書籍・雑誌

2017年1月 2日 (月)

今年もよろしくお願いいたします

 あけましておめでとうございます。

 ここ何年か、更新が滞りがちではありますが、過去の記事を読み返すと自分の今後の学会発表のネタが見つかったりして、自分にとってはそれなりに意味深いブログです。

 ここ数年、私の「今年の3冊」、を選んできましたが、昨年もまた、新刊はやはりほとんど読んでいないので、ぎりぎり選んだ3冊を紹介します。

①もっとも崇高なヒステリー者 ――ラカンと読むヘーゲル
2016/3/19
スラヴォイ・ジジェク、 鈴木 國文

②げんきな日本論 (講談社現代新書)
2016/10/19
橋爪 大三郎、 大澤 真幸

③コンビニ人間
2016/7/27
村田 沙耶香

 学生時代、ラカンを理解するためにジジェクを読もうとしていた頃はどうもピンときませんでしたが、ラカンをある程度理解してから読むジジェクはそれ自体が楽しく刺激的でした。

 ②も私の専門分野であるラカンに2箇所で言及されていて、しかも短いながらも精神分析家以上に深くえぐったコメントがさすがと思いました。それ以外の箇所も楽しく読めます。

 芥川賞で話題になった③は、主人公が自閉スペクトラム症ぽい特徴を備えていることで同僚たちの話題にもなっていましたし、私もそういう興味から読み始めましたが、実際のところ、私が知る自閉スペクトラム症の人たちには、異性に対してこの主人公ほど無関心なひとはいないという点がちょっとひっかかりました(みんながあんなふうに異性に無関心だったら、自閉スペクトラム症を起こしやすい遺伝子は子孫ができず淘汰されちゃって無くなってるはず)。まあ、それはそれとして、作品はあっという間に読めちゃうし楽しい1冊でした。

2016年8月 8日 (月)

セミネール11巻の仏語正規版でも・・・

 ラカンのセミネール11巻5章、邦訳74頁に、「下にあるものunterlegt」「未決のものuntertragen」という二つのドイツ語は「souffrance苦悩、我慢、未決状態」というフランス語の多義性のおかげで一語に表される、という箇所があります。

 ちなみに言っておくと、現在刊行されているラカンのセミネールは、口述された講義の速記録から起こされたもので、ラカン本人が書いたものではありません。 

 上のドイツ語二語はスイユ社から刊行されているフランス語正規版でも同様ですが、この二語には「souffrance苦悩、我慢、未決状態」に対応する意味は無いし、特に後者「untertragen」は辞書にも載っていないので、邦訳での訳語「未決のもの」はでっち上げではないでしょうか。とにかく邦訳は解釈に苦労したようで、邦訳79頁にもう一度出てくる箇所では、スイユ版ではドイツ語の二語がそのまま再掲されているのに、邦訳版では出典不明の「その下に横たえられたDaunterliegenden」という一語に置き換えられています。

 しかしそもそもここのドイツ語は、意味からして、本来、「unerledigt未解決の」と「unertragen耐えられない」という二語なのではないでしょうか。つまり本国のスイユ版も、ドイツ語の筆写に際して間違っているのではないでしょうか。

 傍証として…この二つの語の品詞が同じだとすると過去分詞でしかありえませんが、もしもスイユ版通り接頭語が「unter」だとすると、後者の過去分詞は「untergetragen」となりそうに思われ、やはりスイユ版どおりのドイツ語はあり得ないように思います。

 ちなみにこの箇所についてはALIから出ているフランス語非正規版も同様に苦労しており、二度目に登場する箇所では後者はギリシア語の「ヒュポケイメノン」とされていたりしますが、上記のように考える方がすっきりすると思います。

 まあ、これがラカンが語ったとおりかどうかは、証明のしようもありませんが。

精神分析の四基本概念
2000/12/15
ジャック ラカンジャック=アラン ミレール

Les Quatre Concepts Fondamentaux De La Psychanalyse
1973/1/1
Jacques Lacan, Jacques-Alain Miller

2016年1月 9日 (土)

去年の三冊

 昨年は本業にかまけて1年間このブログをほったらかしにしてしまいました。

 新聞の書評にならって、私にとっての昨年の3冊を挙げておきましょう。

人はみな妄想する -ジャック・ラカンと鑑別診断の思想-
2015/4/24

松本卓也

ジャック・ラカン 転移(上)
2015/10/28

ジャック=アラン・ミレール、 小出 浩之

自閉症スペクトラムの精神病理: 星をつぐ人たちのために
2015/11/24

内海 健

 しかしこの3冊、自分の専門分野そのものであって、しかも著者(ラカンに関しては訳者)の方々も知っているのでコメントの言葉が出てきづらいのですが、決して損をさせない3冊です。内海先生による、「こころの理論」説への徹底的批判には胸のすく思いです。

2014年12月31日 (水)

今年の三冊

 また一年が終わり、各新聞には書評担当者たちが選ぶ「今年の三冊」が載りました。 昨年末の各新聞社の『今年の三冊』には興味深い本がたくさんみつかって今年いくつか楽しく読みましたが、今年末の新聞には私は興味を惹かれるものがみつかりませんでした。みなさんはいかがでしょうか。

 私は例によって今年発売された本はあまり読んでいないのですが、思い出してみると6冊ぐらいありますから、例年よりは多いようです。そこから次の3冊を選びました。

同時代の精神病理ーポリフォニーとしてのモダンをどう生きるか (2014/4/11) 鈴木國文

ドゥルーズと狂気 (河出ブックス) (2014/7/14) 小泉 義之

ラカン 患者との対話: 症例ジェラール、エディプスを超えて (2014/10/10) 小林 芳樹

 『同時代の精神病理』は、近年の精神科患者の病像変化などを論じて示唆の多い一冊。「人格」という概念の重要さを改めて痛感させられました。これまでドゥルーズに馴染みはなかったのですが、『ドゥルーズと狂気』は挑発的な示唆に富み、私はドゥルーズ『狂人の二つの体制』など原書で購入したほどです。ただ、ドゥルーズが幻覚や妄想の目立たない精神疾患について論じた箇所を挙げて、サイコパスなどを念頭に置いているのではないかと述べている箇所などについては、著者は精神病(とくに統合失調症)を陽性症状で診断する日本流の精神病理学から脱していないと考えられます。実際、フランスでは陽性症状が目立つ例はパラノイア(またはパラノイド型統合失調症)と診断され、目立たない例こそ統合失調症と診断されます。ただこれは、フランス留学経験のある精神科医たちすら良く理解していない点であり、やむを得ないところかもしれません。最後のラカンの診察記録は、ラカンがフランス精神分析に残した遺産的価値をもつ内容で、ぜひ読まれるべきもの。とはいえ患者の症状はむしろ現代臨床でありふれてみられるものです。翻訳も非常に読みやすい。やはり一人で訳しているせいかケアレスミスが散見されますが、許容範囲でしょう。

 今年はフロイト『子供が叩かれる』を題材にした講演を聴いた後、岩波全集版の邦訳『子供がぶたれる』を読みましたが、あまりにもひどい翻訳に驚きました。当ブログではそういった場合にはよく翻訳正誤表を作って掲載していますが、旧訳の人文書院版を読めば十分なので、正誤表を作る気にもなれません。岩波版全集ではこれまで『制止・症状・不安』が最悪と思ってましたが、『子供が叩かれる』はそれをはるかに凌ぎます。

 さいきん本業が忙しくなかなか更新できませんが、来年もまた細々と書いていきたいと思います。よろしくお願いいたします。

2014年10月27日 (月)

DSM‐5の翻訳について

 これは以前の版でも気になっていた点ですが、DSM-5の大うつ病性障害の診断基準には日本語版で次の一節があります(160頁)。

(7)ほとんど毎日の無価値感、または過剰であるか不適切な罪責感(妄想的であることもある。単に自分をとがめること、または病気になったことに対する罪責感ではない)

 「単に自分をとがめること」ではない罪責感というのが非常に分かりにくいわけです。読みようによっては、患者が「(何の理由も挙げずに)単に自分をとがめる」というのは、極めて異常で重篤な状態にも思えます。原書に当たってみると次のようになっています(p161)。

7. Feelings of worthlessness or excessive or inappropriate guilt (which may be delusional) nearly every day (not merely self-reproach or guilt about being sick)

 この最後の「about being guilt」は、「self-reproach or guilt」の両者に掛かるのではないでしょうか。つまり邦訳は以下のようにすべきではないでしょうか。

(7)ほとんど毎日の無価値感、または過剰であるか不適切な罪責感(妄想的であることもある。単に病気になったことについて自分をとがめるとか罪責感をもつことではない)(代案)

 さて、この箇所には、対応する補足説明が本文中に記載されています。

 抑うつエピソードに伴う無価値観または罪悪感には、自己の価値の否定的で非現実的な評価、または罪へのとらわれまたは過去の些細な失敗を繰り返し思い悩むことなどが含まれる(基準A7)。そのような人達はしばしば、関係のない、またはとるに足らない小さな日々の出来事を自分の欠陥の証拠であると誤解し、不運な出来事に対する過剰な責任を感じている。無価値感や罪悪感には妄想的な部分が認められることがある(例:世界の貧困に対して自分に責任があると確信している人)。抑うつの結果病気になったことや、職業上または個人的な責任が果たせないことで自分を責めることは非常に多いが、妄想的でなければこの基準を満たすものとはみなされない。(邦訳164頁)

 内容に入る前に、まずこの最後の一文の翻訳にも疑問があるので指摘しておきます。

 Blaming oneself for being sick and for failing to meet occupational or interpersonal responsibilities as a result of the depression is very common and, unless delusional, is not considered sufficient to meet this criterion.(p164)

 邦訳の「抑うつの結果病気になった」という箇所は意味が取りづらく感じます(抑うつの結果もう一つ別の病気になったとでもいうのでしょうか)。意味からいって、「as a result of the depression」は直前の「failing to meet occupational or interpersonal responsibilities」だけに掛かるのではないでしょうか。そうするとここは、

病気になったことや、抑うつの結果職業上または対人的な責任が果たせないことで自分を責めることは非常に多いが、妄想的でなければこの基準を満たすものとはみなされない。(代案)

となります。なお、「interpersonal」については、日本語版ははっきり誤訳と言ってよいと思います。ここでは「対人的」としておきました。

 ともかく、この解説の最後の一文は、冒頭に挙げた診断基準に対応する説明が書かれているわけですが、原文を読めば明らかに、「病気になったことbeing sick」と「抑うつの結果職業上または対人的な責任が果たせないことfailing to meet occupational or interpersonal responsibilities as a result of the depression」に対する自責を除く、とだけ書かれており、「単に自分をとがめること」についての記載などはありません。

 以上のように考えて、やはり私は、診断基準(7)で除外されているのは、「病気になったことについての自責や罪悪感」のみであって、「単に自分をとがめること」が除外されているわけではないだろうと考えています。

DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル
2014/6/30
日本精神神経学会、 高橋 三郎

Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders: Dsm-5
2013/5/22
American Psychiatric Association

2014年7月29日 (火)

復刻本がいくつか

 以前もここで、クレペリンやヤスパースの復刻本について話題にしました。

 久しぶりにAmazonで精神医学ビッグネームの原書を検索してみると、名著の復刻版がさいきん次々に出ているようです。日本のアマゾンでも出てきますので注文も楽なのがよいです。

 まずは、ヤスパースの日本語版「精神医学総論」(岩波書店)全3巻の原版である1948年版。

Allgemeine Psychopathologie  Karl Jaspers (2013/10/4)

 これまで私は病院にあった1973年の9版(=最終版?)を参照していましたが、岩波版との相違点に気づくこともなかったので、1948年以降、ほとんど変更点はなかったようで読むために不便はありませんでした。しかし自分の論文に参考文献を付けるときなどには、邦訳の引用頁と揃えるためにやはり持っていたいものです。安価なこの機会にぜひ。しかし他の版もかなり出ているようで、こんなのが次々に出て来ると、医学古書のお店とかは大変ですね。

 つづいて、これは近日発売ですが、ブロイラーの「早発性痴呆または精神分裂病群」の原書も。

Dementia praecox oder Gruppe der Schizophrenien Eugen Bleuler (2014/6)

 どちらもきわめて面白いのに翻訳がいまひとつで、そのせいか邦訳本も絶版になっている、きわめてもったいない本です。原書と並べて読みたいものです。

 ジャネとかクレッチマーとかもたくさん出ているようですが私はいまのところそこまで手が回りません。

2013年12月30日 (月)

今年の三冊

 新聞の書評欄にならって今年の三冊を選ぼうと思うのですが、昨年同様、今年発行された本で通読できた本は数えるほどしかありません。本棚と頭の中からかき集めて、なんとか3冊ありました。3冊とも、移動途中に読んだ新書です。新書しか読み通せないのは、お恥ずかしい限りです。ただし、そのうち1冊は全く面白くなかった(著者は言語の機微が分かっているとは思えず、何らかのコミュニケーション障害があるんじゃないかと思った)ので外し、3冊目には読みかけの本を入れます。

1 生権力の思想: 事件から読み解く現代社会の転換 (ちくま新書) 大澤 真幸  (2013/2/5)

2 言語学の教室 哲学者と学ぶ認知言語学 (中公新書) 野矢 茂樹、 西村 義樹  (2013/6/24)

3 後期ラカン入門: ラカン的主体について ブルース・フィンク、村上靖彦、小倉拓也、 塩飽耕規  (2013/9/6)

 1は、フーコー的なテーマへの興味を改めてかきたててくれた本。2は、ラカン的ではない立場から書かれた言語学の本なのに、言語以前の思考や意図のようなものを決めつけてしまっていないように感じられ、また例文へのコメントも複眼的で、ものすごく面白く読めた本。3は、まだ読んでいる途中ですが、内容も訳文も適切すぎてコメントに困る本です。

 最近はラカン本がけっこう出版されてまして、未読のものがたまっているのでこれから読んでいくことになりますから、来年末もまた、「今年出版された本をほとんど読んでいない」ということになりそうです。

 私個人は、今年は、出版に向けた翻訳の仕事に打ち込んでいたせいもあってなかなかこのブログの記事が増えなかった(しかも実際に出版されるかは未決のまま年を越しそう)のですが、そろそろまた、自分個人の興味の向いた文献を読みながら記事も増やしていきたいと考えています。

2012年12月31日 (月)

1年ありがとうございました

 今年も一年ありがとうございました。さいきんはフロイトよりもうつ病文献の話題が多くなっていますが、このブログにアップすることが読書の励みにもなっています。

 ところで、年末には各新聞の書評担当者たちが選ぶ「今年の三冊」が掲載されますが、ふと振り返ってみると、私は今年発売された本をほとんど完読していないのです。本棚を眺めて懸命に思い出して、完読した本がなんとかきっちり三冊ありましたので、私にとっての今年の三冊は以下のものということになります。(『ふしぎなキリスト教』は去年なんですねえ。時間の経つのは早い。)

夢よりも深い覚醒へ――3・11後の哲学 (岩波新書)
大澤 真幸 (2012/3/7)

精神科と私ー二十世紀から二十一世紀の六十年を医師として生きて (精神医学の知と技) 笠原嘉 (2012/5/29)

ラカン、すべてに抗って エリザベート ルディネスコ、 信友 建志 (2012/7/24)

 考えてみれば、3冊すべてにラカンの名前が登場してました。ともかくこれらは、私が読み切ることができたことからもわかるように、読みやすくかつ面白い、考えさせられるところの多い本です。

 種々の理由で読みかけのまま放ってある本、手を付けていない本がいくつもありますが、それらについては挙げないでおきます。

2010年12月31日 (金)

1年有難うございました

 今年ももう終わりです。年末の休みに入ってからは、タイヤを替えたり掃除をしたりテレビを見たりしているうちに大晦日になってしまいました。

 最近思ったたわいもないことをいくつか。

 録画してあったNHKの番組で、久しぶりに山口百恵の『しなやかに歌って』を聴き、

しなやかに歌って 淋しいときは 

しなやかに歌って この歌を

という箇所に引っかかり、私が子供のころいつも、歌の歌詞の中に「この歌」という言葉が登場すると、どうも気持ち悪く感じていたことを思い出しました。子供のころの私は、自己言及なんて概念を知るわけもありませんから、当時は次のように考えていました。作り手がこの曲を作るとき、あるいは聞き手が初めてこの曲を聴くとき、まさに「この歌」は生まれつつあるわけで、まだ完成していないわけだから、それを歌詞の中に登場させるというのはどうにも腑に落ちない、と。『しなやかに歌って』には当時から引っかかっていましたし、タイトルは知りませんが「私からあなたへ この歌を届けよう」という歌、さらにもっと時代が下ってミスチルの『名もなき詩』とか、類似の歌詞の曲を聴くと、いつも同じ違和感を感じてきました(野口五郎の『コーラスライン』もそうだと思い込んでいたのでいったんここに書き添えましたが、ネットで調べてみたところどうもはっきりと「この歌」と言う箇所はないみたいです)。今回のテレビで、自分がこの感覚を今も同じく持ち続けていることを改めて確認しました。

 もうひとつ気持ち悪いのは、スポーツ記事の締めくくりの部分でよくみる(というかスポーツか芸術関係の記事以外ではまず見かけない)次のような表現です。

 「来期オフの去就も注目される28歳は、『・・・』と言った。」

 他にも「作家はここで○○を表現した」とかいう言い回しがあって、読むたびに気持ち悪いんですけれど、これはなぜなんでしょうか。

 というのは、似たような表現であっても、「横綱の今場所の土俵は充実していた」のような表現は別に気持ち悪くないからです。土俵は、相撲が行われる場所であって、相撲とは隣接の関係にありますしので換喩と言ってよいでしょう。最初の例を少し書き換えて、

「来期オフの去就も注目される左腕は、『・・・』と言った。」

とあれば、左腕はその選手の一部分ですので換喩です。この表現も、前後の文脈がなければ誰を指しているか分からないという点では先ほどの「28歳」と似ています。しかしこれに私は違和感を感じません。選手にとって左腕が、プレーを左右する重要な要素だからでもあるのかもしれません。同じく換喩でも、

「来期オフの去就も注目されるヒゲは、『・・・』と言った。」

は、この文脈ではおかしい気がします。

 「28歳」に戻ると、これは選手の一つの属性であって、しかもこの選手だけに認められる属性ではありませんし、別に28歳以外の年齢であっても同じようなプレーはできるはずです。ここらへんも気持ち悪さの理由でしょう。というのは、

「来期オフの去就も注目されるベテランは、『・・・』と言った。」

という表現は全く自然な表現と思えるからです。「28歳」とこの「ベテラン」を比べてみると、「28歳」の方は、28歳ならではのプレーがあるわけでもなく、たいして重要ではない特徴であって、かつ、必要以上に詳細・正確な情報であるという点も違和感の原因かもしれません。

 私はこの「28歳」みたいな表現は提喩と呼ばれると思ってきたんですけれど、この機会に少し調べてみると、正しいのか自信がなくなってきました。というのは、提喩について辞書などで簡単に調べた範囲では、上の例文に類似した表現の説明には出会ったことがないからです。提喩とは例えば「白いものが降ってきた」という表現ですが、私はこれには違和感を感じないので、上のようなスポーツ新聞表現とはどこか別物という気がします。何となく思うのは、固有名詞で表すべきものを提喩で表すところに違和感の原因があるような気がします。もうひとつ、「白いもの」と違って、「○○歳」は、一見してわかるような特徴ではなく、このような表現のためには選手の名前を知る以上に詳しい知識が必要なはずであり、それなのにあえて名前では語らないところがまた気持ち悪いのでしょう。

 この表現は、一般ニュースでは用いないのも不思議なもので、レトリックというよりも誤用なのではないかとさえ思います。

 これらの雑感はともかくとして、今年一年、このブログを書くことと時々戴くコメントが読書の励みとなりました。有難うございました。最近、読売新聞の書評欄が結構おもしろい本を選んで紹介していることに気付きチェックしはじめて、読みたい本は増える一方です。特に今年はマリー・ンディアイという作家を教えて貰ったのが収穫でした(文芸書は普段読まないので書店で見つけることはなかったでしょう)。

 来年もよろしくお願いいたします。

2010年8月21日 (土)

芥川賞の『乙女の密告』

 私は先ごろ、今年の芥川賞受賞作が、『アンネの日記』のドイツ語原文と格闘する女子大生がある種の謎解きに至るというストーリーの、いわば語学ものであることを新聞で知り、自分も日々自分の理解力を超えた外国語テキストと格闘し悩まされ続けているせいもあって非常に興味をそそられ、文藝春秋を買って読んでみました。ちなみに私がその年の芥川賞受賞作を読んでみることなどこれが初めてのことです。結果として非常に楽しめました。個性的な登場人物や突飛なエピソードがおもしろく、またそこに『アンネ日記』の引用がテンポ良く引用されているなか、アンネ・フランクにまつわる謎への関心がいつの間にか読者にも自然に呼び起こされます。その謎がドイツ語原文の読解に関わるものでなくドイツ語が全然出てこないのは私には肩すかしでしたが。

 私はある種のテキスト(読み物だけでなく、患者さんが話した内容とか自分の夢なども含みます)の謎と本気で長いこと格闘しているうちに、過去に自分が経験して未消化のままであった状況や出来事と次第に重なり合ってきて、ついには両者の共通の解であるような解釈を思いついたことがありまして、もはやそのテキストにはそれ以外の読み方がありえないような気さえしてしまいます。ですので、私には、この『乙女の密告』の主人公が結末においてまさにそういう状態に至ったことが非常によくわかります。ただ、主人公が到達した解そのものについては、私には明瞭に読み取れるというわけではなく -というか主人公の解を文字通りに読めば、教授を深くうなずかせるほど優れた考え方とは思えないので、別様の読みも可能なのではないかと考えてしまうので- むしろ読み返す度に次々に謎を解く鍵に見えてくる箇所が増えていってわからなくなってしまいます。私はいまも、アンネが「今、私がいちばん望むことは、戦争が終わったらオランダ人になることです」と書いたという事実について、作中のバッハマン教授が示唆したいくつかのキーポイントを繋ぎながら、教授を深くうなずかせるような解を探して結末前の主人公と一緒に考えさせられたままです。

乙女の密告

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