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2008年7月 1日 (火)

フロイト全集9から『精神分析について』

 この論文というか講演録は、非専門家向けに書かれたものという体裁をとっています。しかし私には、5節はかなり駆け足でわかりにくいものに感じられます。この印象は今回の新訳(非常に良い訳と思いました)でも変わりません。これはどうも、フロイトが、「欲望Wunsch」という語を、「欲望に結びついたエネルギー」を指すために用いている(ように読めます)ことが一因かもしれません。

 訳については、以下の一箇所だけを取り上げましょう。

しかし、私たちの機械では、消費された熱エネルギーの一定割合以上が機械のための有益な作業に使用されているのであって、その点を忘れがちになればなるほど、私たちは、性欲動をそのエネルギー量のすべてにわたって本来の目的から逸らせようと努めることも控えるべきでしょう。(岩波版168頁)

 この文で、「使用する」と訳されているのは「verwandeln」ですが、これは「変化させる」「変身させる」といった意味の語でして(カフカの小説のタイトル『変身』はこれの名詞形です)、おそらく岩波の全集は、「verwenden」と見誤ったものと思われます。しかしこの箇所のわかりにくさは、この語の訳しかたよりもむしろ、ここでフロイトが持ち出したエネルギー一般についての比喩をどう理解するかにかかっているように思います。私としては、次のように解釈しました。

私たちはしかし、私たちの様々な機械で、消費される熱エネルギーの一定割合以上を有益な機械的作業に変えようなどとは見込まなくなっているのですから、それにあわせて、性欲動をそのエネルギー量のすべてにわたって本来の目的から逸らせようと努めることも控えてしかるべきでしょう。(拙訳)

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11) 

2008年6月16日 (月)

フロイト全集9より『W.イェンゼン著「グラディーヴァ」における妄想と夢』3

 この論文で気になる点を扱う3回目です。

 しかし他方では、ハーノルトはみずからの性愛に対するこの勝利をよろこんではいない。抑え込まれた心の蠢きはまだ十分強力で、不快感を示したり、それを制止することで、抑え込もうという動きに仕返しをしている。(岩波版76頁)

 下線部の「それ」は何を指すのでしょうか。訳文を読む限りでは、「抑え込もうという動き」を先取りしているとでも考えるしかなさそうですが、原文を読むと、ここは単に「Hemmung」という名詞があるだけで、「それを」に当たる語はありません。次のように改めてみます。

  しかし他方では、ハーノルトはみずからの性愛に対するこの勝利をよろこんではいない。抑え込まれた心の蠢きはまだ十分強力で、不快感や制止症状[をハーノルトにもたらすこと]で、抑え込もうという動きに仕返しをしている。

 抑圧の帰結として、不快や制止といった症状が現れた、ということでしょう。上では「制止症状」としてみましたが、「症状」は私なりの補足です。

 なお、「抑え込もうという動き」の「動き」は、「蠢き」と訳されているのと同じ語なので統一性に欠けます。私は「動き」で統一したほうがいいと思うんですけど。

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11)

2008年6月10日 (火)

フロイト全集9より『W.イェンゼン著「グラディーヴァ」における妄想と夢』2

 この論文について二回目ですが、訳語について少し触れましょう。

表象が抑圧されるのは、起こってはならない感情迸出とその表象が結びついているからという理由の場合のみである。抑圧が関係するのは感情である、と言えばより正確だろう。ただわれわれが感情をとらえることができるのは、まさに感情が表象に拘束されている場合のみなのであって、それとは違うやり方で感情をとらえることはできないのである。(岩波版54頁)

 「迸出」と訳されているのは「Entbindung」で、その二つ後の文に出てくる「拘束される」の原語「Bindung」と明らかに関連しているんですけれど、訳文からはこの関連が読み取れません。私はかねがね、この「Entbindung」なる語の訳は「脱拘束」とするのが良いだろうと思っています。「感情迸出」は「感情の脱拘束」となります。

 なお、上の引用のうち「感情が表象に拘束されている場合のみ」のところは、「感情を表象に拘束することによってのみ」が正しいと思います

 次です。

したがってこれが、顕在的夢内容が実現する着想なのであり、その着想は、夢見る人が体感する現在であるかのごとくに描かれるのである。
 夢がたったひとつの夢思考の上演であることはほとんどなく、たいていの場合は、一連の思考、思考の織物が演出される。ハーノルトの夢からも、夢内容のさらに別の構成要素を浮かび上がらせることができる。その要素の歪曲は容易に取り除くことができるので、それによって代表されている潜在的夢着想が何なのかがわかる。(岩波版66-67頁)

 「着想」というとふつう意識的な思いつきのことを指すと思っていた私は、この部分での「着想」なる語の使い方を見て戸惑いました。原書を見ると、ここで「着想」と訳されているのは「Idee」なので、「観念」か「想念」ぐらいがいいんじゃないでしょうか。

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11)

2008年5月20日 (火)

フロイト全集より『W.イェンゼン著「グラディーヴァ」における妄想と夢』

 今回読みかえしてみて、フロイトが取り上げた小説とフロイトが言いたいこととが、非常に緊密に関係し合っていることに改めて驚きました。私はふだん、現代の精神科医が文学作品を論じているのを読んでもほとんどの場合に納得できないのですが、さすがはフロイトです。

 翻訳については、まずは次の箇所が気になりました。

「この若い考古学者の妄想に関して、ツォーエ嬢自身われわれと見解をわかちあっているように思われる。なぜなら、彼女の『情容赦なく、詳細で、ためになるお説教』の終わりに彼女が表現した満悦の気持ちは、彼女がグラディーヴァに対する彼の関心を、そもそもの初めからよろこんで我が身に結びつけようと考えていたからという以外、ほかにはほとんど説明のつけようがないからである。ほかでもない、彼女は、彼にそんな気持ちなんかあるはずがない、とずっと思っていたのであり、どんなに妄想の偽装を凝らしていても、やっぱりそうだったんだと彼女にはわかったのである。さて一方彼に関しては、彼女の側からの心的治療がその良い効果を存分にもたらしていた。今や妄想が現物そのものによって代替されてしまったので、彼は自由の身になったと感じた。妄想はやはり単にそれの歪曲された不十分な模造でしかあり得なかったのである。彼は今やためらいもせず想い出し、そして彼女がおおもとでは昔とまったく変わっていない善良、快活で、聡明な幼馴染だと躊躇なく認めた。」(岩波版40-41頁)

 はじめの「そんな気持ち」の箇所は、原文では代名詞です。岩波訳では、少し前の「満悦の気持ち」のことだとも読めてしまいそうですが、意味からしてちょっとありえなさそうです。直前の中性名詞「グラディーヴァへの関心」を指すとも考えられますが、漠然と「そんなもの」としておきます。さらに、次の二つの下線部は時制についての疑問点でして、前者は過去完了、後者は過去です。ですのでこの部分は次のようにしたいです。

「ほかでもない、彼女は、彼にそんなもの[グラディーヴァへの関心]があるなどとは信じてこなかったのであり、それが、彼女には、どんなに妄想の偽装を凝らしていても、やはりそれそのものとして認識されたのである。」

 つづいて「現物そのもの」ですが、これにあたる語は原文にありません。次の文、「妄想はやはり単にそれの歪曲された不十分な模造でしかあり得なかったのである」の「それ」に相当する関係代名詞があるだけです。この関係代名詞構文は非常に訳しにくいので、「その歪曲された不十分な模造が妄想となるような何か」とでも訳すしかありませんが、私としては、構文を少しいじって、不要な語は補わずに、次のように訳したいと思います。

「今や妄想が、そのもととなるものによって代替されてしまったので、彼は自由の身になったと感じた。妄想はやはり単に何かの歪曲された不十分な模造でしかあり得なかったのである。」

 周囲の文脈も考慮すると、ここで言われている妄想のもととなるものとは、岩波版にあるような「現物そのもの」よりはむしろ、「幼少期の彼女との想い出」であろうと思われます。

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11)

2008年5月 8日 (木)

フロイト全集9から『性格と肛門性愛』2

 以前の人文書院版のころから、この論文の長い原注の意味がよくわかりませんでしたが、今回ちょっとよくわかった気がします。

「いやはや、目の前のココアを見ていて、子供のころにいつも考えていたことを思い出しました。あのころ私はいつもこんな想像をしていました。私はココアメーカーのヴァン・ホーテン(彼はこの名前をヴァン・ハウテンと発音していました)でして、この美味しいココアをつくるためのすばらしい秘密を握っているのですが、世界中を幸せにするこの秘密を奪い取ろうと、皆がよってたかって躍起になっているため、私は細心の注意を旗ってこの秘密を守り通している、という想像です。」(岩波版283頁)

 ここで、『ココア』には訳注が付されていて、「ドイツ語では糞のことをKackeとも言い、そこから幼児語では糞はKakaと発音されることも多く、ココアは糞と言語音声上の連想でつながっている」と説明されています。勘の鈍い私には、これだけの補足説明では原注全体の意味がよくわからなかったので、必然的にこの訳注についてもどのぐらい信頼してよいか迷っていたのですが・・・。

 まず、私の電子辞書のクラウン独和で引いてみたところ、『ココア』にあたる独語『Kakao』の3番目の意味として『(話)糞便』が載っています(大辞典2冊にはいずれも載ってませんでしたが)。これでまず『ココア=糞便』という等値に納得がいきました。それを踏まえて、次の『ココアメーカー』ですが、原文で『Kakaofabrikant』なので、文字通り読むだけで『ココアメーカー=糞便製造者』という意味にとれます。私はこれに今回初めて気づくことができたことをきっかけに、原注全体に納得することができました。『私』は、たとえば手作業によってココアをつくるのではなく、自らの体そのものが『糞便製造者』だというイメージが掴めたからでした。

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11)

 それにしても、世界最高の現役サッカー選手の一人の名前がドイツ語では糞便そのものを表すんですねえ。

2008年5月 4日 (日)

フロイト全集9から『性格と肛門性愛』

 肛門性愛というのは、フロイト理論のなかでも、かなり受け入れ難いテーマのひとつと言えると思います。そんな馬鹿なことが・・・とつい思ってしまいがちですが、このテーマは我々成人の意識的な思考のなかにそのまま入ってくるものではないということを忘れてはなりません。一方で、去勢恐怖とか、父への敵対心とかは、成人が思い浮かべてみてもある程度感情移入できてしまうのですが、これらについては逆に、意識的に思い浮かべてみるという事態と無意識で生じている事態とを安易に混同しないよう気をつけなければならないのです。

 翻訳については、気になるところが第一段落にありました。

 精神分析を駆使しての支援の試みがなされている人たちのなかには、次のようなタイプがかなりの頻度で見受けられる。すなわち、一方ではある特定の性格諸特性を顕著に併せもっていると同時に、幼年期のころにある身体機能ならびにその機能を果たしている諸機関の働き方に注目すべきところのあった人たちである。ここから、この性格とこうした器官の働き方には何らかの切り離せない関連があるはずだといった印象が私のなかで膨らんできたわけであるが、それが具体的にどのような誘引によったのかは、今日ではもう定かでなくなっている。ただ、こうした印象が出来あがるのに、理論面での予断といったものがいっさい関与していなかったことは確かである。(岩波版279頁)

 はじめの下線部、「切り離せない」は、原書では「organisch」です。この語はフロイトの他の箇所に出てくれば普通「器質的な」と訳されるでしょう。たとえば同じくフロイト全集9巻では310頁4行目にあります。ですから翻訳の際、あえて訳者はこの語を避けたのだと思いますけれども、私としては、意味的にもここを「器質的な」と取っておきたい気がします。

 二つ目の下線部、「誘引」は、おそらく変換ミスまたは誤植でして、「誘因」が正しいです。

 最後の下線部は、原文ではもう少し弱いニュアンスなので、「確かといえる」ぐらいにしておきたいところですし、意味的にも通りが良くなると思います。

 精神分析を駆使しての支援の試みがなされている人たちのなかには、次のようなタイプがかなりの頻度で見受けられる。すなわち、一方ではある特定の性格諸特性を顕著に併せもっていると同時に、幼年期のころにある身体機能ならびにその機能を果たしている諸機関の働き方に注目すべきところのあった人たちである。ここから、この性格とこうした器官の働き方には何らかの器質的な関連があるはずだといった印象が私のなかで膨らんできたわけであるが、それが具体的にどのような誘因によったのかは、今日ではもう定かでなくなっている。ただ、こうした印象が出来あがるのに、理論面での予断といったものがいっさい関与していなかったことは確かといえる

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11)

2008年4月29日 (火)

フロイト全集9から『ヒステリー性空想、ならびに両性性に対するその関係』

 夢や白日夢、空想とヒステリー症状との関係についての論文です。この邦訳のなかで気になったところを挙げます。

夜の夢では、ほかでもないこの種の白昼の空想が、複雑にされ、歪曲され、意識的な心的審級によってあえて曲解されたかたちで、夢形成の核をなしているからである。(岩波版242頁)

 意識的審級が「あえて曲解する」というと、夢の二次加工を指すように思えてしまいますが、二次加工された顕在夢が夢の核であるというのはちょっと変です。原文でここに対応する表現は単に「missverstanden」なので、「誤解する」「思い違いをする」といった意味に捉えればよく、「あえて」というニュアンスはありません。語順もいじって次のように改めたいと思います。

夜の夢では、ほかでもないこの種の白昼の空想が夢形成の核をなしているが、複雑にされ、歪曲され、意識的な心的審級からは誤解されているのである。

 ところでこの論文では、パラノイアの空想についても触れられています。後年には、パラノイアについては同性愛的空想からの防衛であるとか、ナルシシズム的段階への回帰だとか言われるようになるのですが、この論文ではそうした理論にまだ到達していないためか、パラノイアについて「性欲動のサディズム=マゾヒズム的成分」との関係に言及されていますけれど、そこらへんがこの論文の今ひとつ私にはよくわからないところです。

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11) 

2008年4月16日 (水)

フロイト全集9より『舞台上の精神病質的人物』6

 この論文について、かつて作成した拙訳を岩波訳と比較してきたシリーズの最終回です。 

というのも、神経症の病者とは、われわれにとっては、その内部にいかなる葛藤が渦巻いているのか -それが動かしがたい域に達しているような場合には- まるで想像も付かないたぐいの人種だからである。(岩波版p180)

というのは、罹患中の神経症者の葛藤は、我々にとって、彼が葛藤を既存のものとして携えている場合には、全く見抜くことが出来ないからである。(拙訳)

 ここで岩波版で「動かしがたい域に」と訳されている「fertig」という語は、岩波版176頁で「すでに仕上がっている」、180頁の後半でjは「完全に出来上がった」と訳されており、こここでのみ「動かしがたい」と訳し分けなくても良いのではないかと思います。拙訳が採用した「既存の」という語もさほどよいとは思いませんが。

 次です。

とするなら、詩人の課題は、われわれを病者と同じ病気の状態に移し置くということになるわけで、これがもっともうまくいくのは、われわれがこの病者と同じ病的展開をたどっているときということになるだろう。(岩波版p180)

作者が、我々をしてこの疾患に身を置かせることを課題としていることもありうるが、これは我々がストーリーの展開に作者と一緒に参加する際に最も良く起こる。(拙訳)

 原文の代名詞が指す人物を、岩波版は「病者」、拙訳では「作者」としています。私は、「作者」以外の名詞は前の文に出たきりなので遠く感じられ、「作者」としましたが、岩波版を見て考え直しますと、意味からしてやはり「病者」としたいと思います。

バールの『もうひとりの女』には、どうやらこの手の失敗がのぞいているように思える。加えて、もう一つ問題ばらみの失敗にも気づかされる。すなわち、われわれは、この主人公の娘を充分に満足させるのにどうしてもこの一人の男でなければならないという点に、はっきり確信をもって共感できないということ、つまり彼女の事例が、われわれに共通のものになりえていないということである。(岩波版p180-181)

この〈前々段の条件1に関わる〉欠陥を、バールの『他の人々へDer Anderen*2』が提示している。それに加えて、問題となるもう一つの〈条件2に関わる〉欠陥がある。すなわち、ある男性が娘を十分に満足させるという特権性を持つということについて、その心情を感じ取って納得することなど我々にはできないということである。彼らの場合はそれゆえ我々には該当しない。(拙訳)

 作品タイトルの「Der Anderen」を、私は複数形ではないかと思ったのですが、岩波版では女性単数とされています。ただし拙訳のほうが正しいと言い切る自信はないです。

 それと、岩波で「彼女の事例」とされている「Ihr Fall」のIhrも、私は複数と思いました。すなわち、ある女性と、その女性にとって特権的男性の両者を指すと考えたのです。しかしこれも拙訳のほうが正しいと言い切る自信はないです。

 これまで6回に分けてみてきましたが、大変勉強になりました。本邦未訳論文はまだいくつかありますので、そのいくつかは、岩波から出る前に自分で訳してみたいと思うようになりました。

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11) 

2008年4月 1日 (火)

フロイト全集9より『舞台上の精神病質的人物』5

 この論文について、岩波版フロイト全集の訳を用いて、かつて私が作成した訳の間違いを探しています。

 なぜなら、抑圧された心の蠢きを公然と露出させ、これをある程度まで意識化して是認することが、もっぱら嫌悪をもたらすのではなく、むしろ快をもたらしてくれるといった可能性は、神経症者においてしか望めないからである。神経者でない場合には、そうした是認は、ひとえに嫌悪されるだけであり、あらためて抑圧の行いをくりかえそうという態勢を呼び起こすだけである。というのも、そうした人たちにあっては、すでにこの抑圧は成功している。つまり、抑圧された心の蠢きが、かつてなされたあの一度の抑圧消費によって、完膚なきまでに相殺されているからである。ところが神経症者の場合は、この抑圧は、今にも崩れそうなほど不安定になっており、つねに新たな消費をつぎこむことが必要である -この消費は、抑圧された心の蠢きが是認されたときはじめて不要となるものだからである。この種の闘いが劇の主題となりうるのは、もっぱら神経症者においてのみであるが、むろん、こうした神経症者の場合でも、詩人は、解放の悦びだけを産み出すのではなく、そうはさせじとする抵抗をも産み出すことになる。(岩波版178頁)

 というのは、ただ神経症者にとってのみ、抑圧された動きの露呈やそのある程度の意識的再認が、単なる嫌悪に代わる快楽を準備しうるからである。すなわち非神経症者においては、そのような動きは単なる嫌悪に遭遇し、抑圧行為を反復しようという心構えを単に招くだけであろう。というのも、非神経症者ではこの抑圧は成功してきたのであり、抑圧された動きは、一回限りの抑圧労力で完全な平衡状態に保たれてきたからである。神経症者の場合、抑圧は失敗しつつあって、不安定で、確実に新たな労力を要する。ただしこの労力は、再認によって省くことができるだろう。神経症者においてのみ、劇の題材になりうる闘争が存続し、作者は神経症者に単なる開放の享楽ではなく、抵抗をも引き起こす。(拙訳)

 ひとつ目の下線部は、原文の代名詞が示すものが何かという点で岩波版と拙訳が異なっています。文法的にはどちらも可能ですが、ここでは非神経症者が劇を観ているときのことを言っていると考えれば、岩波版の方が良さそうです。

 ふたつ目の下線部は、原文では単なる関係詞節ですが、岩波版では前文の理由を示す節として訳されています。ここでは、抑圧された動きを認めることによって不要になった消費のエネルギーが、快楽をもたらすことを言いたいのであって、むしろこの節は次の文で示される事態の理由になっています。よってここは拙訳を取りたいです。

 次の箇所に移ります。

これによって抵抗がいくぶんかでも抑えられることは確かなところである。それは、分析作業においても見られるところであり、抑圧されたものは、通例意識への進入を拒まれているにもかかわらず、抵抗が小さくなると、そのひこばえが意識へとのぼってくるのである。(岩波版179頁)

その結果抵抗の一部が省かれることは確かであり、それは分析中にみられる次のような場合と同様である。すなわち、抑圧されたものの派生物は、抑圧された当のものを拒んでいる抵抗が減少する結果として意識へ到来するのである。(拙訳)

 ひとつ目の下線部は、前の引用箇所では岩波版で「不要になる」と訳されていた語が用いられているので、揃えた方がいいでしょう。労力が不要になって、あまったエネルギーが快に変わるという事態が大切です。

 ふたつ目の下線部ですが、「抑圧されたもののひこばえを拒んでいる」という関係詞節の先行詞が、岩波版では「意識」であり、拙訳では「抵抗」です(die Abkoemmlinge des Verdraengten infolge des geringeren Widerstandes zum Bewusstsein kommen, das sich dem Verdraengten selbst versagt.)。この箇所はやはり岩波版が正しいと思います。しかし、岩波版のように「抵抗が小さくなると、そのひこばえが意識へとのぼってくる」のではなく、「そのひこばえたちは、それらへの抵抗が小さいので、意識へとのぼってくる」のだと思います(論文「抑圧」参照)。ただし拙訳でもそのようには読みがたいので、次のように改めたいです。

その結果抵抗の一部が省かれることは確かであり、それは分析中にみられる次のような場合と同様である。すなわち、抑圧された当のものは意識へ到達できないが、抑圧されたものの派生物たちは、それらへの抵抗が小さいので、意識へ到来するのである。(拙訳)

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11) 

 こうして比較してみると実に勉強になります。

2008年3月25日 (火)

フロイト全集9より『舞台上の精神病質的人物』4

 この論文の岩波版での翻訳について、拙訳(HPにて公開)との比較の続きです。

 それは、葛藤という 筋立てでなければならず、そこには、意志の努力とそれに対する抵抗がはらまれていなければならない。(岩波版p176)

 すなわちそれは葛藤からくるストーリーでなくてはならず、意思と抵抗との苦闘を含まねばならない。(拙訳)

 意志と抵抗うんぬんの部分ですが、岩波版は「努力」と「抵抗」が同格と捉えているのに対して、拙訳では「意思」と「抵抗」とを同格としています。原書では「Anstrengung des Willens und Widerstand」となっています。「Willens」が2格である一方で、「Widerstand」は2格ではなさそうですから、拙訳は間違いでして岩波の訳が正しいです。拙訳の訳語をそのまま用いるなら、「意思の苦闘と[それへの]抵抗」となります。

 この性格悲劇は、アゴーンに付き物のあらゆる興奮を利用するもので、人間的諸規則の縛りを捨て去った際立った登場人物たちによって演じられると成果があがるゆえ、本来は一人以上の主人公をもたねばならない。(岩波版p177)

 これは競争[Agon,葛藤]のあらゆる興奮を伴い、人間制度の諸々の制限から自由な傑出した人物たちの間で、利得の獲得を目指して演じられるものであって、本来、二名以上の主人公がいなければならない。(拙訳)

 「効果が上がる」「利得の獲得を目指して」という全く違った訳のもととなったのは、原文では単に「mit Gewinn」という副詞句です。これも辞書をひいて考え直してみると、やはり岩波版が正しいように思われます。

 同じ引用箇所でもうひとつ、「mehr als einen Helden」は「一人より多い主人公」ですから、日本語では「二人以上」が正しいと思ったのですが、ここは拙訳のほうが良さそうです。

 今回は私の間違いが目立ちました。岩波版を読むと「ああそうか」って感じですぐに拙訳の間違いに気づくんですけども、一人でミスなく翻訳することは難しいですねえ。

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11) 

 最近変な事件や変な鑑定結果のニュースが多いですねえ。しかし報道内容と事実がだいぶ違うことが多いこともあるんで、何ともわからないというのが正直なところ。

2008年3月19日 (水)

フロイト全集9より『舞台上の精神病質的人物』3

 岩波から初訳が公刊されたこの論文について、拙訳(HPで公開中)との比較の続きです。構文の取り方に違いがなければ細部をいちいち取り上げずに進んでいるのですが、文章表現の上手さでは拙訳はかなり見劣りがしますので、そうした細かな相違点ではほとんど岩波版に軍配が上がりそうです。

 さて気になる箇所ですが、ややこしいので独文も提示してみます。

しかし、問題となるこの苦しみは、やがて心の苦しみにのみ限定されてくる。というのも、身体的な苦しみを欲する者など誰一人いないからだし、いかなる心の悦びも、身体的苦しみを見せつけられることによって変容した身体感覚によって、すぐに終わってしまうことは、誰しもよく知っているからである。病気を患っている者が抱く欲望は、唯一、健康になりたい、この病の状態をおしまいにしたいということである。(岩波版p175-6)

さらにこの苦悩は、ほとんど精神的苦悩に限定される。というのも、身体的苦悩の際に変化する身体的感情があらゆる精神的享楽を直ちに終結させてしまうということを知っている者は、誰も身体的に苦悩しようとはしないのである。患っている者は、健康になりたい、病態から脱したいという願望だけを持っており・・・(拙訳)

Doch schraenkt sich dieses Leiden bald auf seeliches Leiden ein, denn koerperlich leiden will niemand, der weiss, wie bald das dabei veraenderte Koerpergefuehl allem seelichen Geniessen en Ende macht.

 相違点はまず、「niemand, der weiss...」のところを、拙訳では限定的用法の関係代名詞と取って「・・・である者は誰も・・・ない」としている一方で、岩波版では何の限定もなく「誰も・・・ない」としたあとに付加説明としていることです。私が持っている辞書3種では、「Niemand」(英語のno oneに相当)が関係詞の先行詞になる例文が載っていませんが、限定的用法がないわけはないと思います(英語の「nothing」に相当する「Nichts」についてなら、「Ich glaube Nichts, was ich nicht mit eigenem Augen gesehen habe.私は自分の目で見たものでなければ[何も]信じない」が載ってますし)。引用箇所を意味から考えてみても、少なくともフロイトの精神分析の立場からは、「身体的な苦しみを欲する者など誰一人いない」というのは自明ではないと思いますので、やはり限定が必要ではないかと思います。

 次に、「dabei」という副詞を、岩波版は「身体的苦しみを見せつけられることによって」、拙訳は単に「身体的苦悩の際に」としている点です。もちろん岩波版は直訳ではなく言葉を補った結果なのですが、ここでは「見せつけられる」立場にたった観客について述べているとの解釈のようです。しかし、その直後の文での補足説明は、観客ではなく病人一般について述べられています。引用した箇所よりも二つ後ろの文ではじめて観客の苦悩について述べられていますが、岩波訳ではその内容を先取りしてしまっているという印象を受けます。

 今回はいつもよりさらに細かい内容になってしまいました。

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11) 

 カシオの電子辞書に、小学館ロベール大仏和を収録したものや、小学館独和大辞典を収録したものが登場していたことを知り、前者をさっそく注文しました。とくにロベールは書籍の場合かなりかさばりますから電子辞書の登場は大助かりです。喫茶店や出張先でラカンを読むにはクラウン仏和では(エクリはもちろんセミネールにも)力不足でしたが今後は大幅にはかどるのではないでしょうか。ワインの選び方事典も収録されているらしく、これも読書会中にちょっと飽きたときなどに開いてみる楽しみのひとつになりそうです。

 これまで使っていたのはクラウン仏和の他にリーダーズ/リーダーズプラス英和が入っていたので、リーダーズプラスで英米のヒット曲の解説を読むのもけっこう楽しいものでした。たとえば「Maneater」の項を引くと、「マンイーター(Hall & Oatesの1982年のヒット曲;この曲のベースギターによる前奏は‘You Can't Hurry Love’の前奏をそのまま使いMotownサウンド風になっている)」。

2008年3月 7日 (金)

フロイト全集9より『舞台上の精神病質的人物』2

 岩波から初訳が出たこの論文について、かねてからHPに公開している拙訳との相違点の検討を続けます。

「観客は、世界の賑わいの中心に確たる我として立ちたいという功名心の炎も、すでにとっくの昔に鎮火させ、いやむしろ、どこか他のものへと置き換えざるをえなかったのであり、そのため自ら感じ、活動し、すべてを自分の思うがままに切り盛りしたいと望んでいる。つまり主人公[英雄]になりたいと望んでいるのである。」(岩波版173-4頁)

「観客は・・・世界の激動の中心にわれとして立ちたいという野望をずっと前から抑え、あるいはせいぜい延期せねばならなかった。彼は、すべてが思い通りに作られていると感じたい、そのように力を振るいたいのであり、つまりは主人公でありたいのである。」(拙訳)

 ひとつ目の下線部は原語では「verschieben」であり、これは「移動する、置き換える」といった意味のほか「延期する」という意味もあります。原文には、「・・・を・・・と置き換える」という訳の「・・・と」にあたる部分がありませんし、「延期する」で良かったのではないかと今も考えています。

 次の下線部は、拙訳は完全に間違っています。「er will fuehlen, wirken, alles so gestalten, wie er moechte, kurz Held sein,」ですが、「gestalten」は「fuehlen, wirken」とともに助動詞「will」の支配下にあります。いま読むとどうして間違ったかわからないほど明瞭なミスです。「彼は、感じとり、作用を及ぼし、すべてを思い通りに作りたいのであり」としておきます。

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11) 

 フロイト全集8巻の『機知』も届きました。この論文で扱われるドイツ語の機知とくに言葉遊びについて、人文書院の著作集の訳ではほとんどおもしろみが伝わってきませんでしたので、かつて私は(ドイツ語は全く話せない程度の力しかもちあわせないながらも)辞書と見比べながらなんとか面白さを見出そうと努力し、著作集の訳の誤りを発見した場合にはHP上に公開していましたが、今回の岩波版の訳には自分が考えたのと同様の解釈が幾つもあって、大変うれしく思います。

2008年2月18日 (月)

フロイト全集9より『舞台上の精神病質的人物』

 この論文に書かれている演劇(戯曲)論は、無意識的なメカニズムから論理を積み上げて説明されるのではなく、かなり現象に即して語られており、そのため非常にわかりやすい論になっていると思います。精神分析の論文としてはやや物足りないのは確かですが。

 この論文はこれまで未訳だったものでして、じつは私もかつて全訳を試みてホームページにすでに公開しているんです。その後に公刊された岩波版『フロイト全集』の訳と見比べてみると、拙訳の方がかなりの直訳ということもあって全くスタイルが違うので、両方の訳にそれなりの存在価値がありそうに思うので、現在もそのまま公開中です。

 今回から、両者を見比べながら大きな相違点についてひとつずつ考察してみます。

ちょうど、お笑いや機知などが、われわれの知的作業のなかから、普通ならそこに現れた試しがないような数々の快の泉を打ち開くのと同じである。(p173)

[まさに]これは滑稽や機知の場合に[常日頃]そうした数多くの源泉を到達不能にしてきた我々の知的作業からの源泉の蓋を開けるのと同様である。(拙訳)

 ここは原文では、「aus unserer Intelligenzarbeit, durch werche [sonst] viele solcher Quellen unzugaenglich gemacht worden sind」、つまり「普段はわれわれの知的作業のせいで、快の源泉へは接近不能になっていたのだが、まさにその知的作業から(快の源泉を開く)」というところが面白いところだと思います。なので、ここには(並べてみると拙訳は文章が下手だなあと感じつつも)拙訳のニュアンスが必要ではないかと思うところです。

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11) 

2008年2月13日 (水)

フロイト全集18から『夢解釈の理論と実践についての見解』5

 この論文の翻訳の問題についてはこれで5回目ですが、ひとまずこれで最後にしようと思っています。

夢にたいするこうした干渉を許すかどうかはひとえに、批判をこととする自我審級にまかされており、それゆえ、この審級が無意識の欲望成就から刺激を受けて、睡眠状態のあいだ一時的に再生したと想定せざるをえない。この審級は、そうした欲望されざる夢内容に対して反応し、[夢をみていた人を]覚醒させることもできたかもしれない。(186頁)

 ここは、「欲望成就」がすなわち「欲望されざる夢内容」だということになってしまっています。前者は無意識にとって「欲望成就Wunscherfuellung」ですが、後者は、批判的審級からみて「望ましくないunerwuenschten夢内容」だということで、原書では微妙に異なる語を用いられていることでもありますから、訳し分けた方がいいでしょう。

夢にたいするこうした干渉を許すかどうかはひとえに、批判をこととする自我審級にまかされており、それゆえ、この審級が無意識の欲望成就から刺激を受けて、睡眠状態のあいだ一時的に再生したと想定せざるをえない。この審級は、そうした望ましからざる夢内容に対して反応し、[夢をみていた人を]覚醒させることもできたかもしれない。(186頁)

 ちなみにこのなかの「刺激を受けてreizen」は、181頁や182頁にでてくる「医師から受けた刺激」「医師の刺激」といったあたりの「Anregung」とは別の語で、後者はむしろ「そそのかし」ぐらいに訳すべきところです。

 この論文の最終段は自我理想の概念についてきわめてクリアに述べていますね。この自我理想の起源であった対象との関係について、『集団心理学』の論文の図が思い出されます。

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

 訳が悪い悪いと言いながら、光文社古典新訳文庫の続刊が出ていたので買ってしまいました。タイトルは『人はなぜ戦争をするのか』です。

2008年2月 7日 (木)

フロイト全集18から『夢解釈の理論と実践についての見解』4

 しつこくこの論文の翻訳について。私には次の文も意味が取りづらく感じられました。

無意識の空想に対しては、想起感情を期待することはまったくできないが、当人の主観的な確信が残っているということは、場合によっては考えられる。(183頁)

 下線部は、原文では「moeglich bleiben」なので、「やはり可能なままである」とか「可能性が残っている」といった意味です。岩波の訳文は、形容詞「moeglich」を、副詞「moeglicherweise」のように受け取ってしまっている気がします。次のように訂正したいです。

無意識の空想に対しては、想起感情を期待することはまったくできないが、当人の主観的な確信感情はやはり[現れる]可能性が残っている

 あとは、同じ頁の後ろの方にもう一箇所、本当に些細な点ですが、主語が抜けている箇所があって、フロイトなのか患者なのか明示することが必要と思います。

私は、彼のみた夢は予想もできなかった個別的な事柄の総和であること、治療中の彼のふだんの行動は、迎合に由来するものでは全くないことを、弁じたてたものである。(183頁)

私は、彼のみた夢は私が予想もできなかった個別的な事柄の総和であること、治療中の彼のふだんの行動は、迎合に由来するものでは全くないことを、弁じたてたものである。

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

2008年2月 5日 (火)

フロイト全集18から『夢解釈の理論と実践についての見解』3

 この論文についての続きです。次の部分は、訳文だけでは私には意味が取れませんでした。

 右に述べた前意識的な夢思考の関与部分を別とすれば、まともな夢はいずれも、みずからを形成するに足るだけの、抑圧された欲望の蠢きへの示唆を含んでいる。これを疑う人はいうであろう、欲望の蠢きが夢のなかにあらわれるのは、夢をみた人が、そういう蠢きを提示しないといけない、つまり精神分析家がそれを待ち望んでいると承知しているからにほかならない、と。(181頁)

 「関与部分」というのは変な日本語ですが、原書では「Anteil」なので、「因子」「成分」とか、単に「部分」ぐらいの意味です。それはいいとしても、「みずからを形成するに足るだけの」は「みずからを形成させてくれるだけの」に変えたいですし、「欲望の蠢きへの示唆」は、「Hinweise auf die verdraengten Wunschregungen」ですので、「欲望の蠢きについての(われわれへの)示唆・ヒント」です。それと、次の文の主語は、三人称複数代名詞「sie」ですが、これは上記の「示唆・ヒント」を示していると思います。よって以下のように修正します。

 右に述べた前意識的な夢思考という因子[=関与部分]を別とすれば、まともな夢はいずれも、みずからを形成させてくれる抑圧された欲望の蠢きについての示唆を含んでいる。これを疑う人はいうであろう、そうした示唆が夢のなかにあらわれるのは、夢をみた人が、そういう示唆を提示しないといけない、つまり精神分析家がそれを待ち望んでいると承知しているからにほかならない、と。

 ここらへんは、無意識的な因子の付加について説明しているというふうに読んで意味が通るようになったと思います。

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

2008年1月31日 (木)

フロイト全集18から『夢解釈の理論と実践についての見解』2

 岩波版全集の中では珍しく日本語の意味が取りづらい(=誤訳の存在が疑われる)箇所が多い、と前回書きましたが、今回はこの論文の問題点の続きです。

「患者の側に両価的な葛藤がある場合、その心中に生じる敵対的な思考は、情愛の蠢きの持続的克服、つまり葛藤の決着を意味しない。同様に、敵対的な内容の夢も、そうした意味を持たない。こうした両価的な葛藤があるあいだは、毎晩それぞれ異なる立場に与する二つの夢をみることも多い。そのようなときの治療の進展は、真っ向からむかいあっている蠢きを根本的に分離したうえで、そのおのおのの無意識を増強させて極端なところまで追求して、正体を究明することにある。」(180頁)

 ひとつ目の下線部ですが、もとの訳の「心中に生じる」では無意識的な思考も含まれてしまいそうですけど、原文では「彼に浮かぶ」、つまり意識に浮かぶということです。

 さらに、ふたつ目の下線部、とくに「無意識を増強する」は意味がよく分かりません。原文では「mit Hilfe der unbewussten Verstaerkungen」ですが、この「Verstaerkungen」は辞書では「1(単数で)(verstaerkenすること、例えば)強化、補強」「2 増援部隊、援軍」とあります。ここは、複数形だからというだけではなく意味から言っても、後者の意味と取りたいです。といいますのは、訳文でこの下線部は、二種類の夢が登場した後の、治療の次の一手を説明しているように読めますけれど、そうではなく、二つの夢が形成されたという事態そのものの説明であるように思えるからです。時制が現在完了ですし、訳文の「治療の」という表現は原文にありません。

「患者の側に両価的な葛藤がある場合、彼[の意識]に浮かぶ敵対的な思考は、情愛の蠢きの持続的克服、つまり葛藤の決着を意味しない。同様に、敵対的な内容の夢も、そうした意味を持たない。こうした両価的な葛藤があるあいだは、毎晩それぞれ異なる立場に与する二つの夢をみることも多い。そのようなとき、以下の点で進展がある。すなわち、真っ向からむかいあっている蠢きの根本的な分離がすでに成功し、そのおのおのが、無意識的な助力を使ってその極端にまで追求され、理解されることができるという点である。」

 「無意識的な助力」とは、前意識的な潜在思考に加わって夢を形成させる力のことと思われます。

 この論文からはまだ何回か話題を拾えそうです。

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

2008年1月29日 (火)

フロイト全集18から『夢解釈の理論と実践についての見解』

 フロイト自らによるレジュメのような論文ですが、岩波版全集の中では珍しく日本語の意味が取りづらい(=誤訳の存在が疑われる)箇所が多いです。一般に、原文があまりにも簡潔だと、翻訳の際に文脈からヒントを探すことができないのでどうしても訳しづらくなるのはやむを得ないことですが、以下の箇所はもっと単純なミスのようです。

「彼らは、まだ分析の場で話さなければならない不快を、とにかく避けたいと思っているのだ。軍医による治療を受けてみて、前線での任務のほうが病気よりもましだと考えて、症状を受け入れてしまっている戦争神経症患者もまた同じ経済論的条件に服している」(179頁)

 下線部は原書では『verzichten』(の過去形)ですから、本来『放棄した』『断念した』といった意味です。訳文では逆の意味になってしまっています。文脈から言っても『放棄した』『断念した』が自然に思われます。

 しかしこの箇所にあるような、戦地の任務より厳しい治療っていったいどんなやり方なんだろうかと気になってきますね。軍隊ですから、根性を叩き直すしごきでも行われていたのでしょうか。戦地より厳しい精神分析というのはちょっと想像がつきませんけど。

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

 この論文の翻訳についてはまだ何回かにわけて問題箇所を拾いだしていかねばなりません。

2008年1月27日 (日)

社会って

 私は普通に『社会』という言葉を使うとき、かなり多くの人間から構成されるものを想定しますし、学校の『社会科』で扱われる内容もやはり同様であろうと思います。そのため乳幼児の発達について、まず乳児は両親との関係を結んだのち、次第に人間関係の範囲が広がって、最終的には社会的な関係を持つに到る、というふうに考えがちです。もちろん、社会学などでは家族を社会の最小単位として扱うということはあるのでしょうが、それはあくまで学問的な文脈で、しかもより大きな社会単位と関係づけて論じられることでしょう。

 こうしたなか、フロイトを読んでいて以下のような箇所に突き当たると、多少の違和感を覚えます。

 だから悪とはもともとは、愛の喪失の脅威にさらされることである。愛を喪失することにたいする不安から、人は悪を行わないようにしなければならないのである。その場合には人がすでに悪を実行したのか、あるいはただ実行しようと考えたのは、それほど大きな違いをもたらさないのである。どちらにしても、権威をもつ人に発見されただけで、この危険に直面しなければならないのであり、権威をもつ人はどちらの場合にも同じように振る舞うはずなのだ。
 この状態は『良心の疚しさ』と呼ばれるが、ほんらいはこの名前はふさわしくないものである。この段階では罪の意識はまだ、愛の喪失に対する不安であり、『社会的』な不安だからである。幼児においてはつねにこれ[=良心の疚しさ]は社会的な不安として現れるが、大人の場合にも、父親や両親の位置を、大きな人間の共同体が占めているという違いがあるだけで、結局は同じであることが多いのである。(『文化への不満』光文社古典新訳文庫248頁)

 すなわち、この最後の部分では、幼児が両親から愛されなくなることをおそれるという状況を『社会的』と呼び、一方で、大人になってから大きな共同体を想定するようになっても『結局は同じ』という言い方がされています。この言い回しからは、前者を『社会的』と呼ぶことのほうが当たり前というニュアンスが感じられてきます。一方で、我々の日常的な『社会』という語のイメージからすると、むしろ大人と共同体との関係のほうを『社会的』と呼んで、幼児と両親との関係も『結局は同じ』と言うほうが腑に落ちやすいように思われます。

 振り返ってみると、ここで我々は、精神医学を学んで間もないころ、「『社会恐怖』とか『社会不安』といった語は『対人恐怖』のことを表している、この場合に『social』という語は、『社会』というより『社交』に近い意味と考えるべきである」、と教わったときに少々違和感を感じたのと同じことを再び経験しているように思います。というのは、われわれ精神科医ですら、この『社会的』という語が、精神医学においては主に生身の人間との関係を示しているということを、この『社会恐怖(不安)』という言葉を用いるときを除いてほとんど忘れてしまっているからです。たとえば『社会生活技能訓練』というとき、対人場面の練習だけでなく金銭管理や調理その他の技能訓練も含めることが多いこともその一例でしょう。

 これに対して、フロイトも両親との関係から社会関係へ、という論旨を展開している、その場合の『社会』という概念は、国家や世論など抽象化された大集団を念頭に置いている、といった印象を持っている方もあるかもしれません。しかしそれは、フロイトの邦訳本で『社会(的)』と訳されている語には『sozial』以外にも、『gemeinschaftlich』や『gesellschaftlich』があって、抽象的で大きな『社会』を示すときには後二者が用いられること、そしてたいていは片方を『共同体』、片方を『社会』と訳されることから、結局邦訳だけを読むと、『sozial』と訳される『社会』とは訳し分けられず混同されてしまうことからくる印象のように思います。

幻想の未来,文化への不満 (光文社古典新訳文庫 Bフ 1-1)

フロイト (著), 中山 元 (翻訳)

出版社: 光文社 (2007/9/6)

2008年1月21日 (月)

フロイト全集18から『「精神分析」と「リビード理論」』

 この論文でもっとも印象に残ったのは、「病苦の症状が解消するのは、特別な努力目標として目指されるのではない。規則通りに正しく分析を実行すると、いわば副収益として症状が解消されるのである。」というところです。私の分析治療観にぴったりきます。ラカンの『対象関係』や『精神分析の倫理』といったセミネールで批判されていた精神分析家たちなら、おそらく自分たちの技法を使えば積極的に治癒へと導くことができると考えそうですが、私はそれらへ批判したラカンの方に共感を覚えます。

 翻訳については、細かいところを一箇所改訳したいです。

「精神分析は、心に生じる出来事がすべて、基礎となる欲動の諸力の働きに由来することを、大本から解明しなければならない。」(p168)

「精神分析は、心に生じる出来事をすべて、基礎となる欲動の諸力の働きのうえに構築してみせねばならない。」

 ただしここで『aufbauen』という語に『構築する』という訳を当てましたが、岩波版全集の他の箇所ではたぶんこの訳語は『konstruieren』に当てられていると思われますので、注意が必要です。ところで、後者を独和で引くと、『構築する』という訳語そのものは載っておらず、『建造する』の他は、『作図する』『でっち上げる』といった意味みたいです。フロイトが『Konstruktion構築』をテーマにした論文は、岩波版全集では21巻で刊行されるでしょうから、21巻発売までこの辞書的意味を覚えておこうと思います。

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

2008年1月19日 (土)

フロイト全集18より『17世紀のある悪魔神経症』2

 この論文の翻訳について、前回に引き続いて契約書の事実関係にまつわる訂正点です。

「数日後マリアツェルに到着すると、画家は一転して、二通目の血による証文を取り返すことだけを考えることになる。契約期限が切れるのはまだまだ先のこと(一六六九年から一六七七年[期日はあと一年先である])であり、最初の契約書の期限は切れて、二通目の契約書を返してもらうことになる。」

 これはおそらくまったく誤りではないのですが、私には意味が取り難く感じられました。「最初の契約書の期限は切れて」の部分が、この時点より未来のこととして読むことができなかったからです。以下のように微妙に改めたいと思います。

「数日後マリアツェルに到着すると、画家は一転して、二通目の血による証文を取り返すことだけを考えることになる。これの契約期限はまだ迫っていない(一六六九年から一六七七年)。最初の契約書のほうは放置され、そのまま期限が切れてしまうことになる。」

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

2008年1月12日 (土)

フロイト全集18より『17世紀のある悪魔神経症』

 この論文でフロイトは、病歴に関する記憶のねつ造について扱い、さらには暗示が病を引き起こすことがありうるとも述べています。一般に、精神分析中に想起された幼児期記憶は、事実無根のでっちあげであることがあって、とくに被分析者が虐待体験を語る場合には諸外国では訴訟に発展したりといった問題も起こりうるわけですが、こうした事態について、その責をフロイトに帰せられることもあるように思います。しかしこの論文を読めば、そうした非難こそ事実無根であって、フロイトに関する先入見・ねつ造に由来するものだとさえいえそうです。

 翻訳に関しては、次の箇所を問題としたいです。

「ポッテンブルンの司祭の紹介状では、単純かつ明確な事実だけが書き記されていた。ここでは、ハイツマンが九年前に血でしたためた契約書について言及されているだけである。この契約の日付[一六七七年]九月二十四日から、画家が契約書を書き渡したのは[九年前の]一六六八年九月二四日のことになるが、この逆算から確実に導き出される契約の年は、紹介状の中では明記されていない」(p216)

 下線部の「契約の日付」という箇所は不正確で、一読した際にはここの事実関係がすぐに飲み込めません。ここは原文通り、「数日後に迫った約束期限の日付」としておけばさらりと読むことができます。なお、ここはp210に述べられている事実関係をもう一度述べている箇所ですので、そちらも参照すればよりはっきりするでしょう。

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

2008年1月 7日 (月)

フロイト全集17から『女性同性愛の一事例の心的成因について』

 この論文で紹介されている症例は、ラカンがあちこちで引用し、自らの論を説明するための例として使用しています。しかしこの論文そのものの症例記載はかなり簡潔であって、フロイトの論旨にとって必要な概略のみが語られています。なので、この論文からフロイトが述べた以上の帰結を引き出すというのは、かなり無理があるんじゃないだろうかというのが正直な感想です。

 この論文もやはり読みやすく良い訳と思いましたが、次の点を挙げておきます。

「・・・それ以前、彼女のリビードは母性に向けられていたのだが、これ以後、彼女は自分より成熟した女性に恋着する同性愛者になり、以来そのままであり続けている。」(p249)

 「リビードは母性に向けられていた」という部分は、母性を性的志向の対象としていた、という意味に読めてしまいます。ここは原文では「auf Muetterlichkeit eingestellt gewesen sein」ですが、この「auf...eingestellt sein」を辞書で引くと、「・・・に対する(心の)準備ができている」という意味のようです。すなわち上の引用箇所はむしろ以下のように読むべきでしょう。

「・・・それ以前、彼女のリビードは母性という態度をとる準備ができていたのだが、これ以後、彼女は自分より成熟した女性に恋着する同性愛者になり、以来そのままであり続けている。」

 これはすぐ前の段落、「当時彼女は、自らも母になりたい、子供を持ちたいという強い欲望にとらわれていたのだ」という部分と突き合わせてみても整合的に思えます。彼女は、16歳頃に母親が妊娠するまでは、むしろ自ら母になるべき準備状態にあったのでした。

フロイト全集〈17〉1919‐1922―不気味なもの、快原理の彼岸、集団心理学

須藤 訓任 (翻訳), 藤野 寛 (翻訳)

出版社: 岩波書店 (2006/11)

2008年1月 4日 (金)

フロイト全集18から『神経症と精神病』

 これ以外の論文、たとえば『精神分析入門』では、精神病とメランコリーはいずれも自己愛神経症としてまとめられていましたが、この論文では後者のみがナルシス的精神神経症と呼ばれるようになっているところが目を引きます。そして前者は自我と外界の、後者は自我と超自我との葛藤に由来するとされています。この論文で精神病の例としては幻覚性錯乱(ほぼ非定形精神病に相当するでしょう)と統合失調症が挙げられています。

 『ナルシシズム入門』では、パラノイアの注察妄想・追跡妄想において外部から監視する審級が、自我理想に由来するものとして説明されていました。まさかこの『神経症と精神病』を書いた時点でのフロイトが、パラノイアを精神病から除外してナルシス的精神神経症の方に分類しているなんてことはなさそうに思いますけど(パラノイアではこの審級が外部へ投影されますし)、でもこの論文でちょっとパラノイアについても触れてほしかった気がしました。

 この論文での翻訳上の問題として次の一文を挙げておきたいと思います。

「・・・つまり自我は、エスの要求分に対して抑圧を行使する力、抵抗への対抗備給によって確固なものとなる力である。」(p240)

 ここで「抵抗への対抗備給」とあるのは、独語では単に「die Gegenbesetzung des Widerstandes」でして、素直に「抵抗の対抗備給」または「抵抗という対抗備給」と訳すのが正しいでしょう。

 エスの無意識的なものが意識に浮上しようとするのに対して、それを抑えつけようという「抵抗」として役立つのが「対抗備給」です。たとえば『制止・症状・不安』の11章『補足 A(a)』には、まさに『抵抗と対抗備給』と題してこのあたりの事情が説明されている箇所があります。人文書院版フロイト著作集6巻では「対抗備給」ではなく「反対充当」と訳されているあたりを少々改変して下に引用しておきます。

「・・・そこで欲動の持続性のために、自我も消費をつづけて、その防衛行動を確かにせざるをえなくなる。抑圧をまもろうとするこの行動は、われわれが治療につとめるときに抵抗として感ずるものである。抵抗は、私が対抗備給とよんだものをその前提とする。・・・
 われわれが分析にあたって克服せねばならぬ抵抗が、対抗備給を固執する自我から起こっていることを以前に明らかにした。・・・」(人文書院版フロイト著作集6巻p366-7)

 なお対抗備給については、おなじく人文書院版著作集6巻の『無意識について』第4章、『抑圧の局所性と力動性』にも詳しく説明されています。

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

 書店・文具店・雑貨屋に行くと手帳・ダイアリーが山ほど売れ残っていて、売れた数より多いんじゃないかと思うほどですが、あれで商売が成りたつということになると原価はいったいどれほど安いんでしょう。

2007年12月26日 (水)

もっと充足されるのを容認すべき欲動

 前回取り上げた『精神分析への抵抗』のなかに書かれていた、「もう幾分か充足されるのを容認すべき」欲動とはどんなものなのでしょう。(今回の話題については、前回の記事の時点ですでに予定しておりましたが、前回の記事にいただいたコメントの中にこの疑問点に触れておられるものがあり、やはり同じところに目を付けるものだなあ、と感じ入りました。)

 たとえば『文化への不満』には次のようにあります。

「・・・そのさい文化が性に対してとる態度は、他の部族なり階層なりをほしいままに搾取できる立場に立った部族あるいは階層がとる態度と同じだ。抑えつけられたものたちが反乱を起こすのではないかという不安から、厳重な予防措置が講ぜられる。現在のわれわれの西欧文化は、こういう発展の極致だ。西欧文化が幼児の性生活の表出を厳禁することから始まるのは、心理学的にはもっとも至極である。・・・けれども、どう考えても許しがたいのは、文化社会が極端に走って、幼児性欲という、簡単にその存在を証明できるどころか、誰の目にも明らかといっていいこの現象それ自体をも否定してしまったことである。また、性成熟期の個体の対象選択は異性だけに限られたし、性器を使わない満足の大部分は倒錯だとして禁止されてしまった。・・・ただし、性器を使った異性間の愛というこの放逐されていないものも、法律で承認された一夫一婦制のものであるという制約によってさらに限定される。・・・
 もちろんこれは行き過ぎである。・・・」(人文書院フロイト著作集第3巻『文化への不満』p463-4を少々改訳)

 他の部族を抑えつけるという比喩にも類似点がありますし、フロイトがこれらを「もう幾分か充足されるべき」と考えていることは間違いなさそうです。『精神分析への抵抗』に挙げられた「もう幾分か充足されるべき欲動」に対応すると考えて良いでしょう。

フロイト著作集 第3巻 文化・芸術論 (3)

フロイト (著), 高橋 義孝 (翻訳)

出版社: 人文書院 (1969/01)

 ところで、クリスマスシーズンも終わりましたが、私は今年ふと「山下達郎の『クリスマス・イブ』の間奏はいったいどの程度『パッフェルベルのカノン』と同じで、いったいどこがどう違うのか」という疑問が頭によぎり、巷で耳にするたびに注意して聞いていましたが、そう何度も聴く機会もなく、未解決に終わりました。来年の課題です。明日は最後の忘年会で、年末年始はさすがにフロイト全集の話題はお休みしてのんびりしようかと思っています。

2007年12月23日 (日)

フロイト全集18から『精神分析への抵抗』

 精神分析への反対に対する反論としては今なお通用する内容で、非常に興味深く読める論文と思います。

 これをざっと読んで気になったのは、以下の二箇所が互いに矛盾するように思われたところです。

「・・・人間の文化は二つの支柱の上に乗っかっている。ひとつは自然の諸力の支配である。今ひとつは、われわれの欲動の制限である。縛られた奴隷たちは女王の玉座を支えている。そのように馴致されて支えている欲動成分のうちでも、狭い意味での性欲動の諸成分は、強さと粗暴さという点で抜きん出ている。それらが解放されるなど、考えるだにおぞましい。玉座はひっくり返され、女王は足蹴にされることだろう。社会はこのことを心得ており、それが話題となることを望まないのだ。
 とはいえ、なぜそれを語ってはいけないのか。それを論じれば、どんな害があるというのか。精神分析は、公益に反する欲動を解き放てなどとは、これまで一度として口にしたためしはない。逆にむしろ、その危険について警告し、欲動の陶冶を勧告してきた。」(p332-3)

「 ・・・精神分析は、欲動の厳しい抑圧を和らげ、その代わりにもっと誠実であることを提案する。ある種の欲動の蠢きを社会は過度に抑え込んでいるが、これらがもっと充足されるのを容認すべきである。また他の欲動については、抑圧を通して抑え込むという目的に相応しくない方法をやめ、より良い、もっと確実なやり方で置き換えるのがよい。」(p334)

 前者で「精神分析は、公益に反する欲動を解き放てなどとは、これまで一度として口にしたためしはない」と言い、「欲動の陶冶を勧告してきた」と言っているのに、後者では、もっと欲動に譲るべきだと述べているのが、どうにも相容れない気がするのです。そもそも「欲動の陶冶」が可能かどうか疑問ですし、フロイトが使いそうにない表現のように思われます。

 原文にも当たって考えてみたのですが、まず、原文で「公益に反する」は「gemeinschaedlich」です。独和には「公安を害する」とありましたが、これは「gemein」が「共同の、共通の、公共の、一般的な」という意味、「schaedlich」が「有害な」という意味の合成語です。私は「公益」という語から、社会保安的な、体制側の都合を感じてしまったのですが、ここはむしろ単に「公衆に害をおよぼす」といった意味なのでしょう。

 次に、「解き放て」ですが、原語では「Entfesselung」で、前段落の「縛られた奴隷たちgefesselte Sklaven」の「縛り」を解くことにあたりますから、前段落の比喩を引き継いでいると考えられ、この点は訳文でも明示すべきと思います。

 さらに、「その危険について警告し、欲動の陶冶を勧告してきた」の部分で、「その危険について」「欲動の」はいずれも訳者による補足です。よって、「欲動の陶冶」という表現はフロイトの原文になく、単に「Besserung改良」で、何を改良することなのかは書かれていません。上に挙げた二つ目の引用箇所中に、「より良い、もっと確実なやり方で」とありますが、ここに「より良いbesser」という語が用いられていることをヒントにしてよいならば、改良すべきなのは欲動ではなく、むしろ社会のやり方のほうだとかんがえられます。

 これらはいずれも微妙な変更ではありますが、一つ目の引用箇所の第二段落を以下のように変更してみたいと思います。

「とはいえ、なぜそれを語ってはいけないのか。それを論じれば、どんな害があるというのか。精神分析は、公衆に害をおよぼす欲動を縛りから解き放てなどとは、これまで一度として口にしたためしはない。逆にむしろ、警鐘を鳴らし、[方法の]改善を勧告してきた。」

 もうひとつ、二つ目の引用箇所で、「もっと充足されるのを容認すべき」欲動という箇所は、「もっと」というより、「もう幾分か」といった感じに思います。

 訳としてはあまり変わりませんが、このように考えてきて、私自身はだいぶ納得できるようになった気がしますが、いかがでしょうか。

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

2007年12月18日 (火)

フロイト全集18から『神経症および精神病における現実喪失』

 この論文では現実との関係が扱われているのですが、以下の箇所が引っかかりました。

「精神病の場合、現実に対してそれまで結ばれていた関係が心的に沈殿したもの、つまり、想い出-痕跡、表象、判断をもとにして、現実の改変が行われる。これら想い出-痕跡、表象、判断は現実から獲得されたものであり、またこれらが心の生活のなかで現実の代わりとなってきたのである。しかしこうした関係は完結したものではなく、新しい知覚によって絶えず豊かにされ、変化させられる。したがって、精神病にとっても、新しい現実に対応するかのような知覚を手に入れるという課題が立てられ、それはきわめて徹底した仕方で幻覚という道を通って達成される。」(p314)

 3つ目から4つ目の文のあたりの意味が取れず苦しみました。「知覚」と「新しい現実」の関係ってどうなんだろうと思ってしまいます。原文に当たってみると、3つ目の文は過去形です。これを参照して、以下のように直してみました。

「精神病の場合、現実に対してそれまで結ばれていた関係が心的に沈殿したもの、つまり、想い出-痕跡、表象、判断をもとにして、現実の改変が行われる。これら想い出-痕跡、表象、判断は現実から獲得されたものであり、またこれらが心の生活のなかで現実の代わりとなってきたのである。しかし現実に対してそれまで結ばれていた関係は完結したものではなかったし、新しい知覚によって絶えず豊かにされ、変化させられていた。したがって、精神病になってからも、新しい現実に対応するかのような知覚を手に入れるという課題が立てられ、それはきわめて徹底した仕方で幻覚という道を通って達成される。」

 最後の下線の箇所は、岩波版のままで正しいんですけど、少し変えてみました。

 こうしてみるとフロイトの論はきわめて明瞭ですし、 とくに慢性的に幻覚妄想を産出し続ける妄想型統合失調症者について、これ以上うまく説明できる論はないのではないでしょうか。

 世間では、やれ「患者は幻覚妄想に支配されて現実検討能力を失う」とか、逆に、「患者は現実検討能力を失っているため、非現実な幻覚や妄想を信じてしまう」などといわれたりしますが、患者が現実検討能力を失ってなどいないということは、同様の慢性患者同士が会話する際に、互いに相手の話を信じてしまうことなどほとんどないことからも明白だと思いますけどね。

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

2007年12月14日 (金)

フロイト全集18から『マゾヒズムの経済論的問題』(2)

 この論文は全般的にはすらすらと読めるすばらしい訳文なのですが、そのため従来読み流していた箇所につまずいたりします。以下の箇所、特に二つ目の文は、意味を考えてみると分かるようで分からないので、かなり苦労しました。

 「幼少年期の発達の経過をたどるなかで、[子供は]両親から次第に離れていき、超自我のもつ両親の人格としての意義も背後に退いていく。両親から残された像(イマーゴ)に、今度は、教師や権威のあるもの、自ら選んだ模範者、社会で認められた英雄などの影響が結びつき、抵抗力を身に着けた自我は、もはやこれらの人物を取り入れる必要はなくなる。」(p297)

 ここで、「・・・の影響が結びつき、抵抗力を身に着けた自我は」の箇所が、「・・・の影響が結びつくことで抵抗力を身に着けた自我は」という意味に読めてしまうので、私にはなかなか意味が取れませんでした。原文に当たってもなかなか理解できなかったのですが、しばらく考えた結果、ここは「結びつき、」のところでいったん切って考えるべきと気がつきました。

 「幼少年期の発達の経過をたどるなかで、[子供は]両親から次第に離れていき、超自我のもつ両親の人格としての意義も背後に退いていく。両親から残された像(イマーゴ)それぞれに、今度は、教師や権威のあるもの、自ら選んだ模範者、社会で認められた英雄などの影響が結びつくのだが、すでに抵抗力を身に着けた自我は、もはやこれらの人物を取り入れる必要はない。」(p297)

 上記のような、両親に続く理想の系列は、「自我理想」に相当するのでしょうが、それらとの関係について、ここでは「自我は・・・取り入れる必要は無い」とされています。それらは、内的に監視する審級になっていくわけですから、普通の意味で言えば精神の中に「取り入れられる」わけですが、それは「自我」のなかに取り入れられるわけではなく、自我を外から監視しつづけていく、ということなのでしょう。この関係については、『集団心理学と自我分析』8章に挙げられたシェーマが思い出されます。

 なお、上の引用箇所に登場する「Imagines」なる語が、「像(イマーゴ)」と正しく訳されているあたり、さすが人文書院版著作集とは違うな、と感じました。著作集では、訳者がこの語を「Imago」の複数形と認識していないケースが多々みられたからです。

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

2007年12月10日 (月)

フロイト全集18から『「不思議のメモ帳」についての覚え書き』

 この論文の岩波訳もとても良いので、やはり一気に読み通すことができました。

 この論文では、「不思議のメモ帳」という例を用いている点は新しいものの、ここに描かれている意識の作用様式は、『夢判断』の第7章に示された光学モデルで示されていることとさほど違いはないと感じます。もちろんそれは、私が大昔にこの論文を読んで得た知識に基づいて『夢判断』を読んでいるからかもしれませんが。

 ただし、無意識から、意識表面に向けて、備給が周期的に発送されては引き揚げられるという箇所(p322-3)は、私の頭の中に記憶されていませんでしたので、今回読んで実におもしろい考え方と感じました。

 この論文で気になったのは、「神経支配」と訳されている語、「Innervation」についてです。辞書では、「1【解】神経支配(末梢神経の分布)。2【生理】(神経を通じての)刺激伝達」と二つの訳語が載っていますが、ここでは、周期的に備給を発送し引き揚げる作用を指しているのですから、辞書の二番目の意味ではないでしょうか。ただし、「Innervation」という語に「刺激Reiz」という語は含まれていないので、例えば「神経伝達」という訳が適当と思います。まずは以下の箇所です。

 「その際、想定していたのは、備給が神経支配に沿って、周期的に瞬発的な推進力を受けて内部から、十分な浸透性をもつ知覚-意識系へと発送されては、また引き揚げられるということである。」(p322)

 このうち「備給が神経支配に沿って」の箇所は、原文通りではなく、少し訳文がいじられています。しかし直訳で「備給の神経伝達が」とすれば意味は通ります。

 「その際、想定していたのは、備給の神経伝達が、周期的に瞬発的な推進力を受けて内部から、十分な浸透性をもつ知覚-意識系へと発送されては、また引き揚げられるということである。」

もう一箇所あります。

 「このようにして私は、不思議のメモ帳の場合には外部の力によって生ずる接触の中断が、ここでは神経支配の流れの非連続性として生起すると見たのであった。」(p322-3)

 解剖学を少しでも学んだ者にとって、「神経支配」という語は、末梢器官と神経とが繋がる静的構造という意味になります。なので、上記箇所の「神経支配の流れ」という表現そのものに違和感が感じられますし、「非連続性」の意味も、時間的な非連続性という意味には受け取りがたいと思います。ここが例えば「神経伝達の流れの非連続性」であれば意味が取りやすいと思うのです。

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

2007年12月 6日 (木)

フロイト全集18から『マゾヒズムの経済論的問題』

 この論文は、タイトルにある「経済論」なる言葉が、冒頭の一文にしか登場せず、しかもこの語についてなんの説明もなされないという、非常に不親切な論文です。内容的にも、すでに『快原理の彼岸』『自我とエス』を読んで(しかもある程度納得して)くれた読者じゃないとなかなか理解できないでしょう。タイトルにある「経済論的問題」とは、この論文では、興奮量の問題、すなわち快原理や涅槃原理に関わる問題、という意味のようです。なお、先行する二論文の岩波版から続けざまに読んだおかげで、私は今回この論文もこれまでになくすっきりと読むことができました。

 ところで、この論文の翻訳には非常に気になる箇所があります。同じ箇所は人文書院版の著作集でも同様に訳されていて、私としては誤訳であろうと思っていた部分で、しかもかなり印象的な箇所だったこともあり、今回岩波版を読む際にも注目していた箇所でした。今回そこが同じように訳されていて、しかも岩波版の訳者は独文を専門とされている方のようだし、私も自信が無くなってきましたので、原文も含めてここで検討したいと思います。

 「こうしてわれわれは、僅かではあるが興味深い一連の関係を手にした。すなわち、涅槃原理は死の欲動の傾向を表現し、快原理はリビードの要求とその変様を代表し、現実原理は外界の影響を代行する。」(p289) 

 "Wir erhalten so eine kleine, aber interessante Beziehungsreihe: das Nirwanaprinzip drueckt die Tendenz des Todestriebes aus, das Lustprinzip vertritt den Anspruch der Libido und dessen Modifikation, das Realitaetsprinzip, den Einfluss der Aussenwelt."

 以前教わったのですが、独語では、文法的に等価なものを並べる際にはコンマを間に挟むらしいです。その法則をここにあてはめれば、岩波版の訳文のように「den Anspruch der Libidoリビードの要求」と「dessen Modifikationその変様」とが等価なのではなく、コンマで繋がれている「dessen Modifikationその変様」と「das Realitaetsprinzip現実原理」とが文法的に等価だということになります。よ