書籍・雑誌

2009年10月17日 (土)

ヤスパース訳の「でき」

 ヤスパースの『精神病理学原論』(みすず書房)を、運転中の信号待ちの間に少しずつ読んできて、だいぶ読み進んできました。訳文がよくわからないところは、病院にある岩波の『精神病理学総論』(←同じ本を大幅に増補改訂した第5版の訳です)とその原書から対応箇所を探して理解に努めています(いずれはみすず書房『原論』の原書である第1版を手に入れたいと思ってはおりますが)。

 この本には、『でき』という訳語がけっこう出てきます。

「 本当の性格、すなわち欲動と感情のできの体系の質の異常な変異は、人格の性質にとっては構造の変異よりもずっと深い関係がある。異常な構造という点でみるとわれわれに性質の似た性格であるが、質の点でみるとできのちがう人々の間には感情と欲動のできに非常に隔絶した違いのあることがわかる。ある欲動のでき、たとえば性欲倒錯のある時に、全人格はその質が全然別であるとは限らない。けれどもある場合には異常な性的なできがあると、人格が妙に冷たく非性的で、時にはひどく敏感で感情が繊細であるが世界全体を別の照明の下に見ているような同性愛者となり、この場合その性質のできに隔絶した変異がはじまっている」(p299)

 この段落は、一文目は岩波版『総論』で中巻の208頁に、残りの文は下巻の113頁に、分割されてそれぞれ別の文脈に収められています。対応する箇所を原書で調べると、『でき』と訳されているのは、『Anlage』のようです。これは普通は『素質』と訳される語で、みすずの『精神病理学原論』でも、292-3頁では『素質』と訳されています。それがなぜ直後のこの箇所でこんなわかりにくい訳語になっているのか理解に苦しみます。

 上記の段落はけっこうわかりにくいので、下のように(もとの文を生かして)改訳してみます。

「 本来の性格の、すなわち欲動と感情素質との体系の質の、異常な変種(ヴァリエーション)は、人格の本性に対して、気質や意志の構造の変種よりもずっと深い関係にある。ここには、素質の違う人々の間に、他のどんな領域よりも究極的な隔絶が生じる。たとえば性欲倒錯的な欲動の方向性があっても、人格全体にも別の特徴がもたらされるとは限らない。けれども異常な性的な素質、つまり人格が妙に冷たく無性的であるとか、時にはひどく敏感で感情が繊細であるが世界全体を別の照明の下に見ているような同性愛者といった者には、その本性の素質形成には深達的な変動(ヴァリエーション)がはじまっている」

 病識に関する章などはみすずの訳が良いのですが、ここらへんは全くだめなのが惜しいところで、信号を待ちながら頭が混乱してしまいます。

精神病理学原論

カール ヤスパース、西丸 四方 

みすず書房; 限定復刻版 (1971/01)

2009年8月 2日 (日)

『翻訳語成立事情』岩波新書

 先頃、交通機関での移動中に柳父章著『翻訳語成立事情』(岩波新書)を読みました。

 幕末から明治期に翻訳語がいかにつくられ定着していったかを、10の基本語について解説しています。

 ひとつ目は「社会」ですが、「society」の訳語は幕末には非常に狭い範囲の人間関係を示す日本語に翻訳されていたこと、福沢諭吉が幕末には「人間交際」を用いたことなどが書かれており、明治に入ってから(諭吉も)「社会」という語を、「世間」という語が指す集団よりも広いものを指して用いるようになったことが紹介されています。

 私はかねがね、フロイトが「社会sozial」という語を使う場合、身近で顔の見える範囲の人間関係を指していると思ってきたので(父母との関係や、居酒屋に集まる仲間たちにこの語が用いられている)、社会という語が定訳とならなければよかったのにといまさらながら残念に思いました。ゲゼルシャフトと区別できる良い訳語がないことのほうが問題かもしれませんが。

 「恋愛」の項では、江戸までは「色」「恋」しかなく、「love」に対応する語が存在しなかったが、「恋愛」という語とともに、この「高尚な」事柄が新たに出現したのだという。ここらへんを読んで思ったのは、我々はすでに「愛」の崇高化が済んでしまっているせいで、ラカンの宮廷愛論がむしろわかりにくいのかもしれないということです。

 このほか、「美」や「彼、彼女」など、普段精神分析関係の原書を読みながら日常的に接しているいくつかの語について興味深い解説があって、なかなか深く楽しめる本でした。

柳父 章 (著)

2009年6月22日 (月)

フロイト全集4の『夢解釈Ⅰ』4

 『夢解釈』に紹介されている次の夢も、フロイトが付けた説明の意味がいまひとつよくわからないもののひとつです。

彼女の夫が聞く。もうそろそろピアノの調律をやってもらったらどうだろう。彼女は答える。無駄ですわ、なにしろ新しく革を張り替えなくちゃならないんですから。(岩波版244頁)

 これについては、ドイツ語の辞書で「ピアノKlavier」を引いてみて、「①ピアノ ②(話)大きな尻」とあるのをみて、一気にわかりやすくなりました。このブログを読んだ皆さんも実際にフロイト全集を開いてフロイトの説明に触れていただければ納得していただけるかと思います。

フロイト全集〈4〉1900年―夢解釈1

新宮 一成 (翻訳)

岩波書店 (2007/03)

2009年5月24日 (日)

フロイト全集4の『夢解釈Ⅰ』3

 岩波から出た『夢解釈』(『夢判断』)の新訳について扱う3回目です。

 岩波版の訳はわかりやすく、すらすらと読み進められますが、第5章のA、「夢における直近のものと些末なもの」の途中から、私にとっては話が錯綜してきて分かりづらく感じられました。ところが、何箇所か原文に当たって確かめてみたかぎりでは、訳文に誤りがあるとか原文から乖離しているというわけでもないようで、むしろ日本語の特性のせいで、あるいは私の読み方のせいで、理解に時間が掛かっただけであった箇所がいくつかありました。そういった箇所を以下に紹介してみます。

「・・・些末な日中印象と、無意識の中の本来の夢源泉とは、必ずしもあらかじめ何らかの関係があるというわけではない。むしろ、先ほど見てきたように、その関係は夢工作の間に、いわば夢工作の意図を汲んで上手く遷移が行われるように事後的に形成されるのである。そうであれば、些末なものではあっても直近の印象に向かって結びつきの道をつけてゆかなければならぬ何らかの強制的な事情が存在しているに違いない。そして、この目的にとって都合の良い特別な性質を、その些末な印象が備えているはずなのである。もしそうでなかったら、夢思考にとっては、自分の担っている重点を遷移させる先として、同じ表象圏の中の重要ではない構成要素を選ぶほうが容易であっただろう。」(岩波版236頁)

 上記引用箇所で、下線部「もしそうでなかったら」は、直前の文を受けるのではなく、二つ前の文の内容を受けています。実は前の二つの文は原文でひとつながりの文であって、そのうち一つ目の文が主文だからです。さらに、「強制的な事情」という表現は、私には一読して外的な事情のように読めましたが、そうではなくて夢形成が従うべき法則のようなものを指しているようです。ですので以下のように改めてみました。

 「・・・些末な日中印象と、無意識の中の本来の夢源泉とは、必ずしもあらかじめ何らかの関係があるというわけではない。むしろ、先ほど見てきたように、その関係は夢工作の間に、いわば夢工作の意図を汲んで上手く遷移が行われるように事後的に形成されるのである。そうであれば、些末なものではあっても直近の印象に向かって結びつきの道をつけてゆかなければならぬ何らかの強制的な法則が存在していて、そのために都合の良い特別な性質を、その直近の印象が備えているはずなのである。もしそうでなかったら、夢思考にとっては、自分の担っている重点を遷移させる先として、同じ表象圏の中の重要ではない構成要素を選ぶほうが容易であっただろう。」(私案)

 次も同じような例です。

「夢源泉になりうるのは、
a 直近の心的に重要なある一つの体験。これが夢の中で直接的に代理される場合。
b 直近の重要ないくつかの体験。これらが夢によって一つの統一体にまとめられる場合。
c 一つないしそれ以上の直近の重要な体験。夢内容においては、些末な同時的体験への言及によってそれらが代理される場合。
d 内的かつ重要なある一つの体験(想起、思考系統)。それが夢の中では、直近の些末な印象への言及によって、いつも決まって代理されてしまう場合。
 お分かりのように、いずれの場合にも、夢解釈のためのある一つの条件が確保されている。それは、夢内容の一つの構成要素が、前日の直近の印象を反復しているということである。夢の中で何かを代理すべく定められたこの部分は、本来の夢の惹き起こし手の表象圏に属する ―その本質的な部分なのか軽微な部分なのかはともかくとして― か、または、何らかの些末な印象の領域から出ている。些末な印象は、多少の差はあれ豊富な結び付きを通して本来の夢の惹き起こし手の圏域に関係付けられている。こうした条件は、一見すると多様であるようだが、その多様性は遷移が起こらずに済んだか起こってしまったかということの選択肢によって現れてきたものに過ぎない。」(岩波版238頁)

 下線の「こうした条件」とは、直前の文を指すのではなく、その一つ前の文、「夢の中で何かを代理すべく定められたこの部分は、本来の夢の惹き起こし手の表象圏に属する(・・・)か、または、何らかの些末な印象の領域から出ている」を指しています。やはり直前の二つの文は原文では一つの文です。

 引用箇所の冒頭の分類abcdが、本文で示されたどの分析に相当するのか示しておきましょう。aは、218頁から221頁までの六例。bは、236頁から237頁にまたがる段落。cは、230頁から236頁(この「植物学研究書の夢」は、aとbの例でもあります)。dの「想起」には、例えば228頁の「かなり古い幼年期からの想起」が該当するでしょうし、「思考系統」とあるのは229頁の「夢から出てきた思考は次のようなものだった。妻と私の道楽のこと、コカインのこと、同僚同士で治療を受ける気まずさ、研究所で勉強することへの偏愛、植物学など一定の学問分野をおろそかにしてきたこと、これらのいずれから出発するにせよ、それらの思路は・・・」の箇所で「思考」「思路」と訳されているのと同じGedankengangという語ですので、対応関係にあると考えて良いでしょう。

フロイト全集〈4〉1900年―夢解釈1

新宮 一成 (翻訳)

岩波書店 (2007/03)

2009年5月 7日 (木)

カリガリス著『妄想はなぜ必要か』

 だいぶ前に購入した本ですが、職場で話題になっていたので読み始めてみました。

 これはなかなかおもしろいです。おおざっぱに言えば、排除されていた父のシニフィアンが現実界に回帰すると、患者はこれに対して妄想的隠喩の構築で対応する、ということなんですが、これについていろいろな側面から説明してくれているわけです。(なお、私の語感では、父の機能が現実界に出現することこそ妄想的隠喩という呼び名にふさわしく、それを中心にして妄想を構築する作業は換喩的な作業のように思ったのですが、説明されている事態そのものには納得しています。ラカン本人の用語法をどこかで確認できないでしょうか。)

 冒頭には、状況によって「何にでもなってしまう」ような行動様式を示す患者が紹介され、これを精神病の発症前の特徴であるとしていますが、この人物の描写もおもしろく、興味深く読み始めることができます。

 私は精神病発症前の人物に出会ったことはありませんから、発症後に聞いた病前の様子から類推したり、患者とそっくりな人柄をもつ家族の特徴などから類推するよりほかないのですが、私の経験では、精神病に罹患する人物にはむしろ、学歴や地位などの世俗的な価値に強くこだわる人もかなり多いように思います。そうしたありかたについて著者はどう考えているのか、すこし説明して欲しい気がします。

 翻訳についてですが、おおむね読みやすくはあるものの、ところどころ意味の取りにくいところについて原書と見比べると間違いが散見されますし、それ以上に、文や段落が丸ごと抜けている箇所が信じられないほど多いです。たいへんおもしろい本なので全く残念です。また訳語についても、「etat crepusculaire」の定訳は「もうろう状態」ですが、この本ではなぜか「世界没落体験(状態)」とされていたり、「filiation」が「系譜」とされていたり(この語は、日本語の「系譜」よりもずっと生身の血縁関係のニュアンスが強い気がします)といった点が気になります。

 とはいえ、妄想は患者にとって必要であるという私好みの考え方を、そのタイトルに戴いたこの本は、周囲にも薦めたい本であることに変わりありません。

 ところで、「妄想はなぜ必要か」というときの「妄想」とは、個々の妄想観念を指すと言うより、患者と父性機能との関係が、いくつもの妄想観念を発生させながら広範に改編される事態をさしているように思われます。「妄想」という語は、普通は「誤った強い信念」という意味に使うことが多いのですが、より広い意味を持った概念だということも改めて思い出されました。

コンタルド カリガリス (著), 小出 浩之 (翻訳), 西尾 彰泰 (翻訳)

岩波書店 (2008/03)

 この本の原書はありがたいことに前の院長が退職に際して病院に寄贈した蔵書にありましたので、買わずにすぐ手にできました。私はこのブログで何回か前に、蔵書を寄付する人の気がしれないと書きましたが、少なくとも後輩の役に立つことは確かです。

2009年4月11日 (土)

フロイト全集4の『夢解釈Ⅰ』2

 次の箇所は、翻訳には特に問題ないにもかかわらず、なかなか腑に落ちなかった箇所です。

 一見しただけでは欲望成就理論にとっての特別な困難となるだろうと思えるような夢を、ある医師(アウグスト・シュテルケ)が見て、それを解釈している。

 「左の人差し指の先端の指節に、梅毒の初期硬結[プリメール・アフェクト]ができていて、自分はそれを見ている。」

 この夢は、夢を見た人にとっては望ましくない内容だけれども、それ自体では明白でまとまっていると思われるから、別に分析する必要を感じさせないかもしれない。しかしながら、分析の労を厭わなければ、「初期硬結」は「≪初恋[プリマ・アフェクティオ]≫」と等置できるし、嫌な潰瘍は、シュテルケの言葉に従えば、「多大な情動[アフェクト]を帯びた欲望成就の代理」であることが判明する。(岩波版211-2頁)

 上記の説明だけでは、そこに「初恋」や「欲望成就」を代入したときに夢全体がどう解釈されるかわからないのです。普段なら、フロイトが夢や機知を説明するとき、その説明はいわば種明かしとなっていて、読者であるわれわれには、謎が解けて腑に落ちたという感覚を与えてくれるのですが、ここはなぜこのような中途半端な説明で終わっているのでしょうか。

 その理由のひとつとして、この夢の出典であるシュテルケの論文が文献として示されていることがあるのかもしれません。つまり、この論文にあたればすぐわかることなのでしょう。しかしさしあたり私にはこれを入手する術がない以上、なんとかフロイトの説明のみを手がかりに考えてみなければなりません。

 この夢は、1911年の論文からの引用ですから、『夢解釈』が刊行されたあと、フロイト自身によって加筆・挿入されているもののようです。他ならぬここに挿入されている以上、前後の文脈には、この夢の解釈のヒントが隠されているはずです。この前後には、一見すると欲望成就に見えない夢が集められているのですが、210頁に、別の夢に関して以下のような記載があります。

 結婚してほしいというこの娘の望みはあまりに活発だったので、結婚後に心配される辛さをも、彼女は甘んじて引き受け、さらにそれを自分の欲望にまで高めてしまったのである。(岩波版210頁)

 これを参考にすると、シュテルケの夢は、「[少年期における]初恋へのシュテルケの望みはあまりに活発だったので、その後に心配される[梅毒感染の]辛さをも、シュテルケは甘んじて引き受け、さらにそれを自分の欲望にまで高めてしまったのである」ということになります。私個人としては、こう解釈すれば、シュテルケの夢がだいぶ腑に落ちるように思います。

 さらに、シュテルケの夢の挿入箇所の直前には、フロイトの夢理論を知っている患者が見た夢を例に挙げて、「フロイトの夢理論が間違っていてくれればよいが」という欲望に触れられています。よって、シュテルケの夢の形成にはこの欲望も一役買っていると考えてよいのかもしれません。というのは、「多大な情動[アフェクト]を帯びた欲望成就の代理」の箇所で「欲望成就」はなぜか複数形ですので、初恋の成就のみを指しているとは考えがたく、むしろ欲望成就一般を指しているように思えるのです。シュテルケが夢理論一般に対して抱いたネガティブな考えが、初恋にまつわる夢思想に折り重なって夢を形成していると思われます。

 このように考えてきましたが、もしもシュテルケの原論文ではまったく異なる説明がなされていたりしたら、私としては恥ずかしい限りです。

 なお、「潰瘍」と訳されている語は、私の辞書では「膿瘍」としか載っていませんけど、辞書によって違うのかもしれません。

フロイト全集〈4〉1900年―夢解釈1

新宮 一成 (翻訳)

岩波書店 (2007/03)

 ≪初恋≫といえば、水曜日の夜にテレビをつけたらNHKで久々に渡邊あゆみアナウンサーの美しいお姿を拝見できました。私が中学生の頃から、いつ見ても本当にお綺麗な方です。フリートークでおっしゃる冗談がちょっとキツめなのもまた魅力なんですよね。いずれはラジオ「古典講読」で古文を朗読するお声も拝聴してみたい。

2009年4月 1日 (水)

フロイト全集4の『夢解釈Ⅰ』1

 これまでタイトルが『夢判断』と訳されることの多かったこの論文の岩波版新訳を読みました。新訳はさすがにわかりやすく、従来の訳ではやたら冗長でつまらない印象があった第1章『夢問題の学問的文献』も興味深く読むことができます。

 これまで『願望充足』と訳されてきた語が、『欲望成就』とされているなど、見慣れない訳語はいくつかありますが、頭の中で置き換えながら読めば良いだけのことですので、大きな問題にはなりません。ただ、「Erinnerung」が常に「想起」とされている点(従来は「記憶」とされてきた)や、「Gedanken」が「思考」とされている点(従来は「思想」とされてきた)が気になります。それらが未だ無意識に貯蔵されている状態を論じる場合には、たとえば「記憶痕跡」とか「夢の潜在思想」という言い方がしっくりくるように感じるからです。しかしこれらも訳語の統一を優先すればやむを得ないのかもしれませんし、「想起」「思考」といった訳語は、無意識を認めない現象学者には好まれそうな気もします。

 翻訳について以下の箇所を指摘しておきます。

 そこでわれわれは、夢の形態の起草者として、個々人の中に二つの心的な力(流れ、系)があると仮定してみよう。その一方は、夢によって表現にもたらされる欲望を形成し、もう一方は、この夢欲望に対して検閲を加え、検閲によってその表現に歪曲を押しつける。ただ、検閲を行使することを可能にする第二の審級の権能が、どこに存しているのかは疑問である。潜在的な夢思考は分析以前には意識されていないが、その潜在思考から出てくる顕在的夢内容の方は意識されたものとして想起されるということを想い出してみれば、第二の審級の特権は、意識への入場許可にあると仮定してみるのは的はずれではなかろう。前もって第二の審級を通過していなかったものは、第一の系から出て意識に到達することはできないのではないか。また、第二の審級は、自分の権利を行使してからでなければ、つまり、意識に入りたがっているものに自分に都合の良い変更を施してからでなければ、何も通過させないのではないか。(岩波版191頁)

 下線部は、第二の系の方を先に通過するかのように読めてしまいそうなので、以下のように私なりの変更を提案します。

第一の系から出たもののうち、前もって第二の審級を通過しなかったものは、意識に到達することはできないのではないか。

 もとの訳文も同じことが言いたかったのかもしれませんが。

フロイト全集〈4〉1900年―夢解釈1

新宮 一成 (翻訳)

岩波書店 (2007/03)

2009年3月 8日 (日)

フロイト全集17から『集団心理学と自我分析』4

 この論文で気になる箇所も今回の二つでひとまず終わりです。

 催眠術師が要求し主張することを自我が夢の中でのように体験しているという事態は、われわれに次のことを思い出させる。すなわち、われわれは言及することを怠ったのだが、自我理想の働きの中には現実吟味の実行も含まれる、ということである。だから、ふだんなら現実吟味という課題を任されているはずの心的審級が現実に肩入れしてしまうような場合には、自我がある知覚内容を現実だと見なすとしても、何ら驚くには当たらない。(岩波版185頁)

 最後の一文の内容の言わんとするところがよくわかりません。原文に当たってみますと、どうも以下のような意味のようです。

 催眠術師が要求し主張することを自我が夢の中でのように体験しているという事態は、われわれに次のことを思い出させる。すなわち、われわれは言及することを怠ったのだが、自我理想の働きの中には現実吟味の実行も含まれる、ということである。だから、自我がある知覚内容を現実だと見なすとしても、ふだん現実吟味という課題を任されている心的審級がこの[知覚された]現実に肩入れしている場合ならば、何ら驚くには当たらない。(私案)

 つまり原文では下線部の「この現実」は、「知覚内容を現実だと見なす・・・」よりも後ろにきているので、いわゆる客観的現実を指しているわけではなさそうなのです。

 最後の指摘箇所です。これもまず私案を掲げます。

 しかし、性愛が自我にとって重要になればなるほど、それがより多くの恋着を育むことになればなるほど、それだけ一層強烈に、性愛は二人の人間に制限されるほど -一夫一婦- 求めるようになった。それは、性器という目標の自然本性によってあらかじめ定められていることだ。(岩波版219頁)

 しかし、性愛が自我にとって重要になればなるほど、それがより多くの恋着を育むことになればなるほど、それだけ一層強烈に、性愛は二人の人間に制限されるほど -一夫一婦- 求めるようになった。それは、性器的目標の自然本性によってあらかじめ定められていることだ。(私案)

 性器的目標というと男女の性器の合体を指すのが普通と思います。「性器という目標」ではちょっとわかりにくいと思います。

フロイト全集〈17〉1919‐1922―不気味なもの、快原理の彼岸、集団心理学

須藤 訓任 (翻訳), 藤野 寛 (翻訳)

出版社: 岩波書店 (2006/11)

2009年3月 1日 (日)

フロイト全集17から『集団心理学と自我分析』3

 集団心理の論文の翻訳については、やりかけのまま10月からずっと放ってあったのですが続きを取り上げます。

 対象のそのような取り込みについて、もう一つ別の例をわれわれに示しているのが、メランコリーの分析である。この情感は、愛する対象を実際に、あるいは情動の上で失うことをもっとも顕著なきっかけの一つとする。(岩波版178頁)

 下線部『情感』ですが、原文で『Affektion』です。文脈からしても『病気』『疾患』が正しいと思われます。まあ、訳者はあえてメランコリーは病気ではないと考えたのかもしれませんが。

 次。

 一連の様々な事例からすると、恋着とは、性欲動が直接の性的充足を目的として対象備給することに他ならず、この目的が達成されれば消え失せる。これは、ありふれた感性的な愛と呼ばれているものである。(岩波版180頁)

 このあとも『感性的』という訳語はたくさん出てきますが、『sinnlich』には『感性的』ともうひとつ『官能的』という意味があって、この論文では『官能的』という意味に用いられていると思います。

フロイト全集〈17〉1919‐1922―不気味なもの、快原理の彼岸、集団心理学

須藤 訓任 (翻訳), 藤野 寛 (翻訳)

出版社: 岩波書店 (2006/11)

 映画『おくりびと』が話題になっていて、ニュースなどでは死生観を扱ってどうこうと言われていますけど、私にとっては、主人公が納棺師という職業を周囲から反対されていた様子が、私も精神科医になることを周囲から反対された体験と重なって、むしろ職業選択についての映画という印象が強いです。私の実家も東北なのでかなり感情移入して観ることができ、心を込め誇りを持って仕事をしなければならないと改めて思わせてくれた映画でした。

2008年10月11日 (土)

フロイト全集17から『集団心理学と自我分析』2

 この論文の岩波版邦訳を扱う2回目です。

 ひとつめは、マクドゥーガルの論が紹介されている部分からです。

こういう共通点(《精神的同質性》)が強ければ強いほど、それだけ一層容易にその個々人から心理的な集団が形成され、それだけ一層人目を引く仕方で、「集団の心」が告知され発現してくることになる。(岩波版148頁)

 「告知され」がよくわからないので原文に当たってみると、「auessern sich die Kundgebungen einer Massenseele」とあります。「Kundgebung」はかなり訳しづらいですが、下線部はむしろ『「集団の心」の表明が表出される』ぐらいでしょうか。

 次の箇所に移ります。

・・・こうして、われわれの関心は、いまや、集団内部の個人のこの心の変化に心理学的な説明を見つけるという課題に向かうことになる。
 例えば、先にも言及された個人の萎縮という合理的な契機、つまり、自己保存欲動に基づく行動によっては、考察されるべき現象全体を押さえることはとてもできそうにない。(岩波版152頁)

 この訳文では「個人の萎縮」が「自己保存欲動に基づく行動」だということになるのですが、その意味がやはりよくわかりません。後者は原文でdie Aktion seines Selbsterhaltungstriebesなのですが、直訳すれば「自己保存欲動の行動」となるはずです。ここをどう読めばいいのか、参考とするために自己保存について述べられている箇所を探してみましたが、ル・ボンの考え方を紹介した以下の箇所がおそらく参考になると思います。

集団が従う衝動は、状況次第で高貴にも残虐にも、英雄的にも臆病にもなりうる。いずれにしても、その衝動はまったく有無を言わさぬもので、個人的な利害関心、自己保存への関心すら働かなくほどだ。(岩波版138頁)

 ここを参考にすると、集団化すれば個人的な利害関心も、自己保存への関心も働かなくなるということでいいようです。だとすると、152頁の下線部は、「自己保存欲動の[萎縮という]挙動」ぐらいに解すのがよいのではないかと思います。

フロイト全集〈17〉1919‐1922―不気味なもの、快原理の彼岸、集団心理学

須藤 訓任 (翻訳), 藤野 寛 (翻訳)

出版社: 岩波書店 (2006/11)

2008年10月 6日 (月)

フロイト全集17から『集団心理学と自我分析』

 この論文もかつての著作集に比べると格段に読みやすく、かつ統一性の取れた訳文となっています。それでも、翻訳について気づいた点がなくはないので、いくつか選んで挙げていきましょう。

 ・・・[夢を物語る際の]懐疑や確信の無さは検閲の影響に由来する、とわれわれは考える。夢の工作は検閲に服しているのだ。そして、一次的な夢思考は、批判的機能としての懐疑や確信の無さなど知らないと想定する。それはもちろん、他のもの一切と同じく、夢へとつながる日中残渣の中に内容として現れてくるかもしれない。(岩波版139頁注6)

 下線部「それ」が何を指すかわからず、原文に当たってみたところ、ここには複数形の代名詞が用いられています。よってこれは「懐疑や確信の無さ」を指すようです。訳としては単に「それら」に置き換えるだけで、文脈から何を指すかわかると思います。

 なおこの最後の一文は、倒置文で「Als Inhalte moegen sie natuerlich...」とされています。「moegen」のニュアンスも汲めば、この一文は、注全体の内容に対して、「そうではない事態もあってもいいですよ」と付加しているだけのようです。「それらはもちろん、内容として、他のもの一切と同じく、夢へとつながる日中残渣の中に存在することもありうるのだが。」みたいな感じでしょうか。

 次は、すぐ後ろの注からです。

 あらゆる感情の蠢きが昂じると、極端に、過度に走るものだが、それと同じ事態が、子供の情動の性格にも含まれており、また夢の生活にも再び見出される。・・・(岩波版141頁注7)

 これは注の冒頭部分なのですが、原文「Die naemliche Steigerung aller Gefuehlsregungen zum Extremen und Masslosen...」の「naemlich同じ」とは、「本文に書かれている事態と同じ」という意味だと思うので、以下のように変更します。

 [集団の場合と]同じくあらゆる感情の蠢きが昂じて、極端に、過度に走るという事態が、子供の情動の性格にも含まれており、また夢の生活にも再び見出される。・・・(拙案)

 さらに、この後の注(143頁注8)の最後の一文は、1923年に追加されたもののようですが、岩波版はその旨を記載し忘れています。

 全体に素晴らしいこの論文の翻訳のなかで、原注に3つ続いて問題があったというのがちょっとおもしろいところです。

フロイト全集〈17〉1919‐1922―不気味なもの、快原理の彼岸、集団心理学

須藤 訓任 (翻訳), 藤野 寛 (翻訳)

出版社: 岩波書店 (2006/11)

 この本の出版から2年近く経つんですねえ。買っても読まない本が年々多くなるなか、こうしたブログでもやらないとフロイト全集もつんどくだけになりそうですが、おかげさまで何とか踏ん張って読み進めています。

2008年9月29日 (月)

フロイト全集8から『機知』14

 この長い論文を取り上げてきましたが、いよいよ今回で論文の最後まで到達しそうです。

 まずはじめは、訳文だけを読んでつながりがわかりにくかった二つの箇所です。

・・・ならず者の無頓着な態度が、彼にかえって心的作業の多大な消費を要するものだったことに気づくと、われわれにもこの態度がいわば伝染してくるのである。(岩波版277頁)

 「気づくと・・・伝染してくる」というふうに、前提と帰結のように訳されていますけど、どうしてそのような帰結を生じるのか、理由がわからないと思い、原文に当たってみました。これは原文では「Die Gleichgueltigkeit des Spitzbuben, von der wir aber merken, dass sie ihn einen grossen Aufwand von psychischer Arbeit gekostet hat, steckt uns gleichsam an.」とあり、「気づくと」と訳されるようなニュアンスはなく、単なる関係詞節による付加説明です。その点だけを修正すれば、「ならず者の無頓着な態度は -我々はそれが彼にかえって心的作業の多大な消費を要するものだったことに気づいている- われわれにもいわば伝染してくるのである。」ぐらいになるでしょうか。

 ふたつ目です。

・・・抑圧とは異なり、フモールは、苦の情動と結びついた表象内容を意識的注意から遠ざけたりはしない。これによってフモールは防衛の自動作用を克服する。(岩波版282頁)

 下線部「遠ざけたりはしない」を、「遠ざけることを拒む」にします。こうした方が、直後の「これ」とは「拒むこと」であることが明瞭になると思うからです。ただしここは、一度そのように理解してしまえば、もとの岩波版の訳も同じ意味に読めますので、あえて訳し変えるまでもなかったかもしれません。

 次は訳者による補足についてです。

・・・一方の解釈方法は、機知に含まれている暗示を手がかりに、無意識を貫く想念の道を追求する。他方の解釈方法は、[機知の]表層にとどまり、前意識から意識化された他の通常の文言と同じように機知を表象する。(岩波版284頁)

 下線部はフロイトの原文には対応しない補足なんですが、ここにあえて補足を入れるとすれば「[心的装置の]」とすべきではないでしょうか。

 ここらへんの箇所で気づいた訳語の問題をいくつか最後に挙げましょう。

 岩波版262頁、285頁に「高揚感」とあるのは「Euphorie」の訳ですが、282頁に「大人の自我の高揚」とあるところの「高揚」は「Erhebung」の訳です。前者はふつう医学では「多幸感」と訳されていますし、後者と区別するためにも訳語「多幸感」がよいでしょう。

 岩波版272頁「たとえ許容された衝動であるとしても」の「衝動」の原語は「Regung」でして、他の箇所では「蠢き」と訳されています。

 「einstellen」「Einstellung」の訳がまったく統一されていないのも残念です。ざっと拾い出すだけでも、「集中させること」(岩波版235頁)、「備え」(同263頁)、「まっすぐ向けられている」(同263頁)、「照準を合わせて」(同270頁)、「態度」(同264頁)。

 「Disposition」も「性向」(同262頁)、「気質」(同264頁)と訳が変わっています。

 この論文についてはいろいろコメントをつけてきましたけれども、私が取り上げてきたような箇所が浮かび上がってくるのは、他の箇所についてかなり統一性を保った適切な訳がなされているからでして、この論文の翻訳が全体として良いものであるという私の感想は揺らぎません。

フロイト全集 (8)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2008/03) 

2008年9月24日 (水)

フロイト全集8から『機知』13

 この論文の岩波版邦訳への疑問を取り上げるシリーズの続きです。今回は長い部分なのでこの一箇所だけを扱いたいと思います。

・・・だが、滑稽の障害となる条件のなかでも最大のものは情動の発生であり、情動の発生のその意味ではそれを見誤る人はいない。それゆえ、滑稽感は、感情や関心がそれほど強く関与しないいくらか無関心な状況で最も現れやすいといわれるのである。ところが、ひときわ激しい心的消費の差分から放散の自動作用が惹き起こされるのは、ほかでもなく情動が迸出される場合なのである。ブトラー連隊長が、オクタヴィオの警告に「苦々しく笑いながら」、

「何がオーストリア王家からの感謝の気持ちだ」

と怒鳴って答えるとき、彼の苦々しい恨みの念は、彼がかつて味わったと思っている失望を想起してこみ上げてくる笑いを阻むものではない。また他方で、詩人がこの失望の大きさを描き出すのに、奔放な情動の嵐のただ中でも無理につくり笑いすることができると示す以上に、印象に残る描写はないだろう。(岩波版264-5頁)

 はじめの下線部で、「それを見誤る」の「それ」が何を指すのかわかりにくいんで、ここは原文「Die Affektentwicklung...wird in dieser Bedeutung von keiner Seite verkannt.」の訳として、「情動の発生のこの意味は、どこから見ても明白である」を提案したいです。

 ふたつ目の下線部もわかりにくいのですが、それは原文の「Doch kann man...sehen」というニュアンスが抜けてしまっているからなので、「情動が迸出される場合にはまさに、ひときわ激しい心的消費の差分から放散の自動作用が惹き起こされるさまを見ることができる。」 と変更しておきます。

 みっつ目ですが、「失望Enttaeuschungを想起してこみ上げてくる笑い」というのは私にとっては変な感じなんで、「失望」のところを「幻滅」としたいのと、原文の時制が現在完了であることを考慮して以下のようにします。「彼の苦々しい恨みの念は、彼がかつて味わったと思っている幻滅の想起に対応した笑いを、阻まなかったのである」。ここで「苦々しい恨みの念」と訳されているのは「Erbitterung」ですが、なぜ辞書的意味を離れてそのように訳されているのか一瞬不審に思いましたけど、数行前の「苦々しく笑いながらbitter lachend」の「bitter」と対応させているようですね。

 これらを踏まえて次のように提案します。

・・・だが、滑稽の障害となる条件のなかでも最大のものは情動の発生であり、情動の発生のこの意味は、どこから見ても明白である。それゆえ、滑稽感は、感情や関心がそれほど強く関与しないいくらか無関心な状況で最も現れやすいといわれるのである。ところが、情動が迸出される場合にはまさに、ひときわ激しい心的消費の差分から放散の自動作用が惹き起こされるさまを見ることができる。。ブトラー連隊長が、オクタヴィオの警告に「苦々しく笑いながらbitter lachend」、

「何がオーストリア王家からの感謝の気持ちだ」

と怒鳴って答えるとき、彼の苦々しさErbitterungは、彼がかつて味わったと思っている幻滅の想起に対応した笑いを、阻まなかったのである。また他方で、詩人がこの幻滅の大きさを描き出すのに、奔放な情動の嵐のただ中でも無理につくり笑いすることができると示す以上に、印象に残る描写はないだろう。(私案)

フロイト全集 (8)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2008/03) 

2008年9月17日 (水)

フロイト全集8から『機知』12

 この論文の岩波版翻訳の訂正を続けていますが、今回は訳語の訂正など、些細な点ばかりで恐縮です。

夢は幻覚という退行的な回り道をとって、欲求を充たそうとし、夜間に唯一蠢いている欲求 -眠りの欲求- のおかげで容認される。(岩波版212頁)

 下線部の「充たそう」は「erfuellen」です。この論文をはじめ岩波版全集で「Wunscherfuellung」はいつも「欲望成就」(従来の人文書院や新潮文庫の『夢判断』では『願望充足』)と訳されているので、訳語を揃えて下線部を「成就しようとし」に改めたいです。

 ふたつめ。

三歳半の女の子が自分の弟を戒める。「こんなものあまり食べちゃいけないのよ。でないと、病気になっちゃうわよ。男薬[ブービツィン]を呑まなくちゃいけないんだから」。「男薬ですって。いったい何のことよ」と母親が訊ねる。するとその子は釈明する。「だって、あたしも病気になったら女薬[メディツィン]呑まなくちゃいけなかったでしょ」。この子の意見によれば、医師の処方する薬剤が薬[メディツィン]と呼ばれるのは、女の子[メディ]向けだからこそなので、そこから推論して、男の子[ブービ]が服用する薬であれば男薬[ブービツィン]と呼ばれるだろうというわけである。こうした論理は、音あわせでつくられる語機知と同じような発想でなされている。実際、本当に機知として語られていた可能性さえあり、その場合には、われわれはなかば不本意ながらも、この逸話に微笑みを禁じ得なかっただろう。(岩波版216頁)

 下線部の原文は「ein Laecheln geschenkt haetten」なので、「過去分詞+haben」で完了時称を表しているはずなんですけど、これが「禁じ得なかった」と訳されているところから推測するに、「zu不定詞句+haben」(・・・しなければならない)と見誤られたのではないでしょうか。下線部を、「この機知に、お義理で微笑んであげたことだろう」としておきます。

 最後に単なる訳語の問題をふたつ。

ほとんど観察するまでもなくすぐに観察できることは、崇高なものについて語る場合、私は、私の声に通常とは異なる神経刺激を行きわたらせ、通常とは異なった表情を浮かべ、前進の姿勢をいわば私が表象しているものの威厳に一致させようとするということである。(岩波版237-8頁)

下線部は、他の箇所では「神経支配」と訳されている語であるにも関わらず、ここでのみ「神経刺激」となっています。「神経支配」に統一すべきでしょう。私見では、ここをはじめとする全ての箇所で「神経配備」と訳した方が意味の通りがいいと考えておりますけれども。

[相手の家に飾られた豪華な品々がもしかしたら裕福な家と見せかけるために借りてこられたものではないか、という男の]抗弁に言い返そうとして、「まさかそんなこと。いったい誰がこんな一家に何か貸したりするものですか」と大声を張り上げてしまうことで、結局、結婚仲介人が真実を認めることになるという小噺は、正体の暴露の滑稽な事例ではあるが、あくまでそれは機知にとっての外見にすぎないのである。とはいえ、この事例では機知の特性ははるかに歴然としている。というのも、仲介人の発言は、同時に逆説による呈示にもなっているからである。(岩波版241頁)

 下線部は、例えば85頁など多くの箇所で「反対物による呈示」と訳されている表現ですし、意味からいってもこの「反対物による呈示」が適当と思います。

フロイト全集 (8)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2008/03) 

2008年9月 8日 (月)

フロイト全集8から『機知』11

 この論文の翻訳について気になる点の続きです。

 第三に、これはもう機知過程の条件というより促進要因であるが、放散に至る量の増大をむねとし、かくして機知の効果を高める技法上の補助手段をあげる。こういった補助手段がたいてい機知に向けられた注意をも高めるのは確かだが、同時に注意をつなぎ止め、その活発さを制止することで、注意の影響を再び中和する。(岩波版184頁)

 「活発さ」と訳されているのは、「Beweglichkeit」ですが、これは辞書的意味からして「可動性」です。直前に、「注意をつなぎ止める」、と述べていますから、こちらの意味の方がつながりもわかりやすいでしょう。次に岩波版の「中和する」は、原文で「unschaedlich machen」でして、辞書によれば「(害を及ぼさないよう)封じ込める」です。ここらへんは、注意を一箇所から動かなくすることを一貫して述べていることになります。「中和」されるわけではありません。

 つぎは二箇所並べて考えてみます。

これに対して、私が示したのは、それほど奇妙で異質な「顕在的」夢内容であっても、つねに、ある正確な心的形象化を切り刻み、改訂した結果できた書き換えとして理解できるということであった。その心的形象化は、「潜在的夢思考」と呼ぶのがふさわしい。(岩波版189頁)

・・・それを私は夢工作の「退行」と名づけた。それは思想から知覚像への道程であり、まだ未知の -解剖学的に理解されるべきでない- 心の装置の局所論に関係づけて語ろうとするならば、思考形成の部位から感覚的知覚の部位への道程である。この道程は、心の複雑化という発達方向に反しているが、それを歩むことで夢思考は具象性を獲得し、最終的には、顕在的な「夢の像」の確信として、ある可塑的な状況が現出する。そのような感覚的な呈示可能性を達成するまでには、夢思考は、その表現の決定的な形態変容をこうむらざるをえないのである。(岩波版192頁)

 ひとつ目の引用箇所(189頁)で「心的形象化」と訳されているのは「psychische Bildungen」、ふたつ目の引用箇所(192頁)で「思考形成」と訳されているのは「Denkbildungen」ですけれども、これらの「Bildungen」は、いずれの箇所でも複数形ですし、「形成物」という訳で統一したほうがよいと思います。つまり前者は「心的形成物」、後者は「思考形成物」としておきます。

 ふたつ目の引用箇所では、次に「可塑的な」とありますけれど、原語「plastisch」を辞書で引くと、「具体的な」「具象的な」「ありありとした」といった意味が真っ先に出てきますし、意味的にもこの文脈には適切と思います。さらに、次の「呈示可能性」は原語で単に「Darstellung」でして、「可能性」に当たる語はありません。先の「可塑性」に引っ張られた訳かもしれません。

フロイト全集 (8)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2008/03) 

2008年9月 2日 (火)

フロイト全集8から『機知』10

 前回の記事を書いた後、もうすこし前から見直そうと思い、少し戻って読んでみました。そうすると、私の理解があやしい箇所がありましたので紹介させていただきます。

言葉を使って遊ぶことは、右にあげた認識などの諸要因のために明らかな快をもたらし、したがって抑え込まれるとしてもわずかな程度にすぎない。(岩波版166頁注)

 これは原注の途中にある一文ですので、「右にあげた認識」っていうのは原注の冒頭かせいぜい直前の本文内を踏まえた表現かと思って該当箇所を探したんですが、なかなかわかりません。原文では「der oben aufgezaehlten Momente des Erkennens usw.」です。横書きの原文で「oben上に」とされているので、縦書きの訳文で「右に」としたのでしょうが、この語には「前述の」といった訳語が辞書に載っていますし、けっこう離れたところまで探さないといけないのかもしれません。

 私が探した範囲では、岩波版144頁から146頁まで「認識行為」「認識すること」「認識」といった語に訳されている「Erkennen」を指すと考えるとすっきりしそうです。

フロイト全集 (8)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2008/03) 

2008年8月26日 (火)

フロイト全集8から『機知』9

 この論文の翻訳は全体的には素晴らしいのですが、後半になって備給の経済について論じられる箇所が現れてくると、間違いとまでは言いませんが、ちょっと危なっかしい箇所が多くなります。

機知において表現されている思想により、聞き手のうちに興奮性の強い表象が呼び覚まされたとしよう。この場合、機知の傾向と聞き手を支配している一連の想念とが一致するか、それとも対立矛盾するかによって、機知の過程に注意が向けられるかいなかが決まる。けれどもさらに大きな理論的関心を惹くのは、機知の一連の補助的技法であって、これは聞き手の注意を機知の過程から完全に引き離し、その過程を自動的に進行させるという意図に役立っていることが明らかである。私が意図的に「自動的に」と言い、「無意識的に」と言わないわけは、「無意識的に」と言ったのでは語弊があるからである。ここで肝心なのはひとえに、機知を聞いたときの心的過程が注意の過剰備給に陥らないようにすることである。この補助的技法の有用性からして当然にも推測できることは、注意への備給が、自由になった備給エネルギーを監視したり新しい仕方で使用したりすることに大きく関与しているということである。(岩波版180頁)

 下線部を順に見ていきます。

 「興奮性の強い表象」の原文は「stark erregende Vorstellungen」ですが、「erregend」は「erregen興奮させる」の現在分詞である以上、「強く興奮を惹起する表象」です。岩波版の「興奮性の強い表象」だと、その表象自体が強く興奮させらているように(すなわち、過去分詞「erregt」のようなニュアンスに)読めてしまいそうですが、原文では、その表象は、強い興奮エネルギーのトリガーとなるもののようです。

 次に、「注意が向けられるかいなかで決まる」です。原文では、「die Aufmerksamkeit belassen oder entzogen wird」ですので、「注意を委ねるか剥奪するかが決まる」。こういうメタ心理学的な文脈では、「注意」は備給そのものからなっていて、向けるとか向けないというよりも、備給したり撤収したりされるものです。常識的な心理学や現象学では、「注意」というと常に方向性を持ったものとして論じられるでしょうけれども、無意識を含んだ文脈にそのような常識を持ち込んでしまうと、メタサイコロジーの中に、自らの心的現象を観察するこびとを持ち込むことになってしまいませんでしょうか。

 「機知を聞いたときの心的過程が注意の過剰備給に陥らないようにすることである」の原文は「die Mehrbesetzung der Aufmerksamkeit von dem psychischen Vorgang beim Anhoeren des Witzes fernzuhalten」です。まず、ふつう「過剰備給」と訳されるのは「Ueberbesetzung」ですがここはなぜか「Mehrbesetzung」となっていることを指摘しておきます。とりあえず、マルクスの言う「剰余価値」が「Mehrwert」なので「剰余備給」としておきましょうか。さて、ここの表現では「fernhalten」という語が「遠ざけておく」という意味であることが私には引っかかります。といいますのは、フロイトのメタサイコロジーでは、様々な表象や思想の間の距離の遠近が想定されているので、こういう距離にまつわる語が出てきたときに単なる比喩ととらえてはならないと思います。なのでここは直訳して、「機知を聞いたときの心的過程から、注意の剰余備給を遠ざけておくことである」としておきます。

 そして最後の下線部、「注意への備給」ですが、「Aufmerksamkeitsbesetzung」ですので本来の訳は「注意備給」あるいは「注意の備給」です。

 今回取り上げたような視点から見ていけば、論文『機知』の岩波訳にはまだまだ取り上げるべき箇所がありそうです。私はフロイトのエネルギー論は真面目に受け取っていく価値があると思っていますので今後もお付き合いください。

フロイト全集 (8)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2008/03) 

2008年8月19日 (火)

フロイト全集8から『機知』8

 今回は、些細と思われるかもしれませんが訳文を読んで気になる箇所をいくつか取り上げます。

 すなわち、この第一のグループと第三のグループ、つまり語の連想によるものの連合の代替と、不条理の使用とは・・・(岩波版152頁)

 同じ語を「連想」と「連合」というふうに訳し分けている理由がわかりません。私はそもそも「連想」と訳されている語はつねに「連合」と訳すべきだと思っているので特に気になった箇所です。

 訳語について言えば、この2頁前など多くの箇所に「ひこばえ」という語が使われています。これは、原文での「Abkoemmling」の定訳として毎度使われているようですが、辞書を引いても、①「子孫」「後裔」、②化学用語の「誘導体」、が出てくるだけです。私の推測では、この「ひこばえ」とは、元の独単語「Abkoemmling」の仏訳が「rejeton 新芽、ひこばえ」であることに由来する訳語でして、仏訳からの重訳ならともかくフロイトから直に訳す際にこの訳語を選ぶ理由は見あたりません。

 つぎは訳文の表現についてです。

さて、われわれは、機知の技法として記述してきたもの -ある意味では続けてそう呼ばざるを得ないが- は、むしろ機知が快を取り出す源泉であることに気づいている。そして、同じ目的をもつ他の諸方式が同じ源泉から汲み出していることを、奇異には思わない。しかし、機知に独自の、機知にのみ属する技法は、快を廃棄しかねない批判からの異議に対して、快をもたらすこれらの手段の使用を確保する、その方式にある。(岩波版155頁)

 私には文意が取りづらかったので、下線部をちょっと訳し換えたいと思います。

さて、われわれは、機知の技法として記述してきたもの -ある意味でそう呼び続けざるを得ないが- は、むしろ機知が快を取り出す源泉であることに気づいている。そして、同じ目的をもつ他の諸方式が同じ源泉から汲み出していることを、奇異には思わない。しかし、機知に独自の、機知にのみ属する技法は、快を廃棄しかねない批判からの異議に抗して、快をもたらすこれらの手段の使用を確保する、その方式にある。(拙案)

フロイト全集 (8)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2008/03)

2008年8月13日 (水)

フロイト全集8から『機知』7

 前の記事へのコメントで私は、「クラカウへ・・・」という機知(ご存じない方は前の記事を参照してください)の解説部分(岩波版138頁)について、「小話の解釈にあわせた訳語、つまり話がわかりづらく複雑になるような訳語を故意に選択している箇所が何カ所かある」と書きました。それらはどれも完全な間違いとはいえない微妙な感じなのですが、少し見ていきましょう。

 この貴重な小噺は並外れた小うるささSpitzfindigkeitの印象を与えるが、不条理の技法を用いていることは明らかである。二番目の男は、自分はクラカウに行くと告げ、実際にそれが目的地だからといって、嘘つき呼ばわりされたのである。この強力な技法的手段 -不条理- は、ここではしかし、「反対物による提示」という別の技法と結びついている。というのも、最初の男の黙認されたunwidersprochenen主張によれば、二番目の男は真実を言っているときに嘘をついていることになり、嘘によって真実を述べているからである。けれども、この機知のより真剣な内容は、真実の条件についての問いである。この機知はまたある問題を指し示し、真実という概念をわれわれはしょっちゅう使っているけれども、その内実が不確かだということをうまく利用している。物事をありのままに記述しているが、聞き手の受けとめ方に無関心であるとき、それは真実なのだろうか? それとも、それは屁理屈的jesuitischな真実に過ぎず、本当の真実性とはむしろ聞き手のことを慮り、自分が持っている知識の忠実な写しを伝えるところにあるのではないのか。(岩波版138頁:独単語はここに引用する際に付加した)

 まず「Spitzfindig(keit)」ですが、小学館の大辞典では「1事細かに区別する、小事にこだわる、つまらないことにやかましい、むやみに細かい、屁理屈をこねる。2抜け目〈如才〉のない、利口な、明敏な」、博文社の(相良の)辞書では「1屁理屈をこねる、小うるさくとがめ立てする、揚げ足取りの、詭弁を弄する、狡猾な。2気の利いた、明敏な」とあります。岩波では「小うるさい」としていますが、「小うるさい」を国語辞典でも引いてみましたけれども、独和に挙げられている意味にぴったりきませんし、文脈にも合っていません。「細部拘泥」または「屁理屈」が良いのではないでしょうか。

 「unwidersprochenen」ですが、小学館では「反論〈反駁〉されていない」、相良では「反対〈否認〉されない」です。「黙認」という日本語は、過失とか誤謬を見逃すという意味が強いと思うのですが、この小噺とその解説では、最初の男の主張は決して誤謬とは見なされていません。辞書にある原義通り、「反論されていない」という訳が適当と思います。

 次の下線部は、邦訳で句点が打たれている箇所に原文では「:」が打たれています。ですので、句点の後に、「すなわち」とか「というのは」といった語を挟んでおくのがよいでしょう。

 そして最後の「jesuitisch」ですが、文字通りには「イエズス会の」「イエズス会士のような」といった意味ですが、その含意は、相良にはありませんが小学館では「陰険な」「ずるがしこい」「狡猾な」とあります。名詞形「Jesuitentum」「Jesuitismus」には、小学館では「(イエズス会士によく見られると言われる)目的のためには手段を選ばぬという考え方(ずるがしこさ)」、相良では「イエズス会の教義(目的は手段を神聖にすると説く);イエズス会的な陰険(狡猾)さ」としています。英和・仏和なども参照すると、「詭弁」「偽善」「陰険さ」「老獪」「猫かぶり」「表裏あること」などの意味が載っています。これをふまえてフロイトの文脈に戻ると、「jesuitisch」という語は、(『クラカウへ』という答えのように)物事をありのままに記述しているような真実について言われていましたから、これを「屁理屈的」としたのでは意味が取りづらいと思います。この文脈では「表裏ある」という意味が最も近いのではないでしょうか。

  この貴重な小噺は並外れた屁理屈の印象を与えるが、不条理の技法を用いていることは明らかである。二番目の男は、自分はクラカウに行くと告げ、実際にそれが目的地だからといって、嘘つき呼ばわりされりことに甘んじなければならない。この強力な技法的手段 -不条理- は、ここではしかし、反対物による提示という別の技法と結びついている。というのも、最初の男の主張 -これは反論されていない- によれば、二番目の男は真実を言っているときに嘘をついていることになり、嘘によって真実を述べているからである。けれども、この機知のより真剣な内容は、真実の条件についての問いである。というのもこの機知は[不条理、反対物による提示に加えて]さらにひとつ問題を指し示し、われわれがしょっちゅう使っているある概念の不確かさをうまく利用している。物事をありのままに記述しているが、聞き手の受けとめ方に無関心であるとき、それは真実なのだろうか? それとも、それは裏面を隠した真実に過ぎず、本当の真実性とはむしろ聞き手のことを慮り、自分が持っている知識の忠実な写しを伝えるところにしかないのではないのか。(拙訳)

 訳文としてはほとんど変わりないのですが、私にとってはかなりニュアンスが明瞭になり、「クラカウへ」という発言は相手の受けとめ方を考慮せずに述べられたものであること、裏に本心を隠していることがはっきりしたと思います。

フロイト全集 (8)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2008/03)

 医療観察法の鑑定書をひとつ仕上げたのでワインで独り祝杯を上げながら書いています。今後は、この鑑定書を参考にして審判され、被鑑定者は入院または通院または不処遇を命じられるわけですが、入院または通院になった場合には、治療を担当する医療機関に鑑定書が送られることになります。

 私の手元には、警察での供述調書や被害者の写真、過去の医療機関での診療録の写しなどが鑑定のために送られてきているのですが、将来治療を担当する医療機関にはそれらの資料は送られません。なので、今後の治療に役立つと思われる事柄は、鑑定書のなかに転記しておいた方がいいだろうと私は思うので、ついつい鑑定書が長くなるのですが、そうすると審判に参加する方々にとっては、審判には不必要な情報がたくさん入った冗長なものとなってしまう、というジレンマに悩みます。

2008年7月28日 (月)

フロイト全集8から『機知』6

 白状すると、次の機知は私にはよくわかりません。

 あるガリツィア地方の駅で二人のユダヤ人が出会った。「どこへ行くのかね」と一人が尋ねた。「クラカウへ」と答えた。「おいおい、あんたはなんて嘘つきなんだ」と最初の男がいきり立って言う。「クラカウに行くと言って、あんたがレンベルクに行くとわしに思わせたいんだろう。だけどあんたは本当にクラカウに行くとわしは知っている。それなのになぜ嘘をつくんだ?」(岩波版137頁)

 これのおもしろさもわからないし、フロイトの解説もピンとこないのです。翻訳の問題なのかどうか原文と見比べてみることにしましょう。

 まず、読解にほとんど影響のない些細な点ですが、二人が出会ったのは正しくは「駅で」ではなく「駅の列車で」です。

 むしろ主たる疑問点は、「クラカウに行くと言って、あんたがレンベルクに行くとわしに思わせたいんだろう」の部分、原文では「Wenn du sagst, du fahrst Krakau, willst du doch, dass ich glauben soll, du fahrst nach Lemberg.」の部分です。

 岩波版の訳だと、「クラカウに行くと言うことによって、あんたはレンベルクに行くとわしに思わせようとしているんだろう」という意味に感じられますが、原文では単に、「あんたはクラカウに行くと言うが、一方で[内心で]あんたは、レンベルクに行くとわしに思わせたがっているんだろう」という意味にしか取れないように思えます。

 岩波の訳文のような意味に取れば、この小話は、現実の会話ではあり得ないほど非常にややこしい論理から成り立っていそうなものになりますが、その後に付されたフロイトの簡潔な解説とはあまりうまく合致していないように思います。

 私が読んだような意味だとすれば、この小話は、一般に渋々真実を語るような状況にいくらでも符合しうるありふれた事態ということになります。フロイトが付け加えた解説も、一般に「真実」(あるいは「嘘」)という語が、事実への忠実さを問題にしているか、本心への忠実さを問題にしているか、といった疑問を投げかけているにすぎないように感じられ、私の解釈に釣り合ったものという印象を受けます。

 ちなみにラカンのセミネール5巻でこの機知が紹介されている箇所、「Pourquoi me dis-tu que tu vas a Cracovie quand tu vas vraiment a Cracovie?」(原書p105、邦訳上巻153頁)は、私と同じ解釈のように読めます。おもしろいことに、ラカンのセミネールの内容をかなり忠実に要約・紹介しているM.サフアン著『Lacaniana』なる本では、セミネール5巻の当該箇所を引用する際に、「Pourquoi me dis-tu que tu vas a Cracovie pour que je croie que tu vas a Banberg, alors que tu vas vraiment a Cracovie?」とあえて訳し換えて、岩波版と同じ解釈になっています。

フロイト全集 (8)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2008/03)

 ところでこの小話ですが、話題が鉄道旅行についてではなく、個人の欲望が直接ぶつかり合う場面、たとえばお見合いパーティーやグループ交際のような場面を想定してみると、岩波訳の構文解釈のままでも、ナンセンスとか深遠という印象はかなり薄らぐように感じます。例えば:

「どの娘にアプローチするのかい」と一人が尋ねた。「A子に」と答えた。「おいおい、あんたはなんて嘘つきなんだ」と最初の男がいきり立って言う。「A子にアプローチすると言って、あんたがB子にアプローチすると俺に思わせたいんだろう。だけどあんたは本当にA子にアプローチすると俺は知っている。それなのになぜ嘘をつくんだ?」

2008年7月22日 (火)

フロイト全集8から『機知』5

 岩波版92-93頁に挙げられている例は、「伯爵の同性愛という既に周知のテーマへのほのめかし」についてですが、次の箇所については、訳文では同性愛や肛門性愛へのほのめかしの所在がわかりにくい気がします。

「たとえ芸術の女神たちが彼を好まずとも、彼は言葉の守護神を手中にしています。というより力で言うことをきかせています。なぜならこの守護神の自ずからなる愛を得ることができず、この若者のこともしつこく追い回さなければならないからです。彼は外的形式しか捉えられず、それは見事に円熟しているとはいえ高貴な表現とは無縁なのです」。(岩波版93頁)

 まず、「言葉の守護神Genius der Sprache」ですが(辞書では「言霊」という意味も載っていますが)、これは男性形であって、「芸術の女神Muse」という女性形で示される神と対比されていることが目を引きます。

 次に、「力で言うことをきかせています」は「Gewalt antun」ですが、これには、「乱暴する」「(女性に)暴行する」といった意味が辞書に載っています。

 「しつこく追い回さなければならずnachlaufen」は、後ろから追いかけることですから「尻を追い回す」というニュアンスを隠しているでしょうし、「外的形式aeusseren Formen」はむしろ「外形」であって、「見事に円熟しているとはいえtroz ihrer schoenen Rundung」はお尻が「丸みを帯びているとはいえ」ということでしょう。

 これらが、伯爵の文芸に対する批評とも受け取れる表現のなかに散りばめられているように訳さなければなりませんので、うまく訳すことはかなり難しく思います。拙訳も成功しているとは思えませんが、以下のようになりました。

「たとえ芸術の女神たちが彼を好まずとも、彼は言葉の守護神を手中にしています。というより彼を[性的に]暴行しています。なぜならこの守護神の自ずからなる愛を得ることができず、この若者をもしつこく後ろから追い回さなければならないからです。彼には、表面的な形式[=外形]しか捉えられませんが、それは見事な円熟[=美しい丸み]を帯びているとはいえ、けっして高尚にあらわれることのないものです」。(拙案)

フロイト全集 (8)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2008/03)

 この機知から私は、80年代英国の男性4人組ロックバンド「ザ・スミス」の名曲『ハンド・イン・グローブ』の歌い出しを思い出しました。女性ものの花柄シャツを着て身をくねらせながら甲高い声で歌うボーカリストと、ずば抜けた美形のギタリストが中心メンバーで、その歌詞の内容などから、メディアからは同性愛を疑われ続け、一方でメンバーはそのように疑うメディアの方をからかい続けていたらしいです。で、曲の歌い出しはこうです。

Hand in glove / The sun shines out of our behind
No, it's not like any other love / This one is different / Because it's us!

 「Hand in glove」は成句で、辞書によれば「親密な」という意味です。

 次の「The sun shines out of our behind」は、辞書には「the sun shines out of sb's ass」「think the sun shines out of sb's bum(behind, backside, bottom, ass, asshole)」などの形で載っており、「誰々をこの上ないものと思う」という意味の成句です。所有代名詞が「our」ですから、自分たちをこの上ないものと思う、ということになりますし、それに続く詞も二人の愛は特別なものであることを歌い上げています。ここでの「behind」とは、辞書で「ass」などの語と並んでいることからもわかるように肛門のことであり、直訳すれば「誰々を、その肛門から太陽が差してくるぐらいに素晴らしいものと思う」ということです。

 歌詞カードの訳詞では無難に男女恋愛についての曲として訳されていたように記憶していますが、この曲ではアーティストが自ら男性間の肛門性愛をほのめかした言語遊戯を楽しんでいるのだと私は考えています。

 こう考えてくると、はじめの「Hand in glove」という成句についても、元々の意味にかえって、「手袋と手のようにぴったり合っている」という意味に、すなわち、何かと何かが、鍵と鍵穴のような、凸と凹との密着した関係になっているという意味に考えたくなります。

Hatful of Hollow The Smiths (CD - 1993)

Louder Than Bombs The Smiths (CD - 1993)

2008年7月19日 (土)

フロイト全集8から『機知』4

 今回取り上げる箇所は、これまでに取り上げてきたものよりはかなり小さな翻訳上の問題です。

リップスにおいては、「機知的な列挙」(「配列」)の例の中に、ハイネの「学生、教授、俗物、家畜」に最も近いものとして、次の詩句が見いだされる。
「フォークを使い、骨も折って、母は彼をスープからつまみ出した」。リップスはこれを解説して、まるで骨折りがフォークと同じく道具であるかのようだ、と付け加えている。(岩波版81頁)

 原文では、「Mit einer Gabel und mit Mueh' zog ihn die Mutter aus der Brueh'.」となっており、「フォーク」と「骨折り」の前に置かれる前置詞「Mit」が二つ並置されています。それに対して、訳文では「フォークを使い、骨も折って」とされているので、フロイトが述べる「機知的な列挙」という 印象を与えません。なかなか難しいですが、次のような訳を提案してみます。

「フォークを使い、手間も使って、母は彼をスープからつまみ出した」。(拙案)

 「手間を使う」の箇所には、「色目を使う」「声色を使う」のように慣用句的な言い回しを持ってくることができれば、日本語でも機知として通用する訳文になるかもしれませんが、私には思いつけませんでした。

 なお、ここで「彼をスープからつまみ出す」という表現の意味がはっきりしません。リップスの詩句の前後の文脈がわかりませんが、ある男性がスープに浸かっているという状況はちょっとあり得ないのではないかという気がします。辞書で「Bruehe」には「スープ」以外にも「汚水」「苦境」などの意味がありますので、たとえば「泥沼から引き上げた」ぐらいの意味かもしれませんが、それでは「フォークを使い」の部分の意味が不明になります。なんとか元の文脈がわかると良いのですが。

フロイト全集 (8)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2008/03)

2008年7月14日 (月)

フロイト全集8から『機知』3

 この論文の第二節第6段では、ハイネにまつわる次の機知が紹介されています。

ある夜、彼はパリのサロンで詩人スーリエと同席し、語り合っていた。そのうちに登場したのは、パリの大富豪で、お金の点でもその他の点でも神話のミダス王になぞらえられる人物であった。彼はやがて大勢に取り囲まれ、この上なく丁重な扱いを受けた。スーリエはハイネに言った。「まあ御覧なさい。あそこで十九世紀の黄金の子牛が崇拝されていますよ」。尊崇の対象をちらりと見て、ハイネは訂正するように答えた。「いやあ、あれはもっと歳を食ってますな」。(岩波版53頁)

 このあと同種の機知がいくつか例示されたのち、この「黄金の子牛」に繰り返し触れながら次のように解明されていきます。

かつて砂漠におけるユダヤの民がそうであったように、十九世紀の社会は「黄金の子牛」を崇拝していると、スーリエはハイネの注意を促した。それに対する適切なハイネの返答といえば、「そう、それが人間の性というもので、何千年経っても変わらないんですな」など、何か同意を表すものであろう。ところがハイネは、提起された発想には応答せず、そこから方向を逸らした。彼は「黄金の子牛」という句に含まれる二重意味を利用してわき道に入り、「子牛」という句の構成要素を捉えて、スーリエの発言の力点はそこにあったかのように、「いやあ、あれはもう子牛ではありませんな」云々と答えたのである。(岩波版57頁)

ハイネの「黄金の子牛」の機知における二重意味も、これときわめて似た役割を果たしている。その二重意味によって、返答では、きっかけとなった思考過程から方向を逸らすことが可能となった(岩波版60頁)

 ここで疑問に思われるのは、57頁では、「提起された発想」、すなわちスーリエの発言に対する「適切な返答」「何か同意を表すもの」から逸らすことについて述べられていたにもかかわらず、60頁では「きっかけとなった思考過程」から逸らすことについて書かれているという点です。

 実は原文では、57頁の「提起された発想」は「angeregten Gedanken」、60頁の「きっかけとなった思考過程」は「angeregten Gedankengang」ですので、同じ過去分詞で形容されています。それが邦訳では提起される方と提起する方という正反対のものを指すことになってしまっているのです。よって60頁は次のように改めるべきと思います。

ハイネの「黄金の子牛」の機知における二重意味も、これときわめて似た役割を果たしている。その二重意味によって、返答では、提起された思考過程から方向を逸らすことが可能となった(岩波版60頁に対する拙案)

 なお、57頁の下線部はじつは原文と少し違っています。

かつて砂漠におけるユダヤの民がそうであったように、十九世紀の社会は「黄金の子牛」を崇拝していると、スーリエはハイネの注意を促した。それに対する適切なハイネの返答といえば、「そう、それが人間の性というもので、何千年経っても変わらないんですな」など、何か同意を表すものであろう。ところがハイネは答える際、提起された発想から方向を逸らした。彼は「黄金の子牛」という句に含まれる二重意味を利用してわき道に入り、「子牛」という句の構成要素を捉えて、スーリエの発言の力点はそこにあったかのように、「いやあ、あれはもう子牛ではありませんな」云々と答えたのである。(岩波版57頁に対する拙案)

 ついでに訳語の好みについて言えば、ここで「思考過程」と訳されている「Gedankengang」には「思路」を当てたいです。岩波版のこの論文では、他の箇所で「Denkvorgang」も「思考過程」と訳されていますが、両者を区別しておきたいという狙いもあります。

フロイト全集 (8)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2008/03)

2008年7月 7日 (月)

フロイト全集8から『機知』2

 岩波版55頁に次のような機知の例が挙げられています。

公衆浴場の近くで二人のユダヤ人が出会った。一人が尋ねた。「あんた、ひと風呂浴びた[取った]かね?」すると、「なぜ?」ともう一人は答えた。「ひと風呂足りないのかね?」

 返答のほうは、原文で「fehlt eins?」(ひとつ足りないのかね?)とされていて、「風呂」という語を含んでいません。これを受けてフロイトは次のように言っています。

また、われわれの印象では、二人目のユダヤ人の答えで、「浴びる[取る]」という後が誤解されたということより、風呂という言葉が見落とされたことのほうが重要である。(岩波版55頁)

 ところがもともとの機知の邦訳では「ひと風呂足りないのかね?」とされてしまったので、上のフロイトの説明が理解困難になってしまっています。

 さらに、上に引用した二箇所では、それぞれ「ひと風呂浴びた[取った]」「浴びる[取る]」と括弧書きでふたつの訳が併記されています(原語はnehmen)。しかし私としては、「風呂を貰う」という日本語の慣用表現を用いれば日本語でも両義性が成立し、括弧は不要になると思います。そこで、次のような訳を提案します。

公衆浴場の近くで二人のユダヤ人が出会った。一人が尋ねた。「あんた、ひと風呂貰ったかね?」すると、「なぜ?」ともう一人は答えた。「ひとつ足りないのかね?」(拙案)

 なお、日本語の「貰う」という語は、驚くべきことに、同じく「nehmen」という語の多義性を扱った岩波版59頁の原注にもぴったりです。

「取るnehmen」という語は多様に使うことができるため、語呂合わせを言うにはとても適している。そういった多様な使い方のうち、上述の遷移の機知とは反対の典型である例を紹介してみよう。有名な相場師で銀行の頭取でもある人が友人とリング通りを散歩した。コーヒーハウスの前で、彼は友人にこう提案した。「入って何か取り[飲み]ましょう」。友人は彼を押しとどめて言った。「いや宮廷顧問官どの、中には人がいますから」。(岩波版59頁)

 下線部を「貰いましょう」と訳し変えれば日本語でも両義性が成立し、括弧書きは不要となります。

フロイト全集 (8)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2008/03)

2008年7月 6日 (日)

フロイト全集8から『機知』

 この論文ではじめに取り上げられる機知の例は、有名な「ファミリオネール」というものです。これは身分の卑しい人物が、ある高名な大金持ちから「家族の一員のように(ファミリエールに)」扱われたと言おうとした箇所に用いられた造語であって、「ファミリエール」という語と「ミリオネール(百万長者)」という語が合成されています。すなわち金持ちにありがちな、慇懃ではあってもどこか尊大で見下した態度についてうまく表現してみせている例になっています。

 今回の翻訳ではこの「ファミリオネール」に、「家族の一員のように」と「百万長者」の合成で「百万家族の一員のように」という訳を当てています。これは語の意味から訳せば全く正しいのですが、この場合、合成される二つの語に音の類似性がないことと、この合成表現から元の二語(とくに「百万長者」)を類推することが困難であることから、あまり良い訳とは思いません。もちろん、岩波版でもルビや括弧書きによって音の類似性が示されてはいますが、この「ファミリエール」「ミリオネール」はいずれもドイツ語になじみのない読者にとっても分かりやすい単語でもありますし、訳さずにカタカナ表記だけにした方がよかったのではないでしょうか。

 それにしても、「ファミリオネール」の日本語訳を考えるというのはなかなか魅力的な課題でして、この記事を書きながらもつい、どうにかうまく訳せないか、と考え始めてしまいます。そこでファミリエールを「家族的に」、ミリオネールを「俗物的に」としておいて、ファミリオネールを「家俗物的に」というのを考えたりしましたが、結局私にはカタカナ表記より良い訳は思いつきません。

 岩波版19頁の「記念碑下のところ」、20頁以下の「赤い退屈糸」という機知についても同様で、結局カタカナで原語を残すだけのほうが分かりやすそうに思います。

フロイト全集 (8)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2008/03)

2008年7月 1日 (火)

フロイト全集9から『精神分析について』

 この論文というか講演録は、非専門家向けに書かれたものという体裁をとっています。しかし私には、5節はかなり駆け足でわかりにくいものに感じられます。この印象は今回の新訳(非常に良い訳と思いました)でも変わりません。これはどうも、フロイトが、「欲望Wunsch」という語を、「欲望に結びついたエネルギー」を指すために用いている(ように読めます)ことが一因かもしれません。

 訳については、以下の一箇所だけを取り上げましょう。

しかし、私たちの機械では、消費された熱エネルギーの一定割合以上が機械のための有益な作業に使用されているのであって、その点を忘れがちになればなるほど、私たちは、性欲動をそのエネルギー量のすべてにわたって本来の目的から逸らせようと努めることも控えるべきでしょう。(岩波版168頁)

 この文で、「使用する」と訳されているのは「verwandeln」ですが、これは「変化させる」「変身させる」といった意味の語でして(カフカの小説のタイトル『変身』はこれの名詞形です)、おそらく岩波の全集は、「verwenden」と見誤ったものと思われます。しかしこの箇所のわかりにくさは、この語の訳しかたよりもむしろ、ここでフロイトが持ち出したエネルギー一般についての比喩をどう理解するかにかかっているように思います。私としては、次のように解釈しました。

私たちはしかし、私たちの様々な機械で、消費される熱エネルギーの一定割合以上を有益な機械的作業に変えようなどとは見込まなくなっているのですから、それにあわせて、性欲動をそのエネルギー量のすべてにわたって本来の目的から逸らせ[て文化的に有益に用い]ようと努めることも控えてしかるべきでしょう。(拙訳)

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11) 

2008年6月25日 (水)

フロイト全集9より『W.イェンゼン著「グラディーヴァ」における妄想と夢』4

 次は岩波版78頁から80頁にかけての長大な段落を取り上げます。私には一読して意味がとりづらく感じられたからです。それはもちろん、主人公の妄想の荒唐無稽さの原因を、作者に帰すべきかそれとも主人公の精神状態に帰すべきか、という論旨そのものがなかなか難しいからでもあります。

 気になるところをひとつずつつぶしていきましょう。まず

・・・彼女が現代の履物を履いているのに気付いても。彼女がギリシア語やラテン語を知らず、当時存在しなかったドイツ語を自由にあやつっても、ぐらつくことのないこの幻想は、「ポンペイの空想小説」という詩人による命名をなるほど正当化はしても、臨床医学の実際に即して判断することなどとうてい許しはしないだろう。(岩波版78頁)

 私が思うに、最後の「判断する」と「許しはしない」というふたつの動詞の主語と目的語がはっきりしないところがわかりにくさの原因ではないでしょうか。

・・・彼女が現代の履物を履いているのに気付いても。彼女がギリシア語やラテン語を知らず、当時存在しなかったドイツ語を自由にあやつっても、ぐらつくことのないこの幻想は、「ポンペイの空想小説」という詩人による命名をなるほど正当化はしても、臨床医学の実際との比較検討にはとうてい耐えられるものではないだろうと思われる。(私案)

 次ですが、本当に細かいところで恐縮です。

もちろん責任の一端は詩人が我が身に引き受けており、ツォーエがすべての特徴において石造レリーフそっくりだとの物語の前提の中にも、この責任はつきまとっている。したがって、この前提のありえなさを、ハーノルトがその娘をよみがえったグラディーヴァと思うという、その必然的帰結へと遷移することは用心して避けなければならない。(岩波版78頁)

 下線を引いた箇所の「も」を省きたいのです。もちろん原文にないからでもありますが、ここに「も」があると、詩人の責任は多数の箇所に散りばめられているように感じられてしまい、そうすると直後の文の内容につながらないからです。

 次です。

 しかし、説明し言い訳するすべての契機の中であいかわらず重要なのは、ついうっかりということで、われわれの思考能力は、激しく情動強調された蠢きが満足を見出すなら、うっかり不条理な内容を受け入れることを決定するのである。このような心理的状況の下では、知能に優れた人でさえ、どれほどやすやすと、またどれほど頻繁に、部分的にせよ精神薄弱の反応を示すかは驚くべきことであるが、たいていの場合、まともに評価されることが少なすぎる。(岩波版78-79頁)

 最初の部分からして意味がとりづらいので、多少語句を補って、「しかし、[主人公の妄想の荒唐無稽さを]説明し弁護するすべての契機の中であいかわらず重要なのは」としておきます。「言い訳する」という訳語はここにぴったりこない気がします。

 さらに、「ついうっかりということ」「うっかり」「やすやすと」はすべて同じ語です(名詞形であったりはしますが)。

 また、引用した箇所の最後、「まともに評価されることが少なすぎる」の主語もわかりづらいので、以下のように提案しておきます。

 しかし、[主人公の妄想の荒唐無稽さを]説明し弁護するすべての契機の中であいかわらず重要なのは、容易さということで、[主人公を含む]われわれ[人間一般]の思考能力は、激しく情動強調された蠢きが満足を見出すなら、容易に不条理な内容を受け入れることを決心するのである。このような心理的状況の下では、知能に優れた人でさえ、どれほど容易に、またどれほど頻繁に、部分的にせよ精神薄弱の反応を示すかは驚くべきことであるが、この事実はたいていの場合、まともに評価されることが少なすぎる。(私案)

 上に述べた改善箇所に加え、私の好みで「決定」を「決心」にしました。

 最後に次の箇所。

 わたしも、自分で経験した驚くべき誤謬の事例や、事後的に(しかもきわめて非理性的やり方で)動機付ける無思慮な行動の事例をメモに取り始めております。(岩波版79頁)

 ここも意味がとりづらい。というか、過去の行動を「事後的に動機付ける」なんてことがありえたらオカルトです。「事後的に動機がわかる」「事後的に理由付けできる」といった意味でしょう。

 段落の最後の文(岩波版80頁)は、前とのつながりがわかりにくいですが、ほかにどう訳したらよいか私にも良い案が思いつきません。誤訳というわけでもありませんし。私としては、「実行される」を、「実行されている」にするぐらいの改変でも少しはわかりやすくなるような気はしますが。

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11)

2008年6月16日 (月)

フロイト全集9より『W.イェンゼン著「グラディーヴァ」における妄想と夢』3

 この論文で気になる点を扱う3回目です。

 しかし他方では、ハーノルトはみずからの性愛に対するこの勝利をよろこんではいない。抑え込まれた心の蠢きはまだ十分強力で、不快感を示したり、それを制止することで、抑え込もうという動きに仕返しをしている。(岩波版76頁)

 下線部の「それ」は何を指すのでしょうか。訳文を読む限りでは、「抑え込もうという動き」を先取りしているとでも考えるしかなさそうですが、原文を読むと、ここは単に「Hemmung」という名詞があるだけで、「それを」に当たる語はありません。次のように改めてみます。

  しかし他方では、ハーノルトはみずからの性愛に対するこの勝利をよろこんではいない。抑え込まれた心の蠢きはまだ十分強力で、不快感や制止症状[をハーノルトにもたらすこと]で、抑え込もうという動きに仕返しをしている。

 抑圧の帰結として、不快や制止といった症状が現れた、ということでしょう。上では「制止症状」としてみましたが、「症状」は私なりの補足です。

 なお、「抑え込もうという動き」の「動き」は、「蠢き」と訳されているのと同じ語なので統一性に欠けます。私は「動き」で統一したほうがいいと思うんですけど。

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11)

2008年6月10日 (火)

フロイト全集9より『W.イェンゼン著「グラディーヴァ」における妄想と夢』2

 この論文について二回目ですが、訳語について少し触れましょう。

表象が抑圧されるのは、起こってはならない感情迸出とその表象が結びついているからという理由の場合のみである。抑圧が関係するのは感情である、と言えばより正確だろう。ただわれわれが感情をとらえることができるのは、まさに感情が表象に拘束されている場合のみなのであって、それとは違うやり方で感情をとらえることはできないのである。(岩波版54頁)

 「迸出」と訳されているのは「Entbindung」で、その二つ後の文に出てくる「拘束される」の原語「Bindung」と明らかに関連しているんですけれど、訳文からはこの関連が読み取れません。私はかねがね、この「Entbindung」なる語の訳は「脱拘束」とするのが良いだろうと思っています。「感情迸出」は「感情の脱拘束」となります。

 なお、上の引用のうち「感情が表象に拘束されている場合のみ」のところは、「感情を表象に拘束することによってのみ」が正しいと思います

 次です。

したがってこれが、顕在的夢内容が実現する着想なのであり、その着想は、夢見る人が体感する現在であるかのごとくに描かれるのである。
 夢がたったひとつの夢思考の上演であることはほとんどなく、たいていの場合は、一連の思考、思考の織物が演出される。ハーノルトの夢からも、夢内容のさらに別の構成要素を浮かび上がらせることができる。その要素の歪曲は容易に取り除くことができるので、それによって代表されている潜在的夢着想が何なのかがわかる。(岩波版66-67頁)

 「着想」というとふつう意識的な思いつきのことを指すと思っていた私は、この部分での「着想」なる語の使い方を見て戸惑いました。原書を見ると、ここで「着想」と訳されているのは「Idee」なので、「観念」か「想念」ぐらいがいいんじゃないでしょうか。

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11)

2008年5月20日 (火)

フロイト全集9より『W.イェンゼン著「グラディーヴァ」における妄想と夢』

 今回読みかえしてみて、フロイトが取り上げた小説とフロイトが言いたいこととが、非常に緊密に関係し合っていることに改めて驚きました。私はふだん、現代の精神科医が文学作品を論じているのを読んでもほとんどの場合に納得できないのですが、さすがはフロイトです。

 翻訳については、まずは次の箇所が気になりました。

「この若い考古学者の妄想に関して、ツォーエ嬢自身われわれと見解をわかちあっているように思われる。なぜなら、彼女の『情容赦なく、詳細で、ためになるお説教』の終わりに彼女が表現した満悦の気持ちは、彼女がグラディーヴァに対する彼の関心を、そもそもの初めからよろこんで我が身に結びつけようと考えていたからという以外、ほかにはほとんど説明のつけようがないからである。ほかでもない、彼女は、彼にそんな気持ちなんかあるはずがない、とずっと思っていたのであり、どんなに妄想の偽装を凝らしていても、やっぱりそうだったんだと彼女にはわかったのである。さて一方彼に関しては、彼女の側からの心的治療がその良い効果を存分にもたらしていた。今や妄想が現物そのものによって代替されてしまったので、彼は自由の身になったと感じた。妄想はやはり単にそれの歪曲された不十分な模造でしかあり得なかったのである。彼は今やためらいもせず想い出し、そして彼女がおおもとでは昔とまったく変わっていない善良、快活で、聡明な幼馴染だと躊躇なく認めた。」(岩波版40-41頁)

 はじめの「そんな気持ち」の箇所は、原文では代名詞です。岩波訳では、少し前の「満悦の気持ち」のことだとも読めてしまいそうですが、意味からしてちょっとありえなさそうです。直前の中性名詞「グラディーヴァへの関心」を指すとも考えられますが、漠然と「そんなもの」としておきます。さらに、次の二つの下線部は時制についての疑問点でして、前者は過去完了、後者は過去です。ですのでこの部分は次のようにしたいです。

「ほかでもない、彼女は、彼にそんなもの[グラディーヴァへの関心]があるなどとは信じてこなかったのであり、それが、彼女には、どんなに妄想の偽装を凝らしていても、やはりそれそのものとして認識されたのである。」

 つづいて「現物そのもの」ですが、これにあたる語は原文にありません。次の文、「妄想はやはり単にそれの歪曲された不十分な模造でしかあり得なかったのである」の「それ」に相当する関係代名詞があるだけです。この関係代名詞構文は非常に訳しにくいので、「その歪曲された不十分な模造が妄想となるような何か」とでも訳すしかありませんが、私としては、構文を少しいじって、不要な語は補わずに、次のように訳したいと思います。

「今や妄想が、そのもととなるものによって代替されてしまったので、彼は自由の身になったと感じた。妄想はやはり単に何かの歪曲された不十分な模造でしかあり得なかったのである。」

 周囲の文脈も考慮すると、ここで言われている妄想のもととなるものとは、岩波版にあるような「現物そのもの」よりはむしろ、「幼少期の彼女との想い出」であろうと思われます。

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11)

2008年5月 8日 (木)

フロイト全集9から『性格と肛門性愛』2

 以前の人文書院版のころから、この論文の長い原注の意味がよくわかりませんでしたが、今回ちょっとよくわかった気がします。

「いやはや、目の前のココアを見ていて、子供のころにいつも考えていたことを思い出しました。あのころ私はいつもこんな想像をしていました。私はココアメーカーのヴァン・ホーテン(彼はこの名前をヴァン・ハウテンと発音していました)でして、この美味しいココアをつくるためのすばらしい秘密を握っているのですが、世界中を幸せにするこの秘密を奪い取ろうと、皆がよってたかって躍起になっているため、私は細心の注意を旗ってこの秘密を守り通している、という想像です。」(岩波版283頁)

 ここで、『ココア』には訳注が付されていて、「ドイツ語では糞のことをKackeとも言い、そこから幼児語では糞はKakaと発音されることも多く、ココアは糞と言語音声上の連想でつながっている」と説明されています。勘の鈍い私には、これだけの補足説明では原注全体の意味がよくわからなかったので、必然的にこの訳注についてもどのぐらい信頼してよいか迷っていたのですが・・・。

 まず、私の電子辞書のクラウン独和で引いてみたところ、『ココア』にあたる独語『Kakao』の3番目の意味として『(話)糞便』が載っています(大辞典2冊にはいずれも載ってませんでしたが)。これでまず『ココア=糞便』という等値に納得がいきました。それを踏まえて、次の『ココアメーカー』ですが、原文で『Kakaofabrikant』なので、文字通り読むだけで『ココアメーカー=糞便製造者』という意味にとれます。私はこれに今回初めて気づくことができたことをきっかけに、原注全体に納得することができました。『私』は、たとえば手作業によってココアをつくるのではなく、自らの体そのものが『糞便製造者』だというイメージが掴めたからでした。

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11)

 それにしても、世界最高の現役サッカー選手の一人の名前がドイツ語では糞便そのものを表すんですねえ。

2008年5月 4日 (日)

フロイト全集9から『性格と肛門性愛』

 肛門性愛というのは、フロイト理論のなかでも、かなり受け入れ難いテーマのひとつと言えると思います。そんな馬鹿なことが・・・とつい思ってしまいがちですが、このテーマは我々成人の意識的な思考のなかにそのまま入ってくるものではないということを忘れてはなりません。一方で、去勢恐怖とか、父への敵対心とかは、成人が思い浮かべてみてもある程度感情移入できてしまうのですが、これらについては逆に、意識的に思い浮かべてみるという事態と無意識で生じている事態とを安易に混同しないよう気をつけなければならないのです。

 翻訳については、気になるところが第一段落にありました。

 精神分析を駆使しての支援の試みがなされている人たちのなかには、次のようなタイプがかなりの頻度で見受けられる。すなわち、一方ではある特定の性格諸特性を顕著に併せもっていると同時に、幼年期のころにある身体機能ならびにその機能を果たしている諸機関の働き方に注目すべきところのあった人たちである。ここから、この性格とこうした器官の働き方には何らかの切り離せない関連があるはずだといった印象が私のなかで膨らんできたわけであるが、それが具体的にどのような誘引によったのかは、今日ではもう定かでなくなっている。ただ、こうした印象が出来あがるのに、理論面での予断といったものがいっさい関与していなかったことは確かである。(岩波版279頁)

 はじめの下線部、「切り離せない」は、原書では「organisch」です。この語はフロイトの他の箇所に出てくれば普通「器質的な」と訳されるでしょう。たとえば同じくフロイト全集9巻では310頁4行目にあります。ですから翻訳の際、あえて訳者はこの語を避けたのだと思いますけれども、私としては、意味的にもここを「器質的な」と取っておきたい気がします。

 二つ目の下線部、「誘引」は、おそらく変換ミスまたは誤植でして、「誘因」が正しいです。

 最後の下線部は、原文ではもう少し弱いニュアンスなので、「確かといえる」ぐらいにしておきたいところですし、意味的にも通りが良くなると思います。

 精神分析を駆使しての支援の試みがなされている人たちのなかには、次のようなタイプがかなりの頻度で見受けられる。すなわち、一方ではある特定の性格諸特性を顕著に併せもっていると同時に、幼年期のころにある身体機能ならびにその機能を果たしている諸機関の働き方に注目すべきところのあった人たちである。ここから、この性格とこうした器官の働き方には何らかの器質的な関連があるはずだといった印象が私のなかで膨らんできたわけであるが、それが具体的にどのような誘因によったのかは、今日ではもう定かでなくなっている。ただ、こうした印象が出来あがるのに、理論面での予断といったものがいっさい関与していなかったことは確かといえる

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11)

2008年4月29日 (火)

フロイト全集9から『ヒステリー性空想、ならびに両性性に対するその関係』

 夢や白日夢、空想とヒステリー症状との関係についての論文です。この邦訳のなかで気になったところを挙げます。

夜の夢では、ほかでもないこの種の白昼の空想が、複雑にされ、歪曲され、意識的な心的審級によってあえて曲解されたかたちで、夢形成の核をなしているからである。(岩波版242頁)

 意識的審級が「あえて曲解する」というと、夢の二次加工を指すように思えてしまいますが、二次加工された顕在夢が夢の核であるというのはちょっと変です。原文でここに対応する表現は単に「missverstanden」なので、「誤解する」「思い違いをする」といった意味に捉えればよく、「あえて」というニュアンスはありません。語順もいじって次のように改めたいと思います。

夜の夢では、ほかでもないこの種の白昼の空想が夢形成の核をなしているが、複雑にされ、歪曲され、意識的な心的審級からは誤解されているのである。

 ところでこの論文では、パラノイアの空想についても触れられています。後年には、パラノイアについては同性愛的空想からの防衛であるとか、ナルシシズム的段階への回帰だとか言われるようになるのですが、この論文ではそうした理論にまだ到達していないためか、パラノイアについて「性欲動のサディズム=マゾヒズム的成分」との関係に言及されていますけれど、そこらへんがこの論文の今ひとつ私にはよくわからないところです。

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11) 

2008年4月16日 (水)

フロイト全集9より『舞台上の精神病質的人物』6

 この論文について、かつて作成した拙訳を岩波訳と比較してきたシリーズの最終回です。 

というのも、神経症の病者とは、われわれにとっては、その内部にいかなる葛藤が渦巻いているのか -それが動かしがたい域に達しているような場合には- まるで想像も付かないたぐいの人種だからである。(岩波版p180)

というのは、罹患中の神経症者の葛藤は、我々にとって、彼が葛藤を既存のものとして携えている場合には、全く見抜くことが出来ないからである。(拙訳)

 ここで岩波版で「動かしがたい域に」と訳されている「fertig」という語は、岩波版176頁で「すでに仕上がっている」、180頁の後半では「完全に出来上がった」と訳されており、こここでのみ「動かしがたい」と訳し分けなくても良いのではないかと思います。拙訳が採用した「既存の」という語もさほどよいとは思いませんが。

 次です。

とするなら、詩人の課題は、われわれを病者と同じ病気の状態に移し置くということになるわけで、これがもっともうまくいくのは、われわれがこの病者と同じ病的展開をたどっているときということになるだろう。(岩波版p180)

作者が、我々をしてこの疾患に身を置かせることを課題としていることもありうるが、これは我々がストーリーの展開に作者と一緒に参加する際に最も良く起こる。(拙訳)

 原文の代名詞が指す人物を、岩波版は「病者」、拙訳では「作者」としています。私は、「作者」以外の名詞は前の文に出たきりなので遠く感じられ、「作者」としましたが、岩波版を見て考え直しますと、意味からしてやはり「病者」としたいと思います。

バールの『もうひとりの女』には、どうやらこの手の失敗がのぞいているように思える。加えて、もう一つ問題ばらみの失敗にも気づかされる。すなわち、われわれは、この主人公の娘を充分に満足させるのにどうしてもこの一人の男でなければならないという点に、はっきり確信をもって共感できないということ、つまり彼女の事例が、われわれに共通のものになりえていないということである。(岩波版p180-181)

この〈前々段の条件1に関わる〉欠陥を、バールの『他の人々へDer Anderen*2』が提示している。それに加えて、問題となるもう一つの〈条件2に関わる〉欠陥がある。すなわち、ある男性が娘を十分に満足させるという特権性を持つということについて、その心情を感じ取って納得することなど我々にはできないということである。彼らの場合はそれゆえ我々には該当しない。(拙訳)

 作品タイトルの「Der Anderen」を、私は複数形ではないかと思ったのですが、岩波版では女性単数とされています。ただし拙訳のほうが正しいと言い切る自信はないです。

 それと、岩波で「彼女の事例」とされている「Ihr Fall」のIhrも、私は複数と思いました。すなわち、ある女性と、その女性にとって特権的男性の両者を指すと考えたのです。しかしこれも拙訳のほうが正しいと言い切る自信はないです。

 これまで6回に分けてみてきましたが、大変勉強になりました。本邦未訳論文はまだいくつかありますので、そのいくつかは、岩波から出る前に自分で訳してみたいと思うようになりました。

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11) 

2008年4月 1日 (火)

フロイト全集9より『舞台上の精神病質的人物』5

 この論文について、岩波版フロイト全集の訳を用いて、かつて私が作成した訳の間違いを探しています。

 なぜなら、抑圧された心の蠢きを公然と露出させ、これをある程度まで意識化して是認することが、もっぱら嫌悪をもたらすのではなく、むしろ快をもたらしてくれるといった可能性は、神経症者においてしか望めないからである。神経者でない場合には、そうした是認は、ひとえに嫌悪されるだけであり、あらためて抑圧の行いをくりかえそうという態勢を呼び起こすだけである。というのも、そうした人たちにあっては、すでにこの抑圧は成功している。つまり、抑圧された心の蠢きが、かつてなされたあの一度の抑圧消費によって、完膚なきまでに相殺されているからである。ところが神経症者の場合は、この抑圧は、今にも崩れそうなほど不安定になっており、つねに新たな消費をつぎこむことが必要である -この消費は、抑圧された心の蠢きが是認されたときはじめて不要となるものだからである。この種の闘いが劇の主題となりうるのは、もっぱら神経症者においてのみであるが、むろん、こうした神経症者の場合でも、詩人は、解放の悦びだけを産み出すのではなく、そうはさせじとする抵抗をも産み出すことになる。(岩波版178頁)

 というのは、ただ神経症者にとってのみ、抑圧された動きの露呈やそのある程度の意識的再認が、単なる嫌悪に代わる快楽を準備しうるからである。すなわち非神経症者においては、そのような動きは単なる嫌悪に遭遇し、抑圧行為を反復しようという心構えを単に招くだけであろう。というのも、非神経症者ではこの抑圧は成功してきたのであり、抑圧された動きは、一回限りの抑圧労力で完全な平衡状態に保たれてきたからである。神経症者の場合、抑圧は失敗しつつあって、不安定で、確実に新たな労力を要する。ただしこの労力は、再認によって省くことができるだろう。神経症者においてのみ、劇の題材になりうる闘争が存続し、作者は神経症者に単なる開放の享楽ではなく、抵抗をも引き起こす。(拙訳)

 ひとつ目の下線部は、原文の代名詞が示すものが何かという点で岩波版と拙訳が異なっています。文法的にはどちらも可能ですが、ここでは非神経症者が劇を観ているときのことを言っていると考えれば、岩波版の方が良さそうです。

 ふたつ目の下線部は、原文では単なる関係詞節ですが、岩波版では前文の理由を示す節として訳されています。ここでは、抑圧された動きを認めることによって不要になった消費のエネルギーが、快楽をもたらすことを言いたいのであって、むしろこの節は次の文で示される事態の理由になっています。よってここは拙訳を取りたいです。

 次の箇所に移ります。

これによって抵抗がいくぶんかでも抑えられることは確かなところである。それは、分析作業においても見られるところであり、抑圧されたものは、通例意識への進入を拒まれているにもかかわらず、抵抗が小さくなると、そのひこばえが意識へとのぼってくるのである。(岩波版179頁)

その結果抵抗の一部が省かれることは確かであり、それは分析中にみられる次のような場合と同様である。すなわち、抑圧されたものの派生物は、抑圧された当のものを拒んでいる抵抗が減少する結果として意識へ到来するのである。(拙訳)

 ひとつ目の下線部は、前の引用箇所では岩波版で「不要になる」と訳されていた語が用いられているので、揃えた方がいいでしょう。労力が不要になって、あまったエネルギーが快に変わるという事態が大切です。

 ふたつ目の下線部ですが、「抑圧されたもののひこばえを拒んでいる」という関係詞節の先行詞が、岩波版では「意識」であり、拙訳では「抵抗」です(die Abkoemmlinge des Verdraengten infolge des geringeren Widerstandes zum Bewusstsein kommen, das sich dem Verdraengten selbst versagt.)。この箇所はやはり岩波版が正しいと思います。しかし、岩波版のように「抵抗が小さくなると、そのひこばえが意識へとのぼってくる」のではなく、「そのひこばえたちは、それらへの抵抗が小さいので、意識へとのぼってくる」のだと思います(論文「抑圧」参照)。ただし拙訳でもそのようには読みがたいので、次のように改めたいです。

その結果抵抗の一部が省かれることは確かであり、それは分析中にみられる次のような場合と同様である。すなわち、抑圧された当のものは意識へ到達できないが、抑圧されたものの派生物たちは、それらへの抵抗が小さいので、意識へ到来するのである。(拙訳)

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11) 

 こうして比較してみると実に勉強になります。

2008年3月25日 (火)

フロイト全集9より『舞台上の精神病質的人物』4

 この論文の岩波版での翻訳について、拙訳(HPにて公開)との比較の続きです。

 それは、葛藤という 筋立てでなければならず、そこには、意志の努力とそれに対する抵抗がはらまれていなければならない。(岩波版p176)

 すなわちそれは葛藤からくるストーリーでなくてはならず、意思と抵抗との苦闘を含まねばならない。(拙訳)

 意志と抵抗うんぬんの部分ですが、岩波版は「努力」と「抵抗」が同格と捉えているのに対して、拙訳では「意思」と「抵抗」とを同格としています。原書では「Anstrengung des Willens und Widerstand」となっています。「Willens」が2格である一方で、「Widerstand」は2格ではなさそうですから、拙訳は間違いでして岩波の訳が正しいです。拙訳の訳語をそのまま用いるなら、「意思の苦闘と[それへの]抵抗」となります。

 この性格悲劇は、アゴーンに付き物のあらゆる興奮を利用するもので、人間的諸規則の縛りを捨て去った際立った登場人物たちによって演じられると成果があがるゆえ、本来は一人以上の主人公をもたねばならない。(岩波版p177)

 これは競争[Agon,葛藤]のあらゆる興奮を伴い、人間制度の諸々の制限から自由な傑出した人物たちの間で、利得の獲得を目指して演じられるものであって、本来、二名以上の主人公がいなければならない。(拙訳)

 「効果が上がる」「利得の獲得を目指して」という全く違った訳のもととなったのは、原文では単に「mit Gewinn」という副詞句です。これも辞書をひいて考え直してみると、やはり岩波版が正しいように思われます。

 同じ引用箇所でもうひとつ、「mehr als einen Helden」は「一人より多い主人公」ですから、日本語では「二人以上」が正しいと思ったのですが、ここは拙訳のほうが良さそうです。

 今回は私の間違いが目立ちました。岩波版を読むと「ああそうか」って感じですぐに拙訳の間違いに気づくんですけども、一人でミスなく翻訳することは難しいですねえ。

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11) 

 最近変な事件や変な鑑定結果のニュースが多いですねえ。しかし報道内容と事実がだいぶ違うことが多いこともあるんで、何ともわからないというのが正直なところ。

2008年3月19日 (水)

フロイト全集9より『舞台上の精神病質的人物』3

 岩波から初訳が公刊されたこの論文について、拙訳(HPで公開中)との比較の続きです。構文の取り方に違いがなければ細部をいちいち取り上げずに進んでいるのですが、文章表現の上手さでは拙訳はかなり見劣りがしますので、そうした細かな相違点ではほとんど岩波版に軍配が上がりそうです。

 さて気になる箇所ですが、ややこしいので独文も提示してみます。

しかし、問題となるこの苦しみは、やがて心の苦しみにのみ限定されてくる。というのも、身体的な苦しみを欲する者など誰一人いないからだし、いかなる心の悦びも、身体的苦しみを見せつけられることによって変容した身体感覚によって、すぐに終わってしまうことは、誰しもよく知っているからである。病気を患っている者が抱く欲望は、唯一、健康になりたい、この病の状態をおしまいにしたいということである。(岩波版p175-6)

さらにこの苦悩は、ほとんど精神的苦悩に限定される。というのも、身体的苦悩の際に変化する身体的感情があらゆる精神的享楽を直ちに終結させてしまうということを知っている者は、誰も身体的に苦悩しようとはしないのである。患っている者は、健康になりたい、病態から脱したいという願望だけを持っており・・・(拙訳)

Doch schraenkt sich dieses Leiden bald auf seeliches Leiden ein, denn koerperlich leiden will niemand, der weiss, wie bald das dabei veraenderte Koerpergefuehl allem seelichen Geniessen en Ende macht.

 相違点はまず、「niemand, der weiss...」のところを、拙訳では限定的用法の関係代名詞と取って「・・・である者は誰も・・・ない」としている一方で、岩波版では何の限定もなく「誰も・・・ない」としたあとに付加説明としていることです。私が持っている辞書3種では、「Niemand」(英語のno oneに相当)が関係詞の先行詞になる例文が載っていませんが、限定的用法がないわけはないと思います(英語の「nothing」に相当する「Nichts」についてなら、「Ich glaube Nichts, was ich nicht mit eigenem Augen gesehen habe.私は自分の目で見たものでなければ[何も]信じない」が載ってますし)。引用箇所を意味から考えてみても、少なくともフロイトの精神分析の立場からは、「身体的な苦しみを欲する者など誰一人いない」というのは自明ではないと思いますので、やはり限定が必要ではないかと思います。

 次に、「dabei」という副詞を、岩波版は「身体的苦しみを見せつけられることによって」、拙訳は単に「身体的苦悩の際に」としている点です。もちろん岩波版は直訳ではなく言葉を補った結果なのですが、ここでは「見せつけられる」立場にたった観客について述べているとの解釈のようです。しかし、その直後の文での補足説明は、観客ではなく病人一般について述べられています。引用した箇所よりも二つ後ろの文ではじめて観客の苦悩について述べられていますが、岩波訳ではその内容を先取りしてしまっているという印象を受けます。

 今回はいつもよりさらに細かい内容になってしまいました。

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11) 

 カシオの電子辞書に、小学館ロベール大仏和を収録したものや、小学館独和大辞典を収録したものが登場していたことを知り、前者をさっそく注文しました。とくにロベールは書籍の場合かなりかさばりますから電子辞書の登場は大助かりです。喫茶店や出張先でラカンを読むにはクラウン仏和では(エクリはもちろんセミネールにも)力不足でしたが今後は大幅にはかどるのではないでしょうか。ワインの選び方事典も収録されているらしく、これも読書会中にちょっと飽きたときなどに開いてみる楽しみのひとつになりそうです。

 これまで使っていたのはクラウン仏和の他にリーダーズ/リーダーズプラス英和が入っていたので、リーダーズプラスで英米のヒット曲の解説を読むのもけっこう楽しいものでした。たとえば「Maneater」の項を引くと、「マンイーター(Hall & Oatesの1982年のヒット曲;この曲のベースギターによる前奏は‘You Can't Hurry Love’の前奏をそのまま使いMotownサウンド風になっている)」。

2008年3月 7日 (金)

フロイト全集9より『舞台上の精神病質的人物』2

 岩波から初訳が出たこの論文について、かねてからHPに公開している拙訳との相違点の検討を続けます。

「観客は、世界の賑わいの中心に確たる我として立ちたいという功名心の炎も、すでにとっくの昔に鎮火させ、いやむしろ、どこか他のものへと置き換えざるをえなかったのであり、そのため自ら感じ、活動し、すべてを自分の思うがままに切り盛りしたいと望んでいる。つまり主人公[英雄]になりたいと望んでいるのである。」(岩波版173-4頁)

「観客は・・・世界の激動の中心にわれとして立ちたいという野望をずっと前から抑え、あるいはせいぜい延期せねばならなかった。彼は、すべてが思い通りに作られていると感じたい、そのように力を振るいたいのであり、つまりは主人公でありたいのである。」(拙訳)

 ひとつ目の下線部は原語では「verschieben」であり、これは「移動する、置き換える」といった意味のほか「延期する」という意味もあります。原文には、「・・・を・・・と置き換える」という訳の「・・・と」にあたる部分がありませんし、「延期する」で良かったのではないかと今も考えています。

 次の下線部は、拙訳は完全に間違っています。「er will fuehlen, wirken, alles so gestalten, wie er moechte, kurz Held sein,」ですが、「gestalten」は「fuehlen, wirken」とともに助動詞「will」の支配下にあります。いま読むとどうして間違ったかわからないほど明瞭なミスです。「彼は、感じとり、作用を及ぼし、すべてを思い通りに作りたいのであり」としておきます。

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11) 

 フロイト全集8巻の『機知』も届きました。この論文で扱われるドイツ語の機知とくに言葉遊びについて、人文書院の著作集の訳ではほとんどおもしろみが伝わってきませんでしたので、かつて私は(ドイツ語は全く話せない程度の力しかもちあわせないながらも)辞書と見比べながらなんとか面白さを見出そうと努力し、著作集の訳の誤りを発見した場合にはHP上に公開していましたが、今回の岩波版の訳には自分が考えたのと同様の解釈が幾つもあって、大変うれしく思います。

2008年2月18日 (月)

フロイト全集9より『舞台上の精神病質的人物』

 この論文に書かれている演劇(戯曲)論は、無意識的なメカニズムから論理を積み上げて説明されるのではなく、かなり現象に即して語られており、そのため非常にわかりやすい論になっていると思います。精神分析の論文としてはやや物足りないのは確かですが。

 この論文はこれまで未訳だったものでして、じつは私もかつて全訳を試みてホームページにすでに公開しているんです。その後に公刊された岩波版『フロイト全集』の訳と見比べてみると、拙訳の方がかなりの直訳ということもあって全くスタイルが違うので、両方の訳にそれなりの存在価値がありそうに思うので、現在もそのまま公開中です。

 今回から、両者を見比べながら大きな相違点についてひとつずつ考察してみます。

ちょうど、お笑いや機知などが、われわれの知的作業のなかから、普通ならそこに現れた試しがないような数々の快の泉を打ち開くのと同じである。(p173)

[まさに]これは滑稽や機知の場合に[常日頃]そうした数多くの源泉を到達不能にしてきた我々の知的作業からの源泉の蓋を開けるのと同様である。(拙訳)

 ここは原文では、「aus unserer Intelligenzarbeit, durch werche [sonst] viele solcher Quellen unzugaenglich gemacht worden sind」、つまり「普段はわれわれの知的作業のせいで、快の源泉へは接近不能になっていたのだが、まさにその知的作業から(快の源泉を開く)」というところが面白いところだと思います。なので、ここには(並べてみると拙訳は文章が下手だなあと感じつつも)拙訳のニュアンスが必要ではないかと思うところです。

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11) 

2008年2月13日 (水)

フロイト全集18から『夢解釈の理論と実践についての見解』5

 この論文の翻訳の問題についてはこれで5回目ですが、ひとまずこれで最後にしようと思っています。

夢にたいするこうした干渉を許すかどうかはひとえに、批判をこととする自我審級にまかされており、それゆえ、この審級が無意識の欲望成就から刺激を受けて、睡眠状態のあいだ一時的に再生したと想定せざるをえない。この審級は、そうした欲望されざる夢内容に対して反応し、[夢をみていた人を]覚醒させることもできたかもしれない。(186頁)

 ここは、「欲望成就」がすなわち「欲望されざる夢内容」だということになってしまっています。前者は無意識にとって「欲望成就Wunscherfuellung」ですが、後者は、批判的審級からみて「望ましくないunerwuenschten夢内容」だということで、原書では微妙に異なる語を用いられていることでもありますから、訳し分けた方がいいでしょう。

夢にたいするこうした干渉を許すかどうかはひとえに、批判をこととする自我審級にまかされており、それゆえ、この審級が無意識の欲望成就から刺激を受けて、睡眠状態のあいだ一時的に再生したと想定せざるをえない。この審級は、そうした望ましからざる夢内容に対して反応し、[夢をみていた人を]覚醒させることもできたかもしれない。(186頁)

 ちなみにこのなかの「刺激を受けてreizen」は、181頁や182頁にでてくる「医師から受けた刺激」「医師の刺激」といったあたりの「Anregung」とは別の語で、後者はむしろ「そそのかし」ぐらいに訳すべきところです。

 この論文の最終段は自我理想の概念についてきわめてクリアに述べていますね。この自我理想の起源であった対象との関係について、『集団心理学』の論文の図が思い出されます。

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

 訳が悪い悪いと言いながら、光文社古典新訳文庫の続刊が出ていたので買ってしまいました。タイトルは『人はなぜ戦争をするのか』です。

2008年2月 7日 (木)

フロイト全集18から『夢解釈の理論と実践についての見解』4

 しつこくこの論文の翻訳について。私には次の文も意味が取りづらく感じられました。

無意識の空想に対しては、想起感情を期待することはまったくできないが、当人の主観的な確信が残っているということは、場合によっては考えられる。(183頁)

 下線部は、原文では「moeglich bleiben」なので、「やはり可能なままである」とか「可能性が残っている」といった意味です。岩波の訳文は、形容詞「moeglich」を、副詞「moeglicherweise」のように受け取ってしまっている気がします。次のように訂正したいです。

無意識の空想に対しては、想起感情を期待することはまったくできないが、当人の主観的な確信感情はやはり[現れる]可能性が残っている

 あとは、同じ頁の後ろの方にもう一箇所、本当に些細な点ですが、主語が抜けている箇所があって、フロイトなのか患者なのか明示することが必要と思います。

私は、彼のみた夢は予想もできなかった個別的な事柄の総和であること、治療中の彼のふだんの行動は、迎合に由来するものでは全くないことを、弁じたてたものである。(183頁)

私は、彼のみた夢は私が予想もできなかった個別的な事柄の総和であること、治療中の彼のふだんの行動は、迎合に由来するものでは全くないことを、弁じたてたものである。

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

2008年2月 5日 (火)

フロイト全集18から『夢解釈の理論と実践についての見解』3

 この論文についての続きです。次の部分は、訳文だけでは私には意味が取れませんでした。

 右に述べた前意識的な夢思考の関与部分を別とすれば、まともな夢はいずれも、みずからを形成するに足るだけの、抑圧された欲望の蠢きへの示唆を含んでいる。これを疑う人はいうであろう、欲望の蠢きが夢のなかにあらわれるのは、夢をみた人が、そういう蠢きを提示しないといけない、つまり精神分析家がそれを待ち望んでいると承知しているからにほかならない、と。(181頁)

 「関与部分」というのは変な日本語ですが、原書では「Anteil」なので、「因子」「成分」とか、単に「部分」ぐらいの意味です。それはいいとしても、「みずからを形成するに足るだけの」は「みずからを形成させてくれるだけの」に変えたいですし、「欲望の蠢きへの示唆」は、「Hinweise auf die verdraengten Wunschregungen」ですので、「欲望の蠢きについての(われわれへの)示唆・ヒント」です。それと、次の文の主語は、三人称複数代名詞「sie」ですが、これは上記の「示唆・ヒント」を示していると思います。よって以下のように修正します。

 右に述べた前意識的な夢思考という因子[=関与部分]を別とすれば、まともな夢はいずれも、みずからを形成させてくれる抑圧された欲望の蠢きについての示唆を含んでいる。これを疑う人はいうであろう、そうした示唆が夢のなかにあらわれるのは、夢をみた人が、そういう示唆を提示しないといけない、つまり精神分析家がそれを待ち望んでいると承知しているからにほかならない、と。

 ここらへんは、無意識的な因子の付加について説明しているというふうに読んで意味が通るようになったと思います。

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

2008年1月31日 (木)

フロイト全集18から『夢解釈の理論と実践についての見解』2

 岩波版全集の中では珍しく日本語の意味が取りづらい(=誤訳の存在が疑われる)箇所が多い、と前回書きましたが、今回はこの論文の問題点の続きです。

「患者の側に両価的な葛藤がある場合、その心中に生じる敵対的な思考は、情愛の蠢きの持続的克服、つまり葛藤の決着を意味しない。同様に、敵対的な内容の夢も、そうした意味を持たない。こうした両価的な葛藤があるあいだは、毎晩それぞれ異なる立場に与する二つの夢をみることも多い。そのようなときの治療の進展は、真っ向からむかいあっている蠢きを根本的に分離したうえで、そのおのおのの無意識を増強させて極端なところまで追求して、正体を究明することにある。」(180頁)

 ひとつ目の下線部ですが、もとの訳の「心中に生じる」では無意識的な思考も含まれてしまいそうですけど、原文では「彼に浮かぶ」、つまり意識に浮かぶということです。

 さらに、ふたつ目の下線部、とくに「無意識を増強する」は意味がよく分かりません。原文では「mit Hilfe der unbewussten Verstaerkungen」ですが、この「Verstaerkungen」は辞書では「1(単数で)(verstaerkenすること、例えば)強化、補強」「2 増援部隊、援軍」とあります。ここは、複数形だからというだけではなく意味から言っても、後者の意味と取りたいです。といいますのは、訳文でこの下線部は、二種類の夢が登場した後の、治療の次の一手を説明しているように読めますけれど、そうではなく、二つの夢が形成されたという事態そのものの説明であるように思えるからです。時制が現在完了ですし、訳文の「治療の」という表現は原文にありません。

「患者の側に両価的な葛藤がある場合、彼[の意識]に浮かぶ敵対的な思考は、情愛の蠢きの持続的克服、つまり葛藤の決着を意味しない。同様に、敵対的な内容の夢も、そうした意味を持たない。こうした両価的な葛藤があるあいだは、毎晩それぞれ異なる立場に与する二つの夢をみることも多い。そのようなとき、以下の点で進展がある。すなわち、真っ向からむかいあっている蠢きの根本的な分離がすでに成功し、そのおのおのが、無意識的な助力を使ってその極端にまで追求され、理解されることができるという点である。」

 「無意識的な助力」とは、前意識的な潜在思考に加わって夢を形成させる力のことと思われます。

 この論文からはまだ何回か話題を拾えそうです。

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

2008年1月29日 (火)

フロイト全集18から『夢解釈の理論と実践についての見解』

 フロイト自らによるレジュメのような論文ですが、岩波版全集の中では珍しく日本語の意味が取りづらい(=誤訳の存在が疑われる)箇所が多いです。一般に、原文があまりにも簡潔だと、翻訳の際に文脈からヒントを探すことができないのでどうしても訳しづらくなるのはやむを得ないことですが、以下の箇所はもっと単純なミスのようです。

「彼らは、まだ分析の場で話さなければならない不快を、とにかく避けたいと思っているのだ。軍医による治療を受けてみて、前線での任務のほうが病気よりもましだと考えて、症状を受け入れてしまっている戦争神経症患者もまた同じ経済論的条件に服している」(179頁)

 下線部は原書では『verzichten』(の過去形)ですから、本来『放棄した』『断念した』といった意味です。訳文では逆の意味になってしまっています。文脈から言っても『放棄した』『断念した』が自然に思われます。

 しかしこの箇所にあるような、戦地の任務より厳しい治療っていったいどんなやり方なんだろうかと気になってきますね。軍隊ですから、根性を叩き直すしごきでも行われていたのでしょうか。戦地より厳しい精神分析というのはちょっと想像がつきませんけど。

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

 この論文の翻訳についてはまだ何回かにわけて問題箇所を拾いだしていかねばなりません。

2008年1月27日 (日)

社会って

 私は普通に『社会』という言葉を使うとき、かなり多くの人間から構成されるものを想定しますし、学校の『社会科』で扱われる内容もやはり同様であろうと思います。そのため乳幼児の発達について、まず乳児は両親との関係を結んだのち、次第に人間関係の範囲が広がって、最終的には社会的な関係を持つに到る、というふうに考えがちです。もちろん、社会学などでは家族を社会の最小単位として扱うということはあるのでしょうが、それはあくまで学問的な文脈で、しかもより大きな社会単位と関係づけて論じられることでしょう。

 こうしたなか、フロイトを読んでいて以下のような箇所に突き当たると、多少の違和感を覚えます。

 だから悪とはもともとは、愛の喪失の脅威にさらされることである。愛を喪失することにたいする不安から、人は悪を行わないようにしなければならないのである。その場合には人がすでに悪を実行したのか、あるいはただ実行しようと考えたのは、それほど大きな違いをもたらさないのである。どちらにしても、権威をもつ人に発見されただけで、この危険に直面しなければならないのであり、権威をもつ人はどちらの場合にも同じように振る舞うはずなのだ。
 この状態は『良心の疚しさ』と呼ばれるが、ほんらいはこの名前はふさわしくないものである。この段階では罪の意識はまだ、愛の喪失に対する不安であり、『社会的』な不安だからである。幼児においてはつねにこれ[=良心の疚しさ]は社会的な不安として現れるが、大人の場合にも、父親や両親の位置を、大きな人間の共同体が占めているという違いがあるだけで、結局は同じであることが多いのである。(『文化への不満』光文社古典新訳文庫248頁)

 すなわち、この最後の部分では、幼児が両親から愛されなくなることをおそれるという状況を『社会的』と呼び、一方で、大人になってから大きな共同体を想定するようになっても『結局は同じ』という言い方がされています。この言い回しからは、前者を『社会的』と呼ぶことのほうが当たり前というニュアンスが感じられてきます。一方で、我々の日常的な『社会』という語のイメージからすると、むしろ大人と共同体との関係のほうを『社会的』と呼んで、幼児と両親との関係も『結局は同じ』と言うほうが腑に落ちやすいように思われます。

 振り返ってみると、ここで我々は、精神医学を学んで間もないころ、「『社会恐怖』とか『社会不安』といった語は『対人恐怖』のことを表している、この場合に『social』という語は、『社会』というより『社交』に近い意味と考えるべきである」、と教わったときに少々違和感を感じたのと同じことを再び経験しているように思います。というのは、われわれ精神科医ですら、この『社会的』という語が、精神医学においては主に生身の人間との関係を示しているということを、この『社会恐怖(不安)』という言葉を用いるときを除いてほとんど忘れてしまっているからです。たとえば『社会生活技能訓練』というとき、対人場面の練習だけでなく金銭管理や調理その他の技能訓練も含めることが多いこともその一例でしょう。

 これに対して、「ほかの論文でフロイトも両親との関係から社会関係へ、という論旨を展開している。その場合の『社会』という概念は、国家や世論など抽象化された大集団を念頭に置いている」といった印象を持っている方もあるかもしれません。しかしそれは、フロイトの邦訳本で『社会(的)』と訳されている語には『sozial』以外にも、『gemeinschaftlich』や『gesellschaftlich』があって、抽象的で大きな『社会』を示すときには後二者が用いられること、そしてたいていは片方を『共同体』、片方を『社会』と訳されることから、結局邦訳だけを読むと、『sozial』と訳される『社会』とは訳し分けられず混同されてしまうことからくる印象のように思います。

幻想の未来,文化への不満 (光文社古典新訳文庫 Bフ 1-1)

フロイト (著), 中山 元 (翻訳)

出版社: 光文社 (2007/9/6)

2008年1月21日 (月)

フロイト全集18から『「精神分析」と「リビード理論」』

 この論文でもっとも印象に残ったのは、「病苦の症状が解消するのは、特別な努力目標として目指されるのではない。規則通りに正しく分析を実行すると、いわば副収益として症状が解消されるのである。」というところです。私の分析治療観にぴったりきます。ラカンの『対象関係』や『精神分析の倫理』といったセミネールで批判されていた精神分析家たちなら、おそらく自分たちの技法を使えば積極的に治癒へと導くことができると考えそうですが、私はそれらへ批判したラカンの方に共感を覚えます。

 翻訳については、細かいところを一箇所改訳したいです。

「精神分析は、心に生じる出来事がすべて、基礎となる欲動の諸力の働きに由来することを、大本から解明しなければならない。」(p168)

「精神分析は、心に生じる出来事をすべて、基礎となる欲動の諸力の働きのうえに構築してみせねばならない。」

 ただしここで『aufbauen』という語に『構築する』という訳を当てましたが、岩波版全集の他の箇所ではたぶんこの訳語は『konstruieren』に当てられていると思われますので、注意が必要です。ところで、後者を独和で引くと、『構築する』という訳語そのものは載っておらず、『建造する』の他は、『作図する』『でっち上げる』といった意味みたいです。フロイトが『Konstruktion構築』をテーマにした論文は、岩波版全集では21巻で刊行されるでしょうから、21巻発売までこの辞書的意味を覚えておこうと思います。

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

2008年1月19日 (土)

フロイト全集18より『17世紀のある悪魔神経症』2

 この論文の翻訳について、前回に引き続いて契約書の事実関係にまつわる訂正点です。

「数日後マリアツェルに到着すると、画家は一転して、二通目の血による証文を取り返すことだけを考えることになる。契約期限が切れるのはまだまだ先のこと(一六六九年から一六七七年[期日はあと一年先である])であり、最初の契約書の期限は切れて、二通目の契約書を返してもらうことになる。」

 これはおそらくまったく誤りではないのですが、私には意味が取り難く感じられました。「最初の契約書の期限は切れて」の部分が、この時点より未来のこととして読むことができなかったからです。以下のように微妙に改めたいと思います。

「数日後マリアツェルに到着すると、画家は一転して、二通目の血による証文を取り返すことだけを考えることになる。これの契約期限はまだ迫っていない(一六六九年から一六七七年)。最初の契約書のほうは放置され、そのまま期限が切れてしまうことになる。」

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

2008年1月12日 (土)

フロイト全集18より『17世紀のある悪魔神経症』

 この論文でフロイトは、病歴に関する記憶のねつ造について扱い、さらには暗示が病を引き起こすことがありうるとも述べています。一般に、精神分析中に想起された幼児期記憶は、事実無根のでっちあげであることがあって、とくに被分析者が虐待体験を語る場合には諸外国では訴訟に発展したりといった問題も起こりうるわけですが、こうした事態について、その責をフロイトに帰せられることもあるように思います。しかしこの論文を読めば、そうした非難こそ事実無根であって、フロイトに関する先入見・ねつ造に由来するものだとさえいえそうです。

 翻訳に関しては、次の箇所を問題としたいです。

「ポッテンブルンの司祭の紹介状では、単純かつ明確な事実だけが書き記されていた。ここでは、ハイツマンが九年前に血でしたためた契約書について言及されているだけである。この契約の日付[一六七七年]九月二十四日から、画家が契約書を書き渡したのは[九年前の]一六六八年九月二四日のことになるが、この逆算から確実に導き出される契約の年は、紹介状の中では明記されていない」(p216)

 下線部の「契約の日付」という箇所は不正確で、一読した際にはここの事実関係がすぐに飲み込めません。ここは原文通り、「数日後に迫った約束期限の日付」としておけばさらりと読むことができます。なお、ここはp210に述べられている事実関係をもう一度述べている箇所ですので、そちらも参照すればよりはっきりするでしょう。

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

2008年1月 7日 (月)

フロイト全集17から『女性同性愛の一事例の心的成因について』

 この論文で紹介されている症例は、ラカンがあちこちで引用し、自らの論を説明するための例として使用しています。しかしこの論文そのものの症例記載はかなり簡潔であって、フロイトの論旨にとって必要な概略のみが語られています。なので、この論文からフロイトが述べた以上の帰結を引き出すというのは、かなり無理があるんじゃないだろうかというのが正直な感想です。

 この論文もやはり読みやすく良い訳と思いましたが、次の点を挙げておきます。

「・・・それ以前、彼女のリビードは母性に向けられていたのだが、これ以後、彼女は自分より成熟した女性に恋着する同性愛者になり、以来そのままであり続けている。」(p249)

 「リビードは母性に向けられていた」という部分は、母性を性的志向の対象としていた、という意味に読めてしまいます。ここは原文では「auf Muetterlichkeit eingestellt gewesen sein」ですが、この「auf...eingestellt sein」を辞書で引くと、「・・・に対する(心の)準備ができている」という意味のようです。すなわち上の引用箇所はむしろ以下のように読むべきでしょう。

「・・・それ以前、彼女のリビードは母性という態度をとる準備ができていたのだが、これ以後、彼女は自分より成熟した女性に恋着する同性愛者になり、以来そのままであり続けている。」

 これはすぐ前の段落、「当時彼女は、自らも母になりたい、子供を持ちたいという強い欲望にとらわれていたのだ」という部分と突き合わせてみても整合的に思えます。彼女は、16歳頃に母親が妊娠するまでは、むしろ自ら母になるべき準備状態にあったのでした。

フロイト全集〈17〉1919‐1922―不気味なもの、快原理の彼岸、集団心理学

須藤 訓任 (翻訳), 藤野 寛 (翻訳)

出版社: 岩波書店 (2006/11)

2008年1月 4日 (金)

フロイト全集18から『神経症と精神病』

 これ以外の論文、たとえば『精神分析入門』では、精神病とメランコリーはいずれも自己愛神経症としてまとめられていましたが、この論文では後者のみがナルシス的精神神経症と呼ばれるようになっているところが目を引きます。そして前者は自我と外界の、後者は自我と超自我との葛藤に由来するとされています。この論文で精神病の例としては幻覚性錯乱(ほぼ非定形精神病に相当するでしょう)と統合失調症が挙げられています。

 『ナルシシズム入門』では、パラノイアの注察妄想・追跡妄想において外部から監視する審級について、自我理想に由来するものだと説明されていました。まさかこの『神経症と精神病』を書いた時点でのフロイトが、パラノイアを精神病から除外してナルシス的精神神経症の方に分類しているなんてことはなさそうに思いますけど(パラノイアではこの審級が外部へ投影されますし)、でもこの論文でちょっとパラノイアについても触れてほしかった気がしました。

 この論文での翻訳上の問題として次の一文を挙げておきたいと思います。

「・・・つまり自我は、エスの要求分に対して抑圧を行使する力、抵抗への対抗備給によって確固なものとなる力である。」(p240)

 ここで「抵抗への対抗備給」とあるのは、独語では単に「die Gegenbesetzung des Widerstandes」でして、素直に「抵抗の対抗備給」または「抵抗という対抗備給」と訳すのが正しいでしょう。

 エスの無意識的なものが意識に浮上しようとするのに対して、それを抑えつけようという「抵抗」として役立つのが「対抗備給」です。たとえば『制止・症状・不安』の11章『補足 A(a)』には、まさに『抵抗と対抗備給』と題してこのあたりの事情が説明されている箇所があります。人文書院版フロイト著作集6巻では「対抗備給」ではなく「反対充当」と訳されているあたりを少々改変して下に引用しておきます。

「・・・そこで欲動の持続性のために、自我も消費をつづけて、その防衛行動を確かにせざるをえなくなる。抑圧をまもろうとするこの行動は、われわれが治療につとめるときに抵抗として感ずるものである。抵抗は、私が対抗備給とよんだものをその前提とする。・・・
 われわれが分析にあたって克服せねばならぬ抵抗が、対抗備給を固執する自我から起こっていることを以前に明らかにした。・・・」(人文書院版フロイト著作集6巻p366-7)

 なお対抗備給については、おなじく人文書院版著作集6巻の『無意識について』第4章、『抑圧の局所性と力動性』にも詳しく説明されています。

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

 書店・文具店・雑貨屋に行くと手帳・ダイアリーが山ほど売れ残っていて、売れた数より多いんじゃないかと思うほどですが、あれで商売が成りたつということになると原価はいったいどれほど安いんでしょう。

2007年12月26日 (水)

もっと充足されるのを容認すべき欲動

 前回取り上げた『精神分析への抵抗』のなかに書かれていた、「もう幾分か充足されるのを容認すべき」欲動とはどんなものなのでしょう。(今回の話題については、前回の記事の時点ですでに予定しておりましたが、前回の記事にいただいたコメントの中にこの疑問点に触れておられるものがあり、やはり同じところに目を付けるものだなあ、と感じ入りました。)

 たとえば『文化への不満』には次のようにあります。

「・・・そのさい文化が性に対してとる態度は、他の部族なり階層なりをほしいままに搾取できる立場に立った部族あるいは階層がとる態度と同じだ。抑えつけられたものたちが反乱を起こすのではないかという不安から、厳重な予防措置が講ぜられる。現在のわれわれの西欧文化は、こういう発展の極致だ。西欧文化が幼児の性生活の表出を厳禁することから始まるのは、心理学的にはもっとも至極である。・・・けれども、どう考えても許しがたいのは、文化社会が極端に走って、幼児性欲という、簡単にその存在を証明できるどころか、誰の目にも明らかといっていいこの現象それ自体をも否定してしまったことである。また、性成熟期の個体の対象選択は異性だけに限られたし、性器を使わない満足の大部分は倒錯だとして禁止されてしまった。・・・ただし、性器を使った異性間の愛というこの放逐されていないものも、法律で承認された一夫一婦制のものであるという制約によってさらに限定される。・・・
 もちろんこれは行き過ぎである。・・・」(人文書院フロイト著作集第3巻『文化への不満』p463-4を少々改訳)

 他の部族を抑えつけるという比喩にも類似点がありますし、フロイトがこれらを「もう幾分か充足されるべき」と考えていることは間違いなさそうです。『精神分析への抵抗』に挙げられた「もう幾分か充足されるべき欲動」に対応すると考えて良いでしょう。

フロイト著作集 第3巻 文化・芸術論 (3)

フロイト (著), 高橋 義孝 (翻訳)

出版社: 人文書院 (1969/01)

 ところで、クリスマスシーズンも終わりましたが、私は今年ふと「山下達郎の『クリスマス・イブ』の間奏はいったいどの程度『パッフェルベルのカノン』と同じで、いったいどこがどう違うのか」という疑問が頭によぎり、巷で耳にするたびに注意して聞いていましたが、そう何度も聴く機会もなく、未解決に終わりました。来年の課題です。明日は最後の忘年会で、年末年始はさすがにフロイト全集の話題はお休みしてのんびりしようかと思っています。

2007年12月23日 (日)

フロイト全集18から『精神分析への抵抗』

 精神分析への反対に対する反論としては今なお通用する内容で、非常に興味深く読める論文と思います。

 これをざっと読んで気になったのは、以下の二箇所が互いに矛盾するように思われたところです。

「・・・人間の文化は二つの支柱の上に乗っかっている。ひとつは自然の諸力の支配である。今ひとつは、われわれの欲動の制限である。縛られた奴隷たちは女王の玉座を支えている。そのように馴致されて支えている欲動成分のうちでも、狭い意味での性欲動の諸成分は、強さと粗暴さという点で抜きん出ている。それらが解放されるなど、考えるだにおぞましい。玉座はひっくり返され、女王は足蹴にされることだろう。社会はこのことを心得ており、それが話題となることを望まないのだ。
 とはいえ、なぜそれを語ってはいけないのか。それを論じれば、どんな害があるというのか。精神分析は、公益に反する欲動を解き放てなどとは、これまで一度として口にしたためしはない。逆にむしろ、その危険について警告し、欲動の陶冶を勧告してきた。」(p332-3)

「 ・・・精神分析は、欲動の厳しい抑圧を和らげ、その代わりにもっと誠実であることを提案する。ある種の欲動の蠢きを社会は過度に抑え込んでいるが、これらがもっと充足されるのを容認すべきである。また他の欲動については、抑圧を通して抑え込むという目的に相応しくない方法をやめ、より良い、もっと確実なやり方で置き換えるのがよい。」(p334)

 前者で「精神分析は、公益に反する欲動を解き放てなどとは、これまで一度として口にしたためしはない」と言い、「欲動の陶冶を勧告してきた」と言っているのに、後者では、もっと欲動に譲るべきだと述べているのが、どうにも相容れない気がするのです。そもそも「欲動の陶冶」が可能かどうか疑問ですし、フロイトが使いそうにない表現のように思われます。

 原文にも当たって考えてみたのですが、まず、原文で「公益に反する」は「gemeinschaedlich」です。独和には「公安を害する」とありましたが、これは「gemein」が「共同の、共通の、公共の、一般的な」という意味、「schaedlich」が「有害な」という意味の合成語です。私は「公益」という語から、社会保安的な、体制側の都合を感じてしまったのですが、ここはむしろ単に「公衆に害をおよぼす」といった意味なのでしょう。

 次に、「解き放て」ですが、原語では「Entfesselung」で、前段落の「縛られた奴隷たちgefesselte Sklaven」の「縛り」を解くことにあたりますから、前段落の比喩を引き継いでいると考えられ、この点は訳文でも明示すべきと思います。

 さらに、「その危険について警告し、欲動の陶冶を勧告してきた」の部分で、「その危険について」「欲動の」はいずれも訳者による補足です。よって、「欲動の陶冶」という表現はフロイトの原文になく、単に「Besserung改良」で、何を改良することなのかは書かれていません。上に挙げた二つ目の引用箇所中に、「より良い、もっと確実なやり方で」とありますが、ここに「より良いbesser」という語が用いられていることをヒントにしてよいならば、改良すべきなのは欲動ではなく、むしろ社会のやり方のほうだとかんがえられます。

 これらはいずれも微妙な変更ではありますが、一つ目の引用箇所の第二段落を以下のように変更してみたいと思います。

「とはいえ、なぜそれを語ってはいけないのか。それを論じれば、どんな害があるというのか。精神分析は、公衆に害をおよぼす欲動を縛りから解き放てなどとは、これまで一度として口にしたためしはない。逆にむしろ、警鐘を鳴らし、[方法の]改善を勧告してきた。」

 もうひとつ、二つ目の引用箇所で、「もっと充足されるのを容認すべき」欲動という箇所は、「もっと」というより、「もう幾分か」といった感じに思います。

 訳としてはあまり変わりませんが、このように考えてきて、私自身はだいぶ納得できるようになった気がしますが、いかがでしょうか。

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

2007年12月18日 (火)

フロイト全集18から『神経症および精神病における現実喪失』

 この論文では現実との関係が扱われているのですが、以下の箇所が引っかかりました。

「精神病の場合、現実に対してそれまで結ばれていた関係が心的に沈殿したもの、つまり、想い出-痕跡、表象、判断をもとにして、現実の改変が行われる。これら想い出-痕跡、表象、判断は現実から獲得されたものであり、またこれらが心の生活のなかで現実の代わりとなってきたのである。しかしこうした関係は完結したものではなく、新しい知覚によって絶えず豊かにされ、変化させられる。したがって、精神病にとっても、新しい現実に対応するかのような知覚を手に入れるという課題が立てられ、それはきわめて徹底した仕方で幻覚という道を通って達成される。」(p314)

 3つ目から4つ目の文のあたりの意味が取れず苦しみました。「知覚」と「新しい現実」の関係ってどうなんだろうと思ってしまいます。原文に当たってみると、3つ目の文は過去形です。これを参照して、以下のように直してみました。

「精神病の場合、現実に対してそれまで結ばれていた関係が心的に沈殿したもの、つまり、想い出-痕跡、表象、判断をもとにして、現実の改変が行われる。これら想い出-痕跡、表象、判断は現実から獲得されたものであり、またこれらが心の生活のなかで現実の代わりとなってきたのである。しかし現実に対してそれまで結ばれていた関係は完結したものではなかったし、新しい知覚によって絶えず豊かにされ、変化させられていた。したがって、精神病になってからも、新しい現実に対応するかのような知覚を手に入れるという課題が立てられ、それはきわめて徹底した仕方で幻覚という道を通って達成される。」

 最後の下線の箇所は、岩波版のままで正しいんですけど、少し変えてみました。

 こうしてみるとフロイトの論はきわめて明瞭ですし、 とくに慢性的に幻覚妄想を産出し続ける妄想型統合失調症者について、これ以上うまく説明できる論はないのではないでしょうか。

 世間では、やれ「患者は幻覚妄想に支配されて現実検討能力を失う」とか、逆に、「患者は現実検討能力を失っているため、非現実な幻覚や妄想を信じてしまう」などといわれたりしますが、患者が現実検討能力を失ってなどいないということは、同様の慢性患者同士が会話する際に、互いに相手の話を信じてしまうことなどほとんどないことからも明白だと思いますけどね。

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

2007年12月14日 (金)

フロイト全集18から『マゾヒズムの経済論的問題』(2)

 この論文は全般的にはすらすらと読めるすばらしい訳文なのですが、そのため従来読み流していた箇所につまずいたりします。以下の箇所、特に二つ目の文は、意味を考えてみると分かるようで分からないので、かなり苦労しました。

 「幼少年期の発達の経過をたどるなかで、[子供は]両親から次第に離れていき、超自我のもつ両親の人格としての意義も背後に退いていく。両親から残された像(イマーゴ)に、今度は、教師や権威のあるもの、自ら選んだ模範者、社会で認められた英雄などの影響が結びつき、抵抗力を身に着けた自我は、もはやこれらの人物を取り入れる必要はなくなる。」(p297)

 ここで、「・・・の影響が結びつき、抵抗力を身に着けた自我は」の箇所が、「・・・の影響が結びつくことで抵抗力を身に着けた自我は」という意味に読めてしまうので、私にはなかなか意味が取れませんでした。原文に当たってもなかなか理解できなかったのですが、しばらく考えた結果、ここは「結びつき、」のところでいったん切って考えるべきと気がつきました。

 「幼少年期の発達の経過をたどるなかで、[子供は]両親から次第に離れていき、超自我のもつ両親の人格としての意義も背後に退いていく。両親から残された像(イマーゴ)それぞれに、今度は、教師や権威のあるもの、自ら選んだ模範者、社会で認められた英雄などの影響が結びつくのだが、すでに抵抗力を身に着けた自我は、もはやこれらの人物を取り入れる必要はない。」(拙案)

 上記のような、両親に続く理想の系列は、「自我理想」に相当するのでしょうが、それらとの関係について、ここでは「自我は・・・取り入れる必要は無い」とされています。それらは、内的に監視する審級になっていくわけですから、普通の意味で言えば精神の中に「取り入れられる」わけですが、それは「自我」のなかに取り入れられるわけではなく、自我を外から監視しつづけていく、ということなのでしょう。この関係については、『集団心理学と自我分析』8章に挙げられたシェーマが思い出されます。

 なお、上の引用箇所に登場する「Imagines」なる語が、「像(イマーゴ)」と正しく訳されているあたり、さすが人文書院版著作集とは違うな、と感じました。著作集では、訳者がこの語を「Imago」の複数形と認識していないケースが多々みられたからです。

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

2007年12月10日 (月)

フロイト全集18から『「不思議のメモ帳」についての覚え書き』

 この論文の岩波訳もとても良いので、やはり一気に読み通すことができました。

 この論文では、「不思議のメモ帳」という例を用いている点は新しいものの、ここに描かれている意識の作用様式は、『夢判断』の第7章に示された光学モデルで示されていることとさほど違いはないと感じます。もちろんそれは、私が大昔にこの論文を読んで得た知識に基づいて『夢判断』を読んでいるからかもしれませんが。

 ただし、無意識から、意識表面に向けて、備給が周期的に発送されては引き揚げられるという箇所(p322-3)は、私の頭の中に記憶されていませんでしたので、今回読んで実におもしろい考え方と感じました。

 この論文で気になったのは、「神経支配」と訳されている語、「Innervation」についてです。辞書では、「1【解】神経支配(末梢神経の分布)。2【生理】(神経を通じての)刺激伝達」と二つの訳語が載っていますが、ここでは、周期的に備給を発送し引き揚げる作用を指しているのですから、辞書の二番目の意味ではないでしょうか。ただし、「Innervation」という語に「刺激Reiz」という語は含まれていないので、例えば「神経伝達」という訳が適当と思います。まずは以下の箇所です。

 「その際、想定していたのは、備給が神経支配に沿って、周期的に瞬発的な推進力を受けて内部から、十分な浸透性をもつ知覚-意識系へと発送されては、また引き揚げられるということである。」(p322)

 このうち「備給が神経支配に沿って」の箇所は、原文通りではなく、少し訳文がいじられています。しかし直訳で「備給の神経伝達が」とすれば意味は通ります。

 「その際、想定していたのは、備給の神経伝達が、周期的に瞬発的な推進力を受けて内部から、十分な浸透性をもつ知覚-意識系へと発送されては、また引き揚げられるということである。」(拙案)

もう一箇所あります。

 「このようにして私は、不思議のメモ帳の場合には外部の力によって生ずる接触の中断が、ここでは神経支配の流れの非連続性として生起すると見たのであった。」(p322-3)

 解剖学を少しでも学んだ者にとって、「神経支配」という語は、末梢器官と神経とが繋がる静的構造という意味になります。なので、上記箇所の「神経支配の流れ」という表現そのものに違和感が感じられますし、「非連続性」の意味も、時間的な非連続性という意味には受け取りがたいと思います。ここが例えば「神経伝達の流れの非連続性」であれば意味が取りやすいと思うのです。

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

2007年12月 6日 (木)

フロイト全集18から『マゾヒズムの経済論的問題』

 この論文は、タイトルにある「経済論」なる言葉が、冒頭の一文にしか登場せず、しかもこの語についてなんの説明もなされないという、非常に不親切な論文です。内容的にも、すでに『快原理の彼岸』『自我とエス』を読んで(しかもある程度納得して)くれた読者じゃないとなかなか理解できないでしょう。タイトルにある「経済論的問題」とは、この論文では、興奮量の問題、すなわち快原理や涅槃原理に関わる問題、という意味のようです。なお、先行する二論文の岩波版から続けざまに読んだおかげで、私は今回この論文もこれまでになくすっきりと読むことができました。

 ところで、この論文の翻訳には非常に気になる箇所があります。同じ箇所は人文書院版の著作集でも同様に訳されていて、私としては誤訳であろうと思っていた部分で、しかもかなり印象的な箇所だったこともあり、今回岩波版を読む際にも注目していた箇所でした。今回そこが同じように訳されていて、しかも岩波版の訳者は独文を専門とされている方のようだし、私も自信が無くなってきましたので、原文も含めてここで検討したいと思います。

 「こうしてわれわれは、僅かではあるが興味深い一連の関係を手にした。すなわち、涅槃原理は死の欲動の傾向を表現し、快原理はリビードの要求とその変様を代表し、現実原理は外界の影響を代行する。」(p289) 

 "Wir erhalten so eine kleine, aber interessante Beziehungsreihe: das Nirwanaprinzip drueckt die Tendenz des Todestriebes aus, das Lustprinzip vertritt den Anspruch der Libido und dessen Modifikation, das Realitaetsprinzip, den Einfluss der Aussenwelt."

 以前教わったのですが、独語では、文法的に等価なものを並べる際にはコンマを間に挟むらしいです。その法則をここにあてはめれば、岩波版の訳文のように「den Anspruch der Libidoリビードの要求」と「dessen Modifikationその変様」とが等価なのではなく、コンマで繋がれている「dessen Modifikationその変様」と「das Realitaetsprinzip現実原理」とが文法的に等価だということになります。よってこの箇所の訳は、「快原理はリビードの要求を代表し、その変様である現実原理は外界の影響を代行する。」が正しいのではないかと思うのです。意味的にもこう解した方がすっきりすると思いますし。

 ちなみに、かつて私が上記の法則を教わったのは、以下の箇所についてでした。

 「無意識の過程では現実検討が少しも通用せず、考えの上での現実が外の現実とおなじになり、充足を願う願望がすでに行われた実現とおなじに見られるのであって、古い快感原則の支配のままになっているのである。」(著作集6巻41頁)

 "...bei ihnen (=unbewussten Vorgaenge) die Realitaetspruefung nichts gilt, die Denkrealitaet gleichgesetzt wird der aeusseren Wirklichkeit, der Wunsch der Erfuellung, dem Ereignis, wie es sich aus der Herrschaft des alten Lustprinzips ohneweiteres ableitet."

 これは『精神現象の二原則に関する定式』の一節です。「der Wunsch der Erfuellung, dem Ereignis」のところに名詞が並んでいるのは、動詞は前の節と同じなので省かれているからです。ここで「der Erfuellung」は直前の名詞にくっついているので、一見すると 二格のように見え、その場合翻訳は、「der Erfuellung」のあとに動詞を補って、「成就の願望は、出来事と同列視される」となります。著作集もこの解釈ですが、かなり言葉を補って意味が通るようにしてあります。しかし、ここで「der Erfuellung」と「dem Ereignis」はコンマで繋がれているので文法的に同資格であるはず、つまり「der Erfuellung」は「dem Ereignis」と同じく三格だといわれたのです。よって翻訳は、「der Erfuellung」の前に動詞を補って、「願望は、成就すなわち出来事と同列視される」となります。

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

2007年12月 3日 (月)

フロイト全集18から『自我とエス』

 先週『快原理の彼岸』を読み、欲動や反復強迫について、脳や精神に局在するものではなく、単なる生体小胞にも存在するものと考えるべきであることを再確認しました。それらの作用は、小胞、細胞の集団、多細胞生物の個体、そして精神を構成する審級といった、さまざまな単位について仮定することができます。

 これをふまえて『自我とエス』を読みました。そのおかげで、特に第5章の、自我、エス、超自我という審級の間で攻撃性や罪責感が作用しあう事態の説明が、これまでになく良く理解できたと思います。翻訳が良いので、原書を参照せず一気に読み通したことも理解を助けたと思われます。

 ざっと読んで翻訳に気になった箇所は以下の箇所です。

「しかしそれならむしろ、なぜわれわれも、哲学者たちと歩調を合わせて、前意識ならびに無意識的なものを、意識されている心的なものときっぱり切り離そうとしないのだろうか。そうすれば哲学者たちも、前意識的なものと無意識的なものを、二種類ないし二段階の心もどきなるものとして記述したらどうか提案してくれ、それでなんとか折り合いもつくかもしれない。しかしながら、そうなると、叙述における困難な問題がとめどなく出てくることになり、これら二つの心もどきが、明々白々の心的なものと他のほとんど全ての点で一致している、というとてつもなく重要な事実が背後に押しやられて、かつての偏見、これら心もどきやその極めて重要な意義がまだ知られていなかった時代に発する偏見[心的なものは意識的なものだけだという偏見]が、優勢になってくるのは必定である。」(p7)

 引用箇所で「これら心もどきやその極めて重要な意義がまだ知られていなかった時代」はおそらく誤訳で、「これら心もどきや、なかでも最も重要なもの[=無意識的なもの]がまだ知られていなかった時代」が正しいだろうと思います。

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

2007年12月 1日 (土)

フロイト全集17から『快原理の彼岸』(2)

 岩波版フロイト全集『快原理の彼岸』を読んで、改めて気づいたことの続きです。

 第5章あたりで、たとえばp98「自我欲動と性欲動の間に鋭い対立関係が設けられ、前者の欲動は死に向かって突き進み・・・」のように自我欲動は死に向かおうとするものとされ、特にp110では「自我欲動=死の欲動」とはっきり書かれていたりしています。

 この、自我が死に向かおうとするというという考え方について、これまでどうも釈然としないまま読んできました。

 しかし今回一気に読み通してみて考えたのですが、ここで自我欲動というときの「自我」とは、心理学的な意味での自我と言うより、単に「個体の」「私的な」といったニュアンスに近い意味なのではないでしょうか。一方、この論文での性欲動は、「他の個体を巻き込む」「種を維持する」ような欲動を指しており、個体が(性的)快楽を追求する活動という意味では(さしあたり)ないようです。そのように読むと、上のような箇所も、周囲の文脈とも相まって、決して奇矯な論ではないと再認識しました。

 そもそもフロイトは生体小胞にも自我欲動と性欲動を仮定しているわけで、「自我欲動は生命のない物質に生命が与えられたことに由来し、生命なき事態を再興しようとするものだ」などと述べています。この点からも、「自我欲動」というときの「自我」を普通に心理学的意味で受け取ってはならないことは明らかです。

 死の欲動は、反復強迫の存在から推論されてくる概念ですが、その反復強迫も、発生中の卵にも働いていると言うからには、やはり精神や脳に局在するものではないのでしょう。

フロイト全集〈17〉1919‐1922―不気味なもの、快原理の彼岸、集団心理学

須藤 訓任 (翻訳), 藤野 寛 (翻訳)

出版社: 岩波書店 (2006/11)

2007年11月27日 (火)

フロイト全集17から『快原理の彼岸』

 刊行中の岩波の全集の訳はさすがに良い出来で、原書に当たったりせずさらさら読めてしまいます。そうするとスピードが上がって内容にも集中できるせいか、あるいは今まで難所だったところに躓かなくなったせいか、これまで読み流してきた箇所が気になりだしています。

 『快原理の彼岸』ではとりあえず次の箇所です。

 「欲動の歴史的被制約性を確証するように思われる事例も動物の生活の中にすぐさま目につく。ある種の魚が産卵期に困難な渡りを企て、常日頃の居住地からはるか離れた河や湖で産卵をする場合、魚たちは、多くの生物学者の理解では、時の経過につれて換えられてきた祖先の生息地を訪れているに過ぎない。同じことは渡り鳥の飛翔にも当てはまるが、遺伝現象や胎生学の事実の中に有機体の反復強迫のりっぱな事例があることを知れば、さらなる事例を探す必要はなくなろう。おわかりのように、生きた動物の胚は、発達してゆくにつれて、その動物の由来のもととなっているあらゆる形質の構造を -短縮されてほんのつかの間のことであるにせよ- 繰り返さざるをえないのであり、最短距離で確定形態へと到ることはできない。動物のこうした振る舞いについて、機械的に説明できるのはほんの一部分のことにすぎず、歴史的な説明を抜きにすることはできない。そして、ある器官が失われたとしても、それとまったく同じような器官を新たに形成して補填するという再生能力は、かなり高等な動物にまで及んでいる。」(p90-91)

 ここに挙げられている例は:①魚の出産地への旅や、渡り鳥の飛行、②胎内や卵内で、個体発生が系統発生を繰り返すこと、③失われた器官が再生すること、例えばトカゲの尻尾が切れても再生したり、種によっては何度でも歯が生え替わること。

 これら三つの例って、それぞれかなり異質な現象だと思うんです。①は、個体そのものは全く変化せず、場所を変えるだけだという点で他の二つと違います。②の場合、発生中の各個体は、その個体としては初めて経験する発生過程を経ているわけで、この点で他の二つとは違います。③の現象は、(せいぜい数日~数ヶ月前の)完全な成体の状態に戻ることでしかなく、他の二つのように太古の状態に戻る過程ではありません。

 フロイトはいつも幾重にも関連しあった素晴らしい例を持ち出してくるのが常なので、ここでも、これら三つの例は歴史的被制約性という以外にも何か私の気づいていない共通点を持った現象なんじゃないかと気になって仕方がありません。歴史的被制約性について言うためなら、③はあまりにも馬鹿馬鹿しい例だと思うんですが、私はフロイトを買いかぶりすぎているんでしょうか?。さらに疑問として、これら三つには、反復強迫現象との類似の程度に差があるんでしょうか、そしてそれぞれはどの点で類似してるんでしょうか?。これが分かれば私の反復強迫への理解も一段進むと思うんですが。

 ところで、上に引用した岩波の訳文中、「その動物の由来のもととなっているあらゆる形質の構造」という箇所に違和感があって、特に「形質」という訳語は意味からして文脈にそぐわない気がします。原語を調べると「Form」ですが、ここは、「(より下等な生物の)諸形式」といった感じで、哺乳類からみた魚類とか両生類を指すでしょう。それらの「構造」を繰り返す、と取れば意味が通ります。ちなみに「形質」で和独を引くと、「Eigenschaft」とか「Charakteristikum」が出てきます。

フロイト全集〈17〉1919‐1922―不気味なもの、快原理の彼岸、集団心理学

須藤 訓任 (翻訳), 藤野 寛 (翻訳)

出版社: 岩波書店 (2006/11)

2007年11月20日 (火)

光文社文庫で『文化への不満』を

 岩波のフロイト全集をはじめ、このところちくま文庫など、フロイトの新訳がちらほらと出版されています。どれもかつて出版されたフロイト選集/著作集/新潮文庫に比べるとはるかに良い訳で、原書や辞書と付き合わせなくても大意は掴めるところがうれしいです。ちょっとした待ち時間などに取り出して数頁ずつ読むことが多いです。

 今は光文社古典新訳文庫の『幻想の未来/文化への不満』から『文化への不満』を読んでいます。『文化への不満』というタイトルが旧訳の誤りを踏襲していたり、アンビヴァレンツの訳語が両価性ではなく両義性になっているところなど、疑問に思う点はありますが、これらは自分の頭のなかで容易に変換可能なので、 不都合はありません。

 さてその中に、「人が何か罪を犯した後に、その罪のために罪悪感を持ったとすれば、それは罪悪感と言うよりもむしろ後悔の念と言うべきだろう・・・だから精神分析で、後悔によって生まれた罪悪感を考慮に入れないのは、適切なことである。これがどんなに頻繁に起ころうとも、その実際的な意味がどれほど大きくともである。」(p263-4)という箇所があり、私自身、重大事件を起こした患者を受け持ったりしているせいもあって、最近読んで非常に印象に残りました。そこへもってきて一昨日、阿闍世コンプレックスについての講演を聴く機会があり、古澤-小此木による理論がまさにこの「後悔によって生まれた罪悪感」を重視していることを知り、これは私にとってさらに印象深い一節になりました。

 しかし実はこのあたりに注目して少し真面目に付近を読んでいったところ、p272の

「また不安は、これらの全ての関係の根底にあって、以上のような批判的な審級に直面するものであり、みずからに罰を与えようとする自己処罰の欲求であり、サディスティックなまでに超自我の影響を受けて、マゾヒスティックになった自我の欲動の発現である」

という箇所に躓きました。不安が何かに直面する、という訳文は明らかにおかしい。結局原書を取り出したところやはり訳に問題があって、私なりに光文社版の文章をできるだけ生かして訳すと、

「また、これらの全ての関係の根底にあるのは、以上のような批判的な審級に対する不安すなわち自己処罰欲求であるが、これは、サディスティックな超自我の影響を受けてマゾヒスティックになった自我の欲動の発現である」

となります。さらにこの直前の文では、

「超自我の要求と、こうした要求を実行しようとする自我の努力のあいだの緊張」

云々と言う箇所がありますが、これは正しくは

「超自我の要求と、自我の志向とのあいだの緊張」

です(内容的にも当然ですが)。結局この新訳は、訳文が平易なのでつい騙されちゃいますが、ここらへんをみるだけでもかなり問題ありそうですねえ。段落や章を勝手に分けちゃっているのも気になります。そういえば同じ訳者のちくま文庫『自我論集』にある『抑圧』は非常に良かったのに『欲動とその運命』の訳はやはりどうにも意味の取れない代物だったことが思い出されます。

 上に引用したp263-4の箇所も調べ直しましたが、そこは大丈夫そうなことを確認して胸を撫で下ろしました。

幻想の未来,文化への不満 (光文社古典新訳文庫 Bフ 1-1)

フロイト (著), 中山 元 (翻訳)

出版社: 光文社 (2007/9/6)

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