりは論拠と言えるものです。

 一方で、『無意味な推測』と訳されているのは、『unsinnigen Zumutung』ですから、『ばかげた言いがかり』ぐらいの意味です。この表現は以下のような事情に対応しています。『この夢は、尊敬すべき一先輩の私に対する批評の言葉を又聞きにきいたのちに見た夢であった。この人は、私の患者のひとりがもう足掛け五年も私に精神分析治療を受けているのにまだ埒があかないのはおかしい、といって私を非難しているというのであった。・・・いったい彼は私よりもてきぱきとやれる医者を知っているのか。この種の病状は普通ならば不治で、死ぬまでそのままであることを彼は知らないのか。なにしろ私の治療を受けているあいだは、この患者の毎日の生活はよほど楽になっているのだから、それを考えてみたって、一生涯の長さに較べたら四年や五年がどうしたというのだ』(著作集357頁)。

 上の引用箇所には他にも、参照先とされている『三六九頁』が、まさにこの文章が載っている頁のことであったり、私が生まれる前に父親が死んだなどという奇妙な内容になっているという問題があるので、以下のように改訳を提案します。

 この同じ夢はその最初の部分に、論拠の性格を否定することのできない若干の文章を含んでいる。そしてこの論拠は決して荒唐無稽とはいわれない。覚醒時のものと見ても一向におかしくはない。《私は夢の中で、市参事会から送りつけられたその書状を滑稽に思った。なぜなら、第一に私は一八五一年にはまだ生まれていなかったのだし、第二にこの書状に関係を持つ私の父は[いま]もう死んでいるからだ》 この二事実はすでにそれだけで正確なものであるばかりか、かりに私がそういう通知状を受けとったとしたら、やはりそういっただろうと思われる現実の論拠とも完全に合致している。以前の分析からして(三五六頁参照)。われわれは、この夢が憤慨と嘲罵とを持った夢思想の地盤から生い育ってきたものであることを知っている。そのうえもしわれわれが検閲の諸動機はきわめて強烈なものであったと仮定していいとしたら、夢の作業は、夢思想の中に含まれているお手本に従って、ばかげた言いがかりに対する非の打ちどころなき論駁を行うべき十分の理由を持っていることがわかる。(私案)

 さらにもう一箇所、『Argument』という語が以下の箇所に出てきますが、ここも『論拠』とすべきです。

あの二つの推論はこれを次のような材料に還元することができる。(著作集370頁)

 上に触れた以外の箇所に出てくる『推論』という語は、原文では『Schluss』に対応しており、上のように置き換える必要はありません。

 参照すべき頁に関しての誤りは、以下の箇所にもあります。

私の想像するところでは、婦人患者においても彼女らのもっとも早い性的諸衝動中において父親が果たす役割、意想外な役割の発見も同じような態度で迎えられるだろうと思う(三六六頁の解説を参照)。(著作集370頁)

 参照すべき頁は、正しくは著作集215頁であり、エディプスコンプレックスという概念の紹介・説明への導入に当たる重要箇所です。これは新潮文庫の現行版でも誤って『233頁』とされていますが、正しくは『上巻の440頁』です 

 以上でだいたい終わりですが、次の箇所について疑問が残ります。

この先生には学生の講義登録のときに詳しい身もと調べをやる癖があった。生まれたのは? 一八五六年。 -お父さん(訳注 ここはpatreとラテン語になっている)は? これに対して学生は自分の父親の名を、ラテン語の語尾をつけて答えた。そしてわれわれ大学生たちは、この宮中顧問官たる先生は学生たちの父親の呼び名から、学生の呼び名がつねに必ずしも許しそうもないような、なんらかの推定(訳注 その学生がユダヤ系であるかどうかの推定?)を下そうとしているのだと想像した。(著作集368-9頁)

 原文を読んだ限りでは、下線部の主語は『先生』のようにも思えます。そうであればこの部分の訳は、『これに付け加えて先生は学生の父親の名に、ラテン語の語尾をつけて述べた』が正しいように思えます(『答えた』とは書かれていない)。しかしここは原文も曖昧に思え、著作集のように解してもよさそうに思えます。

フロイト著作集 第2巻 (2)

夢判断 下  新潮文庫 フ 7-2

フロイト (著), Sigmund Freud (原著), 高橋 義孝 (翻訳)

2008年11月14日 (金)

フロイト著作集『夢判断』から、1851年の請求書の夢

 今回も『夢判断』から一つの夢を(フロイト著作集第二巻356頁)取り上げて、主に翻訳について検討します。これもまたフロイト自身の夢とされています。

 夢の本文の冒頭は、著作集では以下のように翻訳されています。

《私は一八五一年、ある発作のために生まれ故郷の病院に入院しなければならなかった。ところが故郷の市参事会からの入院料に関する一通の書状を受け取る。・・・》(以下略)

 この部分が私には話の流れがわかりづらく感じるので、私なりにここを改訳したうえで、夢の全文を紹介します。角括弧内は私なりの補足です。

《私は、一八五一年にある発作のために生まれ故郷の病院に入院[Unterbringung im Spital]しなければならなかった際の支払い[Zahlungskosten]に関する一通の書状を、故郷の市参事会から受け取る。私はそれを面白がる。なぜなら第一に、私は一八五一年にはまだ生まれていなかったし、第二にこのことに関係を持ちうる私の父親はもう死んでいたからだ。私は隣室の、ベッドに寝ている父のところへいって、そのことを父に話した。すると驚いたことに、父は[、父自身が]一八五一年に一度酔って、検束ないしは保護を受けたことのあったのを思い出した。それは父がT家のためにはたらいている時分のことだった。私は「ではお父さんもやはり酔っ払ったのですね。その後すぐに結婚なさったのですか」ときいた。私は計算してみると、なるほど一八五六年生まれだということになる。それが、その事件のすぐ後のことだったように思われる。》(フロイト著作集第二巻356頁)

 なお、この中で、『T家』(原文で『Haus T』)とは、王家・王室のようです。これが後の考察(『私は夢の中で自分の父を宮中顧問官にし大学教授にする』著作集358頁)に関連を持ちます。

 さて、フロイトによる考察によれば、この夢では、父親は別のある人物、『尊敬すべき一先輩』の代理となっています。

 夢の序論的部分は隠蔽されてはいるけれども明瞭に、この人が一時は父親がもはや果たすことのできなかった数々の義務(費用支弁、入院)を引き受けていたことを示している。(著作集357頁)

 ここで、『費用支弁、入院』(Zaglungskosten, Unterbringung im Spitale)の部分は、同じ語が夢の本文に出てきているところが味噌ですから、同じ訳語を選んで『支払い、病院に入院』としたいところです。

 さらに父は、『かつて酒に酔って検束された』という部分でも、もうひとり別の人物の身代わりになっています。つまりそれはマイネルトのことであって、次のような出来事が背景にあったようです。

 この夢は私に彼が話してくれたことを思い出させる。それによると、彼は若いころ、クロロフォルムで自分を麻酔させる習慣に馴染んでしまって、そのために治療所通いをしなければならなかったという。(著作集358頁)

 ここでの『自分を麻酔させる』(sich berauschen)という部分には、夢の本文で『酔っぱらって』とあった箇所(betrunken)とは別の語が用いられていますが、いずれも『酔う』という意味で共通しており、訳も『自ら酔う』ぐらいにしたいところです。また、『治療所通い』の箇所の原文は『Anstalt aufsuchen』となっており、診療所のほか刑務所など様々な公的施設に入ることを意味しうる表現となっています。すなわち、実際にマイネルトが病院に入ったという事実が、夢では改変されて、『検束された』ことになっているということのようです。ちなみに、これら二箇所には訳文では傍点が抜けていますが本来はフロイト自身によって強調された重要箇所です。

 今回はさらに以下の二箇所を単なる誤訳として訂正しておきます。

しかし私がこの夢のこの場面で、私の父にマイネルトの代理をつとめさせることができたのは、父とマイネルトとのあいだに類似点があるからではなくて、夢思想中にある一条件文章の、簡潔だがその意を十分に尽くしている表現があったからである。(著作集358頁)

しかし私がこの夢のこの場面で、私の父にマイネルトの代理をつとめさせることができたのは、父とマイネルトとのあいだに類似点があるからではなくて、夢思想中に、ある一条件文章が、簡潔だが十分に表現されているからである。(私案)

私が今自分のもっとも信頼している患者の完全な治療を待たせている年月でもある。(著作集358頁)

私が今自分のもっとも熟知している患者の完全な治療を待たせている年月でもある。(私案)

 この夢は368頁でも再び取り上げられていますが、その箇所についてはまた次回取り上げましょう。

フロイト著作集 第2巻 (2)

夢判断 下  新潮文庫 フ 7-2

フロイト (著), Sigmund Freud (原著), 高橋 義孝 (翻訳)  

2008年11月 3日 (月)

フロイト著作集『夢判断』から『Non vixitの夢』2

 前回に引き続きこのフロイト自身の夢を取り上げます。前回は主に著作集345頁から348頁まで(新潮文庫の現行版では下巻188頁から195頁まで)の内容を取り上げましたが、今回は395頁から401頁まで(同じく新潮文庫下巻293頁から305頁まで)にわたって再検討された箇所を取り上げます。

 前回、この夢に登場する『Revenant』という語が、「亡霊」と「しばらく間をおいて再び来た人」という二つの意味を持っているという両義性が、夢の顕在内容と潜在思考とを結ぶ手がかりになっていることを示唆しておきました。さらに今回の検討箇所では、『beseitigen』という語が、「わきへのける」という意味と「除去する=亡き者にする」という二つの意味を持っているという両義性も重要な役割を担っています。これらは、夢の本文では次の部分に登場します。

エルンスト・フライシュルも亡霊にすぎず、幻[Revenant]にすぎないとわかって、「こういう人間はひとがその存在を欲しているあいだだけ生存するものであり、こういう人間を他人の願望がこの世から消し去ってしまう[beseitigen]ことも決して不可能ではない」と悟った(著作集345頁)

 夢のこの部分は、今回取り上げる箇所でも、以下のようにもう一度紹介されています。

夢の終わりで私は非常に喜んでいて、覚醒時では不可能と思われるひとつの可能性、つまりただ願いさえすれば追い払う[beseitigen]ことのできる亡霊[Revenant]があるという可能性ももっともなことだと考えている。(著作集395頁)

 ここですでにお分かりでしょうが、著作集の訳文は、原語の両義性が示されていないというだけでなく、同一の語が再登場する際に訳語が統一されていないという点で、フロイトの意図が伝わりにくいものとなっています。

 さて、この夢では、故人である友人Pが登場し、フロイト自身によって睨み付けられて消えてしまいます。以下はこの友人についての記述です。

二人の助手のどちらもその地位を動かなかったので、若い人たちはいらいらしていた。私の友人ヨーゼフは自分の命が限られていることを知っていたから、時々そういう焦燥の気持ちを口に出して私に告げた。彼は自分の上にいる男と格別に親しい関係を持ってはいなかったし、その男は重病人であったから、その男がどいてくれたら[beseitigt werden]いいがという願望は、「そうなれば自分は昇進する」という意味 のほかに、ある不道徳な副次的な意味をも持っていた。(398頁)

 ここで『どいてくれたらいいが』は、『片付いてくれたら』すなわち『死んでくれたら』という『不道徳な副次的な意味』を含んでいるということになります。夢では、友人がこの『悪い願望を懐いていたがゆえに私は彼を殺す』(著作集347頁)のであり、かつ、フロイト自身もかつて同じ願望を懐いたことがあったにもかかわらず、『この不届きな願望の罰を、私にではなく、彼に加えている』(著作集398頁)ということのようです。

 そしてこの夢から連想された、幼少期の甥との友人関係について述べられた箇所にも、こうした語の両義性が繰り返し登場します。

「私の友人という友人は、じつは私の最初の友人であったこの甥の化身、「昔我が濁れる目にはやく浮かびし」(『ファウスト』)ことある第一の友人、すなわちあの甥の亡霊[Revenant]たちなのである。」(著作集397頁)

「だから私は、幽霊[Revenant]はひとがそれを必要とするあいだしか存在しないということ、また、幽霊[Revenant]は、都合次第で退場させる[beseitigen]ことができるということはまことにもっともだと思う。つまりこれが、そのために私の友人のヨーゼフが罰せられているところのものなのである。しかしそれらの幽霊[Revenant]は、私の幼年時代の友人(甥)の順繰りに登場してきた化身なのである」(著作集399頁)

「補うべからざる人間などというものはありはしない。見たまえ、どれもこれも幽霊[Revenant]じゃないか。われわれが失ってしまったものは全て、また戻ってくるのだ」(著作集400頁)

自分の子供たらの名というものは、その時代の流行によって定められるべきではなく、私たちにとって大切な人々を記念するために選ばれるべきだというのが私の意見だった。子供らの名前は子供らを幽霊[Revenant]にする。(著作集401頁)

 付け加えると、399頁の引用文中、『都合次第で』という箇所は、直訳して『願望によって』とした方が、夢の本文との関連が見えやすいと思います。

 これ以外の問題点に移りましょう。著作集の訳文では、『友』と『敵』という語が曖昧に訳されている箇所がいくつかあります。

敵対的な、および苦痛的な気持ちの動きが、私が友人の敵を二語でやっつけるあの箇所には重なり合っている。(著作集395頁)

 やっつけた相手は友人Pでした。下線部は「私が敵視する友人を」に変更したいところです。次の箇所も同じく曖昧で、とくに一文目の『友人』と二文目の『友人』では意味が変わってしまいます。

親しい友人と憎むべき敵とは、私にとっていつも私の感情生活の必然的な欲求であった。私はいつも新たにこういう二種類の友人を作った。ごく幼い自分には、たぶんそうだったろうと想像されるように、ひとり二役の友人を作ったり、あるいはまたあるときは友、別の時には敵という役割が幾度か同一人物の上に繰り返されたりするようなことはもはや起こらなかったけれども、同一人物が友人と敵とを兼ねるような友人を見つけ出して、幼年時代の理想に接近しえたことも決して稀ではなかったのである。(著作集397頁)

 ここはかなりわかりにくいので、全体を改訳しておきます。

親しい友人と憎むべき敵とは、私にとっていつも私の感情生活の必然的な欲求であった。私はいつも新たにこういう二種類の相手を作った。同一人物が友人と敵とを兼ねるという幼年時代の理想を復元することも決して稀ではなかった。もちろん、ひとりで同時に二役となるとか、友と敵という役割が幾度も同一人物の上に繰り返されたりするようなことは -ごく幼い自分にはありえただろうが- もはや起こらなかったけれども。

 あとは細かい点ですが、396頁の注で『高飛車な』は原語で『gebieterisch』で、これは副詞として使われているかもしれないのですが、いずれにせよ辞書的意味にも文脈にもそぐわない気がします。『断固たる』(あるいは『断固として』)ぐらいがよいのではないでしょうか。

フロイト著作集 第2巻 (2)

夢判断 下  新潮文庫 フ 7-2

フロイト (著), Sigmund Freud (原著), 高橋 義孝 (翻訳)  

2008年10月25日 (土)

フロイト著作集『夢判断』から『Non vixitの夢』

 たまたま最近読んだので、この夢を取り上げます。これはフロイト自身の夢で、フロイト著作集第2巻で345頁から348頁まで(新潮文庫の現行版では下巻188頁から195頁まで)にわたって紹介され検討された後、395頁から401頁まで(同じく新潮文庫下巻293頁から305頁まで)で再検討されています。以下は夢の全文です。(なお、夢のストーリーをさらっと読んでも理解しやすいように、それぞれの箇所がどの登場人物を指すか、私がかぎ括弧で補足した点がいくつかあります):

 《夜、[私が]ブリュッケの実験室へ出かけていると、ドアを静かにノックする者があるので、開けると、フライシュル教授(故人になっている)だった。教授は四、五人の見知らぬひとたちと一緒に入ってきて、二言三言ものをいってから、自分[=教授]の机に座った》 これに第二の夢が続く、《友人のFl.が七月人目に立たないようにしてヴィーンにやってきた。私は路上で、彼がやはり私の友人の(故人となった)Pと話をしているところに出会って一緒にどこかに出かけて、小さな机をかこむようにして向い合せに坐り、私はその机の短い側の前の方に坐った。Fl.は自分の妹の話をして、「四十五分で死んだのだ」といい、それからさらに、「これは閾だね」というようなことをいった。Pがその言葉の意を解しかねたので、Fl.は私に向かって、「己[=Fl.]のことをどの程度君はP君に話してあるのだ」とたずねた。すると私は一種奇妙な感情に襲われ、Pは(何事も知っているわけはないさ、だって、彼は)もう死んでいるんだからとFl.にいおうとした。しかし私は自分の誤謬に気づきながらもNon vixit(生きていなかった)といってしまった。そのあとで私はPを鋭く見つめると、私が見ているうちに、Pは色あおざめ、朦朧となり、眼は病的に碧くなり -しまいにその姿は消えてなくなってしまった。そんなことになってしまったので私は無性にうれしくなり、エルンスト・フライシュルも亡霊にすぎず、幻にすぎないとわかって、「こういう人間はひとがその存在を欲しているあいだだけ生存するものであり、こういう人間を他人の願望がこの世から消し去ってしまうことも決して不可能ではない」と悟った》(著作集2巻345頁)

 この夢の訳文のなかで、下線部分については、あとの考察との関係から直しておきます。『もう死んでいるんだから』は原文で言うと「gar nicht am Leben ist」、つまり「そもそも生きていないんだから」となります。一方でこれと間違えて口から出た『non vixit』ですが、『vixit』は辞書に載っていて、ラテン語で現在完了3人称単数形で「彼は生きた=今この世を去った」らしいです。私はラテン語についてはよく分かりませんが、この『Non vixit』は「彼は生き終えていない=彼は世を去っていない」、あるいは、「彼はそもそも生きたことがない」といった意味になってしまうのでしょうか。いずれにせよ、だからこそこれが『誤謬』とされているのでしょう。

 つぎに、『エルンスト・フライシェルも亡霊にすぎず、幻にすぎない』の箇所ですが、ここは本来過去形です。さらに、『幻』は原文では「Revenant」つまり直訳すると「帰って来た者」でして、「亡霊」のほか「久しぶりに会った人」も意味します。ですからここの訳は、『[一つ目の夢に出てきた]エルンスト・フライシェルも亡霊にすぎず、[あの世から]帰って来た者にすぎなかった』となります。そしてこの両義性は後の解釈で効いてきます。

 最後に『この世から消し去ってしまう』は、もともと『beseitigen』ですが、これはこの後の文脈のために『片付ける』としておきます。

 さて、夢の本文の翻訳についてはこれくらいにして、今回はこの夢についての考察のうち345頁から348頁での翻訳の問題について取り上げます。

 まず、この夢にでてくる『Non vixit』からフロイトが連想したのは、ヨーゼフ皇帝記念碑の碑文なのですが、その碑文が著作集346頁に引用されています。ここで、訳文では一行目の末尾「vixit」だけが傍点で強調されていますが、二行目の冒頭「non」も、本来原文では同じく強調されています。もともとは横書きですから、碑文の視覚像としては『non』の方が左に見えたことになり、『non vixit』という印象がそこから由来したということになります。

 そしてこの語と関連してフロイトが連想した、幼児期のフロイトと甥との関係について。

それはまだ満二歳半にもならぬ私の言葉で、「あの子が僕をぶったから、僕はあの子をぶったんだ」というのである。この幼年期のやりとりこそnon vivitをnon vixitに転じしめた原因に違いない、なぜなら幼少期の終わり頃においては「打つ」schlagenという言葉は「靴墨を塗る[ぶんなぐる、手淫をする]」に通じる。夢の作業は、こういう関連を利用して少しもはばからない。(著作集348頁)

 とりあえず訳しかえると次のようになります。

それはまだ満二歳半にもならぬ私の言葉で、「あの子が僕をぶったから、僕はあの子をぶったんだ」というのである。この幼年期のやりとりこそnon vivitをnon vixitに転じしめた原因に違いない、なぜなら幼少期の終わり頃においては「打つ」schlagenことを「wichsen」と言う。夢の作業は、こういう関連を利用して少しもはばからない。

 これはつまり『vixit』(ヴィクシット)と『wichsen』(ヴィクセン)との音のつながりを利用しているということのようです。じっさい、後者の三人称現在形は前者とほとんど同じ発音になるはずです。夢の作業はむしろこういう関連を利用するのです。

 そしてこの甥との関係から連想をさらに追求している次の箇所に先程の「Revenant」の両義性が関連してきます。 

 私は当時十四歳、シーザー役の甥は当時十五歳だった。この甥は当時英国から私たちの家にやって来ていた。-だからやはりひとりの幽霊である。なぜなら、この甥とともに再び浮き出てきたのは、私の子供の頃の遊び仲間であったから。満三歳になるまで私はこの甥といつも一緒に暮らしていた。(著作集348頁)

 ここの『幽霊』にも「Revenant」が用いられています。ここは、『亡霊=再び来た人』という両義性に着目しなければ、なぜ甥が亡霊扱いされるのか理解できないでしょう。もうひとつ、上で『子供の頃の』という箇所には、原文では「最幼児期の」「最初期の」といった表現が付け加えられていますが、これも訳文からは抜けています。

 最後にもう一箇所、問題点を紹介します。

 彼は(夢の結果に表現されている)ある悪い願望をいだいていたがゆえに私は彼を殺すのである。(著作集347頁)

 『夢の結果に』では何のことかいまひとつよく分かりませんが、ここはむしろ『夢の終わりに』と訳すべきであり、つまり夢の本文の終わりの部分を指しています。ですから『ある悪い願望』とは、夢の中で『こういう人間はひとがその存在を欲しているあいだだけ生存するものであり、こういう人間を他人の願望がこの世から消し去ってしまうことも決して不可能ではない』という箇所に出てくる願望、つまり誰かを片づけようとする願望のことだと分かります。この願望については後の頁でより具体的に示され、再検討されることになります。

フロイト著作集 第2巻 (2)

夢判断 下  新潮文庫 フ 7-2

フロイト (著), Sigmund Freud (原著), 高橋 義孝 (翻訳)

2008年10月11日 (土)

10月8日朝の夢

 私の夢に興味を持って読んでくれる人がいるかどうかはわかりませんが、私自身が忘れないためにもここに書き留めておきます。

 船の上から釣りをしています。すると、60センチぐらいの人面魚が一匹釣れます。船の上に置かれた人面魚は、むしろ腹を上にしたカブトムシのような形であり、しかも頭部には三つの人面が横に並んでいます。それぞれの顔はやや縦長で、顔と顔の間は厚さ数センチの板状のもので区切られていて、それぞれはカブトでもかぶっているように見えます。食用ではなく、どうも駆除のために釣っているようです。二匹目がかかって釣り上げようとしているうちに、いつの間にか私自身も川に入っています。ぎりぎり足が底につくのですが、足の感触から判断すると、どうも10センチぐらいたまった泥の下はコンクリートで固められた、人工的な川のようです。「なんだ、底はこんなふうになっているんだ」と思うとともに、船の上にいる人(映像や音声としては登場しません)に向けて、「ここはコンクリートだから、魚はこれで終わり、ここにはもういないよ」といった意味の言葉を叫びます。<終>

 まずは夢に登場した各要素からの連想を列挙してみます。

 「三人の顔が並んでいる」点からは、ちょうど前の晩のニュースで、日本人物理学者3名がノーベル賞を受賞したというニュースで、3人の顔写真が並んでいたことを、目が覚めて真っ先に想い出しました。さらに「釣り」も、「物理」という言葉の音からのつながりで登場しているかもしれません(この日はまだ化学賞の発表前であって、クラゲ捕りのエピソードは知りませんでした)。

 泥の多い淡水に棲む魚からの連想ですが、先月私が出席した読書会で、ある医師が、最近講習会で聴いてきたという、寄生虫学の研究者の話を話題にしていたことを思い出しました。その研究者は、寄生虫を自ら飲み込んでは検査データをとって研究しているというのですが、ライギョの生食によって人体に入り込むある寄生虫は恐ろしいので自ら飲み込んだことがない、しかしある先輩研究者は自らこの寄生虫を飲みこんだことがあるというので一目置いている、と言っていたそうです(この寄生虫は体を這い回り、日々移動する大きな腫れが現れるほか、頭蓋骨内を這い回って激しい頭痛を生じた挙げ句、眼球を食い破って体外に出てくるのだとか)。私はこれを聞いて、科学者の考え方は異常だ、ついていけんわ、と思いました。

 さらに魚からは、ちょうどいま通勤中の車の中でCDで聴いている『新約聖書』から、イエスが漁師に向けて述べた、「あなた方はこれからは魚を採る漁師ではなく人間を採る漁師になるのだ」という台詞や、イエスが弟子たちと湖を渡るくだりが思い起こされました。

 「三人の顔」と「顔の間を隔てるかぶり物」については、先週水曜のテレビ番組「あらびき団」の特番に出てきた芸人が、カブトをかぶった三つの顔が並ぶような、阿修羅マンのコスチュームを身につけていたことを想い出します。芸名は「ザコシショー」だったでしょうか。「ザコ=雑魚」ですからこれも魚に関わります。ここまで書いて思い出したのですが、普段この番組の司会は2人なのに先週の特番では3人が並んでいました。

 3人組ではもうひとつ、自分の親が3人同胞で、3人とも理系科学や大学アカデミズムへの信奉が強く、なかには現役の科学研究者もいるほどであって、私はその影響から一度は科学研究に入門してみたという事情があったり、さらに彼らは私が精神医学へと進もうとすることに反対したりといったことがらを思い起こさせます。

 「カブトムシ」「カブト」は、同じ日にニュースで流れた、「株」「兜町」に関連するかもしれません。さらに、カブトムシも寄生虫も「虫」という点で一致しています。(吉田戦車の『伝染るんです』に登場したキャラクター「斉藤さん」や、エドガー・ポーの「甲虫」が連想されます・・・と、ここまで書いたところで、カフカの『変身』も連想されてきました。そういえば斉藤さんは受験勉強ばかりしているけれど、大家さんから「来年の受験の結果は大丈夫よね?」みたいなことを言われると焦って飛び去ってしまっていたように記憶しています)

 象徴的解釈では、水の中は、フロイトによれば子宮・体内でしょうし、虫は同胞を表すとか、3という数や魚はファルスだとか、いろいろ言えるかもしれません。

 ここで少しまとめてみると、私は精神科医になる前、基礎医学で実験をしていたことがあって、自分はその方面には興味も続かず挫折したわけですが、基礎的研究に没頭して成功している科学者に対しては、羨望と、そうした仕事をこつこつと続けることができる精神構造はむしろ異常なんじゃないかという、これまたやっかみ半分の批判的な考え方との、両者の入り交じった感情を真っ先に感じます。ノーベル賞のニュースも寄生虫研究者の逸話も、いずれもまさに私のそうした記憶・感情に触れる機会であったわけです。夢に登場する材料についてはかなりの部分がこの科学者への反感という表象圏に属すると考えていいと思います。駆除すべきとしているわけですから。

 私は、自分が科学にいまひとつ興味を持てなかった最大の理由は、いくら研究しても、私自身の誕生の不思議とか自分の人生が、けっして研究対象とならないことにあった、と、以前から他人に聞かれるたびに説明してきました。釣りをしながら自ら水に入るという部分は、まさに自らが研究対象になるような状態に身を置いたということだと言ったら、きれいにまとめすぎにと言われるでしょうか。

 なお私にとって学問はいつでも、自己の発生や死について考えるために役立つものにしか興味が持てないので、かつて発生学を扱う研究室を選んだのもそのためですし、いま言語による主体の発生について考えているのも同じことです。私のこの夢が象徴解釈で子宮やファルスと結びつくことも、私の学問観とはぴったりきます。

2008年5月13日 (火)

病識欠如について

 これは先月本当にあった話です。

 回診のとき、一人の統合失調症患者が、統合失調症についての解説書を病室内に持ち込んでおり、それを示しながらほぼ次のように話してくれました。「自分は自分の病気についてよくわかるようになった。この本に書いてあることはみんな自分に思い当たることばかりだ。なかでも、病識がもてないというところ、つまり自分で自分は病気だと思えないというところが、一番自分にぴったりと思った」。

 この患者には、病識(自分は病気であるという認識)があると考えても矛盾だし、病識がないと考えても矛盾になります。

 これについて論理学的にどう考えたらよいのだろうかと思っても私は混乱して疲れるばかりなんですが、どうにかすっきり整理できないものでしょうか。

2008年4月29日 (火)

精神鑑定

 有名事件の精神鑑定に絡んだ判決のニュースがありました。このところ関連したニュースも続いています。

 それぞれの被告の犯行時の精神状態の詳細以前の問題として、心神喪失の定義を、鑑定医がしっかり認識していないのではないかと思えてなりません。つまり、責任能力を完全に喪失していてはじめて心神喪失の状態であって、責任能力が著しく減弱している状態は心神耗弱であり、かなりの程度の減弱があっても著しいとまで言えなければ完全責任能力が認められうるということです。この点についての認識が改まるだけでも、最近出されたいくつかの鑑定結果は違ったものになったでしょうし、ずいぶんと一般にもわかりやすい整合的なものになるのではないでしょうか。

 最近のニュースから、精神鑑定など考慮に値しないとか、心神喪失という評価に相当する者など存在しない、といった印象を一般にもたれてしまうと、今後の裁判員制度に向けて非常にまずいと思います。精神病状態では、たとえば幻聴に命令されると逆らうことができず、自らの意志に反して自殺を試みたり我が家に火を放ったり最愛の我が子を殺めたりといった、自らの利益に反した破滅的な行為を行ってしまうことがあります。そうしたレベルの精神状態の中で他人に攻撃が向かってしまうことがありうるということは一般に理解していただきたいところです。

 ところで、そもそも一般論として、ある程度高い地位に就いている精神科医は、主に大学病院(重い精神病患者の入院をお断りしていることが多く、措置入院はまず受け入れない)などでの臨床経験が多いでしょうから、本当に心神喪失に値するほどの重い精神病患者を主治医として継続的に担当した経験などなさそうに思います。ですからそうした医師が鑑定医を担当してしまうと、たとえ十分な机上の知識を持って真摯に鑑定に取り組んでいたとしても、中等度の精神病状態に対しても簡単に心神喪失と判断してしまうことになってしまいませんでしょうか。

2008年3月 4日 (火)

医療観察法の共通評価項目

 このブログが滞りがちなのが気になってはいるのですが、このところ普段の仕事に加えて医療観察法関係の仕事が舞い込んできて私に心理的・時間的余裕がなくなっているのが滞る主な理由です。

 医療観察法とは、簡単に言えば、重大事件を起こした精神障害者に強制治療を行うための制度を定めた法律ですが、そこでは、裁判官など精神医学の非専門家にもわかりやすい尺度として、「共通評価項目」なる項目を設定してあり、これに従って鑑定時から入院、通院の期間中まで定期的に点数をつけていくことになっています。今回、そのいちばんはじめの項目が非常に奇妙に感じられるようになり、気になって仕方がありません。

「精神病症状 1) 通常でない思考内容:普通でない、怪奇な、あるいは奇妙な考えを表明する。重要でないことに強度にこだわる。明らかに異質なものを、同質とみなす。これはおろかさや悪ふざけによるものを含まない。(BPRS15.思考内容の異常に準ずる:通常では見られない、奇妙、奇怪な思考内容、すなわち思考狭窄、風変わりな確信や理論、妄想性の曲解、すべての妄想。この項では内容の非通常性についてのみ評価し、思考過程の解体の程度は評価しない。本面接中の非指示的部分および指示的部分で得られた通常では見られないような思考内容は、たとえ他の項(例、心気的訴え、罪責感、誇大性、疑惑等)ですでに評価されていてもここで再び評価する。またここでは病的嫉妬、妊娠妄想、性的妄想、空想的妄想、破局妄想、影響妄想、思考吹入等の内容も評価する。特定の対象への被害感、暴力的空想は特に他害行為に関連の強いものとして重要視される。1=ごく軽度。思考狭窄もしくは通常では見られない信念。稀な強迫観念。2=患者にとって相当に重大な意味を持つ奇怪な理論や確信。)」

 ここでいう『通常でない思考内容』とは、ひとまずは直後の4つの文で示されるものを指している(括弧内はそれらに対する付加的な説明)と思われます。それらのうち、妄想について述べられているのは、はじめの一文のみと思われます。すなわち、この項では、『普通でない、怪奇な、あるいは奇妙な考え』に該当する妄想のみを評価しなければいけないように読めます。(二つ目の文は主に強迫を指すでしょう。三つ目の文が言わんとしていることは難しいですが、「人形を子供だと言って抱いている」「がらくたを宝物として飾る」「1000円と書いたメモ用紙を、小遣いと言って周囲に配る」みたいな症状のことでしょうか。いずれにせよ、妄想について記載されているのはやはり主に第一文でしょう)

 一方で、ふつう妄想と呼ばれるものには、かなり奇異で不可能な内容のもの(例えば「自分の思考は神に伝わったのち天体の運行に影響を与えている」のようなもの)から、「隣近所で自分のことが噂されている」「自分は特定の人々から嫌われている、笑われている」「(存命中の知人について)誰々は死んでいる」といった、場合によってはその通りの事態も起こりうるような内容のものまで、さまざまなものがあります。後者のような思考内容の場合、正常者でも一瞬そのような疑念を持ち表明することもあり得ますから、内容的にはむしろ普通であるともいえ、これらが妄想であると言えるのは、事実と合致しないことや、その信念の持続や強さによってでしかありません。

 共通評価項目の説明には、『普通でない思考内容』、『この項では内容の非通常性についてのみ評価し、思考過程の解体の程度は評価しない』といった表現が含まれ、これらに従うなら、奇異な内容の妄想のみを評価せよ、と私には読めます(すなわち統合失調症の妄想のみを評価し、パラノイアの妄想は評価しないことになります。ちなみにパラノイア的な妄想には別項も用意されています)。点数についての説明でも、『1=ごく軽度。思考狭窄もしくは通常では見られない信念。稀な強迫観念。2=患者にとって相当に重大な意味を持つ奇怪な理論や確信』と、やはり奇異な妄想のみに注目して採点するよう指示しています。

 ところが括弧の中に『すべての妄想』という表現も含まれているので、私としてはどうしても困惑せざるをえないのです。さらに、その後ろには、『またここでは病的嫉妬、妊娠妄想、性的妄想、空想的妄想、破局妄想、影響妄想、思考吹入等の内容も評価する』と付け足されていますが、これらのうちいくつかは『すべての妄想』に含まれるもののように思われ、どうしてわざわざ付言されたのか、やはりよく分からないのです。

 上に引用した箇所から私は、フーコーの『言葉と物』に紹介されていた、『中国の事典』による動物の分類を思い出しました。「A.皇帝に属するもの B.芳香を放つもの C.飼い馴らされたもの D.乳呑み豚 E.人魚 F.お話にでてくるもの G.放し飼いの犬 H.この分類自体に含まれるもの I.気違いのように騒ぐもの J.数え切れぬもの K.らくだの毛の極細の筆で描かれたもの L.その他 M.今しがた壺を壊したもの N.遠くから蠅のように見えるもの」だそうです。

 いずれにせよ、共通評価項目の採点の際には、『思考内容の非通常性』に着目する採点者と、『すべての妄想』に着目する採点者とでは、おのずと点数が異なってきます。精神障害者・被害者の人生を左右する審判に用いられる評価項目が、これほどの内的矛盾を抱えたものであってはいけないと思えてなりません。

2007年11月24日 (土)

「心神」を含むニュース

 私はときどき、yahoo!のニュース検索で「心神」を含むニュースをまとめ読みします。

 主に「弁護側は心神喪失(または耗弱)の状態にあったと主張している」といった部分を含む記事が検索されますが、なかには、金品目的であったり性犯罪であったり、計画性があって犯行後もいったんは上手く逃げていたりといった、責任能力に問題なさそうな事件もかなり含まれています。当然のことながら、実際に判決でそのような主張が認められ減軽されることはまずありません。

 特に有名事件の場合には、裁判の各段階で何度も記事が出るうえ、判決の後も、控訴するかどうかといった記事が何度も出ます。しかし、歴史的な事件を起こすにはかなりの計画的実行力が必要であることからして当然ですが、有名事件に限って言えば、無罪や執行猶予になるケースはかなり少ないはずです。

 もうひとつ、(精神障害ではない)少年の事件の報道でも、弁護側が酌量を求める論理が、当時少年は正常な精神状態になかったと言わんばかりのことがあるので、一般の人には精神障害者の刑の減軽の問題と混同されて、精神障害者(および裁判中のみそれと主張する人々)の弁護がそのような身勝手な論理で行われることが普通にあると思われてしまうことがありそうな気がします。

 一般の方が上のような報道を折に触れて読んでいると、精神障害者でない者やごく軽症の者までが不当に刑を減じられているかのような印象を持ってしまうのではないでしょうか。刑法39条についての出版物の中に、池田小学校事件や幼児連続誘拐殺人事件、神戸の少年らについて言及されているのをみると、記事を書く側の人々にも同様の誤解が蔓延していそうです。

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